狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

再び断腸亭日乗

2005-09-29 10:17:14 | 反戦基地
今朝の朝日新聞コラム「天声人語」は、60年前のきょう、新聞各紙の第一面を大きく飾った天皇陛下、マックアーサー元帥ご訪問の記事をとり上げている。両手を腰にあてた、軍服姿の大男のマックアーサー元帥と、モーニングを着て直立する、小柄で貧弱に見える、天皇陛下の並んだ写真を、「勝者の余裕と敗者の緊張が並ぶ構図は、人々に日本の敗戦を実感させた」。と書いた。

そして、あの写真は勝者を際立たせただけでなく、時代の歯車も回したとしながら、当時の内閣情報局が発売禁止する措置をとったことに対し、連合国軍総司令部(GHQ)が「日本政府には新聞検閲の権限はない」と処分の解除を命じ、戦時中の新聞や言論に対する制限撤廃もここで即決したとも述懐している。

「これでもう何でも自由に書ける……生まれて初めての自由!」(高見順の『敗戦日記』)を紹介して、あの写真が語り継ぐ時代の重さと結ぶ。

私はこのコラムを見て真っ先に頭に浮かんだのは、「断腸亭日乗」であった。
荷風の日記には、このような言論の自由になったことへの、浮き浮きするような喜びなど微塵も感じさせない。その心情は読む人にとってむしろ深刻そのものであると私には映る。

九月二十八日。
昨夜襲い来たりし風雨、今朝十時ごろに至ってしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂も曇りて暗し。昼飯かしぐ時、窓外の芋畑に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。
戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至っては悲惨も極れりといふべし。南宋趙氏の滅ぶる時、その天子金の陣営に至り和を請はむとしてそのまま俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀れなり。

数年前日米戦争初まりしころ、独逸模擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るかたなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見ようとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴュウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、鶏冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。

これ太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶわれら日本人の特権ならむと笑い興ぜしことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢だに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するがごとき事のあり得べきを知らざらりしなり。

これを思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥かに名誉ありしものならずや。今日この事のここに及びし理由は何ぞや。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲のせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣なかりしがためなるべし。

我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面において顕著たりしに非ずや。

余は別に世のいはゆる愛国者といふ者にもあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるる者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能わざるものたるに過ぎざるのみ。これここに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

地名「木葉下町」

2005-09-28 09:26:37 | Weblog
ボクは運送屋という商売をつい最近まで経営していた。使用人を監督する立場の責任者でありながら、零細店ゆえ自らもトラックの運転を、しばしばやってのけた。勿論地場トラックであり、配送先が殆ど近県のみに限られていたから、やらざるを得なかったし、出来たようなものである。

そして得意先の運送品目は、殆んどが建設会社の資材運搬であった。随分、怒られたり、怒鳴られたりは、したけれど、延着だとか、水濡れだの、商品破損での法外もない額の損害弁償などといった実害の例は殆どやらずに済んだ。(全くなかったわけではない。それは後日の話のタネに取っておく)零細運送屋としては比較的恵まれた方だったかもしれぬ。
しかしこれが今日の主題ではない。
トラックの運転をしていて出会った、読めない地名についての変哲もない話である。

ボクが今まで通った道路で、変わった地名の一例を挙げれば、茨城県から船橋に向かう途中「神々廻」という処があるのを、御存知の方も多いかとは思うが、(千葉県白井町にある)これを神々廻(ししば)と読む。それはかなり難しい読みの部類だろうと思う。

地名にはこんなオモシロい漢字の表現が沢山あって、いままでに出会った難読の地名を、ここで何も調べずに思い出した順に列挙すれば、

神鳥谷(しととのや)栃木県小山市
高道祖(たかさい)茨城県下妻市
月出里(すだち)茨城県江戸崎町
土器屋(かわらけや)茨城県新治村
手子生(てごまる)茨城県つくば市
木葉下町(あぽつけちょう)水戸市
などが浮かんでくる。

これらの難読の地名は、地図上でも、道路に立っている地名標識にも読み仮名や、ローマ字発音表示が、有ったとしても稀であり、実際車を運転しながら見るのでは、それにばかりに注意ができないから、読めない場合が多かった。
そこで帰ってから、調べることになる。

▼「大漢語林 鎌田 正・米山寅太郎 大修館書店」
で「神」、「高」、「月」、「土」、「手」部を引けばこれらは簡単に解決できた。ただ「木葉下町」だけが、どうしても分からなかった。それには大漢和辭典で調べるほかに途はない。

