狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

回想(二)

2008-12-21 06:05:23 | 日録

キリスト友会(フレンド)の活動について、あまり熱心でなかった私には、N兄に教えられたことは数えきれないほど多い。
 1982年前後はN兄が友会の代表書記であったかどうかは確証できないが、月報の編集を担当され数々の意見を寄稿されていた。
「1982年聖手のある私 N・K」と題した冊子を頂戴したことがあり、まだ私の手元に残っている。その中の
「第3章 神のなされることは皆その時にかなって美しい」に、次のような記述がある。
―1980年3月、私は相続した住宅と店と倉庫を全部売却した。15年働いて累積した借入金に充てました。(商売とはこのようなものです)今思いば、あの時あゝしなければ、その時こうしておけば、と考えることは幾つかあります。しかし一つも悔いとはなりません。(略)
―家屋敷、これを手離すその時に、私に悲嘆はありませんでした。あるものは、むしろ(じぶんでも予想出来なかった)不思議な解放感でした。妻も老母も、私の一言で、よくわかってくれて、つぶやきの一つ、涙の一つも見せません。これも稀有なことだと思います。
「神与え、神とり給う、神の御名はほむべきかな」はまた私の口から出づる賛歌でありました(略)

 西暦を和暦に置き換えると、1980年は昭和55年、N兄は確か強歳生まれと聞いていたから満50歳の頃である。
 若かったと云えばそれに違いないが、信仰の力がなくては普通の人にでき得ることではないと思う。
 当時これを読まれたYさん(最近亡くなられた)が感激のあまり長い長い「感話」を述べられた記憶がある。
 このころN兄は葬儀の在り方に特に熱心であった。1982年事務会で、
「葬儀の在り方を検討する特別委員会」をつくり、後に成案とするためにN・Kに文章化を委任する。
「葬儀の手引き(暫定)」という冊子にそう書かれているが、その後の経過を私は覚えていない。

 《学生だった頃、東京のあらゆる教会を探し求め歩いた。そしてキリスト友会(クエーカー)に辿り付いた。これまで全部中途半端がったが、これだけはこれだけは本物にしたい。》
 「御霊(みたま)によって進もう。」これがN兄の口癖だった。(2004,4)




回想(一)

2008-12-15 09:46:09 | 日録


折角書き綴ったものが、「投稿」ボタンの押し間違えで、どこかへ消え去ってしまった。何回か同じようなことを経験しているが、これほど残念で惨めなことはない。
 書き直した次の文は、昨日終日、部屋の掃除をしていた際出てきた畏友N兄への回想記で、以前エントリーしたものと重複しているかも知れない。長いことブログを続けていると、視野の狭いボクには当然ありがちなことである。もしも、重複が見つかったらご容赦のほど。

回想
 昨年11月の末、畏友N兄夫人のF子さんから、彼女の住む学園都市のそれぞれの大通りの紅葉の彩が美しいことや、私が運送店をやめ気落ちして風邪にでもやられまいかと案ずるメールをいただいた。気持ちが一段落したら、我が家での「家庭集会」を期待していますと結んであった。その昔N兄が元気だったころ、拙宅の「家庭集会」でみんなに振舞ったけんちん汁(F子さんはノッペィ汁と感違えしていた)のことを思い出されたような内容だった。
 いつ頃であったか、N兄を病院に訪ねた時、彼も私の運送店廃業を奥さんのF子さんから聞いて知っていて、今後どうするなどと訊ねられたこともあった。この頃のN兄の容態は比較的安定していた様子だったから、彼のことにはメールでは一切触れず、アメリカのイラク侵攻のことのみに集中した過激な返信となってしまった。
イラクでの日本高官が殺害されたニュースを初めて聞きました。テレビに釘付けされてしまいました。
昔ならこれを口実に国民の敵愾心を煽り、帝国陸海軍を出動させ、石油の利権を武力で脅しとろうとしたに違いありません。「東洋平和の為ならば、なーんで命が惜しかろう…」昔の軍歌が、いまそこにあるような気が致します。
キリスト友会T月会のなすべきことではないかも知れませんが、戦争を否定するクエーカー徒として、もう少し積極発言があっても良いのではないかと思います。
 学園大通りも随分ご無沙汰してしまいました。貴メールであの紅葉並木を思い出しました。拙宅の楓の紅葉もまだ秋の名残を留めています。2003.11.30 20:24発信

