狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

嘗て「満州国」ありき

2005-11-28 22:31:37 | 反戦基地
 
「満州建国読本」という本を読んだ。(パラパラっと開いて見た程度だが)
日本電報通信社刊 蘇峰徳富正敬著とある。徳富猪一郎が本名で、蘇峰というのは雅号であることは何となく分かっていたが、「正敬」という別号は初めて知った。ジャーナリスと、評論家というより帝国主義の鼓舞者だった。

巻頭図版目次として
天皇陛下、満州国皇帝陛下とご同列にて観兵式行幸御写真、回鑾訓民詔書が載っている。

2頭立ての馬車を操る炉者の後ろに、大元帥礼装を召された昭和天皇と並んで、全く同様な礼装服姿の満州国皇帝陛下が並んでお座りになり、その後ろにはやはり正装の武官が勲章をつけて直立不動の姿勢で起立しながら、観兵式に臨むお姿の写真である。(満州国皇帝陛下)

《昭和10年(康徳二年)四月九日
天皇陛下には満州国皇帝陛下と同列にて代々木練兵場に於ける
特別観兵式に臨幸あらせられた》と解説がある。

次のページには、満州国皇帝陛下の難解な詔書がある。参考の為全文謹写してみる。
    詔 書
朕登極ヨリ以来亟ニ躬カラ日本皇室ヲ訪ヒ修睦聨歓以テ積慕ヲ伸ヘンコトヲ思フ今次東渡宿願克ク遂ク日本皇室懇切相待チ備サニ優隆ヲ極メ其臣民熱誠迎送亦礼敬ヲ殫竭セサルナシ衷懐銘刻殊ニ忘ルル能ハス深ク維フニ我国建立ヨリ以テ今茲ニ逮フマテ皆友邦ノ仗義尽力ニ頼リ以テ丕基ヲ奠メタリ茲ニ幸ニ親シク誠悃ヲ致シ復タ意ヲ加ヘテ観察シ其政本ノ立ツトコロ仁愛ニ在リ教本ノ重ンスルトコロ忠孝ニ在リ民心ノ君ヲ尊ヒ上ニ親シム天ノ如ク地ノ如ク忠孝公ニ奉シ誠意国ノ為メニセサルハナシ故ニ能ク内ヲ安ンシ外ヲ攘ヒ信ヲ講シ鄰を恤レミ以テ万世一系ノ皇統ヲ維持スルコトヲ知レリ朕今躬カラ其上下ニ接シ咸ナ至誠ヲ以テ相結ヒ気同シク道合シク道合シ依頼渝ラス朕
日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ爾衆庶等更ニ當ニ仰イテ斯ノ意ヲ体シ友邦ト一徳一心以テ両国永久ノ基礎ヲ奠定シ東方道徳の真義を発揚スヘシ則チ大局ノ和平人類福祉必ス致スヘキナリ凡ソ我カ臣民務メテ朕カ旨ニ遵ヒ以テ萬禩ニ垂レヨ此ヲ欽メ
 御名御璽
  康徳二年五月二日

 第1章 総論
 (1)皇紀二千六百年と国民的奉祝
 (略)
 抑々皇紀二千六百年は、何が故に奉祝せねばならぬ乎。我等は第一に我が皇室が万世一系にして神武天皇以来、今上天皇(昭和天皇)に至る迄、百二十四代、連綿として無窮に接し、無極に連なり給ふことを以って、奉祝の第一義とせねばならぬ。

 更に我が日本国は、皇祖の肇国以来。幾多の波乱、幾多の艱難を経過しつつ、いまだ曾っテ1日たりとも、国家の独立を毀損したることが無い。即ち我が内地においては、一塊の土、一個の石さえも、他より奪略せられたる事が無い。これを以て奉祝の第2義とせねばならなぬ。

 更に又た我が大和民族は、本来天孫人種を本幹として、凡有る民族を包容、混合したるも、限りなき皇室の恩恵と、徳澤とに依って、今や醇乎として醇なる大和民族を形成し、未だ曾って其間に民族的嫉視、反目を為すが如きことを見ない。これを以て奉祝の第三義とせねばならぬ。

以上列挙したる如く、皇統の万世一系、国体に金甌無欠、民族の混和一致、この三者は、世界の歴史に全く比類なきものと云はねばならぬ。

「認識証」

2005-11-26 14:10:13 | 反戦基地
           
元俳句仲間のK村さんの訃報を今朝の新聞で知った。普通新聞の訃報欄の記事は、葬儀の前日か前々日に載るのが普通であるが、K村さんの場合、今日が今日である。
これからでは、昔の俳句仲間たちに連絡しても、皆高齢者ばかりで、他人の手を借りなければ、自力で葬儀に参加できるのは何人もいない。結局誰にも相談せずに行くことにした。僕の他に、俳句仲間だった2人が会葬に間に合った。K村さんは行年90歳であった。

 故人はお酒が大変好きだったので、僕とはよく馬が合った間柄であったように思う。
 告別式を終え、さまざまな感情が僕の胸に去来した。会報に載せた旧稿の中から故人を偲び、心からの御冥福をお祈りしたい。


 ――我々俳句仲間は「××俳句会」といって、月1回月例句会とその句作を発表する会報を作っている。目下指導に当たる先生はいない。
その会報には、会員が順めぐりの「一句鑑賞」という互選句の短評欄がある。かつて僕もその欄にK村さんのことを、2回ほど投稿したことがある。

一句鑑賞(平成十五年九月会報より)

 《「人生の生死花火のようなもの   K村」
 これは朋友の死を悼むものなのか、それとも自己自身来し方行く末の詠嘆なのか、それは鑑賞する側の自由であってよいと思う。小生はその後者をとりたい。
 かつて陸軍砲兵将校として、中国大陸、黄河河畔の要衝蒲州攻略作戦など、幾度か死線を越えこられたという氏にとって、夜空を彩る花火は将に人生の縮図に見えたのかもしれない。或いは又、氏が青春時代に失意を味わったことへ追憶だったとも読み取れる。中河与一の代表作「天の夕顔」(天の夕顔の1節に、思いを抱くあるひとに貸し与えた本の栞に、さりげなく認めてあった、

つれづれと空ぞ見らるゝ想ふ人
   天下り来むものならなくに

の建礼門院の恋歌などが、K村さんのこの句から、文学少年だった己の青春時代の頃のことまで思いだしたのであった。

 小生もすでに古希の歳を超えて久しい。最近次々と友人たちの訃報に接する度、ひとりでに、人間の生死について、深く考えさせられることが多くなってしまった。それはまさに花火のように、儚いものである…。》

K村さんがこの僕の駄文をどうお読みになったかは、わからないけれど、次回の句会の冒頭特に発言を求められた。中国戦線にあった往時に思いを馳せたものだった。戦陣の厳しさ、空しさを花火に例えて詠んだ句であることを告白された。

 戦地では「認識証」というものが兵士全員に渡され、戦死したとき、それによって階級や氏名が判別できるようになっていたという。小判型の真鍮製で、自分の「認識証」の実物を持参され、皆に回して見せてくれた。
「陸軍砲兵中尉の階級と、K村さんの楷書体のフルネームが彫り込んであった。
 