ところが、である。これは地名のことではないけれど、かつてボクは浅草の浅草寺で、ヤマサ醤油の絵画などが展示してある室内に、「黒」偏に「鳥」の旁の漢字を見つけたことがあった。「くいな」とルビが振ってあったのだが、珍しい漢字なので手帳に書き写してきた。(このパソコンのIMEパットの「手書き」を使っても出てこない漢字である)
この字を確かめる為、ボクは購ってから一度も開いたことのない、 

▼「大漢和辭典全13巻 諸橋轍次 大修館書店」
を紐解くことになった。
しかし、結果的にこの「くいな」は部首索引でも、音訓でも、総画検索でも出てこなかったのだ。誇張して云えば、このことだけで約半日を潰したことになる。
前記「大漢語林」や、

▼「角川大字源 尾崎雄二郎・都留春雄・西岡弘・山田勝美・山田俊雄編 角川書店」
で調べても、両方の辞書では簡単に見つけることができたのにである。

大漢和辭典といえば、《二十五万人と九億円かけた漢和辞典》云々と、

▼「辭書漫歩 惣郷生明 朝日イブニングニュース社」
に詳しく書かれている。後に、

▼「東洋学術研究所編・大漢和辞典語彙索引 大修館書店」 
も同書店から出版された。この中からたった1字を拾うことはたいへんな作業であることは間違えない。

さて地名「木葉下町」の読みに戻る。これを大漢和で調べるとなると、また半日が潰れることになるのは確実である。そして必ず見つかる保障はない。
ボクは、この際、

▼「関東圏広域道路地図 1:50,000 人文社」
の巻末地名索引(総ルビ)で納得するしかなかった。

日曜日の戯れ

2005-09-25 18:00:52 | Weblog

 ー古い手帳から(あの頃の郵便局風景)
 消印
寒い朝だな。ある寒い朝、
正確には一九九二年一月三十一日。
郵便局の窓口は、
二三人が順番待ちで並んでいるだけなのだがー、
事務処理が、カンマンだから、
少しも前に進まない。
どの窓口もそのように見える。
係は、時々席を外して
あさっての方へ行って、何かをやっている。
あせらない。

試験を受ける時も、
こういう風なオチツキが必要なんだナ。

この日はオレにとって
どうゆう日であるかというと、
源泉徴収された給与所得の、
年末調整の書類を税務署に出すのに、
一月三十一日の消印を必要とするのだ。

オレの目の前で母親が大學入試の
願書を書留で送ろうとしているのだ。
専修大学だったかも知れぬ。

局員が締切日を訊ねる。
そして、
それではもう間に合えませんよといった。

いいえ。
消印があればそれでいいんです。
母親は背中を丸くして窓口を覗きこんだ。

おう。寒い。
やっと順番がきた。

       ◇       ◇

メモ(上記とは関係のない悪戯書き)

次の漢詩とこれをもとにした説話を読んで、あとの問に答えなさい。
(設問はめんどくさい。勝手に作れ)

  孟宗
泪滴朔風寒(なみだしたたってさくふうさむし)
蕭々竹数竿(せうせうたけすうかん)
須臾春笋出(しゅゆにしゅんしゅんいづ)
天意報平安(てんいへいあんをはうず)
泪→涙
朔風→北風
蕭々→ものさびしさま
須臾→わずかな間

孟宗は、いとけなくして父におくれ、一人の母を養へり。母老いて、つねに病みいたはり、食の味はひも、度ごとに変りければ、よしなしものを望めり。冬のことなるに、竹の子をほしく思へり。すなはち、孟宗、竹林に行き求むれども、雪深き折なれば、などかたやすく得べき。「ひとへに、天道の御あわれみを頼み奉る」とて、祈りをかけて、おほきに悲しみ、竹に寄り添ひけるところに、にはかに大地開けて、竹の子あまた生ひ出で侍りける。おほきに喜び、すなはち取り帰り、あつものにつくり、母に与へ侍りければ、母これを食して、そのまゝ病もいえて、齢を延べたり。これ ひとへに、孝行の深き心を感じて、天道より与へ給へり。
             「御伽草子」による

