狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

雑録

2006-07-31 05:49:13 | 日録

はるをむかえました。
ごじゅうねんめのはるのようなきもしますし、
ろくじゅうねんめのはるののようなきもいたします。

さくねんは、
うつくしい、しかもりっぱな、
かぞくししゅう〝おかあさんのせなか〟を
いただきっぱなしで、どうかんしゃしてよいのかまよっています。
ただ、こごえで、
どうもありおがとうと、
じぶんに、いいきかせるのみでありました。
こころをこめて!

くれに、
せいかくには、
じゅういちがつじゅうろくにちから、やく、はつかかん、
おさけをのみすぎて、にゅういんせいかつをあじわいました。

どくしょができ
にっきがかけて、きくのかおりがただようびょうしつで、
ごうかなにゅういんせいかつでありました。

たいいんし、
おしょうがつには、からおけすなっくで、
ううろんちゃを、ばっぽりのみました。
いまは、すっかりよくなりました。
きいろいうんこを、こころゆくまでたれ、
へいわをまんきつしています。

まっぴつなから、
あなたさまの、ごたこうをいのる。
ちいさなしじんたち
いちろうくん、はるなちゃん、はじめくん、まさるくんへ、
おおきな、さいわいあれ。

せんきゅうひゃくきゅうじゅうにねん、しょうがつ。
               たに より

言語障害者、4人のお子さん、酒乱の夫と離婚の経歴、詩人。熱心な日刊「赤旗」の配達者。そんなOさんとの文通が途絶えて14年以上経つ。
古い日記帳の中に、挿んであった感熱紙のメモが見つかった。懐かしいワープロ文字である。
字が薄れてやっと読めるのを書き留めた。

真夏の年賀状で恐縮だが、このブログから、彼女の住所が判って、再び文通ができたらと、念じて再録したつもりでいる。
                 






2005年7月ダイジェスト

2006-07-29 14:35:49 | 日録
ブログを開設した去年の今頃を、2005年7月の日録から辿ってみた。

・宮城県の報償費予算の執行停止問題が、霞ヶ関の警察庁、漆間巌長官までに発展した宮城県警と知事の対立は、警察のトップも参戦する全面対決の事態となった。(1日)

・小泉首相は、今回の東京都議選では、街頭での応援演説を一切しなかった。前回とは大きな変わりようで、「今回は分が悪いから行かないんだ」との声も首相周囲にはあったという。開票の結果、自民はやや後退し、民主党が伸びた。(5日)

・上野都立美術館行き。T氏の刻字が「毎日賞」に入選した。美術館で展示作品を見、博物館・西洋美術館のほうを迂回して駅に戻る。美術館前の森にはホームレス人生を楽しむ人たちのブルーシートのテントが一集落をなしていた。12時に上野駅公園口で待ち合わせの約束だった、伜や孫たちと、「藪そば」を捜しそこで食事をとる。(10日)

・「郷土の日露戦争百周年祈念展」を町公民館に見に行く。10時近くだったが駐車場は空っぽだった。幹事のYさんが出てきたので、ガードマンを頼むほど混雑してるのかと思ったなど冗談を言った。
当番はYさん一人だった。
展示1例
陸軍歩兵伍長××××
明治三七八年戦役ノ功ニヨリ功七級金鵄勲章並ビニ年金百円及勲七等青色桐葉章ヲ授ケ給フ
 明治三十八年六月十六日
 賞勲局総裁

陸軍歩兵伍長××××
明治三七八年戦役ノ功ニヨリ特ニ金六百円ヲ給フ(14日)

・「海の日」。一気に真夏。
気象庁は18日、中国、近畿、東海、関東甲信地方が梅雨明けしたと見られると発表した。各地で最高気温が30度以上の真夏日となった。
中国、東海、関東甲信の梅雨明けは平年より2日早く、昨年より5日遅い。梅雨明けしていないのは、梅雨のない北海道を除くと、東北北部、南部、北陸となった。(19日付朝日)