 「やがて戦争も末期になってくると、真鍮ばかりでなく、物資は底をついてしまったのでしょう、『認識証』も行き渡らなくなってしまったそうです」とも付け加えられた。(K村さんはそれ以後老衰を理由に退会された)。

中国戦線の戦争文学では火野葦平の「麦と兵隊」があまりにも有名であるが、俳人であり芥川賞受賞作の清水基吉の「雁立」が、次のような文から始まるのを僕も読んだことがある。
 
<慮山のふもとをめぐる戦いは初秋から晩秋にかけて終った。僕は馬の上で芋をかじって激しい急追を続けた。湖をわたって山険に拠り、山を下って秋色のこめた野を横ぎる時も、耳には砲声のひびき死臭の臭いが鼻についた。しかし僕の目には弾煙とまごう中空の白い雲をはっきりと見ることができた。僕はその頃僅かに、雁立つやわれはいずくに年を取る、の一句を作った、それよりも目の前の敵陣地に気を取られていることが多かった。軍は栄州をを去る数里のところで暫らく休戦の状況に這入った。
僕は暇を得ると馬を馳せたが、頭から日覆を垂れたままで、よく馬上で居眠りをした。気が付くと小松の生い茂った丘陵で馬は草を食って止まっていたりした。>

 
 僕がこんなことを句会報に書き綴っていた頃、あるいはその後だったかどうか、日本の自衛隊は大した論議も経ずしてイラクに派遣された。すでに米国の指揮下にあったのかもしれない。
戦争は終結したとはいえ、米軍の死者は2000人を超えたともいう。日本の自衛隊員に一人の死傷者も出ていないのは奇跡に近いと思うのだが、隊員に昔のような「認識証」がいき渡っていたかどうかは話に聞いたことはない。

 勿論自衛隊は軍隊でないのだから、戦死者が出るはずはないし、「認識証」の必要もなく、水野広徳のような反戦軍人の、現れないのも当然であるといえばそれに違いないが…。
 
この平和の日が、一日でも多く続き事を「祈り、再びK村さんに合掌、稿を閉じたい。

創価学会体験学習のすすめ

2005-11-24 22:46:56 | 反戦基地

選挙が近くなったり、或いは選挙の最中になると、拙宅には、創価学会員の方が何回もお出でになる。「公明党候補」への投票依頼、「公明党町議の活動報告」、更には「当選御礼」には候補者本人まで連れて挨拶廻り、「新聞やグラビア誌」の無料配布等もした。

具体的に言えば、昨年(2004年)は町議会選挙に続いて参議院選挙、そして今年の衆院解散総選挙、知事選挙等がめまぐるしく続いた。その間お出でになった創価学会員の回数は、ざっと指折り数えても、20回は下るまい。町議会選挙には、近隣市町村の議員も同伴でお出でになったし、電話での投票依頼は、選挙当日まで続いた。しかも、創価学会への勧誘や折伏などには一言も触れなかった。選挙運動一途であった。他の候補者は、町議選のときだけお出でになったのは、僅か3人、一回きり、名詞を持ち歩いただけである。

特に今回の衆院選では、地方区の自民党への梃入れは凄まじかったともいえる。
それはかつてなかったことだ。
そのほか自民党には「天皇教」も「靖国教」と言う別格宗教がガッチリと付き添っている。
これで自民党が圧勝しないほうが不思議である。

 拙宅の隣家には熱心な「立正佼成会」会員がおられる。前回参議院選挙のときは、佼成会への勧誘にあわせて、異常なほど、民主党への運動が顕著であった。(創価学会への対抗意識を、これほど表したことは、かつてなかった)。

しかし今回の衆院選挙は静観だった。民主党候補への運動は消極的だったようだ。
宗教活動では、このほか「ものみの塔」が、毎週金曜日には幼児を連れた信者の一団が100円のパンフレットとともに、聖書の講義を一くさりしていくが、選挙の話は一言もない。

私は仏教天台宗の「朝参り会」に、毎週土曜日、朝6時からの「読経」に参加しているし、「キリスト友会」(クエーカー・フレンド派)の会友でもある。また「金曜日」などという反戦週刊誌等も、時々は購う。
仏教も自衛隊の派遣には、反対の声明までだし、特にクエーカーは、いかなる戦争も絶対否定する宗教だが、反自民の言葉は一言も聞かれなかった。

 共産党・社民党の選挙対策は、わが町について言えば、何もやらなかったと言ってもいいだろう。□□票の固定票以外は全く伸びない。むしろ減りつつある。党員のマンネリ化で、やる術がなかったのかもしれない。

世間には創価学会というと、闇雲に嫌う人もたしかに多い。しかし町民の何人かに一人は創価学会員だと言う話も聞く。憲法9条を守ることを真剣に考えるなら、共産、社民幹部、議員等は率先創価学会に体験入会し、選挙戦術を大いに学ぶ必要があると思うのだがどうであろう。まして創価学会員の中には戦争反対をお叫ぶ人は多勢いる筈である。



「阿呆宮」から

2005-11-23 09:46:53 | 日録

「新青年」という雑誌に『阿呆宮』なる教養人向けのページがあったのを御存知の方は、まだまだ達者でおられるかと思う(新青年)
知らない東大生がいたとするなら、蛇足かもしれないが、ボクの教養の一端を披瀝しておきたい。
このダイジェスト版ともいうべき「青年傑作選全5巻」立風書房版は、あまり売れ行きがよくないと見えて、大概の古本屋の店頭で見かける。

☆阿呆宮 宮殿の中を覗く。 (著作権問題が生じた場合は直ちに削除いたしますので、ご了承の程)

(趣味のサンジュツ)
  123,456,789
  987,654,321
  123,456,789
  987,654,321
       + 2 
2,222,222,222

(例年により)
今年こそ、禁酒しよう。
今年こそ、勉強しよう。
今年こそ、日記をつけよう。
今年こそ、早起きしよう。
今年こそ、貯金しよう。
今年こそ、麻雀をやめよう。
今年こそ、読書をしよう。
今年こそ、結婚しよう。
今年こそ、しっかりやらう。
去年も、実はさう思ってゐたんですが――。

昭和天皇語録から

2005-11-22 21:55:12 | 反戦基地

講談社学芸文庫に「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀編(講談社)という一冊がある。
その表題の通り、昭和元年、天皇の即位から、昭和60年9月10日、「日航機墜落事故」への感想まで、史上最長だった昭和天皇在位期間の「勅語」「お言葉」或いは新聞その他雑誌等が伝えた天皇の発言の、ほぼすべてのものが網羅されているという。

 編者はその「あとがき」で、
《初めての試みだけに、編者としてはそれなりに神経を使わざるを得なかった。参考文献については講談社を通じ、著者及び著作権者に一応、文書で引用に関して了承を得るという手続き踏んだ。そのうえでペンネーム「由利静雄、東邦彦」を使った。今回、増補文庫版化に際して、編者名は本名にしたが、これは旧版から12年後の現在、天皇論議をめぐる社会的雰囲気が、ペンネームを必要としなくなったと思ったからである》。と記している。

