狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

Wさんとの関係

2007-05-31 14:58:33 | 日録

 

 拙宅が新築完成したのは1996年(平成8年)6月であった。
勿論町内の工務店の請負である。今では田舎でも、大手住宅建設会社に注文すれば、間取りや外観デザイン等も非常に良く設計されているし、建築に係わる手続きまで一切やって施工してくれるので、所謂上棟(建て前)の行事は全く見られなくなってしまった。
 10年前とは大きな隔たりである。わが家の頃は何分にも田舎のことであるから、ある程度村のしきたりに則って、ご近所の手伝いを煩わし、皆に当日搗いてもらった建て前餅を棟下に設けた櫓から、建て主の小生と、親戚(義兄)、棟梁や近隣代表が上って撒いて上棟を祝い、その後酒宴を繰り広げるプログラムとなるのであった。
この日は、餅を拾う見物客も大勢集まってくれた。

 さて、その建て前餅には「親餅」と称するひと一倍大きな(1升餅より大きいと思う)餅を最後に撒く。昔は、その親餅の取り合いで、大餅はいくつもにも千切られでしまい,怪我人まで出る騒ぎになったものであったが、ウチの場合は、若い身知らぬ女性が、そっくり受け取り無傷のまゝ持ち帰ったという。

 主題の「Wさんとの関係」についての説明に移る。
 建前が終わって数日経ったある日、隣県ナンバーの車が拙宅に入ってきた。
 この方が、「親餅」を拾って下さった方で、Wさん夫人なのである。

 通りすがり最近では、たいへん珍しくなってしまった建前風景に出会い、立ち寄ってしまったできごとと説明なされた。

 名刺に添えて、親餅を抱えて撮った写真(上カレンダーに貼り付けたもの)と、アレ(瓶に入ったお祝いなどに供する日本独特の高価な品物)を恵与下さったのである。
 思い出して、その写真を張り付けたカレンダーを作ってみた。Wさんご夫人の姿は加工を加えたため、その美貌も、抱えた親餅も薄眼で少し離してみると、お判りにならないのが残念である。

Wさんというのは、名刺にある苗字の頭文字である。肩書は、隣県東京湾に臨むS市水道課の課長とあった。

今でも賀状交換等の交際は続いている。


 


蛙は何と鳴くか

2007-05-30 21:18:30 | 阿呆塾
 河童と蛙

るんるん るるんぶ
るるんぶ るるん
つんつん つるんぶ
つるんぶ つるん
 
河童の皿を月すべり。
じゃぶじゃぶ水をじゃぶつかせ。
かほだけ出して。
踊ってる。
 
るんるん るるんぶ
るるんぶ るるん
つんつん つるんぶ
つるんぶ つるん
 
大河童沼のぐるりの山は。
ぐるりの山は息をのみ。
あしだの手だのふりまはし。
月もじゃぼじゃぼ沸いてゐる。
 
るんるん るるんぶ
るるんぶ るるん
つんつん つるんぶ
つるんぶ つるん
 
立った。立った。水の上。
河童がいきなりぶるるっとたち。
天のあたりをねめまはし。
それから。そのまま。
 
るんるん るるんぶ
るるんぶ るるん
つんつん つるんぶ
つるんぶ つるん
 
もうその唄もきこえない。
沼の底から泡がいくつかあがってきた。
兎と杵の休火山などもはっきり映し。
月だけひとり。
動かない。
 
ぐぶうと一と声。
蛙がないた。
―草野心平詩集より

初鰹雑学

2007-05-28 17:12:32 | 日録
目には青葉山ほとゝぎす初がつほ    (素堂)
素堂の名句と共に、ましま翁が「初かつお」の写真まで添えた反戦から離れた記事をお書きになった。勿論
>農産物はバイオ燃料あさりで、魚類は各国の需要増で価格が急騰。
と時事問題を組み入れた(池田弥三郎『日本故事物語』よりの引用記事である。)ことはさすがである。

カツオに限らず、野菜でも果物でも、今は殆どのたべものが、一年中スーパーに出回っているので、季節感に錯覚を起こしてしまうが、今の季節はなんといっても初鰹であろう。

 だから、今のような時代を予想もできなかったであろう「大言海」に、次のような記事があるので引用してみた。(「大言海」はカタカナ表記だが打ちづらいので、ひらがな表記に改める)