・村の祇園祭。暑くなる。確かにこれまでも蒸し暑い日々が何日か続いたが、思い出にある昔の祇園前の猛暑とは比較にならないような気がする。草いきれ→夏、日光に強く照らされた草の茂みから起る、むっとした熱気。それがない。
 妻旧宅の方から大きな甕に入った梅干を発見抱えてきた。何時漬け込んだのか全く記憶がないという。東京に住む妻の兄貴に郵便局から送った。(21日)

・ 朝日新聞の一面トップ記事。
鉄道ストップ交通網混乱  M6.01都3県23人けが
 23日午後4時35分ごろ、千葉県北西部で強い地震があり、東京都足立区で震度5強、千葉県浦安市、埼玉県草加市、横浜市神奈川区などで震度5弱を観測。関東から近畿にかけての広い範囲で体に感じる揺れがあった。気象庁によると、震源の深さは焼く73キロ、地震の規模はマグにチュード(M)6.0と推定される。東京都内(島嶼部を除く)で震度5の揺れが観測されたのは13年ぶり。
この地震によるけが人は23人で、首都圏の鉄道が一時広範囲で運転を見合わせた。云々。
 朝青龍が栃東に勝って優勝を決めた。

・新聞を見たら昨日の地震は随分大きいとは思っていたが、東京では列車が止まったりエレベーターに閉じ込められたりして大変だったようだ。(24日)

・ 雨なり。風も強し。少し小降りになった機を捉えて、二階の雨戸を閉め雨養生をしたり。朝窓を開けておいたから、東の窓から雨がふっ込んでいた。分かっていることであるから、雨が降らないうちにやっておけば、良いわけだがそこが中々難しい。雨の中合羽を着、茶の間の前の雨樋、旧宅に雨どいのゴミをさらった。
 Tさんに「お茶でもやりにお出でになりませんかとメールを送ったら直ぐにお出でになった。
 梅干の大瓶を進呈した。雨は午前中にあがる。ブログを立ち上げた。「狸便乱亭ノート」とした。(26日)

・ 昨夜は颱風が来る気象情報で持ちきりだったのに朝起きたら台風が来た様子は全くなかった。夜明け蒸し暑さに昨日締めて寝た雨戸を開ける。雨も風も全くなし。
 《颱風は三陸沖を北上する見込み。東北と北陸は曇りや雨で激しく降る所もある。関東と当会は腫れて暑さが厳しい。―朝日新聞》(27日)


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朝日新聞投書欄「声」に靖国神社関連の記事あり。

 靖国ツアーはとても有意義
               主婦杉山恵美子(取手市40歳)
 私は祖父の慰霊のため毎年8月に靖国神社を参拝して、境内にある遊就館に立ち寄ってくる。9歳と11歳の2人の娘も連れて行く。遊就館の展示物は、戦争の事実を淡々と示しているにすぎない。
そこに当時の思想や社会情勢がパネルで表示してある。歴史を伝える多くの遺品や、機械や科学技術を知ることが出来る模型もある。しかし何よりも心をとらえられるのは、関係者からの寄贈品だ。血だらけの粗末な軍服、弾痕の残る飯盒、思想統制下で本音を書くことが出来なかった肉親への手紙。その悲しみに溢れた展示空間で、見学者はそれぞれに思いを巡らせるのだ。
 「靖国ツアーで 何が学べるか」(19日付)の投稿者が母国中国で受けたという愛国教育は、戦後の日本には存在しない。あれほど悲しい展示品を見て、戦争を美化し、英雄にあこがれるなどという発想は、普通の人には出来ないと思う。戦争体験のない世代は、戦争について教科書で数ページ学ぶ程度の知識しかない。私は戦争を知らない子供たちに靖国ツアーを行うことに賛成である。教科書に載せられないような愚かな事実を学ぶことは、とても有意義ではないか。(声25日付)

