狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

幻の酒はいま…

2006-12-28 22:42:38 | 日録
 昨年呑み仲間のM 氏から「日本農業新聞」所載のトラム〝コンパス〟の記事「乾杯に想うこと  祈念の時は日本酒で」が、メールに添付されて送られてきた。
M氏は酒飲み仲間といっては大変失礼になるほど、小生とは肩書きも、教養の度も、ましてや所得の差も著しく違う。それでも「反戦」の意志思考は共通していて、同等と考えてくれていてくれるのであろう、長いお付き合いをさせて頂いている。

 その頃僕は42年間続けた運送業をやめた。デーゼル排気規制で、主たる運送先の、千葉、東京、神奈川3県に配送ができなくなったことと、法人とはいえ、高齢すぎる小生のワンマン会社であったこととによる。
 経営主を辞めたら、途端に所得もなくなったが、すべてやる事がなくなってしまった。屋敷内の草取りをやって、毎日酒を呑んで一日を終えても仕方がない。
 ボケ防止にブログを始めた。 自衛隊のイラク出動が決まった時の頃である。狩野氏のコラムに僕は喝采した。以下がその文の抜粋である。

>古来、再び会えるかどうかわからぬ旅に赴くときには水盃がかわされてきた。だから今回のように壮行の意図が強ければ酒盃で別れを惜しむべきであろう云々。<

 このコラムにもある通り当時はビールでの乾杯が当然であった。(今はウーロン茶か?)
 ある日、ボクガ「乾杯の発声」を指名された。指名される可能性が高い飲み会だったので、予め狩野氏のコラムをメモしておいて、それを読みあげたのである。ボクの乾杯は最高の出来だった。持参の吟醸酒で乾杯した。

 あれから一年。日本酒販売店の様相も激変した。選挙の当選祝いの乾杯に遭遇する機会はまだない。勿論今後行く機会も無いだろう。

 年末なので、スーパーの酒どころを数箇所散策した。
 再び狩野氏「コラム」のご承諾を得るためmailを差し上げたら、
>かなり古いコラムですので、掲載日も書いて下さいね。少々事情が変わっている場合もありますので。<というご返事があった。

酒事情――人気銘柄の価値とは
 ディスカウントストアやスーパーで、酒が値引き販売されるようになって久しい。いよいよ来年からは、キリン、アサヒ両社はビールの希望小売価格もなくす方向である。このように価格が下がる中で、逆に清酒や本格焼酎の中には不思議な存在がある。それはメーカーの希望小売価格の数倍、ときによっては10倍に近い価格で取引される銘柄が生まれたということだ。
 インターネットのオークションサイトを見ると、幻の酒と呼ばれる人気銘柄は毎月超高価格で落札されていく。単に造りや品質だけで比較すればそれと遜色ない商品が、いくらでも定価を下回って販売されることも多いのにである。
 もちろん世間には人気が高まり、当初の価格にプレミアムの付く商品はたくさんある。しかし、その多くはすでに終売であったり、限定販売品であったりする。一部のシャトーワインなどの場合には入札で価格が決まることもある。焼酎や清酒のように継続的に市場に投入される商品で、何年にも渡って定価の数倍でも購入されるという事例はまれであろう。
 消費者からみた理由は大きくはふたつ考えられる。ひとつは顕示的消費とでも呼べるもので、時代的価値があるものを飲むことが目的となっているのだ。この場合には、ただ単に美味しいということでは駄目で、「世間では入手困難」というお墨付きがあることも大切なエッセンスになる。
 もうひとつは、時間を買うという考え方だ。幻と言われる銘柄も時間と手間をかけて本気になって探せば、手頃な価格で購入することもできる。しかし飲みたいのは今この瞬間であり、探すことに自分の時間を費やしたくはないのである。
 しかしどちらの理由にしても単においしい酒が欲しいわけではない。そのブランドがまとう価値・ストーリーを体験したいからに他ならない。
2004年07月27日掲載


今朝の天声人語

2006-12-27 23:02:21 | 怒ブログ
刑場まであと少しの所で男が言った。「すまんけど、目隠しを……」。「きつかったかい」と尋ねる係官に「いいえ。一度はずしてください」。しばり直すわずかの間に天を仰ぎ、つぶやいた。「……広い空ですね」。名古屋刑務所の刑務官だった板津秀雄さんの『死刑囚のうた』(素朴社)の一節だ。