[初鰹]其年、初めて市場に出づる鰹。かつをのはしり。古へは、陰暦4月上旬ごろ、諸方より江戸に鰹を運ばるる中に、鎌倉より馬にて運びたるが、第一に早かりしと云ふ。故に鎌倉が、鰹の本場のやうになりたり。(天明の頃、日本橋石町の富豪富林治衛門と云ふものの馳走したるは、一尾、2両3分の値なりしと。)云々。


1両は今の値段のどのあたりになるのか分からないが、権兵さんの話しだと3分で単衣が1枚買えるというから、1分の4倍が1両だとすると、初鰹の初鰹たることの所以がわかる気がする。

ところで、ボクは初鰹というもは皮つきのものに決まっているとばかり思っていた。しかし今は全くというほど見かけない。(皮つきを銀カツオというのだそうだ)
理由は分からないが、保健所の指導が絡んでいるような噂を聞いた。
しかし、ねえ。
ボクが「カツオ虫」について保健所の方に伺う機会があったが、
「あれは鮮度の度合いだそうです」と言って、衛生的に良いとも悪いともいわなかった。

ネットで、ヤフー知恵袋にこんなやり取りあった。
(質問)
至急お願いします!カツオの半身を買ってきてお刺身で食べてた所、よく見ると白い虫が出てきました。
気持ち悪くて刺身のはしでつつくと、計10匹くらい生きたまま出てきました。
すぐに買ったお店に電話するとカツオ虫というもので害はないと言われ家まで謝りにくるといい来たのですが、買った代金だけ返されました。

今まで他のお店で買ってこんな事は無かったです。たべちゃった分もあるだろうし、すごく気持ち悪いです。
お金だけ返しにきて、これが普通ですか?期待はしてなかったけど、お詫びになにか持ってくるのが普通って考えはおかしいですか?みなさんだったら、納得しますか?

(その回答)
そりゃ無知なあんたが悪いよ!
カツオ虫は鮮度の落ちたカツオにはなかなかいないからね。それだけ新鮮なカツオだったということ。
その味の違いにも気付かないようなら、あんた一生カツオ食べる資格無いよ!
代金返した店の方がよっぽど大人な対応だね。


Tさんの頁

2007-05-26 05:25:12 | 日録

昨日は天候にも恵まれ、山梨百名山の滝子山(1.620m)に登って来た。山は低いが標高差が千メートルほどあり、道も比較的急坂で7合目辺りから岩場となる。
 途中雪を戴いた富士山や南アルプカの山々が見え、道筋にはミツバツツジが咲き出し、木々の芽も出始めている。約7時間の歩きであったが、帰りに温泉で汗を流し、水分を補給して22時帰宅満足の一日だった。(2007.4.16のTさんからのメールから)

Vista導入で久しく使えなかったXpが(故障で使えなくなってしまったのをHさんが、リカバリ以外の方法で復元してくれた)、苦節1ヶ月有余、昨日ルーター接続が完成した。いみじくも小生の〇〇歳の誕生日であった。

メールを覗いたら出てきたのが、Tさんからの便りである。このメールは頂きっ放しで、返信していない。何しろ、Xpがダメになった直後の、空白期間だったのである。
しかし、随分複雑だったルーター接続(販売店で3回も交換してもらった)、終わってみれば「ナァーンダ!こいつメ)、「コロンブスの卵」のようなものだった。
Xpにインストールしてあった、「フレッツ接続ツール」をアンイントールすることで、マニアルにもちゃんと書いてあるではないか。
 だから、最初のルーターは確かにVista未対応のルーターだったが、今度はおれの手落ちだった。(謝る)

      
コロンブスの卵
コロンブスがアメリカを発見して帰った時、イスパニヤ人の喜んだことは非常なものでした。
一日祝賀会の席上で、人々が代わる代わる立って、コロンブスの成功を祝しますと、一人の男が、
「大洋を西へ西へと航海して、陸地に出あったのが、それ程の手がらだったろうか。」
と言って冷笑しました。
これを聞いたコロンブスは、つと立って、食卓の上のゆで卵を取り、
「諸君、試みにこの卵を卓上に立ててごらんなさい。」
と言ひました。人々は、何のためにこんな事を言い出したかと思いながら、やってみましたが、もとより立たうはずはございません。
此の時コロンブスは、こつんと卵の端を食卓にい打ちつけ、何の苦もなく立てて申しました。
「諸君、これも人のした後では、何のざうさもないことでございませう。」(小学国語読本巻八文部省)
    