思いば1988年(昭和63年)
当時の本島等長崎市長(保守系無所属)が市議会で、質問に答えて「歴史家の記述を見ても、私自身の軍隊経験からも、天皇の責任はあると思う」と述べたことが発端で、市役所の玄関前には街宣車を何台も並び、拡声器の音量を上げて叫びはじめ、市役所内でも作業は勿論、近くの小学校の授業すら妨げられ、商売には影響するという商店も出てきて、長崎市内は一時パニック状態に陥った。果ては市長身辺に銃弾が飛んでくる騒ぎになったのである。

あれから17年…。その当時から比べると言論はかなり自由になったようだ。しかしまだまだ、天皇の戦争責任問題に関する発言に関する限り、論評はタブー視されているような気がしてならない。皇位継承の論議盛んな折から、この問題も避けて通れないのではないかと思うのだが、まだまだペンネームや匿名を使用しないと差しさわりや、恐怖心があるようである。

[昭和天皇語録から]
* 敗戦に至った戦争のいろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある(20・9・29)

 天皇と連合軍最高司令官マッカーサー元帥の初めての会見が9月27日行われた。会見には通訳として外務省の職員が一人立ち会っただけで、その内容については公式には明らかになっていない。藤田侍従長は、外務省がまとめた会見内容を天皇に届けるさい目にした数少ない関係者の一人。天皇はふつうこの種の文書、メモは閲読のあと侍従長に下げるのが慣例だが、このときはそのまま手元に留めたという。
  


1泊遊山から帰る

2005-11-20 22:05:19 | 日録
 
1泊2日の研修(?)遊山をした。行った先は、奥塩原の鄙びた温泉宿である。
 宿泊の夜は、まさに「カラオケ大会」の観であった。宴会が終わっても、
『この宿には、この後、これといった遊び場は何もありませんから、「カラオケ」は何時までやっていても、一向構いません』という宿からのお達しだった。
お言葉に甘え、随分遅い時間まで、歳甲斐もなく騒いでしまったようだ。

翌朝目を覚まし、部屋の窓を開けたら、外はうっすらと雪が降り積もっていた。流石に朝の露天風呂に入る人は無かった。
宿のオーナーは創価学会員らしく、フロントには「創価新聞」と「下野新聞」しか置いてなかった。

9時半に宿を出発、奥塩原の宿から日塩道路を下った。紅葉もまだ残ってはいたようだったが、それよりも見事だったのは今年初めて見る雪景色である。

日光街道で、1350円也の高級「餃子」昼食となった。老人らにはその量は食べきれず、半分はパックに詰めてもらって持ち帰った。

天皇陛下お買い上げとの「たまり漬」の店で、こんなものを陛下がお召し上がりになるのかどうか、疑問に思ったけれど、目黒のサンマのことなどを思い出して、皆さん土産の「漬物」を山ほど買い込んで帰途についた。

帰宅後、留守中のブログの空白が一番気になる。
古い手帳を覗いてみたら、聖書の1部がメモしてあった。(前に書いた昭和59年の手帳による)

マタイによる福音書
18章12
「(略)あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(13節)はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。(14節)そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の心の御心ではない。」
=新共同訳

「(略)汝等いかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ぬるか。(13節)もし之を見出さば、誠に汝らに告ぐ、迷はぬ九十九匹に勝りて此の一匹を喜ばん。(14節)斯くのごとく此の小さき者の一人の亡ぶるは、天にいます汝らの父の御意にあらず。=日本聖書協会舊新約聖書

特に意図があって、今日のブログに書き記したわけではない。
グログタイトルの「概要」欄を月毎に代えてみたい筆者の気まぐれによるものである。



ある耳鼻科診療所にて

2005-11-17 16:27:39 | 日録

耳鳴りが激しく、K耳鼻科に行く。今日は男の先生なり。外来患者客数きわめて多し。
この耳鼻科医院のご夫婦は、男の先生が院長・女の先生が副院長で、日替わり日直で診察に当っている。以前は、お二人が毎日ここで診察を行っていたのだが、隣市の駅前ビル内に別支診療所を設けたため、院長・副院長が交代で双方の診療所の患者を診ているのである。

 ここの1箇所の診療所だった頃は、蓄膿症や、中耳炎患者等の手術も行って、診察室の2階には数組の入院患者が絶えず入院していた。私も鼻茸の除去手術で2週間ほど、お世話になったことがある。
今は手術を要する患者は、総合病院に紹介するのであろう、入院患者はいない。

名医の名声が高く、診療所前の駐車場には車が置ききれず、道路にまではみ出し、遂には第2駐車場まで設けたこともある。僕は、診察を受ける時、近くに住んでいる友人に、早朝に行って診察券を受付用のポストに入れて貰い、順番を取ったものであった。

 耳鼻疾患の患者は、小児や難聴の老人が多い。また昔はなかった、花粉症に悩む患者もある。だから夏休みや、長期休校の期間になると、玄関先の靴脱場は、置く処がないほどの履物で埋まる。その乱雑な履物の脱ぎ方も、この診療所ならではの風景である。

ただここでの診察は、男の院長先生は非常に優しいのに反し、女の副院長は少々手荒である。鼻腔・耳穴・喉に、鉗子や金属棒やヘラなどを使って、中をかき回すのであるから、小児の反応はきわめて敏感だ。大人の場合は手荒なほうが、医者にかかったような気分がするなどと、わざわざ女先生を選ぶ人もいるが、小児連れの母親たちには敬遠されている。だから隔日ごとに患者客数には大差がある。

その日は土曜日で、受付は11時で締め切られるのに、待合室は満席だった。備え付けの書棚には、下半分は、小児向け絵本、その上部が一般書籍が置いてある。週刊誌はない。 
僕はここで時間がある時は、椎名誠の本が数冊あるうちから、「ロシアにおけるニタリノフの便座について」という「バカ話」を読むのが通例であった。(この本も1978年頃の発行で「万年筆のいのち」などの章があった。この頃の物書きは万年筆で書いたんですねぇ)
)。今日はその本が見つからなかった。

目に付いたのは、『自虐史観』藤岡信勝 文芸春秋 の1冊だった。
即座に「新しい歴史教科書をつくる会」に関係がありそうな本とみた。

案の定、本の冒頭、まえがきの部分で、こう述べてあった。(帰り本を借用してきた)。
「期限は特にありませんから、ゆっくり読んでくださって結構です。でも、難しそうな本ですね」女事務員は、僕と本とを見比べてそう言った。

《自国民を人類史に例のない残虐非道な人間集団に仕立てあげ、自国史を悪魔の所業の連続のように描き出す。自国にムチ打ち、呪い、ののしり、糾弾する。そういう歴史の見方、精神的態度を「自虐史観」と呼ぶことにする。

