狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

昭和天皇

2008-08-23 21:19:11 | 怒ブログ
               

昭和天皇 第一部・第二部 福田和也     文藝春秋

ときに悲しいほどに小さく、
ときに仰ぐように巨(おお)きい

  激動の歴史を描き出す
  未曾有の試み。
  日本人の魂をえぐる
  畢生の大作、ついに始動!
久しぶりに町の本屋を尋ね店内を一巡した。頭書の部分は朝日新聞.8.22
付新聞広告の見出しである。立ち見する人には出会わなかったが、このコーナーには同じようなジャンルの本ばかりが寄り集まっている。

これまでにも、昭和天皇に関わる本は沢山出版された。
ぼくの所持して本だけでもかなりの数にのぼる。
主なものを挙げれば、
 昭和天皇上・下  ハーバート・ビックス 吉田裕監修 講談社
 天皇ヒロヒト L・モズレー高田市太郎約  毎日新聞社
 昭和史  半藤一利    平凡社
 昭和天皇独白録 寺沢英成・御用掛日記   文芸春秋
 側近日誌 木下道雄     文芸春秋
 昭和天皇語録 黒田勝弘 畑好秀編  講談社
 上着をぬいだ天皇  岩川隆  角川文庫
 等々である。
何故こんなに拘るのか自分でも分からないが、これ以上昭和天皇を読みあさってもどうしようもないことだ。
しかるに東条大将直筆メモなどと新聞に載るとどうしても目を通してみたくなる。
2008.8.12付朝日新聞夕刊一面に載った記事である。 
 
1945(昭和20)年8月10日から14日にかけ、東条英機元首相が書いた直筆メモが、国立公文書館(東京都千代田区)から公開された。無条件降伏すれば国民が 「軍部をのろう」とし、天皇制を中心とした「国体護持」が受け入れられないなら「敢然戦うべき」と戦争継続を昭和天皇に訴えた様子がうかがえる。=11面にメモ抜粋 
太平洋戦争開戦時の首相だった東条氏の終戦直前の言動は、寺崎英成御用掛らによる「昭和天皇独白録」などで断片的に伝えられるだけで、貴重な資料となる。
 メモははがき大の用紙30枚に日付順に鉛筆で書かれていた。国体護持を条件に連合国側のポツダム宣言の受け入れを御前会議が決めた10日に始まる。すでに首相を辞めていた東条氏を含む首相経験者らは重臣会議で経緯を説明され意見を求められた。「メモ魔」の異名をとる東条氏は、天皇に上奏したとする内容を細かく残していた。 中心は、ポツダム宣言が求める「日本国軍隊の完全武装解除」への懸念だ。「手足を先づもぎ、而も命を敵側の料理に委する」ようだと例えながら、武装解除に応じてしまえば、国体護持は「空名に過ぎ」なくなると訴えた。「敵側」が国体護持を否定する態度に出れば 「一億一人となるを敢然戦うべき」と上奏したとしている。
 戦争の目的は「自存自衛」 「東亜の安定」にあり、目の前の戦況に心を奪われないように求めたとも書いている。
 長崎原爆投下から2日後の11日以降は自身の思いを書きつづる。
 「無条件降伏を応諾」すれば「稍もすれば一段安きに考えたる国民として軍部をのろうに至るなきや」と記し、見下ろすような考えを示しながらも国民の反応を気にする姿が見える。さらに日本軍は 「相当の実力を保持」と見解をつらね、「簡単に手を挙ぐるに至るが如き国政指導者及国民の無気魂なりとは、夢想だもせざりし」と不満をぶつけた表現もある。
 ポツダム宣言受諾が御前会議で再確認された終戦前日の14日は、秘書官だった赤松貞・陸軍大佐あてで、「道徳上の責任は死を以て御詫び」「敵の法廷に立つ如きことは、日本人として採らざる」と書き、自決を示唆した。9月11日、銃自殺を試みて失敗している。
 メモは、東京裁判(46年5月〜 48年11月)で東条氏の主任弁護人だった清瀬一郎氏が法務省へ寄贈。同省は東条氏の「直筆」として内容を転写し、99年に、原本とともに国立公文書館に移管していた。       (谷津憲郎)
東条英機元首相1884年、東京生まれ。関東軍参謀長などを経て1940年に第2次近衛内閣で陸軍大臣に。対米英戦で主戦論を唱え、41年10月に首相に就任し、12月に開戦に踏み切った。戦況が悪化した44年7月に総辞職。戦後、A級戦犯容疑者として東京裁判に起訴さ
れ、48年12月、巣鴨拘置所で処刑された。__


大人の盆綱

2008-08-20 20:50:52 | 怒ブログ
           
民族の大移動と言われる旧盆の長期休暇も忽ちにして終わった。
今年の夏は特に厳しかったようにも思えるが、それは統計を取っているその筋のお役所の判断するところで、われわれの感覚とは違う結果であるかも知れない。
それにしても暑かった。
しかし確実に秋の気配がやってきたことは否めない事実である。