新嘗祭のために

2007-05-22 21:13:01 | 日録


>5/20付毎日紙に、坂村東大教授がある人からネットがうまくつながらなくなった相談を受け、各方面に照会して調べさせたがどこも責任を負わない。悪戦苦闘の末無線LANルーターが悪そうだといって、そのメーカーと何日もやりとりしたがダメ。結局「相性が悪いんでしょう」でかたずけられ、ルーターを買い換えたら直ったという話がでています。
あいにく電子版にはのっていないようですが、お知らせまで。

 小生の悪戦苦闘を察知なされた、ましま先生からこのようなメッセージを頂戴した。小生もだいたいそのような原因であろうと思っていた。

 さる終日雨の日、プロバイダーに3回目の電話によるサポート受けた。3者三様のサポートだったが、いずれも親切であり、納得できる内容なのだが、これ以上のことは、PCメーカーのサポートしかないという結論になった。
 今度はメーカーのサポートセンターへ。(これが中々つながらない)
 その度にルーター経由のXpがおかしい。
エラー678だの、数種のエラー番号が出てくる。
いずれも、フレッツ接続のPPPoEのことらしい。NTTへも電話した。ウチには関係のない質問だと、簡単に断られた。
やっと繋がったメーカーのサポートは、リカバリをする以外考えられない。不親切なサポーターの態度だった。

 おかげで、コマンドブロンドなる用語も覚えて勉強にはなったが、(放送大学の講座よりは易しそううだ)目がチラチラして、パソコン継続困難になった。

結局、ルーター購入店に行き、ルーターの交換を約してもらった。3回目の交換で気の毒だが…。快く引き受けてくれたから、Vistaの対応はまだ確立できていないような気がする。
 
 しかし、オレも朝から晩までPCに噛り付いてばかりはいなれない。
糟糠のお方が3週間も入院の憂き目に遭った。
 農場が気になる。昨日と今日やっと、茄子、きゅうり、トマトを植えた。
天皇陛下だって、新嘗祭のため、「おん田植え」をなし遊ばされる。

 小生も新嘗祭までには味噌汁の具を…。労働後の独酌の缶ビールは特別の美味さだった。

 ルーターの取り換え作業は、これからはまた雨の日があるだろう。その時までお預けにする。今度は大丈夫であると確信する。

ペコちゃん復帰

2007-05-18 21:27:21 | 日録
朝、暑い日となりそうな快晴である。
妻をかかりつけだったS医院に送る。
ここの先生の紹介状を持って入院した医大病院の医師からの「経過報告書」の入った返書を携えて行く。
医師同士の封書は、紹介状にしろ、その返書にも、すでに××先生御侍史と印刷されてある。女医さん宛ての場合は別の封筒が用意されていて、添え書きは何と書くのだろうなどと、余計な事を考える程の余裕ができた。症状は殆ど回復し、今後はS医院のG先生の指示に従うだけになった。
診察は九時からであるが、八時半に行ったら医院前の駐車場には、車はまだ2台のみであった。玄関の内シャッターが開いたので、入ったら一人の男が待合室の椅子で居眠りをしている。すでに10人ほど受付が済んでいた。
慣れている人は、裏口に職員たちの出入りする引き戸があって、そこから入って診察券を入れて置き、順番をとって一旦帰る裏ワザがあったのだ。
待合室には、お茶、お湯、冷水の自動サービス器、血圧計、絵本、週刊誌、毎日新聞、スポーツ新聞、幼児の遊び場があって、積木(プラスチック製)や縫いぐるみなどが箱に入れて置いてある。患者は殆どいつも満員。みな無言で順番を待っている。
この受付けカウンターの隅に「飴」が置いてある。(クリックすると大きくなります)
ここまで、S医院内部の待合室の概要を描写したつもりだが、それはどこにでも見られる町医者の風景だろうと思う。今日書きたかったのはこのペコちゃんのことである。