天皇の戦争責任

2005-09-24 13:59:59 | 反戦基地
長崎市長への七三〇〇通の手紙―天皇の戦争責任をめぐって(径書房1989年5月5日発行)
《「天皇の戦争責任はあると思います」
1988年(昭和63年)12月7日、長崎市議会における本島等長崎市長の発言が報じられた途端に、それは思いも及ばぬ大きな波紋を呼び起こしました。

「暴言を撤回せよ、さもなくば一命をかけて天誅を下す」という憤激の電報が、すでにその夜半、市長にあてて発信されました。明けて8日には、電話、電報による抗議が次々に届き始めます。…》
 
これは「刊行に当たって」と題する編集部の巻頭の言の1部です。
この本は事件があった翌年(1989年)径書房・原田奈翁雄によって出版されました。
本の表紙カバーには七三〇〇通の手紙、ハガキが並べられて、それを整理しているところが大きく写し出されています。  

そして本の帯には次のように書かれています。
《天皇の戦争責任ある!ない! 長崎市長に噴上げた激しい両論。それぞれの戦中戦後体験のにじむ痛切な証言。日本人すべてにつきつけられる重い課題に、あなたは何と答える?
「血の噴き出る「証言昭和史」市長発言に対して批判抗議するものも、支持するものも、書き手ひとりひとりの人生をふまえ、熱い心情にあふれている。「天皇」、そして「戦争」、二つのことがら、二つのことばが、どれほど深く国民の胸の底にわだかまわり、しこっているかを、1文字1文字が痛いほどに物語って、この手紙集は、日本人自身の血の噴き出る「証言昭和史」というほかはない。」 NHKスペシャル放映「拝啓長崎市長殿」》 

一口に七三〇〇通といっても、どのくらいの量になるのか実感は涌きませんでしたが、この本の表紙の写真で見て、あまりの膨大な書面の量に驚かせられました。私のハガキもこの中に1枚混じっているのだ…、ひそかに自分がしたことについての誇りを抱きました。
この事件も本のことも、歳月とともに風化し、今はすっかり忘れてしまう所でした。

アメリカは、2001年、9月11日の同時多発テロ事件を口実に、かつて日本が中国で犯したような、誤った武力攻撃をアフガニスタンで開始します。そしてさらに2003年には、国連決議もないまま、戦線はイラクへと拡大していきました。
あれから4年、小泉はこれまで積極的に、ブッシュによるアメリカの「大義なき武力攻撃」を支持し続けています。

復興支援という美名の下に、イラクに派遣されている自衛隊を、堂々と戦争することが出来る軍隊に憲法改正しようとしています。こんどの総選挙で小泉自民党は圧勝し、国民も国会議員も郵政民営化という小泉マジックにかかってしまいました。憲法改正の見え隠れの状態をそのまま黙認してしまったのです。国民も戦争体験者は次第に少なくなり、議員に限って言えば一人もおりません。国民も戦争のことなどは、歴史教科の中の小さなスペースの中で知るだけになってしまいました。

小泉の靖国神社参拝問題は、8月を過ぎて旬を過ぎ沈静化してしまいました。
しかし毎年積極的に参拝を続けている石原東京都知事も、A級戦犯の合祀には異議があるとした上で、次のように述べています。

《極東軍事裁判が、勝者による敗者への報復を含めた催し物だったことは自明だが、しかしなお、我々はあの戦争の責任者の存在について、あの裁判の正当性を非難することだけではすむのだろうか。どの世界でも会社を潰してしまって責任を問われぬ経営者などいるものではない。》(9.5付産経新聞)

石原は、天皇の靖国参拝を強く求めていると聞きますが、これまで天皇の戦争責任については全く触れておりません。

それはそれとして、私は自衛隊がすでに海外派兵をしてしまっているという、明らかに憲法に違反するような既成事実が出来上がり、野党である民主党までが憲法改正をほのめかしている現状では、改正は当然の成り行きとなると思っています。

だからこそ、あの時本島市長に宛てた手紙のときのように、反戦の手紙や、憲法9条を護る意志表示としての、はがき・手紙・ファックス・電子メールが、首相官邸や、創価学会本部を埋め尽くした時、私は流石の小泉も、神埼も、前原も憲法改正を残念せざるを得ないことになると信じます。





酒そして古本

2005-09-22 08:25:59 | 怒ブログ
 ゴルフもやらない(出来ない)、魚釣りも、パチンコも、絵も書も、博打も、そば打ちも、カラオケも、金儲けも、ましてや登山など出来よう筈がない。
「趣味は?」ときかれた時、ややはにかんだ顔つきをして、
「酒を飲むことと、古本屋歩きかなぁ」とそっと答えることにしている。