遊就館の展示 欠けた視点が 
               無職 芹沢 昇雄(埼玉県比企郡63歳)
 「靖国ツアーは とても有意義」(25日)に私見を述べる。筆者は、戦争について子供たちは教科書で数ページ学ぶ程度の知識しかなく、靖国神社の境内にある遊就館の展示は、事実を淡々と示しているに過ぎないという。
私は6月、中国東北部(旧満州)を訪れた。旧日本軍によって銃殺され埋められた、3千人あまりの民の遺骨を掘りこし集めた「平頂山遺骨館」や、ハルピンの731部隊跡などを見学した。現地で生き残った方の証言も,お聴きしてきた。靖国神社にはこのような加害の展示や戦争責任の視点がないことを自覚して、遊就館を見学してほしい。 
 先の戦争で310万人の日本人犠牲者を出した責任は、日本政府にあるが、靖国神社はその指導者であったA級戦犯も神として祭ったのである。一方、その戦争に巻き込まれ、犠牲になったアジアの民は2千万人以上もいた。いわゆる従軍慰安婦や強制連行・労働問題もあった。
靖国神社は「戦死は立派、ムダではなかった」と宣伝の場にも利用されているのである。それは、遺族の合祀反対や合祀取り下げ要請に応じないことでも裏付けられている。

戦争のむごさ もっと考えて
                 投稿者の氏名書き漏らして記載がない
 毎年8月、小学生の娘さん2人を連れて靖国神社に参拝し、境内の遊就館にも寄るという主婦の方の投稿(25日)を読みました。
慰霊のために参拝しているというお気持ちは分かりますが、「あれほど悲しい展示品を見て、戦争を美化し、英雄にあこがれるなどという発想は、普通の人には出来ないと思う」という見方には疑問を覚えます。
確かに展示品には血だらけの軍服や肉親への手紙もありますが、圧倒的に多いのは武器類です。大砲、戦車、などのほかに自爆兵器といわれる人間魚雷「回天」や特攻機「桜花」も展示されています。
どんな戦争でも悲惨なものです。兵士は勿論多くの市民が生命財産を失い、理不尽な暴力で人権を踏みにじられ、憎しみを増殖させられます。為政者はそのことを良く知っているからこそ、声高に大儀を叫び、愛国心を鼓舞し、喜んで国に身を捧げる国民を作り出し、戦いで命を落とした兵士を靖国神社に祭ったのではありませんか。
そして広島、長崎の悲劇を招きました。
靖国ツアーで、戦争の愚かさを、まったく学べないとは言いませんが、そのお気持ちがあるなら、娘さんたちを広島の平和公園や原爆資料館に連れて行ってあげてください。戦争のむごさを肌身で感じ、あの戦争は何のための戦いだったか、もっと考えるようになると思います。(声28日付)

『御』

2006-07-27 21:52:44 | 怒ブログ

    今上天皇の即位

第百二十四代今上天皇は、大正天皇の第一の皇子にましまし

天長節)明治34年4月29日に生まれさせたまふ。大正5年年16歳の時、立太子の礼を挙げさせられ、ついで内外多事の間に、摂政の重責をはたしたまへり。

(天皇踐祚したまふ 昭和元年)先帝崩の日、天皇たゞちに踐祚し、年号を昭和と改めらる。やがて文武百官を召して朝見の儀を行はせられかたじけなき勅語を賜ひ、すべて着実を旨とし、みずから工夫することにつとめて、日に日に人文を新にし、国民一体となりてますます国家の基礎を固くし、又広く世界の人々と交を厚くせよと仰せたまへり

大葬の儀をあげたまふ)昭和2年1月先帝に大正天皇の追号をたてまつり、2月大葬の儀を挙げたまひて、多摩の陵にをさめたまふ

(天皇即位の礼を挙げたまふ)先帝の諒闇終りて昭和3年11月10日即位の礼を京都の皇宮にて挙げたまへり。此の日天皇みずから賢所を拝して、皇祖天照大神に即位の由を告げたまひ、ついで紫宸殿にいでしまし、高座にのぼりて、あまねく之を臣民に宣したまふ。実にならびなき盛儀にして、国民ひとしく万歳をとなへて、之を賀したてまつれり。ついで大嘗祭を行ひたまひ、天皇親しく天地の神々をまつりたまへり

かたじけなき勅語を賜ふ)紫宸殿の儀に於いて、天皇の賜ひし勅語の中に、歴代の天皇は、皇祖皇宗の大心をうけつがせられ、わが国を家として万民を愛撫したまふこと、あたかも慈母の赤子に於けるが如く、万民また互いに心を合わせ、天皇を国の親とあふぎたてまつりて、忠誠をつくし、君民一体となりて今に及べり。これ実にわが国体の精華にして、まさに天地と共にきはまりなかるべしと仰せたまへり。まことにかしこき極みならずや。