 不二家が内部告発からバレた不祥事で、休業状態になって久しいが、この医院では前々から、ここに「ポップ」キャンデーという棒が付いているペコちゃんを置いていた。
 問題を起こしたのは何時ごろだったか忘れたが、その時から姿を消した。勿論キャラクター人形もである。
今日、両方とも、受付カウンターに姿を現した。

 しかし、昨日通ってきた近くにあるわが町の不二家専門店は、まだシャッターを下ろしたままであった。従業員も4~5人はおったと思う。清潔感のあるいい店だった。店の経営者や従業員はあれからどうしているのだろう。
 そんな事を、元零細運送店経営者だったボクは深刻に考えるのである。


戦争の傷跡

2007-05-13 11:34:29 | 怒ブログ

この石碑は、村の名士、初代村長(明治22年~大正6年)の彰徳碑である。この碑は町の名所百選に指定され、傍にその解説の金属板が建っている。文面には、勿論この村の初代村長としての功績を列記し、藍綬褒章授与の栄に浴したことが記されているが、
『大正7年この元小学校隣地の八坂神社(現在地)に建立されたが、昭和20年6月10日の空襲では、職員児童の被害はなかったが、碑の上部が欠けるほどのすさまじさであった。』
と破損の理由の説明がある。

 この日の空襲では海軍施設の密集していた隣村(現在は合併してボクの住むこの村も同じ町である)は甚大な被害を被った。町史や其の他の出版物に、当時の惨状の目撃談など記載されているものも多い。しかし約半世紀前の青少年たちの回想録であるから、中には明らかに誤った記事にも気が付くが、僕の友人Y兄の著書に次のような記載がある。

<この日朝もやのかかっ湖面には突如水柱は乱立し鯉や小魚がたくさん打ち寄せられた。爆弾は民間地区にも落下した。隣接するF村も被害を受けた。F小学校では警報を聞いてS校長は、日曜日で休んでいたが、学校に馳せ参じた。当時この学校には奉安殿はなく天皇陛下の御真影は職員室わきの奉安室にあった。校長はこれを白手袋で奉持し、近くの○兵衛宅に安置した。校舎が爆撃で倒壊したのはその直後のことであった。>

実はY兄はボクの話を元に取材したものだと思う。
ボクは、当時日曜日でも高等科生の監視当番があって、その当番で現場に駆け付けたという小学校同級生のI君から聞いた思い出話を、聞いた通りに彼に話した。
 それは、爆撃後、倒壊した奉安室の中から校長は必死になって御真影を探し出した。その時の純白の手袋が強く印象に残っている…、という風に話したつもりだったが…。
       

何のための付箋?

2007-05-11 11:03:26 | 怒ブログ

徳富蘇峰といえばこんな人である。

<平民主義を提唱。日清戦争以後、帝国主義の鼓舞者となる。著「吉田松陰」「近世日本国民史」など。文化勲章。(1863~1957)[広辞苑]。

・満州事変前より積極的に軍部に協力し、第2次大戦中は日本文学報国会、言論報国会の会長を勤める。18年文化勲章を受けた。敗戦後は戦犯に指定されて引退し、「近世日本国民史」の完成その他の著作活動を続けた。

・【時務一家言】評論。大正2・12、民友社刊。
世界は表面はともあれ、力が権利である弱肉強食の世界だという認識に立ち、白閥の跋扈を打破することこそが大和民族の使命だという信念に基づいて、皇室中心主義を根本とし、内においては国家社会主義、外に対しては帝国主義を実行することを提唱する。云々。[新潮日本文学小辞典]>

近頃、「徳富蘇峰 終戦度日記―『頑蘇夢物語』」という本が講談社より出版され(2006年)話題を呼んでいる。
 この本には、『頑蘇夢物語』の1巻から5巻までを収録してある。ごく最近になって本屋を覗いたら、側に、すでにこの続編が積んであった。このあと、その先又続々編が出そうな感じを受けた。

 取りあえず図書館から借用した本がこれである。まえがき「刊行にあたって」から、あとがき「解説」を含めると445ページになる。まだ80ページ弱しか読み終えていない。それなのに、なぜこんなに付箋を付けてしまったか。(まえがき)にも書いてある通り、本書の中には、昭和天皇や、その側近の人々をご批判申し上げている部分がかなりの数にのぼる。

