狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

自民歴史的大敗

2007-07-30 21:01:28 | 怒ブログ

 私は、基本的に「自民大敗」に喝采を送る一人であるが、「反戦基地長」として、
決して、これで一応「戦争阻止」への橋頭保が確立したとは思っていない。
 民主党の中には、憲法改正(軍隊を作って自分の国は自分で守る)考えの人が多数いるからである。
 残念ながら、私は池田大作先生に「ノーベル平和賞」が目的でもいいから、学会員に、戦争反対の大号令を、今すぐにでも、かけていただきたいと、なりふりなど、構わず、伏して冀う次第である。平和憲法を守れるのは、貴方しかいない。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

 貴方一存で日本も平和憲法が守れる。

 


感謝のことば雑感

2007-07-29 21:01:17 | 日録
拙「狸便乱亭ノート」が、2周年の壁を突破した。〝感無量〟とまでは行かないが、やや思い出に走る記事もあることは確かだ。
その一つに、本島等の「感謝のことば」を揚げなければなるまい。
このたび、ボクの2周年突破祈念にご祝辞を頂いた方々に、本島等元長崎市長の
「感謝のことば」を披露して、御礼のことばに代えたい。
最初、小生宛の葉書をスキャンして、添付写真にする積だったが、何故か、うまくコピーできなかった。
ゆえに、当時の「長崎市長への七三〇〇通の手紙(径書房)や当時の新聞切り抜き等を撮っタ。わが「狸便乱亭ノート」読者さま有難う。

感謝のことば

2007-07-28 21:25:01 | 日録

「天皇に戦争責任はあると想います」
88年12月7日、長崎市議会における本島等長崎市長のはつげんが報じられた途端に、それは思いも及ばぬ大きな波紋を呼び起こしました。
「暴言を撤回せよ、さもなくば一命をかけて天誅を下す」という憤激の電報が、すでにその夜半。市長あてにに発信されました。明けて八日には、電話、電報による講義が次々に届き始めます。…。

狸便乱亭ノート創刊号

2007-07-26 08:02:06 | 怒ブログ
 
    怒ブログを造る
昔(昭和天皇の時代)前田俊彦さんという大人がおられた。大人は《自分が飲む酒は自分でつくる、わが家でのむ酒はわが家で作るという主張は、人間の自由にとってもっとも根本的な問題提起という、非常に重要な意味をもっている。すくなくとも私は、単なる趣味や道楽としてではなく自由なる人間の尊厳にかけて、酒は自分でつくろうではないかとひろく日本人の全体によびかけたいとおもう。》と叫び続けた。『瓢鰻亭通信』を発信、「どぶろくをつくる」をライフワークとしたのである。前田大人の意をうけて酒造りから「怒ブログ造り」に発想を展開したいのが『狸便乱亭ノート』である。サブタイトルの「大宇宙への発信」はチョッと拙かったな…である。 2005年7月26日(友引)     
狸便乱亭主人
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昨日のブログにも書いた通り、この「狸便乱亭ノート」の開設日は2年前(2005年)の今日7月26日に遡る。当時既に知人遊彩画伯(小生が小さな運送店主であった頃、お引き立てを頂いた得意先、元大手建設会社営業所長)は、画廊を兼ねたブログ「写画あーる(シャガール)」に絵とコラムを書き、また、中学同僚だったH兄もYahoo!ブログ「医療と福祉」を掲載中だった。

ボクのパソコン技能は、ワードで日記をつけたり、エクセルで運送店の請求書を作ったり、運送店の決算に必要な、金銭出納簿、振替伝票、社会保健事務所に提出の給与一覧表などを作ることが出来る程度であった。
パソコン用語などは今でも殆ど判らない。

運送店を閉め、自由の身になって、ボクの最初の目標はホームページを作ることであった。遊彩画伯の「写画あーる(シャガール)に啓発され、ブログならオレにでも出来そうだと思って始めたものだ。幸い「gooblog」は、他のそれよりも割合難しくなかった。

 初めの頃は、矢鱈未知の方にコメントを出して自己満足した。
最初コメントを投稿したのはleprechaun氏「日々のたわむれ」だったように思う。氏の「皇居買収計画」の名コラムは、今でも忘れがたい。遊彩氏にメールで紹介した。コメントの投稿では、今考えると冷や汗の連続だが、3週年目に入るを機に改めて失礼をお詫び致したい。