(国民の覚悟)今や、我が国は5大国の一として、世界に於ける重要なる地位を占む。これ実に歴代天皇の盛徳と、国民世世の忠誠とによれり。さればわれ等国民は、よく国運発展の由来をつまびらかにし、おのおのその業に励み、一致共同してますます国家の富強を図り、進んで世界平和の為に力を尽くし、以ってわが国史に一層の光輝を加へざるべからず。

 この文は文部省「尋常小学国史」下巻(尋常科6年で使用)
最後の第五十三 今上天皇(昭和天皇)の即位 の項である。 47字設定、22行の本文において、「17「たまふ」18 をふくめ、ましまし。挙げさせられ。行はせら。れかたじけなき。たてまつり。いでしまし。賀したてまつれり。うけつがせられ。あふぎたてまつりて。かしこき極み。の敬語の入らない行は(国民の覚悟)最後の2行のみである。
偉大なる将軍様も、敬愛する 先代同志様も、これだけの敬語で御囲まれ遊ばしたかどうかは愚生には解らないことだ。


無責任の原点

2006-07-25 22:17:33 | 怒ブログ

(マッカーサー元帥を訪問された天皇(昭和20年9月27日)ご写真は天皇ヒロヒト L・モズレー 高田市太郎訳 毎日新聞社所載からコピーしたものである。)

 つぎに掲げる訴えは、支那事変がすでに2年をこえたころ、戦う兵隊のあいだにひろがった頽廃をうれえて書かれた文章である。
 この訴えを書いた火野葦平は、(1907~1961)は、徐州戦を描いた『麦と兵隊』でいちはやく戦争文学の第一人者となり、のちに広東、汕頭に転戦して軍曹で帰還した作家である。

>「われわれは祖国のために生命を投げだしている。それは国民として当然なさねばならないことをしているのであって、われわれはそれによって、国に恩を着せるべきでは毛頭にないのである。また、その気持をもって、だれにも強要し吹聴すべきではないのである。
 しかしながら、このことは非常にむずかしいことだと思われる。それは、私自身たびたび経験したことだからである。1時間、いな、5分、1分先に、われわれはもはやこの世にいないかもしれない。そのようなわれわれであってみれば、なにもこのくらいのことはしてもとがめられることはないではないか。その気持はわれわれからぬけない。

 私自身もその気持ちの起こるたびにおどろき、これを抑えた。兵隊がみなその気持をいだいていたことは、私にはよく分かる。それは、しかし、もっとも危険なことだと思われる(略)

 われわれはいま弾丸の中にある。戦場にある。なにを考え、なにを反省しても、死んでしまいばそれきりだ、と、われわれはともすれば考えがちである。それはいけない。たとえ1時間先に死のうとも、その1時間のあいだを、兵隊として、人間として、りっぱに生きる、ということが必要である。その兵隊の精神によってのみ、われわれの軍隊がたぐいなく美しい軍隊となり、かがやける軍隊となることができるのだ。

われわれ兵隊は事変の真の意義をだれよりもよく理解していなければならない。そうすればわれわれが銃をとって敵国の軍隊を徹底的に撃砕することは当然であっても、支那の民衆はまったくわれわれの敵ではないということがただちにわかるはずである。
私はしかつめらしい顔をして、無辜の支那民衆を愛護せよ、などといっているではない。私は兵隊としての心の美しさについて語っているのである。 私がなぜこのようなことを言わねばならないか。

率直にいえば少しく戦火のおさまった占領地域内において、残留している支那民衆に対して、いくぶん不遜と思える態度をもってのぞむ兵隊をときどき見るからである。あくまでも戦勝者とし、征服者として、支那の民衆に対すべきでない。支那人に対して、どんなにいばってみたところで、兵隊のねうちがちっともあがるわけのものでもなく、その兵隊がえらく見えるわけのものでもない。
では、どのようなことが占領地内で見られるか。そんなことをいちいち例をあげることはない。  われわれ兵隊のひとりひとりが、興亜の聖戦を身をもって完成する覚悟が必要である。