そういうことに主眼を置いて(勿論そればかりとは限らないが…)付箋をつけた。

(略)勝つ工夫は、いろいろの方策もあるが、根本的方策は唯一つ、即ち前申す通り至尊が神武天皇や明治天皇の御懿範に御則り遊ばされて、恐れながら御躬ら大元帥の実を表現遊ばされ、万機親裁の実を表現遊ばさるる外わないないという事に帰着することを力説した。(沖縄戦P.23)

(略)正午聖上の御放送ある旨を知らせて来た。予もこれを聞いて、涙の出るほど有難く感じた。今日では既に遅い。けれども尚お無きに優るものがある。よって家人に命じて、お祝いの強飯を炊くべく命じた。(略)ところが予は再思するに、あまりに事が意外である。あるいは恐れながら御放送は、我等の期待する反対の意味ではあるまいかと杞憂した。よって命令を取り消し、兎も角も一応御放送を謹聴し奉りたる後に、再び予の命令を待つべく申しつけた。(陛下の玉音を謹聴して。P.28)

(略)…日本国土と、日本臣民とを離れて、皇室のみを考えることは出来ぬという前提から見れば、この戦争は皇室ご自身の戦争であり、天皇御自身の戦争である。
累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう事は、皇室を日本国家と別物としての考えであって、切り離すことの出来ぬものに、累を及ぼすとか及ぼさぬとかいう文句の付くべき筈はない。一家が没落する時には、家長も当然没落せねばならぬ。国民と憂苦を共にし給うところに、初めてここに皇室の有難味がある。国民の利害休戚は、一切度外視して、皇室さえ安泰であれば、それで宜しいという事は、日本の国体には有り得べき事ではない。(万世太平の真諦P.39)

極めて端的に申し上ぐれば、今上陛下は、戦争の上に超然として在ました事が、明治天皇の御実践遊ばされた先例と、異なりたる道を、御執り遊ばされた事が、この戦争の中心点を欠いた主なる原因であったと拝察する。云々。(敗戦の原因(4)P.73)
仰々「付箋」というものは目印のために貼り付ける小紙で、やたらに貼り付けるものではない。
しかしこのような記事が、延々と続くのである。今ボクが所持している付箋で間に合うかどうか、読んでみなければ分からない。

続きけわだづみのこえ

2007-05-08 09:20:26 | 反戦基地

 『及時当勉励、歳月不待人』(陶淵明、雑詩)最近頓に自信喪失してきた。時間の経過がオレを待ってくれないのである。

「図書」岩波文庫創刊70周年臨時増刊が出てから、10年経ってしまった。この時の特集「私の三冊」は10年前ではないけれど当ブログで2006.9.46日に亘って取り上げた。このときは、『「いき」の構造他二編 九鬼周造』が268通のうち10人の方が選ばれた。

『きけわだつみのこえ』はわずか4人である。
 ご芳名を記せば、・小澤俊夫(白百合女子大教授/ドイツ伝承文学・口承文芸学)・鈴木範久(立教大教授/宗教学) ・田中澄江(劇作家)・宮崎勇(アニメーション映画監督)の4氏だけであった。

 さて今回の80周年記念号では、232人中18名の方が本書を推した。 そのうち13名の方々は短評まで紹介したが、残り5名の方については御芳名だけに留めることをお赦し願いたい。
○子安宣彦(大阪大名誉教授/思想史・文化理論)
○島本慈子(ノンフィクションライター)
○道家達将(東京工業大学名誉教授/史学科)
○中村政則(神奈川大学特任教授/日本近現代史)
○畑村洋太郎(工学院大学教授/機械工学)

なお、写真「きけわだつみのこえ」口絵は1971年財団法人東京大学出版会発行の
「きけわたづみのこえ 日本戦没学生の手記 日本戦没学生手記編集委員会編」からの引用である。
「猫の民族学」は特に関係はない。
 


きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記

2007-05-07 14:15:25 | 反戦基地
岩波文庫創刊80年を記念して月刊PR誌「図書」の特集「私の3冊」臨時増刊号が届いた。
この増刊号の扉を開くと、「はじめに」と題する編集部の巻頭言が掲げられてある。
(略)岩波文庫は、1927年7月に漱石の『こころ』など23冊を刊行して出発、今年2007年は創刊80年にあたります。小社ではこれを記念する行事のひとつとして、各界で活躍されている皆様に下記の趣旨でアンケートをお願いしました。
  