また特に、反戦老年委員会のましまさまや、livedoorblogのネコワッチ研究所noa
さまには格別の指導を賜った。心から厚くお礼を申しあげる次第である。
2年も続けていると、同じ事を2回ならず、3回も繰り返した教育勅語など、何箇所かある。
歳のことは、まだまだ伏せておく。「しょうがない」とご勘弁願いたい。

追記:最初の「狸便乱亭ノート」のブログテンプレートが、「leprechau日々のたわむれ」と同じものであったのは全くの偶然である。


前夜祭

2007-07-25 22:37:59 | 怒ブログ
広辞苑の、前夜祭は、ぜんや【前夜】の派生語である。
【前夜】前の晩。ある日の前日の夜。また特別なことの起こる直前。「革命の―」
ぜんやさい【前夜祭】記念日や特別の催しなどを祝って、その晩に行う催し。
念のため、他の辞書を紐解いてみた。

大辞泉(小学館)も同じ扱い。
ざんや【前夜】①前の晩。昨夜。②ある特定の日の前の晩。また大事件などの起こる直前。「クリスマスの―」「革命―」
―さい【前夜祭】記念日や祝典などの前の晩に行われる催し。⇔後夜祭。

大辞林(三省堂)これまた然り。
ぜんや【前夜】①前日の晩。昨夜。②特別なことのある日の前の夜。「革命―を思わせる混乱」
―さい【前夜祭】①特別な行事の前夜に、その行事を祝って行う催し。②神葬祭の儀式の一。仏式の通夜に当たる。

明日この「狸便乱亭ノート」開設2周年にあたる。即ち今夜は、さしずめその「前夜」というところだろう。何の催しもなかった。

休憩時間

2007-07-23 10:37:22 | 日録


ボクが、毎週土曜日参加しているZ寺の、読経のひと時である。
ただし、この写真は普段の朝詣り会の写真ではない。
朝詣りと同じ本堂ではあるが、読経の導師(御前様)がお二人さまおられる。
これは、去年望(忘)年会の時写した。いつも生花には事欠かないが、
特にこの大きな生花が見えるのは、多分葬儀か、大きな法事があった後だったのであろう。

本尊正面の老師が、普段の朝詣りでは、写真副導師様のところで、読経の先導を勤める。
この朝の行は、何年前から始めたのかは、知らないけれど、ボクが参加するようになってからでも、10年以上経過している事だけは間違いない。

浄財

2007-07-21 21:03:01 | 日録

今朝、朝詣会終了後、本堂焼香台からやゝ離れた右寄りの所においてある仮設浄財奉納箱を携帯電話で撮った。堂内は暗いので、少しぶれた。

私達は先ず別棟「不動堂」でこのお経を2回、この本堂では
○三禮 ○懺悔文 ○ 三帰三竟 ○ 開経偈 ○十如是 
○妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈 ○延命十句観音経
○仏説摩訶般若波羅蜜多心経 ○宗祖宝号 ○法華成仏偈
を諷誦し奉る。だから般若心経は3回唱えることとなる。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
 以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故 
 心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
 菩提薩婆訶 般若心経 

何が何だかわからない

2007-07-19 21:15:10 | 怒ブログ


2007年07月19日19時42分ブックマーク
 赤城徳彦農水相は19日夕、記者団に対し、17日の閣議や記者会見などに左顔面の額とほおの2カ所にガーゼ類を張って臨んだ理由について、「吹き出物が出たため」と、さばさばした表情で説明した。

 17日の会見では、農水相が説明をかたくなに拒んだため、さまざまな憶測が飛び交った。この日は一転して「(16日までの3連休中に)突然、こういうことになった。ぶざまな姿を国民にさらすことになり、ショックだった」と釈明。そのうえで「会見での無愛想な対応を反省している」と述べた。

 農水相によると、自身は従来肌が弱く、同相就任前にも、吹き出物が出たためガーゼなどを張って知人の披露宴に出席したことがある、という。19日に国会内の医務室で治療を受け、「快方に向かっている」という。 