クリスマスの済んだmを12月26日再びF子さんにメールを差し上げた。
今や戦時下を思わせます。小生は最近キリスト者にも疑問を持ち始めています。最も戦争反対であるべきクエーカー徒に、何の運動も起こらないことです。悲しいと思います。宗教者に戦争反対の大合唱が起こらないということが不思議でなりません。
最も遺憾なことは、創価学会を母体とする公明党です。
 寅年や千人針復活初の夢   2003.12.26 9:15発信

翌日F子さんから返信があった。思ってもみない内容だった。開いてはみたものの、しばらくの間、放心状態が続いた。
バタバタしていました。夫のNが21日に亡くなりました。尿毒症でした。
幸いなことに昏睡状態になるまで、「昼食がまだ来ない」とか云って苦痛の自覚がなかったようです。家族と、友会のIさん、Kさんの両氏だけの密葬ですまさせました。…(略)12.27 15:22発信

年が明け、1月3日は恒例の新年礼拝会。遠い下妻市から、Fさんと、Aさんがお見えになった。Fさんは補聴器こそつけておられたが、背筋の伸びた、その端正な身熟しは90余歳とはとても思いない若さに見えた。
F子さんもやや遅れてお出でになり、何か小声でご挨拶をなされた。聞き取れないほど低い声だった。小生は東京から帰省していた幼児を連れて来てしまったのを理由に、F子さんに弔意の挨拶をしただけで、N兄の追悼礼拝会の打ち合わせに出席せず、早々に会堂を辞してしまったのである。
 1月18日N兄の追悼礼拝会が、友会会堂で、簡素の中にも厳粛に執り行われた。
 午後1時ぴったり予定時刻通りに始まる。
友会のK氏が司会。賛美歌・聖書朗読後、I氏がN兄の履歴の紹介文を読み上げた。下妻市からFさん(氏とか翁という敬称は当てはまらない)が祈りの言葉、県都月会からお出でになった女性の方、中学同級のK君、小生の順でそれぞれ感話。私だけが予め用意しておいた原稿を読み上げた。(この友会追悼礼拝回では「弔辞」という次第はない。その代わりが「感話」で今思っていることを述べ神に祈る。)
式は数時間後、参加者全員の献花で終わった。夢が醒めたような思いであった。

N兄の思い出の中で特に印象に残るのは、中学時代下校の時、当時裁判所前にあったN邸に何度がお寄りさせて頂いて、その膨大な蔵書の数に度肝をぬかれたことなどであるが、あまりにも遠い昔のことになってしまった。塩元売会社で運送のお手伝いをさせていただいたこと、N兄の入院生活の原因となった屋敷内樹木の剪定の時に脚立から転落事故があった直前、拙宅の上棟式に駈けつけてくれ、お祝いの詞などを述べて頂いたことなどはまだ数年前の出来事のような回想である。(未完)


大詔奉戴日

2008-12-08 21:30:05 | 怒ブログ
         
今朝メールを開いたら、ブロ友T兄より 今日12月8日は「大詔奉戴日」であること、またそれに伴う、ネット上の関係アドレスが14種もおくられてきた。
1番目のアドレスを開いたら、「特攻隊出撃」当時の動画写真であった。
それ以上開いて見る気持ちは起こらなかった。
すっかりボクは今日太平洋(大東亜)戦争開戦の日であることを、忘れ去ってしまっていたのである。
T兄に啓発され、当時の世相を、膨大な「朝日新聞社史」から拾ってみた。
(全4巻:大正・昭和戦前篇)の第8章太平洋戦争下の多難な社業より。
 