今までにお読みになった岩波文庫のうち、今日なお心に残る書物は何でしょうか、あるいは、ぜひとも他の人びとに勧めたいと思われる書物は何でしょうか。3点選んでご回答ください。あわせて、それぞれの書目に短評をお書き添え願えれば幸いです。

(略)        2007年4月          岩波文庫編集部

この「はじめ」によると、232通の回答が寄せられ、同趣旨のアンケートの、20年前が『銀の匙』、10年前は『「いき」の構造』、今回の多くの方々が『きけ わだつみのこえ』を挙げられているという。
<「憲法改正」の動きが伝えられる今日の状況と無関係ではないと思われます。>
と結んでいる。
さて232通の中から、同書を挙げた方々を「あいうえお」順に抽出してみよう。

○秋山ちえ子(評論家) 国際間のもめごとの解決にあの悲惨さのつきまとう戦争はしないこと。取り残される人のいない社会作りの二つが私の仕事の主筋。この本はその目的のためにも国民の必読書。時々頁を開いてほしい。

○石牟礼道子(作家・詩人)この人たちが生きていたら、精神の荒廃した今の日本はありえなかったろうとも、考えます。私と同世代の青少年たちの、いちずな愛をうばった戦争とは何か。思えば涙がふきこぼれます。生の原点です。

○伊藤真(伊藤塾塾長/法教育(特に憲法) 憲法を理解するためには想像力が必要うである。特になぜこの国の憲法が9条という非常識な規定を持つかを理解するには、戦時中の常識を知る必要うがある。彼らの想いと命を生かすも殺すも我ら次第。  

○入江曜子(作家) 青春の真只中に、無謀な戦略の犠牲として生を断たれた戦没学生の手記。戦後日本人の反戦の原点となり、多くの戦争体験が風化し変容しつつある中にあってなお鮮烈に平和への希求を語り続ける。

○内海愛子(恵泉女学園大学教員/日本アジア関係史) 街でよく見かけた傷痍軍人、農民兵士の手紙、野間宏『真空地帯』などとともに、無意味な死を前に苦悩する大学生たちの遺書を集めた本書は、高校生だった私に「軍隊」「戦争」を考えさせてくれた。

○海老坂武(フランス文学者/20世紀文学・思想) 何年かに一度、この本を開きます。そのたびに発見があり、感慨が新たにおこります。若い頃は皮肉な視線を浴びせていたのですが、それはもうなくなりました。
○大田昌秀(参院議員/ジャーナリズム)本書は、第二次大戦で戦場に動員され非業の死を遂げた学徒たちの手記をまとめたもの。手記の一言一句に戦争の愚かさと非人間性とが表明されていて胸を打つ。戦無派世代に是非一読してほしい。

○岡野俊一郎(日本サッカー協会名誉会長・(株)岡野栄泉代表取締役) 現在とは全然異なる状況の中で生きることの意味を考え、国家と家族の間で揺れ動く心を書き綴った若き学徒の言葉の数々。豊かで自由な現在を生きる若者に是非とも読んで欲しい本。

○尾木直樹(教育評論家・法政大学教授/臨床教育学) 軍靴の音を鳴り響かせ皇居前を行進する学徒出陣兵。白黒のニュース映画で見た一シーン。その一人ひとりの胸の内が、ガラス玉のような魂となって行間から立ち上がる。平和への知と良心の書だ。

○忍足欣四郎(東京都立大学名誉教授/中世英語英文学) 太平洋戦争は現代日本の最大の悲劇だった。戦陣に散った学徒兵の手記は戦争の悲惨さを鮮明に伝える。この悲劇を踏まえて平和を希求する憲法が制定された。決して遠い過去の出来事ではない。

○上遠恵子(レイチェル・カーソン日本協会理事長・エッセイスト/環境文学) 神宮球場で行われた学徒出陣 壮行会の雨の中の行進の映像を見るたびに胸がつまる。どんなに彼らは生きたかったことだろう。戦争はしてはならない。この声を無駄にしてはならない。

○窪島誠一郎(美術館主・作家) 九年前、戦没画学生慰霊美術館「無言館」を建設してから、座右の書となった。館に展示されている私の好きな画学生佐藤孝(ルソン島で二十一歳で戦死)の手記がある。