休憩室

2007-07-18 23:16:00 | 本・読書

新潟中越沖地震、災害に遭われた方々に対し、心からお見舞い申し上げます。
各地で、義献金募集の運動が始まっています。小学生までが募金の函にお金を入れている姿がテレビ画面で放映されました。
 参院選候補者が、高額の義献金に応じたら良いのか、いけないのかボクは分かりませんが、あるいは、既に億単位の浄財私財を匿名で寄付しておられる、候補もおられることとお察しいたします。しかしこんな時こそ、堂々と、匿名でなくて、大いに候補者が実名で献金金額の公表できる、特例法が出来ても良いのではないかと小生は思うのでございます…。

編集室

2007-07-16 12:08:48 | 日録

 町立図書館長に、民間からしかも「そば屋さんの主人」Tさんが起用されたことについて以前このブログに書いたことがあった。
[参照]2006・10・04『追懐 そばやだった図書館長

 この図書館長T氏は、町立図書館の一角に「千秋文学コーナー」を開設し、郷土文学研究会を発足させた。
その時から、この研究会は下村千秋の作品研究に取組始め、勉強会の成果を発表する研究誌「郷土作家の研究と顕彰」の発行をすることとなった。
その延長線上である文芸誌が、この「文芸郷土」誌である。

 これがいつの間にか、昨年19年(2006)実に12号に達してしまった。これまでその発行を、朋友K.A君一人の編集制作に託してきた。
 
 最初の頃はK.A君がまだ、ワープロの覚え立てで、自分たちの書いたものが、活字になることに、非常に興味もあり、うれしい時代でもあった。当然年齢も12歳若かったことになる。
 因みに彼が打ち込にに使ったワープロはNEC「文豪mini」という代物である。
冊子の原稿の量も、30頁内外で、打ち込んだ原稿をコピーし、袋綴じにして皆で製本した。それが次第に原稿の量が増え、6号からは製本だけを印刷所に頼むことにしたのだが、そのワープロ打ちについても、A・K君とうとう兜を脱いでしまった。

何しろ現在、B5版70頁平均10ポイントの文字が2段組でぎっしり詰まっている。この雑誌を編集から印刷・製本まで印刷所に任せたとしたら、まだ見積もりは取ったことはないけれど、かなりの金額になるだろう。だから今まで通り、こちらで編集印刷した原稿を製本してもらう方法をとらざるを得ない。
それを今年からボクが引き受けることになった。

 年1回発行だが、字数にしたらどの位になるか、勘定はしてみないが相当の数になると思う。とにかく今年だけは頑張るしかあるまい。写真はわが家の「文芸郷土」編集室である。フロッピーも2枚写っているが、片方は一太郎文書で小生のWord2007では開くことが出来ないようだ。厚みは雑誌「ちくま」を対比させた。

 バックナンバーを調べた序に、元図書館長T氏の「千秋文学コーナー開設に当たって」と題する遺稿が出てきたので引用しておく。

 
このたび町立図書館に「千秋文学コーナー」が開設される運びとなりました。これについて、貴重な資料を一括して御寄贈下された夫人ひで様御一家に、心から御礼申し上げます。
 何よりも、ひで様がご健在であられることが幸いでした。「日本近代文学館」に収められる予定の遺品・書籍・その他の資料がそっくりこの町に贈られたのであります。
 明治26年(1893)生まれの下村千秋の生誕100年を記念して、数々の遺品と、作品に描かれた人間模様が、生まれ故郷のわが町に帰って来ました。まことに意義深いものがあります。
 このわが町の誇るべき文豪が、大正から昭和にかけ、同胞がどん底生活にあえいでいる中で、人は生まれながらにして心豊かに幸せに生きる権利があり、搾取されてはならないものだと、作品を通じて訴え続けました。
 百年経ったいまもグローバルな生存に、改めて貴重なテーマを投げかけています。被支配の弱者の生活に温かいまなざしをしを注ぎ、人間愛に満ちた下村千秋文学は、一貫してヒューマニズムに立脚した文学であります。
  いま物質文明に酔いしれて、人間の心の喪失といわれる時代に、下村千秋の文学は、改めて再評価されることを確信してやみません。
 この記念すべきにに当たって、重ねがさねお礼を申し述べます。


  