過ぎ去ったお盆の話しでは、いまいち気分が乗らないが、気になるので締めておきたい。
わが村には、盆綱曳きと言う子ども達の行事がある。
茅萱で綯った太い大きな綱を子ども達が、「やンせー、こんせー」というかけ声で村の各戸を練り歩く。迎え盆の時は、お寺さんから仏様をこの綱に載せて各家にお届けする。そして送り盆には、各家の仏壇から仏様をお寺さんまでお送りするという、嘗ては子ども達の年中行事であった。
綱を綯うのは勿論子ども達には出来ない。それは古老が作ってやったことは昔も今も同じだ。
しかし、昔はそれ以外は、全部子ども達の行事で、大人が口を夾むことはなかった。ところが、今は綱を引っ張るのは子供達でも、運営は凡て親たちの管理下にあるようだ。だからこれは子供達の親達(大人)の行事なのである。
詳しいことを書けば呆れるが、そんなことを気にする方がバカだと思われるであろう。ボクもそうは思われたくないので、今年はこれで筆を折りたい。

終戦日

2008-08-17 21:11:56 | 怒ブログ

8月15日は終戦日(ボクは敗戦忌という季語で俳句を使ってきた)である。
曹洞宗家庭暦では「終戦日」若しくは「敗戦日」とは書いていない。
平和祈願日 旧ぼん 戦没者追悼式、月遅れ盆、三りんぼうとあるだけである。
ボクがあのいわゆる「玉音放送」を聞いたのは中学3年せいの頃。はっきり
と放送を整列して聞いた記憶は残っているが、現在の環境では当時のことの復元は非常に困難になってきた。風化というやつだろう。
新聞記事なども、当時の状況は決して正確に反映しているとはとでも思いない。
朝日の「天声人語」をコピーしておく。
人の数だけ、戦争があった。兵士50人の手記を編んだ『父の戦記』が、先ごろ朝日文庫から復刊された。1965年に週刊朝日が募ったものだ。中に、南仏印(ふついん)のサイゴンで終戦を迎えた元中尉の作がある▼その日、兵舎では激論と痛飲が繰り返されたという。住民に加勢し、フランス軍と戦おうとする者もいた。逃亡、自決、抑留。何が正義で、何が卑劣か見えぬまま、隊長として全隊70人を集める。日本刀を抜いて、叫んだ▼〈我々が一刻も早く帰還しなければ、敗戦の祖国は一体どうなるのだ。一時の感情に走って道を誤るな。逃亡する奴(やつ)は俺(おれ)が斬(き)る〉。手記には「自分の行動が無性に腹立たしく、恥ずかしくさえ思われた」とある▼過日、別の手記が公開された。終戦の直前、東条英機元首相が心境などを残した直筆メモだ。「もろくも敵の脅威に脅(おび)え、簡単に手を挙ぐるに至るが如(ごと)き国政指導者および国民の無気魂」と、悔しさを時の政府や国民にぶつけている。「新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰をぬかし」など、随所に徹底抗戦への未練ものぞく▼「新爆弾」にやられた広島と長崎をはじめ、国土は焼け、民は窮乏を極めていた。外地では、補給を断たれた兵が銘々の処し方を問われた。この期に及んで戦争を正当化するメモは、戦後の感覚からは読むに堪えない▼元中尉の戦争と東条の戦争。誰を主人公とするかで、一つの史実も別の物語になる。昭和という時の巨木に生い茂った、何億もの慟哭(どうこく)の葉。勇ましいだけの裸木に戻さぬよう、一枚一枚、静かに語り継ぎたい。

天皇陛下のおことばは次の通りである。

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。 終戦以来既に63年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

長崎市長のことば

2008-08-11 11:51:23 | 反戦基地
  

長崎等市長が市議会で、質問に答えて「歴史家の記述を見ても、私自身の軍隊経験からも、天皇の責任はあると思う」と述べたのが発端で、長崎市は、街宣車の騒然たる街と化してしまった。あげくの果て、市長は右翼の短銃に撃たれ重傷を負う始末となった。
この時、市長宛に「批判抗議するもの」「指示激励するもの」の文面の手紙、ハガキ、電報等が7,300通に達したという。1988年12月の出来事である。
これらの手紙は、「長崎市長への七三〇〇通の手紙」の表題で、径書房という小出版社から発行された。もちろんこの出版物は、初版6刷という空前のベストセラーになったが、その中の1通をめぐり、解放同盟の抗議と要求で、絶版に追い込まれる事態も発生した。さらにこの事件の総括ともいうべき「長崎市長のことば」という岩波ブックレットも発行されている。
あれから約20年の歳月が流れ、この問題も風化の一途を辿っているようだ。最近タブー視される言論が多くなりつつあるような傾向を懼れる。
朝日新聞は1988年12月19日付紙は「長崎市長の発言と言論の自由」という社説をかが掲げ『天皇制に関することを含めて、思想、表現の自由は憲法で保障されている。日本を再び「言論の不自由」国にしてはならない』と結んでいる。
写真は、「感謝のことば」と題した小生が出した手紙への礼状と、「長崎市長への七三〇〇通の手紙」誌と当時の新聞切り抜きである。