以前にも書いたが、ボクが毎週金曜日の、リサイクル分別ゴミ回収のとき、集積所に置いてある、ゴミビン類のコンテナ袋に、たまった空の酒の一升瓶(1.8㍑)や、4合瓶(720ml)を持ってくるのだが、酒ビンは、隣組の世帯数20軒ある内にボクⅠ人だけなのである。

「どんな酒?」との質問には
「勿論日本酒に決まっているではないか」と、以前は胸を張って答えたものだが、最近はどうやら懐具合も怪しくなってきたことを反映して、25度の甲、乙混合焼酎をオンザロックとして嗜んでいる。昔は今の乙類焼酎を粕入り焼酎などと称して、所得の少ない労働者が飲んだアルコール飲料だったそうだ。しかし今はお酒より後味がさっぱりしていて、後に残らないと、高級サラリーマン家庭でも晩酌に供しているところが多いという。なるほど本当かもしれない。

ボクの酒仲間が酒を持ちこんで飲み会をすると、いろんな酒が集まってくる。
郷の誉、霧築波、菊盛、武勇、一人娘等の銘柄あたりが逸品とされている。

「どの銘柄が一番いいの?」と訊かれても返答に困る。酒米の精米度と、蔵の個性が良酒を計る物差しだとしか答えようがない。

この季節、わが茨城では36蔵の酒蔵が、県産の酒造好適米「ひたち錦」とオリジナル酵母「常陸酵母」を使って、各酒蔵の伎と個性を競い合って出来た「ピュア茨城」秋あがりが発売中である。使用する米と酵母は同じでも、水が違うことや、製造する蔵元のクセが反映されるから、微妙に味が違うのは、同じ材料を使って作った料理でもA家庭とB家庭とではでは、全く異なる味の料理となるのと同じ原理である。

36蔵の水系別の分類は、昨日県北にお住まいの畏友M氏から贈られた、木内酒造秋あがり「菊盛」の包装紙に依った。

①久慈川水系エリア  久慈の山・家久長など12蔵
②那珂川水系エリア  一品・菊盛など4蔵
③筑波山水系エリア  霧築波・来福など11蔵
④鬼怒川水系エリア  武勇・一人娘・紬美人など4蔵
⑤利根川水系エリア  君万代・御慶事など5蔵 
 なお、ボクは茨城の「日本酒ファンクラブいばらきの酒仲間」会員に登録されている。
会費は要らない。

 古本屋を歩くと、そのたび何冊かの本が増える。本屋に入って1時間も佇んで、何も買わずに出てこられないから、入ると直ぐ手ごろな文庫本などを2~3冊買い物籠(パソコン用語で、実際籠があるわけではない)に入れておき、しかる後珍本、奇書をゆっくり眺めるのだが、いまどき掘り出し物に出会うのはきわめて稀である。年に2~3冊であろう。
掘り出し物とは、お値段が手ごろなこと。妻に見せても怒られない本をさす。
お金に糸目をつけないような本の買い物は、経済負担上、今は出来なくなってしまった。

こうして集めた本が書斎に散らかってある。酒に関する雑書を、手当たり次第書き並べてみた。もちろん古本ばかりではない。

酒はる なつ あき ふゆ  佐々木久子   集英社文庫
酒肴奇譚 語部醸児之酒譚  小泉武夫    中公文庫
日本酒辞典 穂積忠彦監 修水沢溪・小松恒雄編著 健友館
ドブロクをつくろう  前田俊彦編       農文協
ふるさとの名酒と焼酎  稲垣真実      新潮新書
日本の名酒事典   講談社
華国風味  青木正児    岩波文庫
中華飲酒詩選 青木正児   筑摩叢書
酒中趣    青木正児   筑摩叢書
灘の酒    中尾進彦   神戸新聞出版センター
日本の酒   坂口謹一郎  岩波新書
世界の酒   坂口謹一郎  岩波新書
(これは書架内の坂口謹一郎酒学集成1~5の1,2巻にも収められている)
わたしの放浪記  佐々木久子  法藏館
酒の旅人 佐々木久子の全国酒蔵あるきー 実業之日本社
酒呑みのまよい箸 付献立帳二百八十品 浅野陽 文化出版局
トラ大臣になるまで  泉山三六  東方書院
酒呑みの自己弁護  山口 瞳   新潮社
日本酒仙伝    篠原文雄    読売新聞社
春秋社図書目録92(青木正児全集1~10)  春秋社
地酒風土記  国府田宏行    笹書房
置酒歓語  楠本健吉   朝日新聞社
呑んべえが語る酒学入門 本物の酒を求めて 穂積忠彦 健友館
神谷伝兵衛―牛久シャトーの創設者 鈴木光夫  筑波書林
日本の名酒 稲垣真美    新潮選書