台風近し

2007-07-14 21:45:01 | 怒ブログ

今日は土曜日。朝から小雨そぼ降る。予報では、台風の中心がちょうどわが家の上空を通る様な天気図を、繰り返し何回もテレビで放映していた。
小生の土曜日は、Z寺の朝詣り会。やはり途中の参院選候補のポスターが気になる。

参院選の告示はもう済んで、いつもなら候補や、政党の宣伝カーが賑々しくなるはずだったのに、この静けさは何だ!
ポスターの数が、自民、公明8枚ずつと公示前書いた。
今度は民主が加わった。しかも拙宅の道路を挟んだ直前、隣家の屋敷の道路沿いの土手に民主の看板が4枚もたった。よく見たら、佼成出版印刷と書いてあった。隣家は熱心な反創価学会の宗教団体立正佼成会の信者である。
おなじ南無妙法蓮華経♪でも自民と民主に分かれて静かな宗教戦争をやっている。うんと闘って欲しい。

それ以外、たとえばわが心に思う政党の看板、即ち憲法改悪阻止の党のポスターは公営掲示板以外は一枚もなかった。
4年前憲法9条を守ろうと小さな看板2枚を建てた場所は、「ごみ捨てるべからず」の立て看板に変わってしまった。

看板の季節

2007-07-10 18:31:17 | 日録
友好ブログ「反戦委員会」委員長のましま氏が、憲法9条の危機を絶叫している。
氏は自らに老年を冠しつゝも、徹底的反戦、憲法擁護、反安倍をアピールしておられることに、まず最高の敬意を表したい。今度の参院選においても、候補者の選定標的を、憲法9条を護る人なりや否やに繋っているのが氏のブログに滲み出ている。

 ボクも全く氏のアピールに同感だ!
しかしボクが1票を入れたところで、この激流を止めることは2億円宝籤を当てる以上不可能であると思わざるまわざるを得ないのを、この対照的政党看板に見た。
ボクはあくまでも「危険」思想の持ち主であった。

先週の土曜日の朝、ボクは各週の日課になっている、自宅から約3キロ離れたZ寺の朝詣り会に出掛けた。行き帰リ、路傍の政党掲示板と書いてある選挙ポスターの数を勘定してみた。
自民(選挙区代議士と握手している候補)のポスター8枚、同じく公明が、太田代表との写真と上下に並べて8枚、他の政党のポスターは1枚もなかった。

選挙法がどうのこうのは知らないが、昨日になって町のポスター掲示板が姿をあらわすと同時にこのような巨大な看板がお見えしたのである。
この掲示版は比例区のポスターを貼る掲示板であろう。写真では党首の顔は6枚だが、実物はこの掲示板はV型に作られているで、合計12の顔が写っている。

一方細工をしなくても顔が判らないような小さい上部のポスターは、嘗て全労組を牛耳った事もある、革新政党党首を写したものだが、この巨大掲示板から数百メートル離れた電柱にぶら下げてあったのを、車を停めて手早にシャッターを切ったものである。何か侘しい気がしてならなかった。

山人窟話

2007-07-09 13:39:04 | 怒ブログ
昨日私は、2週間に迫った村の祭りの準備に動員させされた。私の班が、村の伝統行事である祇園祭りの当番に当たる為である。
作業は、天王様(牛頭天王)の御神輿を社(戦災で崩壊、2坪位の物置小屋のままだが)から出して、外に奉遷する「お仮屋」の場所や、山車の置き場になっている小屋の周囲、更に「お浜降り」と称して、天王様が移動する約1キロ先の遷座所等の環境整備であった。
 社の周りだけは、まだ業者が整地したばかりなので、簡単な掃き掃除ぐらいだが、他の2箇所は草茫々である。草刈機所持者でないと、何もやることが出来ない。
 〇齢者の私と、某はお仮屋の周りにぶら下げるマコモ刈りと、其の序でに15日に建てる幟に使う荒縄や、針金をホームセンターで購ってくる役を自ら申し出たのであった。

結果として役目は無事終わったが、マコモ探しでは少なからず焦った。マコモのある場所は、役員の人が予め下調べをしておいてくれて、云われた小川の縁を探索したが、何処も彼処も葦や薄、蒲の穂ばかりである。幸い蓮田の中に、水揚げ作業をしていた農家の人に訊いてやっと在処が判明した。その人に遇わなかったら、見つけられなかっただろう。
 作業が終え、社に戻ったら、
「あれっ、いつの間にか」参院選挙のボスター掲示板が据え付けられてある。
これでは祭りの運営に差し障る。区長さんに電話して、できるだけの移動をお願いしてこのような結果になった。移動した跡が地面の判ると思う。