それでこそわれわれが筆舌につくしがたい労苦を、弾丸と泥濘と山岳の中ですごしてきたかいもあるというものだ。われわれはいままったく個人ではない。われわれひとりひとりが、日本であり、歴史である、ということを自覚しよう。」 (火野葦平『戦友に愬ふ』1939年)

この火野の訴えは、事変中に書かれたもっとも美しい文章のひとつといえるかもしれない。唯、火野はいわゆる「聖戦」の目的については、なんらの疑いも抱いていないようにみえるし、中国の抗日戦争の根本精神についても、なんらの理解ももっていないようにみえる。日本兵のひとりひとりがどんなにりっぱで美しくあっても、中国国民が日本軍の占領そのものを決して望まないであろうということに、すこしも目を注いでいないように思われる。(記録現代史 日本の百年3「果てしなき戦線」筑摩書房)

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス  (終戦ノ詔書抜粋 ) 

                *
 敗戦にいたった戦争のいろいろの責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと、構わない。私はあなたにお任せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」(20・9・27)(『侍従長の回想』)       

                *
「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」(『マッカーサー回想記』下142ページ)=昭和天皇語録黒田勝弘 畑好秀編講談社学芸文庫        

                *
――「天皇陛下はホワイトハウスで『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」質問したのは英紙タイムズの日本人記者中村浩二(当時57歳、82年に死去)だった。
天皇が答えた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」(50・10・30日本記者クラブの記者団との会見における発言)(『朝日新聞2006・7・13付歴史と向き合う』)


 嗚呼

2006-07-24 22:39:49 | 怒ブログ
間もなく(明後日あたり)狸便乱亭ノート開設1周年となる。
友人H氏が、初号から、PDF変換したものを、USBフラッシュメモリにコピーしていただいた。塵も積もれば山。成る程と思った。

終戦の日も近い。
新装して気分一新しようかと非常に迷っている。

夏祭り

2006-07-23 22:23:26 | 日録
<

各地で夏祭りが、行われている。
わが村でもご多分にもれず、21~23日の3日間楚々としたお祭りが、粛々と執り行われた。
祭り気分を削ぐ表現になるが、この様子は、スナップ写真でお分かりいただけることと思う。

初日は「宵祇園」と称して、お神輿を安置するオカリヤ(仮屋という意味か)から、数百メートル離れた遷座に移す「お浜降り」の神事。お神輿は担ぎ手が4人、神官、当屋(当番組)数人の先導で、まさに粛々とこの間を往復する。

中日は「村周り祇園」。村内数キロの道程を神輿が移動するのであるが、各集落内の所々担ぐのみで、集落(わが地方では〝〟と呼んでいる。)から集落へは軽トラに神輿を載せて進む。
3日目が「本祇園」。初日とコースは全く同じである。最後の元のオカリヤ前に神輿を参着し安置するのが、本祇園の締めである。神官が祝詞を奏上し、来年の当番を神官のつくった紙縒りの籤で番当を決める。最後に担ぎ手によって、本宮に還御し祭りは終える。各節目で「さんぎり(しゃぎりの訛りか)」を奉鼓する。

数年前までは、神輿は同志会による山車が、神輿のあとに従って、牛歩戦術を用い神輿の奉還を阻んだものだ。開発会社の、バーベキュー大会などがあり、呑み放題、食い放題の祭りだったこともあった。

あれから何年でもない、不景気と、高齢化のしわ寄せが年毎に酷くなった。

町史から、民俗編年中行事の項を拾ってみよう。

>ギオンになるとどこの家にも、親戚からギオン客人がくる。嫁に行った娘も子供たちを引きつれて、骨休めとばかりやってくる。このような客人を見込んで、魚屋が鰹をいれた箱を天秤でかついで売り込んでいく。親元はたいへん忙しいが、前もって買い込んだ鰹の煮付けなどで早めに夕食を済ませ、親戚衆を連れて祭見物にと繰り出す。冷蔵庫のなかった当時は、鰹を生のまま刺身で食うことは大変危険とされていた。新しく嫁を迎えた家では、家紋を染め抜いた夏衣を新調、これを嫁に着せ、姑が連れて見物に出かけた。(中略)本宮の御手洗石は弘化二年のK村の寄進とあるから、遠くから方々の人々も信仰し、参拝したものと思われる。