九州からのプレゼント

2008-08-10 21:37:56 | 日録
           
 大学という学問所は、お酒を呑むところらしい。
彼は今春九州の方の大学さ一年浪人の末、合格した。
去年、某衛大学のその学部さ合格して、蹴って浪人した。「勿体なぁーい!!」
オレも妻も大きな声で叫んでしまった。
 オレの方は不肖のガキめ等が3人いるが、一人として国立の門を潜ったものがいなかったからである。
彼は、トーキョーの大学を目指すのかとばかり思っていた。詳しいことは訊かないが、今年も某衛大と北九州のS大学を受けたのだそうだ。
去年受かった某大が外れて、北九州さいくことになった。
合格の挨拶に来たとき、今度来るときは、
「九州の土産を持って来いや。」とオレは注文した。それを彼は忘れなかったのである。
 次、暮れに来るときは小生山人と、日本酒が呑みたいとぬけぬけと。
 饅頭ばかり喰っていた男が、大學さ行った途端この体たらくだ。
 大學というところは、酒を呑むところとだとは訊いてはいたが…。

原爆忌

2008-08-06 16:12:41 | 反戦基地
          
私は昭和二十二年の五月、東京へ帰ってくるまで廣島の田舎にいた。ときどき廣島市内へでて、焼けこげた電車にのった。走る電車の両側に、烏有に帰した残骸の街がはるかに遠くまで見渡せた。日ごろ泣虫でもない私が、電車でそこを走るたびに、涙がでて困った。瓦礫の底から死の歌ごえがきこえて来る気がし、地中に埋もれた白骨がまざまざと見える思いがするからであった。足のうらに死体のつめたさがつたわり、るいるいとした屍の上を踏んでいる心地が生々しい実感となっていた。
 (略)
 治癒した癩者の五本の指に似た、湾曲した手の指にも、白と淡紅色の光ったひき釣れがあり、あるときはそのような女の人が、指のあいだに切符をはさんで車掌にわたしていた。真夏なのにこの人はガーゼのマスクで口をかくしていた。(このことをある小説に書いたとき、批評した一人は、こしらえものだと書いていた。)
 (略)(略)(略)
 廣島は戦前、水の都と自称していた。戦争ちゅうは軍都と誇示し、戦争が終わったとたんに文化都市といいかえた。いまは平和記念都市というのだが、私は東京へもどってくるまで、その街に雑草のようにしか生い繁れなかった人間の再生の姿を見た。原子砂漠と呼ばれた廣島に、生き残った人たちは、貴重なものでなくてはならないはずであった。だが、そこには浮浪児も闇の女も、泥棒も、強盗殺人も、ほかの都市にまけないほどいっぱい生まれていたのだった。可哀そうなあの人々は、戦争の真の惨状と罪悪が、戦争している時よりも、それが終わったあとに深くくることを、いま身にしみて知ったことと思う。
(大田洋子「屍の街」原子爆弾抄 昭和25年5月30日 冬芽書房)より引用

敗戦日の朝日新聞朝刊について

2008-08-04 18:27:44 | 反戦基地

 終戦日、昭和二十年八月十五日の朝日新聞朝刊を見て、まず疑問に感じることは、十五日付朝刊には、すでに当日の正午に放送された「玉音放送」がのっており、朝刊を読めば、敗戦は誰でも分かる筈と思うことである。
 事実ボクもそう考えた。この朝日新聞社史ですべてがよく分かった。
 このことに関して朝日新聞社史 大正・昭和戦前編からその事情のくだりを抜粋してみる。

ポツダム宣言を正式に受諾
(略)
 終戦の詔勅の新聞発表は14日夜11時すぎから首相官邸の地下壕の一室で行われた。しかし、当局の要請により、詔勅をのせた新聞の配達は玉音放送以後にする、ということになった。十五日の付朝刊一面の大組みが開始されたのは、夜も白み出したころであった。