 その日は今日か明日かとおびえ、あるいは、従容として刑場に向かう。いくつもの「死刑の現場」に立ち会った人の証言は重い。後に死刑廃止運動に加わり、98年に亡くなった。

 法務省が、4人の死刑囚の刑を執行したと発表した。1年余ぶりの執行で、一度に4人は97年以来だ。背景には、死刑確定囚が100人を超えることへの法務省の懸念があるともいうが、ことは数の多少で左右されるものだろうか。

 昨日は名古屋高裁で、死刑囚の再審請求についての決定があった。61年に三重県で起きた「名張毒ブドウ酒事件」で、同じ高裁が昨年認めた再審開始の決定を取り消した。

 事件がむごたらしいことや、裁判官によって判断が異なりうることは分かる。しかし、長い歳月、冤罪を訴えつつ死と隣り合わせになってきた身も思われた。

 刑法学界の重鎮の団藤重光さんは、東大教授を経て最高裁判事になった。実際に死刑事件を扱う立場に立ってから、取り返しのつかない誤判の恐ろしさを心底理解したという。「いまさらながら事実認定の重さに打ちひしがれる思いでした」(『死刑廃止論』有斐閣)。09年に裁判員制度が始まれば、誰もがその重さを背負う可能性が出てくる。

求めよさらば与ヘられん

2006-12-27 10:16:47 | 本・読書

9われ汝らに告ぐ、求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。10すべて許むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩くものは開かれるなり。11汝らのうち父たる者、たれか其の子、魚を求めんに、魚の代わりに蛇を與へ、12卵を求めんに蠍を与へんや。13さらば汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与ふるを知る。まして天の父は許むる者に精霊を賜はざらんや』(舊新約聖書、日本聖書協会1982)

9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。10だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を與える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に精霊を与えてくださる。」 
(新共同訳聖書旧約聖書続編付き)日本聖書協会:全国学校図書館協議会選定・日本図書館協会選定)1987年共同訳聖書実行委員会

9それゆえにわたしはあなたがたに言います。求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見えだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。10だれでも求めているものは受け、探している者は見いだし、まただれでもたたいているものには開かれるのです。11実際、あなた方のうちどの父親が、自分の子が魚を求める場合に、魚のかわりに蛇を渡すようなことをするでしょうか。12あるいはまた、卵を求める場合に、さそりを渡したりするでしょうか。13それで、あなた方が邪悪なものでありながら、自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているのであれば、まして天の父は、ご自分に求めている者に精霊を与えてくださるのです」。(聖書新世界訳ヘブライ語、アラム語、及びギリシャ語の本文と照合しつつ、英文新世界訳聖書(1984年改訂版)からなされた翻訳―1985年日本語版-

死刑執行

2006-12-26 21:05:50 | 怒ブログ
死刑執行のニュースが新聞に小さく載っていた。

東京、大阪、広島の各拘置所で25日午前、殺人罪などで死刑が確定した4人に刑が執行された。死刑執行は2005年9月に1人が執行されて以来。

 00年以降は毎年1~3人の死刑が執行されてきたが、4人に対する同時執行は、1997年8月に永山則夫・元死刑囚ら4人に執行されて以来、9年4か月ぶり。杉浦正健・前法相は今年9月までの約11か月間の在任期間中、死刑執行命令書に署名せず、長勢甚遠(ながせ・じんえん)現法相が就任して初めての執行となった。

 執行されたのは秋山芳光死刑囚(77)(東京拘置所)、藤波芳夫死刑囚(75)(同)、日高広明死刑囚(44)(広島拘置所)、福岡道雄死刑囚(64)(大阪拘置所)。法務省は25日、執行の事実と人数だけを発表した。(読売新聞)

狭き門

2006-12-25 22:22:13 | 怒ブログ
アンドレ・ジイド作川口篤訳「狭き門」という岩波文庫がある。
その扉La Porte Etroite 1909 Andre Gide
の次ページには目次があり、その次が主題
「狭き門」、そして裏ページには、

