狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

責任をとるということ(4)

2006-03-16 06:56:32 | 反戦基地
 鴻毛の軽さ(1)       角田三郎
 「天皇の靖国公的参拝をめぐって」という主題から、ややそれた形で書き始めたようであるけれど、同時に、具体的な形で本質的な点にも触れたのだと思う。なぜなら、天皇こそ民衆の心と生命を天皇自身の保身の前に鴻毛の軽きに比して死へ追い込みつつ、他方、民衆のそのような死こそ、天皇制確立の為の教育上称揚されるべき死なるゆえに、靖国神社に祀ってこれを敬慕すべしと命じた、その当人だからである。「靖国」は、鎮魂・慰霊のテラではない。むしろ、それは天皇制に基づく死への教育のための神社である。このことは、私たちが肝に銘じて知らねばならぬことなのだ。「靖国」は、民衆の悲しみの心から生れたものでなく、天皇の心から生れたものなのだ。

さて、天皇と靖国神社との関係は、当然のことであるが二重になっている。それは統帥権を持つ大元帥としての天皇と祭祀権を持つ現人神としての天皇との二重の支配を受けている。

靖国神社が戦前陸軍省・海軍省の所管する神社だったことはそこから生まれている。逆に見るならば、靖国神社は国家神道の原型であり、申し子だから、天皇の二重の支配を受ける。そこには、民衆の基本権としての信仰や思想・良心の自由はあるべきものでないし、また、平和思想ともほど遠い軍国主義による死臭が漂う。
しかし、それが靖国の誇りなのだ。


さて、「陸海軍ニ下シ給へル勅喩」(明治15年1月4日)によれば、その開口一番

「我国の軍隊は、世々世天皇の統率し給ふ所にそある」と統帥権を説かれ、中途では
「夫、兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ、その大綱は朕親之覽り、あえて臣下に委ぬべきものにあらず。」
「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」等々の統帥権に関する宣言がある。

この言葉だけでも、天皇が十五年戦争あるいは一〇〇年戦争に無責任でありうるはずがないのは自明のことであろう。軍人勅諭はさらに、忠節、礼儀、信義、武勇、質素の五箇条の徳目を語り、その中に既に引用した
「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。其操を破りて不覚を取り、汚名を浮くるなかれ」等の言葉があり、ここに臣民ののがれ難い死への宿命を負わされたわけである。

そして、生命を鴻毛の軽きものとされ、死をのがれ難く負わされた皇軍の兵士は、さらに自ら小暴君と化して、侵略した隣国の民衆を蟻を踏む潰すように死へ追いこんでそれを当然とした。日本の軍人と民衆の死への全き無感覚さを持つまでにすべての日本人を教育したのである。

 先日、私は某紙の投書欄でひとりの女性の言葉を読んだ。彼女は、かつて、人生をその能力と功績によって評価する教育を受け、その競争に破れず、誇らかな傲岸に生きたという。しかし、一児が重症心身障害者児となった今、その子のわずかな前進に喜び、その病に母として自らの不注意を嘆く中で、生命そのものの尊厳に深く手を合わせるようになったという。このような「生命の尊厳」の思想が、天皇制下にあっただろうか。

 かつて陸軍士官学校に学んだ日、私は、小銃に菊の御紋章のあるゆえに、泥流にのまれた兵士が銃をさしあげつつ沈んだ話をきいた。そして私自身、ある日、脳貧血で倒れた時、全く意識のなくなったままで、完全に小銃を手にかばっていささかの傷もつけなかった経験がある。

そこでは、人間は、直接的な天皇の命令下で死に赴くのみでなく、常時、菊の紋章という物よりもはるかに低く評価されるものでしかなかった。小銃の製作には相当のお金がかかり、兵一人は一銭五厘の赤紙で召集できる消耗品であるとは、当時、下士官が兵をいびる時に、常に口にした言葉であった。兵は徹底的に無価値なるものとされ、自らの無価値さを知らされる絶望の極で命令に従ったのである。