オカリヤを中心として、氷屋・ガラ店・綿飴屋・シンコ細工屋・きんつばや・いか焼屋・カルメ屋・西瓜売りなど賑やかに出店が並び、年によっては見世物小屋もかかった。これ等の店はガス灯を用いた。(後略)A町史より抜粋。

昭和1桁生まれの老年反戦委員会M翁から「先輩!」との宣はれてしまっては、思出は聊か事実と異なるかも知れぬ。昭和は遠くなってしまった。



歴史と向き合う

2006-07-22 11:37:30 | 反戦基地
昭和天皇の戦争責任問題が、小さな声ではあるが各方面から、囁かれ始めたようだ。
 石原知事ですら、昭和天皇の戦争責任について、その責任を認めるような発言が目立つ。

 以下は
戦前の言論界の重鎮・徳富蘇峰
終戦直後の日記出版へと題する、朝日新聞七月十六日「文化・芸能」版からの引用である。
 
 「敗因考察・天皇の姿勢批判も」
 言論界の重鎮として昭和期の戦争を支える世論に大きな影響を及ぼした徳富蘇峰(1863~1957)が、終戦直後から付けた日記が出版される。蘇峰は「皇室中心主義」を唱え、A級戦犯の容疑を受け公職追放されたが、日記では、戦争に負けた原因を考察し昭和天皇や側近の責任を、厳しく追及している。(渡辺延志)

蘇峰は冒頭で執筆の動機を、後世の判断を受けるために自分の意見を残したいと記している。身辺の雑記などほとんどなく、なぜ戦争に負けたかを考え続ける。

「今上陛下は、戦争の上に超然として在ました事が(中略)この戦争の中心を欠いた主なる原因」と昭和天皇の姿勢を批判。周囲の重臣任せにして、本気ではなかったと指摘する。宣戦の詔勅も「申し訳的」として、戦争に一貫した意思がなく統率力がなかった、明治天皇だったら満州事変のようなことは絶対起こらなかった、と記す。(中略)
…すべてを東条元首相の責任として決着させようととの動きには「宣戦詔勅の御発表になった前後に於いては、まさか一切ご承知ないということでもなく。、また必ずしも御反対であらせられたとは、拝察できない」と、ここでも昭和天皇を批判している。


戸川ヤエ子さん

2006-07-21 21:26:38 | 日録

 何を勘違いしたのか、ボクは太宰治の生年は、今まで1901年だとばかり思っていた。だから昭和天皇と同じなんだなあと決めてかかっていた。

今月19日の毎日新聞記事、
 <悼:太宰治「富嶽百景」のモデル・外川ヤエ子さん=6月7日死去・97歳
 ◇親身に世話「おかみさん」>の20ポイントぐらいの大きなタイトル文字である。

<1938年9月、太宰は師事した井伏鱒二に紹介され、荒れた生活から立ち直るため茶屋の2階の8畳間に約2カ月寝泊まりし、小説の執筆に取り組んだ。夫政雄さんは出征のため不在で、外川さんが妹と一緒に太宰の食事を世話した。

この時の体験をもとに翌年書かれた短編小説「富嶽百景」には、太宰より1歳年上の、当時30歳だった外川さんが「茶店のおかみさん」として登場する。>

とある。それで初めて、太宰の1909年生まれがわかった。だから、今生きていたとすれば、まだ96歳なのである。〝まだ96歳〟と言ったのは、現役医師として著名なる日野原重明先生と比較したくもなるし、愚生との年齢差をも勘案した表現なのである。

「富嶽百景」は、文学碑にもなっている。
「冨士には月見草がよく似合ふ」があまりにも有名だ。

 しかし、ボクが面白いと思ったのは、その初めの方に出てくる、井伏鱒二と三ツ峠へ上ったとき、「井伏氏の放屁」のくだりである。このことについては井伏鱒二のエッセーでも、何回か読まされた。