力を尽して狭き門より入れ   
         ルカ伝第13章第24節とある。

しかしこの「狭き門」は川口篤訳ばかりでなく、何人もの訳はあるが、巻末の「注」で、

「力を尽して狭き門より入れ……」この一句、作者が扉に記したように、ルカ伝第13章第24節に見えるが、ヴォーチエ牧師が引用したのは、マタイ伝第7章第13節である。(川口篤訳・岩波文庫)この解説は訳者各共通しているようだ。






天長節

2006-12-23 18:37:15 | 怒ブログ

不謹慎なことかと存じ上げるが、小生はじめ拙宅家族は、今日何の祭日かわからなかった。昔(桃太郎がいた頃の大昔ではなく、約70年の昔である。)
天長節の「式」があった。高等科の3教室を、ブン抜いて式場を作った。正面に天皇皇后の御真影を、奉安(安置し奉った)した式場である。
校長が正面壇上に立つと、教頭(小学校では教頭という呼称はなかったような気がする)恭しく白夫で覆った教育勅語を奉安室から捧持した。(紫色の袱紗状の布だったかもしれない)
式場書面脇には「式次第」の張り紙があって、その順序にしたがって式は粛々と進めらたのである。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ…」
校長は祝詞のような口調で奉読した。
その後、天長節の奉祝歌を歌ったのである。

今日の吉き日は大君の
うまれ給いし吉き日なり
今日の吉き日は御光の
さし出給いし吉き日なり
光遍き君が代を
祝え諸人もろともに
恵み遍き君が代を
祝え諸人もろともに

この歌は明治二十六年に制定されたとあります。

>明治天皇の誕生日は昭和2年(1927年)に明治節という祝日となった。なお戦後は同じ日が国民の祝日「文化の日」となったが、これは1946年の11月3日に日本国憲法が公布されたことに由来し、明治節とは関係なく定められたということになっている。

昭和天皇の誕生日は、1989年に祝日法の改正で「みどりの日」とされ、国民の祝日として残された。さらに2007年からは「みどりの日」から「昭和の日」と名称が変更される(「みどりの日」は5月4日に移動)。

なお、大正天皇については実際の誕生日は8月31日で、大正2年(1913年)まではこの日に天長節が祝われたが、翌年以降は、盛暑の時期のために各種の行事催行が困難であることに配慮し、2ヵ月後の10月31日を天長節祝日とした。大正天皇の場合には、崩御後に誕生日及び天長節を祝日とすることがなかったために(在位期間も短く、明治天皇のような目立った事績がないためだとみられる)、現在にいたるまで祝日とはなっていない。(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)




tani邸茶室

2006-12-22 21:58:23 | 日録
こうして写真に撮ってみると「なか なか」に見えるけれど、実際は変哲もない八畳和室である。(家全体が和室ばかりだから、特に断る必要もないのだけれど…)和室→和風に作った部屋。日本間(広辞苑)日本間→日本式の部屋。畳の敷いてある部屋。和室。こうなると、小生のパソコン部屋と、厨房、茶の間は座敷がない。しかしお寺や神社にも畳が敷いてないけど、お寺の本堂が洋間であるとは云えないような気もする。しかし、そんなことはここでは問題ではない。
この八畳間には床の間が付いていて、お茶を点てるとき、この掛け軸を下げる。

この小さな写真では実感が出ないけれど、これはある著名な洋画家(象徴画)に、依頼して画いて頂いた。正月ぐらいにしかお目にかかれない。
ここでオレは○妻とお茶を戴くのであるが、勿論流儀に叶ったものではない。
「ウンと熱くして呉れや」これがオレの挨拶である。

オレは、一日に何㍑のお茶(煎茶)を呑むか知らないけど(キーボートにカバーをしたから助けられている)、パソコンをやるにも、お茶は欠かせない。何回溢してしまったことか。
普通の茶飲み茶碗に抹茶をいれ、茶筅など使わず、箸かスプウーンでかき混ぜて、ガブガブ呑んでみたいが、それでは、ウチの経済状態がゆるさないのだそうな。







断腸亭日録第二十八巻

2006-12-21 22:30:14 | 怒ブログ
昭和19年甲申歳    荷風散人六十有六
十二月廿一日。晴。午後西班牙公使館崖下山谷町の混堂に浴す。若き独逸人二人の入来を見る。配給の悪石鹸にて浴槽に入る前足を能く洗ふ。是西洋人の習慣成。余たまたまこれを見てむかしミシガンの学窓に在りし時の事を思出しぬ。されどこの思出も今は却て涙の種成。夜九時頃警報あり。