4:大勝に湧く初期作戦十二月八日の朝日新聞  昭和十六年(一九四一年)十二月八日、日本はついに米英に宣戦布告した。ハワイ奇襲、南方諸要域急襲の緒戦快勝の記事は十二九日付夕刊(八日発行)の全紙面をうずめた。衝撃と興奮と歓喜のあふれた、歴史に長くのこる紙面である。九日の朝刊は「ハワイ・比島に赫々の大戦果」を伝え、十一日は「英東洋艦隊主力全滅す」とうたった。
 しかし、開戦の日の八日の朝刊は、一面トップが「時難突破の士気昂揚、きょう第二回中央協力会議」という大政翼賛会の行事予定を報じた地味で平凡なもので、社会面のトップもこれをうけてその会場の紹介だった。社説も「満州農業と食料の自給」であり、これらには、きょうにも開戦という切迫感はみられない。毎日新聞が、開戦の日にふさわしい強い調子の紙面をつくったのにくらべ、報道競争としては朝日は完敗であった。

添付写真≪言論の死」まで『朝日新聞社史ノート』≫[(同時代ライブラリー:260)岩波書店]は、朝日新聞記者36年という元記者が、この「朝日新聞社史」を徹底的に検証した社史の解説書で、これを見てからでないと、読書人ならぬボクには、社史の膨大な記録を読みこなすことは不可能に近い。
本書は図書館から借りて読んでみたが、期限付きで、読むような本ではない。
同時ライブラリーは現在絶版である。ネットで検索し、隣市の古書店にあったものを、直接行って購入した。文庫判よりは、約10㎜縦幅が大きい変形判で貴重な本である。

それにしても「大詔奉戴日=太平洋戦争開戦記念日」を忘れてしまうようになっては、「昭和も遠くなりにけり」である。Tさん、メール有り難う。

ある政治家の本から

2008-12-06 22:43:03 | 怒ブログ
         

 余談になるが、古書店を歩くのは、私の趣味の一つであった。神田の書店街も大体の略図は今でも頭に描くことができる。しかしそれは昭和時代の頃の街並の姿で、今では大分変わってしまっているかも知れない。いや、当然変わっているだろう。また今は神田まで行って本を捜すような暢気な時代ではなくなってしまった。
 私の住む村から車で30分ぐらいで行ける隣市は、学園都市の別名でも知られているように、嘗ては数え切れないほどの古書店(古本屋)があった。大概の本は見つかったし、頼めば必ず取り寄せてくれるような良き(?)時代があった。最近行ったことはないが、大分廃れてしまっているのではあるまいか。殆どがネット販売に変わってしまった所為だと思う。

 店頭に並んでいる古本を眺めて歩くのは、ネットで探すのとは全く違った楽しみがある。いろいろの本を、手に取って眺めることができるからである。
 上図は、一昔隣市の古本屋で求めた、ある著名な政治家の著書の中に挟まっていた封書で、隠れてしまっている部分の書き出しはこうだ。
 
謹啓
 夫○○ ○○郎永眠の祭は
御懇篤なる御弔辞を頂きかつまた
ご鄭重なる御弔辞を賜りまして
御高志のほど誠に有り難く厚く御礼
申し上げます      本日
○○院殿○○○○○○○大居士
百ヶ日忌に当たりますので追善も法要
を相営みました
 就きましては供養の印までに
故人最後の出版物となりました
「政治家の方丈記」をお届け申しあげます

つまりこの本は、故人の百ヶ日追善供養に参列者に差し上げたもので、封書の差し出し人は故人の令夫人であった。
468頁の豪華な装丁で、勿論非売品である。
古本の中には、贈呈先の名前と、著者の署名入りのものもあり、稀に便せんに記した贈呈先宛の手紙などが挟まっていることがある。
こうした本の流通経路は分からないが、こういう本に出会うと、ふと様々な思いが脳裡に浮かぶのである。