<太宰治の「富嶽百景」という作品のなかに、私といっしょに三ツ峠にのぼったときのことを書いてある。三ツ峠の頂上で、私が浮かぬ顔をしながら放屁したといふのである。これは読み物としては風情ありげなことかもしれないが、事実無根である。ところがこの放屁の件について、当時は未知の仲であった新内節の竹中康久といふ人から手紙が来た。「自分は貴下が実際に三ツ峠の嶺に於いて放屁されたとは思はない。自分の友人もまたさう言ってゐる。自分は太宰氏の読者として、また貴下の読者として、貴下が太宰氏に厳重取り消しを要求されるように切望する。」そういふ手紙であった。

 をりから尋ねて来た太宰に私はこの手紙を見せた。
「どうだね、よその人でも、僕が放屁しなかったことを知ってるぢゃないか。こんな行き届いた手紙を書く人は、きっと物ごとに綿密なんだね。理解ある人物とはこの人のことだね。」

「知音の友ですかね。でも、あのとき、たしかに僕の耳に聞こえました。僕が嘘なんか書く筈ないぢゃありませんか。たしかに放屁しました。」
 太宰は腹を抱える格好で大笑ひをした。しかも、わざと敬語をつかって「たしかに、放屁なさいました。と云った。話をユーモラスに加工して見せるために使ふ敬語である。…>風貌・姿勢『太宰治』(講談社」この文は太宰治研究 奥野健男編「亡友」井伏鱒二(筑摩書房)にも見られる。

 今年は太宰治をしのぶ29回目の山梨桜桃忌だそうである。約58年前、雑誌「新潮」の「如是我聞」は随分ひどい小説だと思って読んだが、朝日新聞連載の「グット・バイ」一体とうなるんだろうと、はらはらした思い出も、昨日のような出来事としとして、胸に浮かぶ。それが10回分で絶筆となった。



太宰治「富嶽百景」のモデル戸川ヤエ子さん―――6月7日死去97歳

 河口湖が眼下に広がる御坂峠の茶屋(山梨県冨士河口湖町)。6月18日に開かれた、太宰治をしのぶ29回目の山梨桜桃忌に「戸川のおばあちゃん」の姿はなかった。

梅雨晴れ間

2006-07-20 07:34:14 | 日録

猛暑の後は連日の雨。
家の周りは草ぼうぼうである。
久方ぶりにみる梅雨晴れ間。思い腰をあげて草刈り作業となる。

新聞や朝のテレビのニュースは豪雨による各地の、被害を大々的に報じていた。
草刈りのできることを幸せと思って、感謝すべきである。

昼休み新聞を広げると、
 「通知表から〝愛国心〟削除」「国を愛する」「大切にする心持つ」
地方版としては4段抜きの大きな見出しである。
それによると、
<「国を愛する心情」や「国を大切にしようとする」など、いわゆる“愛国心”にあたる表現を通知表の評価欄から削除する動きが県内でも相次いでいることが19日分かった。>として、県内の2市内の13小学校が、その表現を削除或いは6小学校でも見直しが決まり、20日の終業式後、見直しされた通知表が児童に手渡されると書かれている。

これまでの通知表には「我が国の産業や歴史、政治などに関心をもち、それらを意欲的に調べ、日本人として国を大切にしようとする」などの項目があり、「◎、○、空欄」の3段階で評価がつけられていたのだが、「日本人として国を大切にしようとする」部分が削除されているという。

記事では、市教育委員会が、調べた結果とあるから、通知表の項目は現場の校長に任せっきりだったのだろうか。何年前からこんな馬鹿げた評価を黙認していた、教育委員とは一体何様なのか。

私の町の現状について、新聞の記事にこそ出ていないが、何分にも、こういう大事なことを率先した事例は、今まで聞いた事がない町だから、多分このような評価欄は存在すると思う。

それにしても、筆記試験の結果なら「◎、○、空欄」も納得せざるを得ないだろうが、空欄だった児童の教育熱心なママさんたち、よくも黙っていられたものだと、呆れざるを得ない。