昭和19年の今日の荷風散人は何を書いているのかと荷風全集を引っ張り出して、「断腸亭日乗」をめくって書き記した。
偶然今朝(23日記す)朝日新聞「天声人語」は、こんな書き出しで、世評コラムを書いている。

>永井荷風の日記「断腸亭日乗」には、税金に関する記述が繰り返し出てくる。税務署の指摘の細かさや厳しさについても記す。「楊枝の先にて重箱のすみをほじくるとは実にかくの如きことを謂ふなり」(『荷風全集』岩波書店)。

 昭和6年の日付だから70年以上も前だが、この感想には、そう古びた感じがしない。納税は憲法で定められた国民の義務だが、いつの世にも税の悩みは尽きないのだろう。<

清流に臨みて詩を賦す

2006-12-20 16:23:21 | 本・読書
聊か旧聞に属することで恐縮だが、秋篠宮紀子妃殿下(紀子さまといった方が一般的みたいなのだけれど…)が、親王様をご出産なされたとき、マスコミの扱いは異常なものであった。新聞の号外は勿論だが、東証株式市場への影響まで取り沙汰されたようだった気がする。

ところでそのとき、紀子さまのご両親である川嶋辰彦学習院大教授夫妻の感想は、「『清流に臨みて詩を賦す』心に重なる感懐を覚えます。お健やかな御成長を謹んでお祈り申し上げます。」と仰っしゃられとの記事が新聞にあった。

それは如何なる心境なのか、一応ネットで「陶淵明」を検索してみた。
登東皋以舒嘯 臨清流而賦詩
聊乘化以歸盡 樂夫天命復奚疑
之は「歸去來兮辭」という長い詩文の終の方にある詩文で、小生が解読するには(解読には一生かかってしまうであろう)凡そ難解、解読不可能なものであった。

ところが、偶然である。
その出典「陶淵明全集(下)」が小生の手元の書棚にあったのである。
意識して頂いたのではないが、今年の文化祭の折、町の 図書館の「整理ポスト」として一般町民に無料払い下げをした本の中から、僕が行列の中に入って頂いてきた、
「ワイド版岩波文庫・陶淵明全集(下)松枝茂夫・和田武司訳注」なのである。

岩波文庫は、最近大きな活字版の文庫に移りつつあるが、それでもわれわれ高齢者の読めるような活字ではない。その点ワイド版は、体裁といい、活字ポイントといい、文句の言いようもない良書である。

この「ワイド版陶淵明全集(下)によって、妃殿下のご両親である、川嶋辰彦学習院大教授夫妻の感想を解読できたのであった。

次が、その訓読みと、平易な現代語訳である。

已矣乎 寓形宇内復幾時
曷不委心任去留 胡爲遑遑欲何之
富貴非吾願 帝郷不可期
懷良辰以孤往 或植杖而耘
登東皋以舒嘯 臨清流而賦詩
聊乘化以歸盡 樂夫天命復奚疑

已矣乎(やんぬるかな)、
形を宇内に寓する 復た幾時ぞ。
曷ぞ心に委ねて去留を任せざる、
胡爲(なんすれ)ぞ遑遑として何くに之かんと欲する。
富貴は吾が願いに非ず、
帝卿は期す可からず。
良辰を懷うて以て孤り往き、
或は杖を植(た)てて耘耔(うんし)す。
東皋に登りて以て舒(おもむろ)に嘯き、
清流に臨みて詩を賦す。
聊か化に乘じて以て盡くるに歸し、
夫(か)の天命を樂しみて復た奚(なに)をか疑わん。

ああ、いかんともしがたい。
肉体がこの世にあるのは、あとくばくもないというのに、
なぜ自らの願うところに従い、自分の出処進退をそれにあわせないのか。
一体この私は、何処へ行こうとして、かくもあわただしくしているのであろう。
富や地位は私の願いではない。復、神仙の世界などというのもあてにならない。
晴れた日が来れば、ひとりで歩き回り、
杖を傍らに突き立てて農作業の真似ごとをする。
また、東の丘に登ってのんびりと口笛を吹き、
清流を前にして詩をつくる。
自然の変化にわが身をあわせ、生命の終わるのを待ちうける。
天命を素直に受け入れて楽しむ境地に入れば、
もはや何の迷いもなくなってしまうのだ。