七月七日

2007-07-06 23:08:30 | 怒ブログ

パソ博士Hさんから、
“(雑誌 PCFan 7/15)から七夕にぴったりのソフトを見つけました。当該ソフトは、国立天文台4次元デジタル宇宙プロジクトが開発したもので、「Mitaka」云う名称で、無償ダウンロードできます。”という旨のメイルを頂いた。小生は長時間に亘る電話質問で指導を賜った結果、やっと立ちあげた。
しかし、戦中派のボクは七夕よりも何よりも、昭和12年7月7日が記憶に過る。

いみじくも、7月7日の朝日新聞が、長文の社説を掲げているので引用して補足する。(7月7日記)
  
盧溝橋事件70年―もう一歩、踏み出す勇気を
ちょうど70年前の1937年7月7日、北京郊外の川にかかる橋の近くで発砲事件が起きた。盧溝橋事件である。この争いをきっかけに日中戦争は拡大の一途をたどり、太平洋戦争を経て、日本は敗戦を迎える。
いまも盧溝橋は健在だ。建造されたのは12世紀と言われる。当時のものがどこまで残っているのかは分からないが、重厚な石造りや欄干に並ぶ獅子像は長い歴史を思わせる。
そのほとりの村に、抗日戦争記念館がある。事件をはじめ日中戦争の歴史についての展示が並んでいる。先生に連れられた子どもたちや人民解放軍の兵士たちが学習に訪れる。時折、日本からの観光客も足を延ばす。
■日中戦争の「起点」
「七七事変」。盧溝橋事件を中国ではこう呼ぶ。満州事変が起きた9月18日と並んで、7月7日は民族屈辱の日として記憶されている。その後、45年まで続く悲惨な日中戦争の起点との認識だ。
いま多くの日本人が戦争を振り返る時、思い浮かべるのは真珠湾攻撃の12月8日であり、敗戦の8月15日だろう。中国人にとって今日という日は、それに匹敵する記憶を呼び起こす。七夕を祝う日本とは大違いだ。
その日に、私たちがこの社説を掲げるのは、この1年が日中両国にとって特別の意味を持つと考えたからだ。
盧溝橋事件から70年、そして12月の南京大虐殺からも70年。中国や米国で最近、南京大虐殺などの映画がいくつも作られている。米議会では、旧日本軍の慰安婦問題をめぐる決議案が本会議でも可決されようとしている。好むと好まざるとにかかわらず、今年は歴史と向き合わざるを得ない年なのだ。
■記憶にずれがある
少し、歴史をおさらいしておこう。
日本の中国侵略は、盧溝橋事件の6年前、1931年の満州事変が一つの起点だった。翌年、満州国が建国され、それらが原因となって国際連盟からの脱退につながる。日本は国際的な孤立への道を突き進む。
戦争が本格化したのは、盧溝橋事件の後からだった。日本軍は戦闘を中国各地に拡大していった。さらに日独伊三国同盟を結び、インドシナ半島を南下するなどして、英米などとの対立は極まった。その結果、太平洋戦争に突入し、最後の破局に至る。
日中戦争の歴史は、そのまま中国の近代史に重なる。国家存亡の危機であったのだから当然のことなのだが、一方、日本にとっては米国との戦争、とりわけ広島と長崎への原爆投下といった被害の方が深く記憶に刻まれがちだ。
この記憶のずれが、友好をうたいつつも、ぎくしゃくしてきた日中関係の根底に影響しているのは間違いない。
抗日戦勝利と言っても、被害の大きさは日本とくらべものにならないし、中国が日本を屈服させたわけでもない。戦後、賠償を放棄して「ゆるした」のに、日本はその重みを受け止めていないのではないか。中国は軽んじられている。そんな屈辱感も重なっているのを見逃してはならないだろう。
反日デモの嵐が吹き荒れた一昨年春。デモ参加者の怒りには、さまざまな要因が絡まっていたことだろう。その一つに、江沢民時代に強化された「愛国教育」の影響があると言われた。
揺らぎだした共産党支配の正統性を立て直すために、抗日戦争を学習させ、結果として日本への怒りを再生産することになった、という見方だ。
その面があるのは確かだろう。中国の歴史研究にしても、政治権力から独立して自由に行われているとは言い難い。しかし、だからといって、日本による侵略を自らの近代史の中心テーマと受け止め、記憶し、世代を超えてそれを受け継ごうという中国人の心情を批判することはできない。
いまの中国では、知日派の人々でさえ、戦争の歴史の話になると表情を変えることが少なくない。民族感情の渦が代々受け継がれていることを、私たちは意識しておかねばならない。
■首相の南京訪問を
残念な世論調査結果がある。米国のピュー・リサーチセンターの今春の調査によると、中国を「かなり嫌い」「どちらかと言えば嫌い」とする人が日本では67%にのぼった。調査の対象となった47カ国・地域で最も高かった。同じように中国人にも日本を嫌う傾向が強い。
今年は、日本と中国が国交を正常化して35周年にもあたる。盧溝橋事件からの70年間の半分は、関係正常化の年月でもあったのだ。それなのに、こんな数字が出てしまうことを私たちは深刻に受け止めなければなるまい。
政治の役割は大きい。安倍首相になって、両国関係が修復の方向に動き出したのは歓迎すべき動きだが、もう一歩、勇気を持って踏み出せないものか。
例えば、南京大虐殺をめぐる論争を建設的な方向へ押し出す。犠牲者数について中国は30万人と主張するが、いくら何でも多すぎないか。一方、あれは虚構だと言われれば、中国側が反発するのは当然だ。両国の歴史共同研究で冷静に検討が進むことを期待したい。
そうした中で、日本の首相が南京を訪れてはどうだろう。小泉前首相や村山元首相は在職中、盧溝橋の抗日戦争記念館を訪れた。論争は専門家に任せ、現地を訪ねて慰霊する。中国の人びとからも、国際社会からも歓迎されるはずだ。
この年を、感情と怒りがぶつかり合う年にしてはならない。