「自虐史観」は、戦後日本社会、とりわけマスコミと教育界に取り付いた病気である。宿痾である。増殖するガン細胞である。この病気を取り除かなければ、日本は健全な国家に生まれ変わることが出来ない。》

 この文を読んで、すぐお感じになる方も多いと思うけれど、筆者は「新しい歴史をつくる会」執筆者の一人である。

 僕がかつて、ここに入院した頃、入院室のある2階の廊下には、先生が学生時代に読んだと思われる、マルクス・レーモンの類の本や、左翼系の書籍のいっぱい入った書棚が置いてあった。医学書はあまりなかったような気がする。

 「毛沢東選集」発売・東方書店(1972年)が、4冊並んでいたのを、今でも覚えている。第4巻のみが赤い表紙カバーがついていた。

 過日偶然その頃の入院時の手帳が見つかった時、それをコピーして先生に差し上げたら、腹を抱えての笑いとなり、大いに喜ばれた。診察を受けるたび当時のことが話題になる。
 入院12日間の毎食時のメニューを、図解入りで綿密に記してあり、解説付である。窓外の庭の佇まいのスケッチやら、先生や看護婦への短評(悪口に近い)なども見かけられる。勿論万年筆で書いたものだ。
何しろ、それは昭和59年4月の手帳なのである。



天皇の人間宣言

2005-11-16 21:33:55 | 日録

昨日の朝は雨だった。パソコンに向かって「ブログ」の下書きなどを作っていると、妻がオレの部屋に来て、いきなりテレビを点けた。天皇家の長女、紀宮清子さま(36)と東京都職員黒田慶樹さん(40)の結婚式が11時からある。オレの部屋は暖房が利いて暖かいのを狙って、このテレビ中継を見るつもりだったのである。 

オレは、数日前の夕方のテレビニュースで『朝見の儀』を見たばかりである。その現実離れした、人間離れの世界の催しものを、執拗に追う報道姿勢をあまり宜としない。天皇一家といえども、プライバシーがある筈と考えていた。見たくもないから、オレのほうから部屋を名誉ある撤退をした。
 
皇太子が昨年5月10日、ヨーロッパ3カ国訪問に先立って、東宮御所檜の間で開かれた記者会見の席上で、「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」。たったそれだけの言葉で、会見場は一瞬、時間が停止したかのようであったという。これだけの発言が異例中の異例だったのだそうだ。

 この発言は直ちにテレビで放映され、どのような評価かは別として、全国、いや世界に拡がる驚きを高じさせた。週刊誌は競ってセンセーショナルに騒ぎ立て、外国のメディアも大きく取り上げ、月刊誌も特集を組んだのである。

 こんどは三笠宮寛仁殿下の「ひとり言」発言である。皇太子殿下の発言よりは、反響は少なかったかもしれない。殿下は皇統継承権第7位(皇族のひとりごと)の故もあるだろう。

殿下は、この中で、『万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外もなく、「男系」で今上陛下まで続いている厳然たる事実』と指摘され、さらに、『陛下や皇太子様は、御自分の家系の事ですから御自分で、発言されることは出来ませんから、民主主義の世であるならば、国民一人一人が、我が国を形成する、「民草」の一員として、2665年の歴史と伝統に対し、きちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、日本国という、「国体」の変更に向かうことになりますし、いつの日か、「天皇」いらないという議論にまで発展するでしょう。』と述べられたという。(朝日の記事から)

しかしオレはいい歳をしながら、皇室や天皇家の制約については、これまであまり知らな過ぎた。「自分の家系」のみならず万事が一切合切ご自分の意見は述べられない冷酷な宿命を負わされているのだ…。

 改めて昭和天皇が終戦の直後、最初の年頭に当たり賜られた勅語の一端に思いを致さねばならなかった。

《朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依ヨリテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現人神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。(21・1・1)》
民草の一員として、歴史を後退されてはいけないと思う。

三種の神器

2005-11-15 09:34:14 | 日録

 小生が携帯電話を持った年月は、調べてみないとよく分からないけれど、比較的他人より早かった方ではなかったかと思う。概算10年以上は経つ。

出先の車との連絡に、無線などを使って交信した時代以前から持っていた。トラック運送という健気な生業であった為、電話なしでの生活は考えられなかった。絶えず顧客や、従業員である運転手たちと向い合っていなければならない商売だった。何処へ出るにも、トイレや風呂場にまで持ち込んだで用を足した。今考えると因果な商売だったとしか言いようがない。
 
 商売をやめて携帯電話は全く不必要になってしまった。今日、携帯電話の機能は、想像以上にアップしているので、脳味噌劣化防止の意味からも、弄ってみたい気は大いにはある。今のヤツでも、一応メールの機能ぐらいは付いてはいるが、ボタンも文字も小さすぎる。それには新型に買え替えねばならぬ。その金額も致命的だし、何よりも使用の対象が定かでなくなってしまった。

 商売の業種こそ違うが、同じような境遇の友人が一人いる。彼も携帯電話を持っていて、ここ暫らく全く使っていない。それでも基本料基金だけは確実に預金口座から天引きされるとぼやいていた。

 小生が解約しようかどうか迷っていた矢先、その友人が、一足先電話料金が勿体ないから、とうとう携帯電話を止めてしまったと言って遣した。

 「小学生ですら持っているいまどき、携帯電話を止めるなんて、珍しい」と店員に言われたそうだ。こちらの年齢を慮ってか店の係員が「”三種の神器〟みたいなもの」とも、古風な表現を使って言っていたと笑っていた。 
 
 皇位継承問題が取り沙汰されている折でもあるが、小生はまだ「皇室典範」を1度も読んだことがない。聞く所によると、現在の皇室典範では皇位継承に際して、この異体の判らない3種の神器の継承が明記されているという。

「三種の神器」とは何を指すのかは、遥か半世紀以前に小学校で暗記させられたのを今でも覚えている。
 念の為広辞苑を引いても「八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉」で間違えはなかった。そのことだけしか書いてなかった。

 何か派出語がありそうな気がしたので別の辞書を開く。
 《そろえれば理想的であるとされる三種の品物。昭和29年(1954)頃から言われ、当時は電気洗濯機・真空掃除機・電気冷蔵庫を指した。》大辞泉(小学館)とあった。

 妻の解説によると、三種の神器は、最初が「白黒テレビ」「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」で、やがて
 「カラーテレビ」「クーラー」「カー」になり「3C」と言われた記憶があるとの事だった。
 このように三種の神器的価値はその時代によって変遷した。

 戦争放棄を決めた憲法第9条を変えようという動きで、その理由のひとつに、すでに、この条文は死文となっているという意見がある。

三種の神器と言う言葉自体も、すでに死語になってしまったようにも思えるのだが、これぐらいの意見は皇室自体にあっても当然ではないだろうか。 

さて俗にいわれた三種の神器のうち「携帯電話」は理解できたとしよう。後の2つは何を指すか?