古い話だがG書店の店頭でこんな風景があった。
本屋主「爺さん、本を購ってくれるのは有難いことだが、そんなに買い込んで全部読むのかい?」爺さんは筑摩日本文学集、明治書院、白水社の翻訳本の端本を、持参した風呂敷いっぱい包んだ。

爺「オレが読める筈あるめえ。オラあ、年金暮らしだが、年金の遣い道が無え。だから本を購うのよ」
本屋主「有難う。ハイ。また買って」
爺「ハ、ハ、ハ、ハ、」

実はボクはその時この古本屋で
「古本でお散歩」岡崎武志 筑摩文庫 を買って帰ったのである。書き出しがこうだ。

《古本のこと、わかってねえなあと一発で分かるリトマス試験紙のようなせりふがある。それは「買った本、全部読むんですか?」いったい、これまで何十回、このことばを浴びせられてきたか。
 もういい加減慣れっこにはなっているが、それでも瞬間的にうんざりして、心の中で「おめえさん。トウシロ(素人)だな」と賭場のやくざみたいな心境になる。それは風俗嬢に向って、「あなたはお客さん全員に愛を感じて相手をしているんですか」というようなものだ。
 少しでも古本の泥沼に足を濡らした者なら、ぜったい吐けないのが、この「買った本は全部読むのか」というせりふだ。一年に古本を千冊以上買って、しかも新刊書にも手を出して、時々、著者から送られてくる贈呈本もあって、図書館から借りてくる本だってあるのに、読むわけないだろう、全部なんて。》

 このトウシロ本屋は潰れてしまって今はない。
しかし、あの爺さん「中々のクセモノ」だったなぁ、と今でも思い出す。

 今朝の新聞に後藤田正晴氏の死去が報じられている。今宵、畏友M氏から恵贈の「秋あがり菊盛」で謹んで献杯しよう。

証人喚問の頃

2005-09-21 09:59:37 | 怒ブログ
鈴木宗男氏と、辻元清美氏がそれぞれ北海道と、近畿の比例区から当選なされた。(以後敬称を略させていただく)。

もともと辻元は、近畿地方比例区で順位第1位の候補であるから、まず誰しも当選の安全圏であると踏んで差し支えなかっただろう。だが一方の鈴木の方は、私からすれば、願わくは当選して欲しい候補の一人であったが、何せ北海道の方の選挙のことであり、こちらの方では、地域事情にも疎く当落の予想はできなかった。
 
鈴木は1999年5月、 国後島日本人とロシア人の友好の家(俗称:ムネオハウス)の参加資格問題で外務省に圧力をかけたとされ、更に2001年5月 ケニアのODA疑惑で田中真紀子外相(当時)と衝突し、そして忘れもしない、平年14年3月11日、彼の 証人喚問となったのである。その状況がラジオやテレビで生中継されたのだ。辻元清美議員(当時)と鈴木宗男議員(当時)が衝突するの肉声を聞いたのは、このときが初めてであった。
  
大概の政治家は、テレビで放映されるとき、国会の与党、野党の別に拘わらず、演説、乃至は質問の冒頭、「まず初めに、今回の××事件の被害に遇われた方々、亡くなられたお方のご家族に対して心からお見舞い申し上げます。」の前置きから始まるのが常である。ニューヨーク世界貿易センター崩壊の時も、その例に漏れなかった。

しかし57年前の昨日、1945年3月10日の東京大空襲で命を失った10万とも言われ、今なお正確な数さえつかめないような、大惨事を念頭においた発言者は皆無だった。
米英軍によるアフガン空爆を、いち早く「支持」を表明した小泉首相であるから、与党の質問者は無理としても、平和憲法を守り、戦争反対を大々的に表明している政党の代表質問者ぐらいは、この時こそ東京大空襲に思いを致し、平和の大切さを訴え、戦没者への哀悼の意を示してから、鈴木への質問に入って欲しかった私には、義憤の念を禁じ得なかった。