〈寓形宇内〉身を天地の間に寄せること。
〈心〉心願。ほんとうにしたいこと。
〈去流〉進退、行動。
〈遑遑〉あわただしいさま。
〈帝郷〉神仙のすみか
〈耘耔〉耘は除草すること。耔は土をかけること。
〈乗化〉生命が変化するのに従うこと。
〈帰尽〉死をさす。


昔・あの日あの頃 T翁の話

2006-12-18 10:36:53 | 怒ブログ

T翁は、小生と親子ほども年齢差のある間柄ではあったが、その年齢差を感じさせない友人としての、親しい交際を頂いた方である。翁は元朝日新聞記者で、東京大空襲のときは、東京本社の地下室にあったという。
88歳まで全日本スキー連盟の現役指導員を勤められた。100歳で世を去られた。
当時の海部俊樹総理大臣から勲6等単光旭日章を受けている。

この写真は、熟年の方ならすぐお分かりだと思うけれど、太平洋戦争で、日本が壊滅的打撃を蒙った、ミッドウエー海戦の時の司令官南雲忠一中将である。

 私が、町の文化雑誌の編集に携わっていた頃、寄稿された原稿と一緒に頂いた写真である。原稿は、「昔・あの日あの頃」という主題で、翁が世を去られる数年前の、90歳を過ぎてからの原稿で、K句会会報「Tさん追悼号」に再録したものである。

>太平洋戦争開戦時の連合艦隊指令長官山本五十六さんは、かつて霞ヶ浦海軍航空隊に副長兼教頭として、大正13年8月から勤務された。T市J寺」山門傍の私邸から、土曜日の夜など、隣町内の料亭「K楼」に、6,7人の部下を連れて現われた。

部下は、座敷から早く軍服のまま階下別棟の撞球場に降り、しばらくして丹前に着替えた山本さんが降りてくる。そんな時、私も仲間に入れて貰った。こんな時が取材のチャンスでもあったからである。

その山本さんは13年12月にアメリカ駐在大使館付武官に転じ、1年半で霞ヶ浦を去ったが、私は航空とか空軍とか、生まれたての特殊な仕事に多少でも慣れたのが運のつきで、それから長年、霞ヶ浦のカイツムリみたいに、居座ってしまった。

しかし人間万事塞翁が馬というが、その為に希ってもない人々に会ったり、特殊な出来事にも遭遇し、私の視野も広がっていったものと、大変ありがたく思っている。

中国に「壷中有天」という言葉がある。荘子の言葉で、隣の薬屋の親爺が壷の中に入るのを見て、自分もそっと入ってみると、中には金殿玉楼が建っていたという話だが、どうもしっくりしない。私はむしろ、冬の野路の小さな水溜りの底に、広い大空がキラキラ写るものに心ひかれるものである。冬の白い小さな千切れ雲は邪魔にはならない。

太平洋戦争は、山本さんも霞ヶ浦で会ったあの部下たちの多くをも、軍艦や飛行機もろとも海の中に飲み込んでしまった。
真珠湾攻撃の機動艦隊司令長官南雲忠一さんは、航空出身ではないので、初めてお会いしたのは、その開戦に先立つ昭和16年の春であった。海軍大学校長から急転して現場の指揮官に転じ、密かなその機を隔てて真珠湾を目指した出動への、その合間の1日、故郷の吾妻山菩提寺に旧友の住職を訪ねてお茶を汲んだ。私は南雲さんのその最後の「時」に会った。これが初めで終わりである。そのときに撮った写真の一枚は残っているが、南雲さんのこういった写真はどんな出版物にも見かけない。

その前年、15年5月に中国青島沖警備中の艦上でしばしばお会いした北支派遣艦隊司令長官島田繁太郎さんは、開戦時東条内閣の海軍大臣で開戦の鍵を握った人と言われた。青島の迎賓館で、王克敏、王精衛両氏に会った。南京会談への動向を知る為だったが、彼等はその2ヶ月余に一応は中国新政権を作った。