 妻に諮ったら、わが家の三種の神器は「お酒」、「パソコン」、「広辞苑」だそうで「携帯電話」は入らなかった。
 
 


朝見の儀

2005-11-13 10:55:42 | 日録
昨夜、6時のテレビニュースで紀宮さまの「朝見の儀」の放映があった。しばし王朝絵巻の世界に入ったような錯覚に陥った我ら家族3人全員は、テレビ画面に釘付けされてしまったのである。

広辞苑によれば、臣下が参内して天子に拝謁すること(朝見)、天皇の踐祚の群臣を召して勅語を給う儀式(朝見の儀)。とある。

今回の場合は、ふるーい、大言海の記述にこれを当て嵌めて、「結婚式(大儀)を15日に挙げる時、紀宮さま及び(百官)が天皇御前に謁して、その儀のお言葉(勅語)を承る式」と解釈したほうが適切かもしれない。

 天皇陛下のお言葉は口語調ではあったけれど、まさに淡々と読む「勅語」のような響きがあり、皇后陛下のそれは、PTAのおかあさん型の「話しかけ調」で諭されたが、それもヤッパリ儀式語の羅列で、人形劇のセりフに近かったように思う。
何よりも肩にかけた勲章が気になった。

 寛仁様の随筆が取り沙汰されているおり、手元にあった殿下の旧著(皇族のひとりごと1977年二見書房)をパラパラ拾い読みしたばかりである。
殿下は、こんなことをお書いておられた。

《これはつねに問題にされるポイントだが、私はまさに民法などでいう相殺になっていると感じる。不自由さをあげつらっていれば、前に書いた皇室典範等々の法律にしばられているし、法律はなくとも慣習上つねに見られている存在である。ことごとくマスコミに書きたてられ、行きたい場所にいつでも行けるわけでもなく、また政治にはノータッチとか、営利を目的としたビジネスはできないとか、たくさんある。

 その逆に、例えばわずか三十歳の若造が、十余りの会を動かし、福祉のための寄付などを楽々と集められ、全国で講演会を依頼され、マスコミを利用することが可能である。

だいたい作家というものは長い下積みの生活の後に成功の道があるわけだが、私のごときはすでにこの随筆集で二冊の出版を下積み(本を書くという意味において)なしに出せるなどいうことは、これはもう皇族であるがゆえに可能であることはまぎれもない事実である。(略)》「皇族の自由と不自由」の章より

兎にも角にも、我らは、貧しいながらも、奔放なイバラキ弁で口もきけるし、夫婦喧嘩も派手に出来る自由の喜びを、改めて噛みしめたのである。
雅子妃殿下がご病気になったお気持ちを垣間見たような気がした。

 今日のニュースは、東京町田市で都立高校1年生の女子生徒が殺害された事件も長時間放映された。数分間の沈黙が終わり、妻がため息と同時にテレビのスイッチを切って今日一日が終わった。

その後はしずかなわが家の「晩酌の儀」と相成るのである。
 「造り」には、スーパーの夕市で仕入れてきた1匹25円也の秋刀魚が載っていた。


岡山の土産

2005-11-12 15:24:20 | 日録

娘が岡山に3泊4日の旅をして帰ってきた。
岡山県は地図上では、広島県と兵庫県に挟まれた辺りに位置する程度の知識しかないが、県内に小生の苗字と同じ地名の町があることだけは知っていた。

 東京にお住まいの同姓の方が、『T.姓氏考』という著書を出版され、同姓の役得で1冊頂戴したその記事による。
姓のルーツを全国各地から「T」の名前の付く地名を拾い集めて、1説をなした研究書で、T地名は、宮城県刈田郡S町、長野県南佐久郡U町、岡山県真庭郡、など等、22箇所に及ぶが、岡山県の場合以外大きな地名は無く、せいぜい現在の大字程度であるという。

 又歴史上に現れたわが姓は、①続日本紀・万葉集、公卿補②日本後紀③承久記④陰徳太平記・安西軍策)等に見られ、最も身近な例は天智天皇にまで遡る。

 そのいわくあり気な岡山の地から、小生と、娘が日常お世話になっている茶の湯の先生に、お酒のお土産を買ってきたというのである。この先生はお酒について非常に喧しい方だというので、多少その嗜みのある小生に見てもらってから、差し上げる積りだったのであった。

 「辛口のを」と店のご主人に頼んだら、仙台の「浦霞」を示されたそうである。
 「岡山のお土産にしたいんですから」というと、
 「岡山のお酒は皆甘口なんですよ」と「大典白菊 備州」をお薦めで買ってきたという。話を聞くと大分正直そうな方のようだ。(岡山の酒)

 岡山県は酒処兵庫県灘地方や、広島に著名な酒蔵が近い関係で、県内にはあまり知られた酒蔵は少ないと日本酒の何かの本で読んだことがある。
しかしながら、灘から買って来ましたと言って「月桂冠」や、「劔菱」あるいは広島の「賀茂鶴」では、先生決して喜ばれないだろうから、
 「まあこれで良いだろう」と言っておいた。

 更に、宿から「山陽新聞」を頂いて来てあったから、その新聞紙に包んでいけと娘に注文を加えておいた。
 


東条首相の獅子吼

2005-11-10 20:11:26 | 怒ブログ

三笠宮寛仁殿下の《「女系天皇に異論」三笠宮寛仁さま随筆で「ひとり言」》を朝日新聞記事で読んだ。

かつて殿下の著書《「皇族のひとりごと」株式会社 二見書房 昭和52年1月14日初版発行》は稀に見るエッセーで、皇族様も同じ人間なんだなぁと、感慨深く読んだものだった。
正直云って、今度の発言にはがっかりした。

《「古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統がある故に、現在でも大多数の人は、『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として敬って下さっている」と述べ、皇位継承の男系主義を崩すと「いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展する」と危機感をにじませている。》と述べられているのである。(朝日新聞)

昭和□桁生まれのボクは思わずタイムスリップしてしまった。

東条首相が登場したのである。(この演説稿は「復録版昭和大雑誌 戦中篇」に拠った)

大東亜戦争一周年を迎えて
                  内閣総理大臣 東条英機
 昨年12月8日、畏くも宣戦の大詔を煥発あらせられ、米英両国と干戈を交ふるに至りましてより、早くもここに1周年を迎へることとなりました。

顧みますれば、あの日、大詔を拝しましたる我々1億の臣民は、斉しく恐懼感激に堪へず、各々その全力を捧げて尽忠報国の誠を致し、誓ってこの前古未曾有の大戦争を勝ち抜き、以って宸襟を安んじ奉らんことを堅く肝に銘じたのでありまするが、今ここに、1周年の記念すべき日を迎へ、この間、素より多事多難なりしとはいへ、光明に輝く戦局の前途を想いたしまして、真に欣快に堪えざる次第であります。

既に御承知の如く、わが陸海軍におきましては、御稜威の下、陸に海に空に世界の未だ嘗て見ざる豪壮なる大作戦を展開いたしまして、善謀勇戦、到る処に赫々たる大戦果を挙げ、戦前米英及びその与国が、頻りに武備を増強して帝国を脅威せんとしてをりましたところの、東亜における彼らの所謂包囲陣は悉く撃砕され、今やその広大なる諸地域はわが占領下にあり、しかも建設の槌は丁々と各地に打ち響いてゐるのであります。