この日、各新聞社は昨日10日に予定していた3月の新聞休刊日を急遽取りやめ、「産経新聞」を除いてほとんどの新聞が、予定を変更して発行をしたくらいだから、如何に重大な証人喚問の取り扱いだったが想像できる。

私は今までにも、証人喚問の中継は何回かテレビやラジオで、見たり聞いたりしたが、思い出に残るのはロッキード事件の「記憶にございません」の名台詞だけである。私が期待を込めて聞いた、細川首相の証人喚問の際の彼の弁明ですら、まことに辻褄が合わず、失望したことを今も覚えている。しかし何を衝かれ、どう弁明したのかはすっかり忘れてしまった。

その後、テレビでの証人喚問の生中継は、証人の人権問題などが絡み一時廃止され、時折の静止画だけが放映されるようになって、見る方には全くつまらないものになったときもあったけれど、再びまた昔のように復活し、更に今回は通俗的政治ショーと化してしまったのである。

国会の証人は裁判でいう被告や被告人でないのだから、寄って集って、同じような趣旨の質問を繰り返す野党の質問者に、もっと積極的に反論し、相手の言葉尻を捉えて、ギャフンといわせるぐらいの証人が、たまにはいても良さそうなものだと、私はかねがね期待していた。また質問者は、資料のメモが使えるのに、証人は記憶だけが頼りの答弁である。それも明らかに理不尽であると、今でも疑問に思っている。
このときも入れ替わり立ち代って立つ質問者のいずれもが、時間の不足を唱えながら、原稿を棒読みしているような、同じ趣旨の質問の繰り返しが、喚問をつまらないものにしていた。

しかし最後の辻元清美に対する鈴木宗男の発言は異常なほど迫力があった。
「『ヤバイ』とか『うそつき』とかどうして言えるんだ!政治家として必死に答えている。テレビで全国の人が見ている。」鈴木は最後の質問が終わると、形相を変えて証言台に進み、『疑惑の商社』と批判した社民党の辻元清美を罵倒した。

この終場面は、立ち寄った「道の駅」の大きなスクリーンテレビ画面の前で私は見ていた。この時から私は鈴木宗男先生の味方(ファン)になった。痛快だった。格好いいとも思った。

地元選挙区の利益誘導の政治を展開しているのは、鈴木議員ひとりだけではない。選挙区の利害と直結する内政志向は、村議会議員から国会議員まで同じであり、わが県から同じ内閣に大臣が2人在籍していたとき、さすが補助金の増額の決定が迅速であったとか、陳情時の対応が以前と違ったことを痛感したと、少ない補助金に悩む知人である、某私立幼稚園園長のF氏がしみじみと言っておられたことがある。

私をはじめとして、誰でも議員に何かしらの陳情をしたことは、事の公私、成否は別として、1度や2度は必ずあるに違いないと私は思っている。補助金の増額、免許事業の取得、道路の整備、企業の誘致、身内の者の有名会社へ就職の紹介依頼、企業への名誉顧問就任願、男女の頼まれ仲人役、金融相談、あるいは今では全く無くなったようだが、交通違反の貰下げに至るまで…。この意味からも私は、鈴木議員を断罪する人々に同調して、攻撃する気には到底なれない。

この頃、新聞も、テレビも、週刊誌も、その他マスコミは田中真紀子vs鈴木宗男が、なくてはならない存在のコンビになってしまったのは周知のとおりである。
しかし間もなく、選挙区でも、外務省でも貴重な存在で、最高にえらいセンセイであった鈴木宗男先生は日を追うことに悪役に代わってしまうことになる。

評論家・田原総一郎がこう述べている。
《…国民は(鈴木宗男が)外務省を一人でよくここまで牛耳れたことにある種の感慨を抱いている。さまざまな疑惑に「よくそんなに」とあきれつつ、その才能に半ば「すごいな」と感心している。顔もしゃべり方も悪役にふさわしい。あやまったり、後悔しないのも悪役らしい。やはり、悪い想像力をかきたてるほど面白い存在はない。
真紀子更迭で、宗男氏はただの悪役から悪役のスターになった。逆に真紀子サンは一瞬にして食われ、ただの人になってしまった》と。

私は社民党を(昔の社会党)を、理由があって最大級に毛嫌いする。私は旧社会党のシンボル・マークを「天を射る悪魔の鏃(やじり)」と比喩した。その予言とおり鏃は天への向きを逆に方向を変え、自らの心臓を見事なまでに射抜いてしまったのである。