さて日中事変その他のこと、ずっと古いことだが、血盟団、5・15事件では、本県に関わる特筆すべき生々しい事件に出会った。
関東陸軍大演習の時、故梨本宮守正王・李垠殿下の真壁本陣の宿に同宿した。奥日光での明治神宮スキー最後の大会には、最後の日、最後の競技の最後の一人の演技まで見守られてご一緒に前白根を下りられた。御名代の宮というご見識を拝察した。

昭和18年末緒方竹虎さんが朝日新聞社を辞めて情報局いりした。私はその情報局に、通信部関係原稿の検閲をして貰うデスクをしていた。また緒方さんより少し前の総裁だった同じ朝日の副社長だった下村海南さんが、その頃『一期一会』を出した。
それには井伊直弼の遺書『茶道一会集』の「お茶の湯の会は、一期一会いふて、幾度同じ当客公会するとも今日の会は再びかえらざることを思えば実に我がい一生一度の会なり」を引用している。この理を推せばあの日あの折会い得たい人々は、みな私が私が一生忘れがたい一期一会の人なのである。

それから幾年、昭和天皇崩御には、本誌に思い出を書かせていただき、そしてまた、今上天皇ご即位には町K俳句会の句集に「美智子皇后車上の笑顔」を書かせてもらったが、よかったなという思いが深かったのである。

話はまだ前に戻るが、私一家が仙台から小田原に移ったのは、緒方さん達の話のすぐ前の17年7月のことである。そこから東京に通った。私の家に極めて近い所にその時の肩書きが無任所フランス大使の寺崎太郎さんが住んでいた。ある日メイドが私を呼びに来て、
「旦那様が、弟(英成さん)がウヰスキーを持ってきたので一杯だけ差し上げたいというお言付です。」とのことでお伺いした。まことに結構なウヰスキーであった。しかしこんなもの今時の日本で手に入るわけはない。でも後日、つまり平成3年のただいま、寺崎英御用掛日記「昭和天皇独白録」が出て分った。

その「はじめ」の項に「そしてこの日の日米開戦(真珠湾)に伴って抑留された野村、来栖等と共に寺崎一家(英成)が日本に帰ったのは昭和17年8月20日朝である。太郎夫妻が彼等を迎えてくれた。太郎は東条内閣の下では働けないと外務省をやめ……」とあった。
ついでくれたウイスキーは本当に一杯であった。(平成3年12月記)

年末句会

2006-12-17 22:07:23 | 日録

歳末の実感運ぶ汲み取り車

忘年会鉄腕アトムで〆にけり

年の暮れ十円硬貨また拾う

おでん鍋特価品らし品豊富

年末の漢字「命」と決まりけり


ある会誌から

2006-12-17 21:23:23 | 本・読書
 この文章は、私の県内、S市の「文化団体協議会」発行の「会誌」から引用したものである。

この会誌は十数年前、同市でキリスト友会系列の幼稚園の園長である、F氏(当時90歳)から頂いたものである。

  『Fの分校時代    O・A』
…(略)私が入学したのが昭和6年(1931年、満洲事変が始った年)、H・S・HとO・H(集落の名称)の一部の4年生までがここに学んだ。
校庭は四方が桧葉の生垣に囲まれ、東と北に通用門があった。庭の南には大きなけやきの木、東南にひいらぎと淡紅色の花をつけた百日紅、西と北には桜の木、角の方に小さな砂場があり、低鉄棒もあった。

校舎は木造で古びた平屋瓦葺き、東が低学年(1・2年)、西が中学年(3・4年)、一番西側に下屋が造られてあって、職員室と小使室が並んでいた。その仕切りは障子だったと思う。昇降口と便所は東教室北廊下のその北にあった。

小使室の近くには大きな「さと」の木が生えていて、地面におちた黒茶色の〝さとの実〟を競争で拾っては、よく食べた。又、分校は井戸水が悪いので、その水を大こな瓶に溜め、そこから垂れる越し水を飲んだ。竹筒の先きにぶらさがった赤茶けた〝越し水〟が目に浮ぶ。
 担任は一年が小太りで詰襟のI先生、二年がちょこ髭のK先生、三・四年が若いO先生だった。
 各学年共20名弱で、三つ年上の兄は男が僅か2人だったと聞いている。複式なので、在校中に一年上下の学年とは二度同じ教室で過ごすことになる。