而して、わが占領下に在る諸地域の原住民は、久しきに亘る米英蘭の暴政より救出せられ、普く皇恩に浴すると共に、喜び勇んで皇軍に協力し、それぞれの地位に於いて、大東亜共栄圏の建設に現に貢献しつつありますることは、世紀の一大壮観でありまして、これ偏に八紘を宇とし、各国各民族をして、各々その所を得せしめ給ふ御聖徳の賜物と、唯々恐懼感激に耐えないところであります。 

私はここに、御稜威の下、かくのごとき短期間に、かくのごとき大戦果を挙げ、いよいよ豪壮なる作戦を続けてをらるる皇軍の将兵の御奮闘に対し、また之と呼応して雄渾なる建設に従事してをらるる軍官民の御努力に対し、深甚なる敬意と謝意を表する次第であります。

而してこの間護国の鎮めとなられましたる 幾多の英霊に対し、謹んで敬弔の誠を捧ぐると共に、御遺族の方々並びに不幸病を得てしかも再起奉公を誓いつつある幾多傷痍の勇士に対し、満腔の同情の意を表するものであります。
   〇
抑々大東亜戦争は、今更申し上げる迄もなく、貪欲限りなき米英両国が飽くまでも東亜の天地を自己の制圧下に置き、搾取を恣にせんとする非望にその端を発したのでありまして、東亜の諸民族は長年彼等の暴虐の犠牲となり、その文化は破壊せられ、その生活は悲惨を極めたのであります。帝国は善隣の誼を厚うし、大東亜の安定を図らんと多年懸命の努力をいたしたのでありまするが、米英両国は、或いは蒋政権を使嗾して故なく帝国に抗争せしめ、或いは与国を誘うて帝国の四辺に武備を増強し、或いは経済断交を敢てする等、手段を選らばず、あらゆる脅威妨害を我に加へてその野望を達成せんとしたのであります。しかも帝国が飽くまで隠忍自重、事を平和の中に解決すべく、一意外交交渉に努力を傾くるや、彼等は之を持って与し易しとなし、益々暴慢なる態度を加へ来り、大東亜の安定に関する帝国積年の努力を、全く水泡に帰せしむるのみならず、帝国自らの存立をすら将に危殆に陥れんとしたのであります。 

万策ここに於いてか終に尽き、帝国は自存と権威とのために、断々固と起ち上がったのであります。帝国は自らの存立を全うすると共に、帝国とその運命並びに福祉を共にする大東亜に永遠の平和を確立せんがため、蹶然として、米英の野望を粉砕し、盟邦諸国と相携へて、世界人類の幸福に寄与せんとして立ち上がったのであります。徒に物質文明に依存せる迷妄を排し、御稜威の下、万邦をして各々その所を得しめ、兆民をして悉くその堵に安んぜしめんとする肇国の大理想を世界に顕現せんとする正義の師を興したのであります。

然るに敵米英におきましては、或いは自由の為の戦いといひ、或いは民主主義防衛の為の戦いといひ、今尚戦争の目的すら帰一するところを知らざる有様であります。

而してその根本観念において彼等米英は、自己を世界最優秀の民族なりと自負し、幾億の他民族を犠牲にし、恬(てん)として恥ぢず、彼等のみ最高の生活と文化を享楽する当然の権利ありと主張してをるのであります。戦争目的の相違するところ既に斯くのごとし、神明の照覧し給ふところ、勝敗の帰趨は自ら明らかであります。

即ち一度戦端を開きまするや、皇軍の向ふところ敵なく、わが陸海軍は忽ちにして各地に大戦果を挙げ、銃後亦愈々その護りを堅うし、かくして前線銃後渾然一体となり、着々として必勝不敗の態度を強化しつつ米英撃滅の総進軍をつづけてをりますることは、恂に御同慶に堪へないところであります。

   〇
 過去1年の戦果真に赫々たるものありとは申しながら、素より戦争の現段階は尚ほ未だ緒戦に過ぎないのであります。本格的の戦争は実にこれからであります。

敵米英におきましては、開戦劈頭の惨敗を挽回すべく今や躍起となって努力を続けてゐるのであります。特に米国におきましては、或いは徴兵制度を拡充し、或いは民需生産を極度に制限して軍需生産の急速なる増大を図る等手段を尽して、頻りに戦力の増強を策し、以って我に反撃せんとしてをるのであります。従って、潜水艦による我が海上交通の妨害や飛行機によるわが大都市の空襲等は、益々大規模に行わんと企画するは当然覚悟しなければならない問題であります。

素より寡克く衆を制するの伝統に生きる帝国と致しましては、敵の如何なる方策に対しましても、何等恐るるものはないのであります。飽くまでも攻防自在の戦略的態勢を拡充しつつ米英を撃滅すべき満々たる必勝の確信を有するものであります。

但し、勝軍には油断は大敵であります。敵を軽視することは大禁物であります。即ち必ず勝ち抜く為には、帝国はこの上とも総てのものを戦勝の1点に集中して、益々戦力の増強に努力しなければならないのであります。一億国民は堅き結束の下に、お互いに助け合ひ心を一つにしつつ、或は兵器や船舶の増産に、或は燃料や鉱物の増産に、或は陸海の輸送に、或は国民貯蓄の増加に、その他戦力発揮に欠くべからざる方面に全力を傾けて国家の要求を充たさねばならないのであります。

私はしばしば全国各地を視察いたしまして、工場に農漁山に、鉱山に港湾に、いたるところ、老若男女を問はず、国民諸君が真剣に活躍しつつある様子を目の当たり見、また、転廃業の困難なる問題に直面した諸君が、勇躍国家の要求に応えつつある姿に接し、而してまた国民諸君が万難を排して莫大なる貯蓄増額に邁進しつつある実情に触れ、深甚なる敬意と、謝意とを表するものであります。

今や我々一億国民は大東亜10億の諸民族の指導的立場にあるのであります。我々の伝統は質実剛健を旨とし大東亜諸民族に先んじて先づ憂ひ、楽しみは後れて之を楽しむことを以って当然のことといたしてをるのであります。敵米英におけるが如き独善的個人主義、物質的享楽主義は我々の祖先の知らざる所であり、我々の倫理の書に見当たらざる文字であります。

私はこの上とも一億一心、全国民が一人残らず日常生活を極力簡素強力にし、幾多の困苦欠乏に耐へ忍び戦力増強に挺身せられん事を切望して已まないものであります。

    〇
 戦ひは正に之からであります。古今の史実に徴するも戦争は実に意志と意志との戦ひであります。頑張り合ひの争ひなのであります。一億一心、堅忍不抜の意思を持って真に団結を固うして事に当たりまするならば、如何なる場合に於いても勝利は必ずわが手に在るのであります。我らの祖先は斯くの如くして皇国を護り、斯くの如くして燦然たる二千六百有余年の歴史を築き上げて来たのであります。歴史は死んだ過去の記録ではありません、生きた生命も流れであります。

