週刊朝日創刊50周年記念
朝日新聞でみる世相50年(朝日新聞社1972)
1945年6月10日空襲による爆撃を身をもって体験した。しかし、何分65年もムカシの記憶であり、記憶違いや、明らかな誤りもないとは言えない。赦されよ。
町史には、次の様な記述がある。「昭和20年6月10日、B29、250キロ爆弾投下による被爆状況。
T海軍航空隊即ち予科練は、7、8割の施設が灰じんとなり、281名の尊き少年航空兵を失った。その他負傷者115名(病院収容後26名死亡)。当日は日曜日であったので、多くの父兄が遠方から予科練の子弟に面会に来ていたが、そのうち面会人の方の死亡13名、A地区台地の奥行300メートルほどの防空壕の入り口付近に爆弾が投下され壕がつぶれ、中に避難していた少年兵が右のような結果となったのである。
B29 250キロ爆弾及び焼夷弾投下による各被害状況。
○A地区
死者 13名
負傷者 多数
焼失家屋 集会所ほか15戸
付属家屋物置納屋約30棟
○T地区
直撃死亡 10名
直撃家屋 6棟
負傷者 10数名
大破焼失家屋 15棟
○A地区、T地区の爆弾穴跡200箇所以上に及ぶ
○H地区
死者 5名(内直撃弾にて家族4名死亡)
旧F村
S地区
死者 16名
負傷者 約15名
直撃全焼家屋 4棟
家屋半壊 60棟以上
F小学校は、直撃弾を受けたるも、日曜日のため学童不在、不幸中の幸であった。爆弾投下穴跡60箇所以上に及び、K湖に相当数落ちたらしい。
○T地区(F村)
死者 7名
負傷者 10数名
全焼全壊家屋 10数棟
殆どの家が大破した。
爆弾穴跡 96箇所
K地区の第2海軍集会所は爆撃で火の海となり灰じんに帰した。不思議にもS町(予科練正面繁華街)だけは爆撃を免れた。
371名の人命を失った6月10日は正に悲劇の1日であった。」
ボクは正直云って「沖縄慰霊の日」を全く忘れていた。朝日新聞コラム「天声人語」で、ゴルフの宮里藍さん(25)が米国ツアーで今季4勝目をあげ、世界ランクの首位に立った快挙を取り上げ、
▼世界一を育んだ「日本の亜熱帯」は観光資源でもある。米軍基地がなければ、大自然とリゾートの楽園だろう。そんな夢想を許さない、がんじがらめの現実の下で沖縄は「慰霊の日」を迎えた。本土防衛の捨て石が、20万の命と共に捨てられた日である▼65年を経て、島はなお爆音と硝煙の中にある。基地負担をどう軽くするかの算段は、日米合意で振り出しに戻った。沖縄言葉(うちなーぐち)で通じ合えるほどの関係を首相が築かない限り、普天間は動くまい。国政の関心は参院選に移り、昨日の党首討論も基地を掘り下げなかった▼沖縄タイムス紙上で、宮古島の詩人市原千佳子さんが嘆いていた。「日米共同声明は沖縄(日本)が今なお米占領下にあることを示した……我々の戦後はしつこい」と。米国とのしつこい交渉だけが、霊を慰める道である。
と記したのを読んで、「あ、今日は沖縄慰霊の日」を知ったのである。
沖縄戦から比べれば、わが村の爆撃の惨状などはその比ではあるまい。しかし、あの日(1945年6月10日)あのときの状況は町民として後世に伝えなくてはなるまいと思った。
残念ながら、今では町民も殆どこの日のあったことを忘れ去っている。「慰霊祭」と云えば過去の記録を捜して見ると、10月末町主催の「戦没者追悼式」が行われた記録がある。
謹啓
仲秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申しあげます。
さて、先の大戦において戦没された幾多の町関係者の霊に対し、町民あげて追悼の誠を捧げ、平和への決意を新たにするため、町戦没者追悼式下記により挙行いたします。
つきましては、ご多用中のところ誠に恐縮に存じますが、ご臨席賜りますようご案内申し上げます。 謹言
記
日時 平成 年月日 午前10時30分(9時30分受付開始・11時45分式典終了)
会場 町体育館
※準備の都合上 月 日までに、返信容葉書に出席の有無をご記入の上返送くださるようお願い申し上げます。
平成 年 月
町長 氏 名
尚、当日ご参列の際に、お手数ですが本紙をご持参下さるようお願い致します。
又、当日の服装は略礼服または略礼服に準じた服装にてお越し下さい。
今日ははよから、サッカー一色です。北朝鮮はサッカーを蹴球という、とどこかに書いていましたが、日本もかつてはそういっていた。
みんな遠い忘却の彼方に飛んでいきます。「うちなーぐち(沖縄言葉)」と書いて、今気がついた。「うちなー」というのは、「うちらの」口という意味かと思っていたが、「ウチナー=オキナワ」ではないかと。
普天間移転も、「うちなー」「なんくるなるさ=(なんとかなるさ)」という空気がないとはいえないようです。その諦観がまた沖縄の悲哀をかきたてます。