夏休み5年生になる東京の□が、わが家の部屋中を、散らかしにやってくるはずである。通知票を厳しく検閲せねばなるまい。


巨人、横浜振り切る

2006-07-18 20:50:19 | Weblog

巨人8-7横浜
巨人が引き分けを挟む7連勝で、貯金を10とした。2回、李承樺のソロで先制。その後も小久保の3試合連続本塁打などで加点し、横浜の追い上げを振り切った。

巨人が35年ぶりの開幕5カード連読勝ち越し。
矢野が、鋭い振りでチームを引っ張っている。この日は5打数4安打2打点。出場10試合連続安打になった。開幕時は亀井との外野争いに負けたが、亀井が負傷で戦列離脱すると、穴埋めにとどまらない活躍だ。「打席に入るたび、少しでもうまくやろうと思ってやっているだけ」。プロ4年目の25歳から、目が離せない。

6点差から追撃 あと一歩及ばず
 横浜は9回、本塁打が出れば逆転サヨナラというところで多田が大飛球を打ったが、フェンス直前で捕られた。「少し差し込まれたかなあ」と牛島監督は残念がった。「6点差から追いつめたことを前向きにとらえてプラス思考でいくしかない」。つとめて明るく話した。

実はこれ出鱈目ならず。4月17日付朝日新聞17㌻スポーツ面、記事である。特に悪意があるわけでは勿論ない。真実の記事を再録しただけである。

>祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

再読に値する文なる哉。宜なる哉。
槿花一朝の夢
松樹千年終是朽、槿花一日自為栄。とも…。




曰く、不可解

2006-07-17 20:20:10 | 日録
嘗て、「幻のお酒」と言われた新潟石本酒造「越乃寒梅」は、数年前までは単品ではほとんど入手不可能だった。普通酒(いわゆる白ラベル)が、1万円以上はした。今では1.8㍑、つまり1升壜が2千円台でいくらでも買える。
不可解である。

〝曰く不可解〟先代石本翁も、〝曰く不可解〟だろうと思う。
不可解なことは、うんとある。
越乃寒梅もその小さな1例にすぎない。

北大ポプラ並木

2006-07-16 17:37:35 | 日録

遊彩さまへ。
>懐古で北海道大学へ行った。「私は北大出身ではない?!」それでは何故?それは、42年前に夏期応援で北大構内で校舎を建設したのだ!’若干28歳の若き現場主任として’長男が誕生した東京オリンピックの年であった。私が建てた校舎はあった。そして、当時よく通ったポプラ並木に行きスケッチをしたが、3年前の台風でポプラは半分は倒れ無残な姿で、その周りにはマンションや住宅が建ち、一変した景色を借景にしてみた。=ブログ「写画あーる」より

写真は、北大出身の隣村のN氏の詩集の扉絵をスキャナーでコピーした。
遊彩氏が北大の校舎建設に携わったのは、今日初めて聞いた物語だけれど、T市中央公民会館で、「第九」を唱った、N氏、貴兄、それにS弁護士夫人を思い出さずにはいられない。その後S夫人は未亡人となられた。
 今は賀状のやり取りだけで、往時酒豪だった彼女を、ふと思い出すことがあるけれど、何よりも、貴兄もN氏もS女史も、即ちボクも若かったんだなあと回顧せずにはいられない。





戦争責任

2006-07-15 21:57:21 | 反戦基地

(写真は7月20日挿入した)

朝日新聞は、7月12日から14日まで2ページに亘って『歴史と向き合う』第2部 戦争責任について特集を組んでいる。

7月12日
○東京裁判 パルの実像 「日本無罪論」の源泉に
(白抜き見出し)
私は日本の同情者でも反対者でもない
礼賛派「虚構を見抜いた国家的な恩人」
7月13日
○「退位」揺れた天皇 史実検証なお途上
(白抜き見出し)
終戦後自ら周囲に語る
責任尋ねた唯一の会見
7月14日
○見失った新聞の使命 反省を今につなぐ
ここは白抜き見出しはない。もっぱら朝日新聞自体の反省で2ページを埋む。

戦争責任問題は××××の××××抜きにしては××××××××。
××××の8月15日の××××××を××も、××であり、××××××。
ボクは、いっそ××××によって××××××、×××××××××××××××
。××××××、×××××××××××××××、。××××××、×××××××××××××××、××××××××××××××××××××。