 今や我は正義の師を興し、彼は利欲の戦を戦ってゐるのであります。昭々乎たる神明の加護の下、正義は常に我と共にあり、我等は断々乎として米英を撃砕し、もって大東亜戦争の目的を完遂せざればやまざる不動の信念をもってゐるのであります。

 敵の物質的富強の如きは何ら恐るるに足りませぬ。若し恐るべきものありとすれば、それは内に在るのであります。即ち帝国の直面する重大なる現時局に対しその認識を誤り、心身の練磨を疎かにし、生産の増強を怠り、一億一心の団結を乱ることであります。われら一億国民、日々その心身を練り、各々その職域に精励し、国家の総力を挙げて外敵に当たりまするならば、如何なる強敵も敢えて恐れることはないのであります。大東亜戦争の前途素より多事多難を予想せなければならないのでありまするが、勝利は絶対に我等のものであります。

 畏くも宣戦の大詔には『汝有眾ノ忠誠勇武ニ信倚シ』と仰せられてをります。大御心のほど拝察し奉るだに誠に恐懼感激の極みであります。私は国民諸君と共に、心を尽くし、身を竭し、飽く迄も頑張り通して、誓って大東亜戦争を完遂し、もって宸襟を安んじ奉らんことを、ひたすら念願するものであります。(をわり)
-『日の出』昭和17年12月号所載

海野十三について

2005-11-08 09:43:10 | 反戦基地
 
 「太平洋魔城」「浮かぶ飛行島」「怪鳥艇」など、丁度あの頃の読者少年たちにとって、はらはらさせる場面で次号に続く、迫力に富む、痛快極まりない連載科学空想小説であった。樺島勝一の挿絵がまたすばらしかった。(樺島勝一)
次号が待ち遠しかった記憶が、いまでもはっきりよみがえってくる。
ボクらの少年時代の、「少年倶楽部」とはこういう雑誌だった。しかも、買え与えてもらえる少年(子供)は数少なかったのである。殆どいなかったといってもよい。

「少年倶楽部」は小学生が読む雑誌で、中学生になると読むのは恥ずかしかった。実際は、子供の親たちも読んでいたのではないかと思う。
今読み返すと、小学生では、読むこと、理解すること自体、疑問符がつくような気がする文章であるけれど、覚えがあるのだから、読んだことには間違えない。

余談だが、やはり「少年倶楽部」連載で、後単行本になった山中峯太郎「亜細亜の曙」を小学6年の時担任の先生(今なお存命中)が、自習時間中、ボクら児童に読んで聞かせたことがある。朗読法がまずかったのか?あまり面白くなかった。
やたら出てくる、「日東の剣侠児・本郷義明」を強調して読むのが、キザだった。
後日お金持ちで、教育熱心だった親を持つ、友達にこの単行本(本など買って貰えたのは彼一人だった)を、借りて読んだら1日で読み終えてしまった。
 
 海野十三を書く積りだった。つい思い出に耽って、横道にそれてしまった。

 終戦になってボク等は、動員学徒生活(海軍航空廠に動員された)から再び中学の学窓に戻った。学校のかえり道本屋の店頭で、雑誌を立ち読みした。
丘丘十郎という作家の「地球発狂事件」というSFが、ひときわ目にとまった。今でいえば、毎年税務署から年末に送ってよこす、年末調整のマニュアルみたいな体裁だったかな。それもホチキスで綴じてもいない、藁半紙を折りたたんだだけの冊子だったのだ。
 それが月刊雑誌だったのである。
 丘丘十郎が海野十三であることは知る由もなかった。

 この海野十三なぜか今見直されている。三一書房から、海野十三全集が出ているし、桃源社からも選集があり、中公文庫にもなっている。(敗戦日記) 敗戦の頃のボクたちの考えはこの「敗戦日記」に殆ど近かった。
 この日記にしばしば出てくる、杉本五郎中佐「大義」(平凡社)は今も私の手元にあるが(大義)この神がかりとも思える冊子を読み返してみて、改めて戦争の愚かさ、天皇の責任に思いをいたすのである。
  


死刑と敵討

2005-11-05 21:15:08 | 怒ブログ
 
1日の朝。旅先のホテルのロビーで、読売新聞を見た。
小泉改造内閣で就任したばかりの杉浦正健法相が、就任後の記者会見で、死刑執行について「(命令書には)サインしない」と表明したことがとり上げられてあった。
 
敵対関係の亀井静香が、死刑廃止論者だったのを直ちにボクは思い浮かべた。小泉もなかなかやるなと、感心した。何故か朝日新聞にはこの記事は載らなかった。
朝日がとりあげたのは2日の朝刊「天声人語」と、第2社会面である。

 天声人語
<(略)▼小泉内閣で法相に就任した杉浦正健氏が、死刑執行について、命令書には「サインしない」と記者会見で述べた。以前、佐藤恵法相が、僧職という立場から署名を拒否したことがあったが、杉浦氏は弁護士資格をもち、衆院の法務委員長も務めた。しかし、約1時間後には「個人の心情だった」と撤回した▼信念に基づく発言かとも見えたのだが、すぐにひっくり返ったのはなぜなのか。犯罪被害者や、命令を受ける立場の人たちの思いも大きく揺さぶられただろう▼命令にサインするかどうかを判断するのは法務大臣だが、それを委ねているのは国民だ。法相の悩みと無関係ではない。>

第2社会面
<「死刑執行せぬ」すぐ撤回
   杉浦法相「個人の心情」
杉浦正健法相は、就任後の記者会見で、死刑執行について「(命令書には)サインしない」と表明した。しかし、約1時間後に「発言は個人としての心情を吐露したもので、法相の職務の執行について述べたものではない」と発言を撤回するコメントを発表。1日午前の会見でも改めて「私個人の心情」と強調した。

弁護士出身の杉浦法相は、31日の会見で「私はサインしません」と言明。浄土真宗の門徒であり、「私の心の問題。宗教観や哲学の問題だ」と理由を語った。

ところが、1日未明になって、法相から「サインをしたくないという趣旨であり、説明が足りなかった」と法務省に連絡があり、撤回騒ぎとなった。

杉浦法相は1日の記者会見で、撤回した理由について「(深夜の)会見の後、あの部分が気になった。発言が独り歩きしてはまずいと思った。表現が適切でなかった」と弁明。「サインをしない」という当初の発言については「他人の命を奪うということは、理由のいかんを問わずゆるすべからざることだという気持ちが根底にある。殺人を犯した人でも、一人の人間であるあることことは変わりない」と述べた。

ただ、実際にサインをするかどうかについては「法の執行にあたってはあらゆる要素を加味して厳正に対処しなければならない。個人の心情で動かされてはいけない」と語った。

死刑確定囚は10月28日現在で77人。最近はねんかんで数人の死刑が執行されている。>

ボクは勿論死刑は反対である。昔の敵討を思い出してならないからだ。

  敵討ち
<ひろくは報復と同義に用いられるが、厳密には殺されたものの近親者が、殺害者を殺すことによって報復を遂げることをいう。殺害者に対する制裁を私人に委ねる私刑罰の一つで、日本では江戸時代にさかんの行われ、制度化されるにいたり、俗に仇討、意趣討とも呼ばれたが、幕府法では敵打と称した。