○熊井啓(映画監督) 中学先輩の上原良司氏は特攻出撃前夜に書き残した文中で、自らを「自由主義者」と呼び、権力主義国家の滅亡と自由の勝利を予言している。あの時代に自由を切望した若者の真摯な思いが胸を打つ。
                 (続く)



連休

2007-05-05 11:30:52 | 日録


2002年の頃の日記を見る。勿論、プライバシーに亘る部分は省略した。
五月三日(金)
五時半二階の窓から田圃のひろがる周囲を見るに、我が家のまわりはSさんの田んぼ以外はほとんどが、代掻きが終わった状態である。人影は全く無い。県道の向こうに苗を植えた田が横に伸びているのが、緑を増している。
7時50分朝飯を食い終え、再び二階から周囲を見る。西の方は、田植えが大分進んでいるようだ。東の湖沿いに軽トラで人が動いているのが見えるが、相変わらずの無人の静寂である。湖畔に釣り人の車が何台か停まっている。
昔は、(いつ頃を指すか俺にも答えられない)。田植えの季節は、おそらく5時には田圃には人が出ていたであろう。そんな気がする。しかし現在は何時の間にか耕地となり苗が植えられていく。実際我が家の西側、○○右衛門の田はいつウナッタのか、全く知らぬ。

(略)U夫人よりEメールが届いていた。
昨夜はファクスを送ってくださって有難うございました。なかなか面白く読ませていただきました。
とくに結びの部分は、なださんらしい発言だなあとおもいました。世界の金持ちの上位三人の総資産が、地上最貧国四十八カ国の年間 に匹敵するというのはどうゆうことでしょう。本当に腹立たしいことですね。(※「ちくま」連載のなだ・いなだのエッセー「人間、とりあえず主義」をさす)
この間ご持参くださった蕗と豌豆とラッキョウ、どれもおいしくいただきました。こんなに上手に料理できるなら、○○会のみなさんにお出しすればよかったとおもいました。私はどうも謙遜家すぎるのではないかと深く反省した次第です。(※○○会というのは、町内在住の中学時代の同窓生の集いが、持ち回りで卒業以来続いていて、U兄宅が当番だったらしい)
いつも奥さまには、いろいろ頂戴して感謝しております。どうぞよろしくお伝えください。
(※は小生の注釈である)
U夫人にメールの返信を送る。

久しくメールに飢えていた昨今、貴女様のご感想を聞かせて頂き、ファックスを送って良かったかなと一安心です。それにしても、風邪薬のカフェインから、ブッシュ批判に矛を向けるあたり、同じ医師兼作家でも、芸が細かいナとつくづく感心しました。
さて、初めて得た知識なので、早速拙宅にある風邪薬の処方を確かめてみましたら、なるほど置き薬の2種類の薬は両方とも、無水カフェインが75mg~100mgも入っていました。しかし、小生がもしも医者だったら、『風邪ごときで医者に銭を払うことはない。クシャンときたら、予めI酒店で買っておいた、銘酒武勇を少し多めに飲んで、巨人の形勢が悪い時にはテレビのスイッチを入れ、逆に今夜あたりの 巨人×横浜戦なんかは、無視して布団をかぶって早く寝るのが一番だ』と言いたい。
余計なことをかもしれませんが…。
そんでは(茨城語 それでは…という意)また。

田植えをやってみたい

2007-05-02 21:41:30 | 日録

4月28日(土休)から連休が始まった連休もあと2日を残すのみとなった。この間に、田圃はいつの間にかというか、あっという間に、田植え作業が、終わってしまうだろう。
拙宅の周囲は南側を除いて、東も西も北側も水田に囲まれている。しかし、今朝の7時、どこも見渡しても人影は一人もいない。
水を張った、代掻きを終えたところと、苗を植えたところと、半々ぐらいである。

 偶然昨日拙宅傍の田んぼで、代掻きをやっているHさんの機械作業の現場に出会った。1時間ぐらいやったら、いつの間にかどこかへ行ってしまった。
 おれも昔、田植えをやったことがある。その頃は、隣家の人たちと、共同作業であった。(よい『結え』、とか、よい返しといった)。
 酒蔵などのイベントに、いまも昔ながらの田植えをすることもできるところがある。
 ボクも「酒のみ仲間」というグループに席を置いているので、毎年案内状はくるが、まだ参加したことはない。
 もう一度、田植えをしてみたいが、ムリだろうなぁ。