 授業の合図はおじさんが鐘を鳴らした。
(中略)
 天気が変わって途中で雨になると、母ちゃん方が交代で近所の子供の分まで、傘を束ねて持ってきてくれる。昔は本当に人情がこまやかだったと思う。
 今の子供たちに60年前(2006年からでは、約75年前)のこんな話を聞かせても分ってくれないであろう。

 当時は黒表紙の国定教科書で、修身、国語、(読方・綴方・書方)、算術、図画、唱歌、体操、手工を習った。学校手牒(通知表)には「操行」という欄もあった。この手牒を開くと「教育に関する勅語」「戊申詔書」「国民精神作興に関する詔書」が載せられているが、昭和の教育理念はこの三大詔書によって、強く規制されたことであろう。
(中略)
 さて、当時の勉強の事は殆んど忘れたが、私たちの学んだ「ハナハト読本」は、間もなく色刷りの「サクラ読本」に改編された。あの頃は。「今日」は「ケフ」「蝶々」は「テフテフ」と書いた。

木内小平、広瀬中佐、乃木大将、日本海海戦、肉弾三勇士等の軍国美談も記憶に残っているが、国家主義、軍国主義が学校教育の中で強調されたことであろう。
「庭に咲いた垣根の小菊、一つ取りたい黄色い花を、兵隊遊びの勲章に」この文は私の心に深く刻み込まれ、今でも覚えている。
(中略)
 小遣いは1銭(1円の百ぶんの一)、これがなかなか貰えない。貰ったものなら小躍りして駄菓子屋に駆け込む。
 時には太鼓を叩いて飴屋のおばさんが来た。紙芝居のおじさんも来た。1本1銭の飴を買うと。「黄金バット」の紙芝居が見られる。銭がない時は、遠くでそっと眺めていた。
少年倶楽部に「のらくろ」「冒険ダン吉」が、当時の少年達の人気尾を集め、熱狂させたことも忘れ羅れなイ。
 今考えると、あの頃の子供達には、すばらしい子供の文化があった。(略)



補足尋常小学算術書

2006-12-16 17:57:15 | 本・読書
尋常小学算術書を、藤富康子「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から、引用したのだけれど、「中抜きの引用」なってしまった。もう少しその前に戻って引用しないと、ちょっと意味が通じないと思うので書き足してみたい。

>賛否両論に渦巻く世評を満身に浴びながらも、昭和8年4月入学する児童からこの新しい国語読本は使用され、その冒頭文より「サクラ読本」と通称されて、一人歩きを始めた。世間の評判につられてか、小学生に関係のない家庭までも巻一を買い求めて話題とするほどの人気であった。(略)

昭和7年には「尋常小学図画」と「新訂尋常小学唱歌」の教科書が刊行され、8年にサクラ読本の「小学国語読本」と「小学書方手本」、9年には青表紙に美しく装われた「尋常小学修身書」が新しく刊行された。そして昭和10年には―。

新教育思想を背景にしながらまだまだ平和なそのころ、もう一つの熱気が図書局に渦巻いていた。『尋常小学算術書』の改訂をめざす塩野直道図書監修官を中心とした若い鋭意の面々である。サクラ読本の好評は、スタッフの意気に拍車をかけ、昭和10年の発行を控えて原案の起草に検討に、たゆみない努力が続けられていた。

かつて、日本の数学教育は、関孝和(1640~1708)を頂点としていた。直感的・術的な和算の伝統に、幕末の欧米文物の流入による客観的・学的な洋算の必要性が加わり、明治5年の学制発布を機に、「和算廃止、洋算専用」が唱えられ、ソロバンでの計算を廃して筆算の普及が努められていた。しかし、筆算を要求されても、それを教える側の教員にまだ洋算を知らない者が多く、次第に珠算を教えることも認められるようになり、さらには暗算を奨励して、明治10年代には筆算・珠算・暗算の教科書が出版されていた。30年代に入ると近代国家として教育体制を整える必要から、33年に「小学校令」が制定され、その算術科の教則も定められた。

算術ハ日常ノ計算ニ習熟セシメ、生活上必須ナル知識ヲ与ヘ、兼テ思考ヲ精確ナラシムヲ以ッテ要旨トス
これは以後40数年に及ぶ指導精神となったのである。