【敵打の法制】敵内の法制について知りうる最古のものは、15世紀後半の室町幕府法で、かたきを討ったものは死刑にされている。それが各大名の分国法になると許されるようになり、1597年(慶長2)の<長曽我部元親百個条>は親と兄のかたきを打つことを認め、江戸幕府もその初期から、敵打を合法的なものとみなした。

しかし江戸幕府は公刑罰主義を原則としていたから、私刑罰である敵打には制限が加えられ、一定の要件のもとで許されていた。敵を打つことが出来るのは、主人、父母、伯叔父、兄、姉、しゅうと、しゅうとめ など目上のものが殺された場合にかぎられ、目下の場合は普通の裁判により、敵討の場所にも制限があって、宮中、江戸城内、芝、上野の山内は避けることになっていた。

敵討の手続きは武士ならば主君の許可を得て免状をうけ、さらに幕府の公儀御帳
に登録して、その謄本をうけることが必要であった(庶民も武士とほぼ同じ手続きで敵討をすることができたが、なかなか許可されなかった)。かたきを発見したときは、その地の領主を通じて幕府に届け、幕府の指令が出ると、領主は場所を指定して勝負させた。かたきに出会ったとき、ただちに勝負しても良いが、打ちとめた後役人の検視を受けねばならない。幕府は検視の報告を聞き、合法的な敵討ならば討手を本国の領主に渡した。

討手が返討にあって、かたきに殺されると、討手の近親者が再度の敵討をしたり、打たれたかたきの近親者が討手を複(また)敵(かたき)として敵討ちすることも行われていたようだが、のち法律では禁止され、合法的敵討ちでは、討手もかたきも殺人の刑事を負うことはなかった。又討手をたすける助太刀も許されていたが、幕府への届出が必要だった。敵討は明治初期になっても行われ、仮刑律、新律綱領もこれを許していた。1873年(明治6年)2月、復讐禁止令が公布されたが、4月には祖父母、父母の殺されたとき子孫が即時に加害者を殺す場合にかぎり無罪とし、これが改訂律令にも引き継がれた。敵討が全面的に禁止されることになったのは、1880年(明治13)の旧刑法においてである。>世界大百科事典 平凡社

こんな身近な例もある。いずれも朝日新聞記事。
<当時3人少年人に死刑4人殺害で控訴審判決
94年に大阪、愛知、岐阜の3府県で少年グループに計4人が命を奪われた連続リンチ殺人事件の控訴審で、名古屋高裁は14日、殺人罪などに問われた3被告=犯行当時18~19歳に求刑通り死刑を言い渡した。川原誠裁判長は、1被告を死刑、2被告を無期懲役とした一審判決を「事実誤認がある」として破棄。「4人の生命を奪った結果は重大で、➂被告の役割に差はない」と量刑の理由を述べた。
最高裁によると、犯行時18歳だった少年に対する死刑判決は36年ぶりで、統計のある66年以降、同一の事件で複数の少年に対する死刑判決は初めて。
 弁護団は上告する方針とみられる。(10.15)

          ◇
 佐賀県で起きた3人の女性殺人事件で、佐賀地裁が、元運転手の男性に3件とも無罪を言い渡した。
 求刑は2件については死刑、1件が無期懲役だった。検察が死刑を求刑した事件の一審で、無罪判決は41年ぶりだ。
 判決は「どの証拠も殺害したことを直接裏付けるものではない」と述べた。そこから浮かび上がるものは、それほど弱い証拠でなぜ逮捕し、起訴したのかという疑問である。(5,12)>


無料廃棄本嬉遊譚

2005-11-04 11:44:10 | Weblog
昨日の文化の日、午後3時から図書館前で、不要として廃棄する図書、雑誌、絵本などを一般人に無料配布になるイベントがあった。小生の知る範囲では、よほど以前から毎年行われていて、これまでも気がついた時はそのたび参加してきた。当日はすぐ側にある体育館・公民館内で芸術祭として、一般町民の書、画、写真、陶芸、手芸、盆栽展等が開かれているから、その見物を兼ねての所用である。

定刻30分ぐらい前から図書館前に長蛇の列が出来た。
小生は先ず14番の整理券を頂いた。一人5冊なので、やや時間を置いてから又列に加わり、3回並んで15冊の配布を得た。2回目は172番 3時近くになると、フリーパスとなった。
勿論小生は、そうしても良いのかどうか確めてから、行列に加わったのである。

思いがけない本が手に入った。しかも今年は廃棄済の紙片も貼ってないし、パンチも打ってなかった。小生にとってはまさに掘り出しもの市に参加した気分であった。

・復刻版大正大雑誌
  吉野作蔵・大山郁夫・与謝野晶子・レーニン・ウエルズ・内田良平・小山内薫・有島武郎・芥川龍之介・大杉栄・西田幾多郎・宇野浩二・大隈重信・後藤新平・新渡戸稲造・島村抱月・浮田和民・高浜虚子・アムンゼン・中村鴈治郎・嘉納治五郎・菊池寛・平塚らいてふ・柳原白蓮・森律子・(他56氏略)

・復刻版昭和大雑誌戦前篇・戦中篇 2冊 いずれも 昭和53年6月~9月発行
流動出版(株)月報付きである。

・記録現代史日本の百年(2回で全巻揃う)
①新しい開国(1952~60)
 ②廃墟の中から(1945~52)
③果てしなき戦線(1937~45)
④アジア開放の夢(1931~37)
⑤震災にゆらぐ(1923~31)
⑥成金天下(1912~23)
 ⑦明治の光栄(1900~12)
 ⑧強国をめざして(1877~89)
 ⑨わき立つ民論(1877~89)
⑩御一新の嵐 (1861~77)
著者代表鶴見俊輔  筑摩書房(神田小川町2の8)昭和42年1月~10月
 
・太平洋戦記 ガダルカナル 辻 政信  河出書房昭和42年11月第3版

・陸戦史集11 旅順要塞攻略戦 日露戦争 陸幹校(旧陸大)戦史教官執筆 陸戦研究普及会編 原書房 昭和44年5月初版
の15冊である。
 
序でだが、過去に同様なイベントで入手した本のうち、身辺に散らかっているのを拾い出して無差別に抽出したものを列記すれば、

・河上肇獄中往復書簡集上、下 一海知義編  岩波書店
・側近日誌 木下道雄  文芸春秋
・相聞 文学者たちの愛の軌跡  近藤富枝   中公文庫
・色道諸分 難波鉦 遊女評判記 酉水庵無底居士作 中野三敏校注 岩波文庫
・摘録鸚鵡籠中日記上・下 元禄武士の日記  岩波文庫
・里見随筆集 紅野敏郎編  岩波文庫
・草野心平詩集 入沢康夫編 岩波文庫

これ等の24冊全冊一応は目を通してある。  以上