閑話休題(それわそれとして)
憲法の特集記事が多い割に、昭和の日が少なかったので、ここで4.29付朝日新聞社説を読み返してみたい。

[朝日新聞社社説]
昭和の日―光と影に思いを致そう
 昭和天皇の在位50年を記念して、東京都の立川・昭島両市にまたがる公園がつくられた。昭和天皇記念館は緑に包まれたその一角にある。緑化などの研修施設と、ひとつながりの建物だ。
 昭和天皇の誕生日である4月29日は、平成になって「みどりの日」と名を変えた。記念館のたたずまいは、その名にふさわしいと言えよう。
 新緑の美しい季節である。自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。祝日法でそう定められたみどりの日は、昨年まで18回を数え、国民に定着してきた。
 しかし、4月29日は今年から「昭和の日」になった。みどりの日は「国民の休日」だった5月4日に移された。
 なぜ、わざわざ変えるのか。戸惑っている人も多いのではないか。
 昭和の日に改める法案は7年前に与党の議員立法で提案された。激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。これが昭和を記念する祝日をつくる理由だった。
 しかし、この理由がまさに示しているように、昭和は「激動」の戦前と、「復興」に始まる戦後に分かれている。
 昭和天皇記念館の展示を見ても、戦前の天皇は白馬にまたがって観兵し、軍服姿で東京大空襲を視察している。背広を着て地方巡幸や植樹祭をする戦後の天皇とは大きく異なっている。
 昭和は金融恐慌で幕を開けた。治安維持法による弾圧、政治家へのテロ、将校が反乱した2・26事件などが起き、太平洋戦争へと突き進んだ。
最近、朝日新聞が報じたところでは、宮内庁の侍従職事務主管を務めた故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)氏の日記に、昭和天皇が晩年も戦争への悔恨を抱き続けていたことが随所に記録されていた。
 77年2月26日、昭和天皇は「治安は何もないか」と卜部氏に尋ねた。2・26事件から40年以上たってもなお、日本が軍国主義に傾くきっかけとなった事件がトラウマになっていたのだろう。
 A級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)された後、昭和天皇は参拝をやめた。「それが私の心だ」と語った言葉を、故富田朝彦宮内庁長官が88年4月28日のメモに残しているが、同じ日、昭和天皇は卜部氏にも戦犯合祀について語っていた。
 卜部氏は01年7月31日には「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記していた。
 昭和は光と影に分かれた時代である。戦後は復興と繁栄の明るい色調が目立つ。その豊かさが多くの犠牲の上に築かれたことを忘れるわけにいかない。
 戦後生まれは今や4分の3にのぼる。戦前を肌で知る人は減る一方だ。
昭和をひとくくりにして懐古するのではなく、光と影を考える。昭和の日をそんなメモリアルデーにしてこそ、「国の将来」は確かなものになるだろう。


五月一日(月)

2007-05-01 23:03:53 | 怒ブログ
ゴールデンウィークとは何ぞや?
ゴールデンウィーク(和製語~week)4月末5月初めの休日の多い週。黄金週間。
因みに今年のゴールデンウィークを暦で辿ると。

 4月28日(土)土休
 4月29日(日)昭和の日
 4月30日(月)振替休日

 5月1日(火)メーデー(休日ではない)床屋さん休日
 5月2日(水)満月八十八夜(休日ではない)お医者さん休日
 5月3日(木)憲法記念日
 5月4日(金)みどりの日
 5月5日(土)こどもの日
 5月6日(日)立夏 仏滅

 以上のようになる。

※追記(5.4記)
 僕は今までの「みどりの日」が、昭和天皇の誕生日にあらせられるから、そのご遺徳を偲んで「昭和の日」と改めたものとばかり思っていた。そういう理由もあるだろうけれど、
「みどりの日」もちゃんと5月4日に保存されていたのである。
28日付新聞にこんな 記事が目にとまった。

[政府広報]
「昭和の日」・「みどりの日」のお知らせ
●激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす日として、今年から4月29日は国民の祝日「昭和の日」となりました。
●「みどりの日」は、4月29日から5月4日に変わります。
●詳しくはHP(http://www.cao.go.jp/)     内閣府