雅子さまとの昼食会

2007-07-04 16:35:55 | 日録
Nさまが「皇太子様、来敦」という記事をお書きになった。
その中で、
>ホテルを抜け出して大橋を渡ってみたり、朝の松原をゆっくり一人で歩いたり、そういうことは絶対に出来ないんだろうな・・・。
と心配しておられたが、「お料理造り」では人一倍研究熱心なNさまなので、
「殿下はホテルでどんなお料理をお召し上がりになるのかな」などともお考えになりはしまいかと、余計な御世話を焼いたりしてしまった。

 かつて、わが町の広報誌に、妃殿下とともにお出でになった、皇太子様とのご会食のときの様子を、町長が「雅子様との昼食会」という題でエッセイを掲載したことがあった。
 その中で当日の昼食の料理のことが次のような事が書かれてあったので、その抜粋を引用して、紹介させていただく。

    
御献立(T第一ホテル謹製)

造里 …… 鯛の桜花〆……添え野菜等7品
煮物 …… 筍土佐煮 ……ふき、木の芽等6品
焼物 …… 常陸牛のステーキ和風ソース
揚げ物…… 地元産レンコンのはさみ揚げ、ワカサギのフライ等4品
 椀 …… 桜花海老真丈、わらび、木の芽他
食事 …… 地元産筍のご飯
水菓子…… 地元産スイカ、さくらんぼのムース
飲物 …… コーヒー、紅茶、ほうじ茶

 御献立表に示された料理を頂きながら、1時間近くの昼食。非常に和やかな雰囲気で、あまり緊張することもなくおいしい昼食をいただきました。しかし、たったひとつの問題点は、料理の品々があまりにもお上品で量が少な過ぎたこと。例えば、常陸牛のステーキはひと口でいただけるものが二切れ。ワカサギのフライは一匹を半切りにしたもの。とてもおいしかったわが町産の筍ご飯は、二口か三口で済んでしまいました。出て来た料理はそれこそ、一切れも残さず頂きましたが、とても腹八分目までは行きませんでした。
後で考えたところ、この種のお食事では、やはり、雅子妃殿下の適量に合わせるのだろうという事に気づきました。
 いずれにせよ、雅子妃殿下と間近に対面しながらの1時間の食事は得がたい、貴重な体験でした。