八月十五日
八月十五日の朝刊は午後に発送された。東京本社発行の第一面は、一段分を全面通しの横の見出し「戦争終結の大詔渙発さる」、トップの五段見出しは「新爆弾の惨害に大御心 帝国、四国宣言を受諾 畏し、万世の為太平を開く」、記事の横に「詔書」が大きくのっている。他のおもな記事の見出しを列挙すると、「必ず国威を恢弘 政断下る・途は一つ 信義を世界に失う勿れ」(内閣告諭)、社説「一億相哭相哭の秋」「再生の道は苛烈 決死・大試練に打克たん」などがあり、ポツダム宣言受諾までの経過については、「大権問題を慎重検討 受諾を決するまで」「ポツダム宣言全文」があり、十四日の御前会議については「国の焦土化忍びず 御前会議に畏き御言葉」「国体護持に邁進 親政厳たり随順し奉る」がある。(略)

八月十五日の紙面編集がどのような手順ですすめられたのか、残された資料は少ないが、後年、当時の整理部長だった杉山勝美が、読者の問いあわせに答えるため、整理次長で二面担当だった大島泰平らを招いて座談会を開き、「その結果、つぎのようなことがわかった」と社報・朝日人(昭59・8月)に書いている。
 (略)大島君の言うには、正午の玉音放送開始時刻に合わせて末松記者は皇居前に行って取材した。すぐ社に帰っていたが、感激のあまり筆が執りにくい状態であったという。
 この原稿を整理部に渡したのが十二時半ごろ。それから印刷におろして三時頃発送した。
 一面の詔書は交付が十四日午後十一時だったので、これは玉音放送前に入手できたが、文字にするのは十五日正午の放送以後ということだった。
 結局、普通の場合は前夜印刷するのだが、このようような緊急事態だったので、十五日は午後編集が終わって印刷、発送と夕刊なみの朝刊発行となった。
 発送も、当時の手不足から隣組組織を利用して、まず隣組に発送して読者の家にそれぞれ渡したものである。

「一億相哭の秋」余聞

2008-08-03 21:40:39 | 反戦基地
           
朝日新聞でみる世相50年非売品朝日新聞社(1972年刊)より
live doorハイクブログというサイトがある。ボクは投稿が多い方かも知れぬ。ボクを『お気に入り』に登録されている方に出会うと、感謝感激のあまり、なりふり構わず、駄句を返句したり「コメント」などを投稿している次第である。この「狸便乱亭俳句」若いお嬢さん方にファンが多いようだ。(ほんとうなのだ!!)

過日、8月が近くなったので、「敗戦忌」を詠んだ。
 人間の襤褸なりけり敗戦日    谷人
ボクはこれまで「人間襤褸」という詞を多用してきた。
これは、原爆作家大田洋子の著作名を流用したものであるが、爆撃に遭った惨状を表す詞はこれを措いて他に見つからぬ。ボクの町は1945年6月10日の空爆で500人以上の死者を出した。
 大津留公彦さんという方から返句とコメントを頂戴した。

実吼え夾竹桃いや盛る     大津留公彦
『小田実を偲ぶ会に出てテレビ番組を見てファンになりました。季語終戦日を敗戦日としているひ人を探してここに来ました。』

 有難い話である。
大津さんは『大津留公彦のブログ2』という硬派ブログを発信なされていて、このボクの愚句をサイトに紹介されている。
 その中で、ボクが書いた1945年8月15日付朝日新聞社説の全文までネットサイトから引用なされて、

日本にとって運命の日、1945年8月15日。終戦日の朝日新聞の社説です。ここには戦争への反省はありません。この社説に対しその後朝日はこれを否定する見地を表明したのでしょうか?
表明してなければ今それをやるべきでしょう。
過ちはどんなに時間がかかっても改めなければなりません。アジア民族解放の戦争であるとかこの言葉は難しいですがこの社説の立場は今のネット右翼の論調そっくりです。
戦前の立場のDNAをこの社説もネット右翼も見事に引き継いでいる。

と厳しく批判なされた。

 ボクは朝日新聞の代弁をするような立場ではないが、かつて朝日新聞社要職にあった畏友I氏から恵贈された
朝日新聞社史の「序」の一節を紹介しておきたい。

 
朝日新聞の百十一年の歴史は、その綱領にもうたわれましたように、私たちの先輩が、不偏不党の立場で言論の自由を貫き、正義に基づいて暴力や腐敗と闘い、真実を公正迅速に報道し、進歩的で中正な、また寛容で品位と責任のある評論を展開しようと、心を砕いて苦闘してきた足跡でもありました。しかし残念ながら、太平洋戦争の一時期などのように、この創刊以来の伝統が守り切れなかったり、逸脱して大きな汚点を残したりした事実も、消すことができません。
 その意味でこの『社史』は、いたずらに自社の業績を自画自賛する、お手盛りの履歴書では決してなく、客観的に誇れるものは誇り、同時に、過ちは過ちとして包み隠さず記述して、この冷静、客観的な史実の編集から、私たち朝日人の実りある反省と、将来への明るい展望を引き出せる、歴史的な〝教書″になれば、と願っております。