反戦主義を自負する私が、それほどまで、旧社会党を嫌うには相応の理由があってのことだ。平和憲法死守だとか、労働者や、零細企業の味方といったお題目は、ウソ八百であることを、とうに見抜いていたからである。故に私は、鈴木氏を「嘘つき」と叫んだ辻元清美議員など、チャンチャラ可笑しくてならなかった。

関西弁そのものも不愉快だが、己が過去に、旧社会党参院議員法律事務所所属の弁護士から、全く理不尽の民事訴訟を起こされたことによる。

現在この元左派社会党参院議員も、私を告訴したK弁護士も天網に触れ、議員は失格し、Kは弁護士資格剥奪され、行方不明ときく。再起は両者とも年齢から推しても、まず無理であろう。
土井たか子の末路はむしろ哀れと言いたい。

今にして思えばあの時、わが選挙区にも、鈴木宗男のような頼れる政治家がいたら、法外もない和解金に応じなくてすんだかも知れぬと悔しくてならぬ。

あの証人喚問から3年有余、あの頃鈴木宗男、加藤紘一両代議士に対する議員辞職勧告など、マスコミは喧々諤々であった。しかし風向きは刻々と変わり、こんどは辻元清美議員の政策秘書疑惑が登場した。四面楚歌、泣きべそをかきながら彼女は議員辞職に追い込まれ、一連の政治ショーはすべてが終わった。
スポーツ新聞ゴシップページのネタは、ここですべて尽きたのであった。

今回の解散総選挙の結果、政界も国民も、自民党圧勝の余韻に浸っている。鈴木も辻元も再登場となった。

イラクでは今なお、お国のために目的のない戦争に参加している自衛隊員のことなど、誰もかれもが、すっかり忘れ去ってしまったようだ。いみじくも1931年9月18日は旧満州への侵略戦争を始めた日なのだが…。

再読「広辞苑」よ

2005-09-19 11:05:13 | 怒ブログ
○「狸便乱亭ノート」 タイトル由来
liberty note を漢字に当てたもので、大それた意味はない。押し付けがましい解説を加えれば、「狸」といえば、とぼけ顔をしながら悪賢い爺さまを連想しがちだが、ごくお人よしの類の人間の顔と御理解いただきたい。便乱とはべらぼう【便乱坊】の2字を拝借した。広辞苑によれば、「寛文年間(1661~1673)に見世物に出た、全身まっくろで頭がとがり、目は赤く丸く、あごは猿のような姿の人間」だそうである。つまり(バカ)のことだ。小生(管理人)の顔が充分予想できると思う。

○「怒ブログ」について
拙ブログの開設日は2005.07.26でまだまだ日は浅い。パソコン暦がサトウ・サンペイ(「パ」の字塾)の塾生からの出発となる。サトウ・サンペイ講師は小生と同じ歳の生まれで、現在小生使用の、唯一の聖典は(「パ」の字塾2002年8月版)である。
ブログ「狸便乱亭ノート」は、(友引)を選んで初登録した。ブログ付箋にある “category” の欄などそのとき目に入らなかった。「怒ブログ」とは、小生が私(ひそか)に淑(よ)しとしている、故前田俊彦翁の「ドブロク造り」に因んで開設の巻頭詞にしたもので、何時の間にか「怒ブログ」の“category ”が拙ブログの代名詞みたいにいわれている。下記(メモ「広辞苑」よ)「代名詞」参照。整理しないでこのまま続けて行きたい。

○メモ《「広辞苑」よ》
筑摩書房のPR誌「ちくま」を購読している。毎号巻頭随筆に、なだいなださんの「人間、とりあえず主義」が載る。よほど小泉首相とはウマが合わぬと見え、常時「コイズミ」と呼び捨てして書いてあるのがまた痛快だ。
バックナンバーになってしまったけれど、その8月号の「広辞苑よ」は終戦忌に当る月の最適の読み物として、爽涼反復玩味して今も読み返している。

《(略)天皇の出席する八月十五日の、武道館での全国戦没者追悼式は、太平洋戦争で没したすべての人、つまり東京大空襲で死んだ人も、原爆で死んだ人も、沖縄の地上戦に巻き込まれて死んだ人も、もちろん軍人も、含むものだと思っていた。それで小泉首相に、靖国を参拝して、戦没者に平和の誓いをすることが、なぜいけないんだと開き直られると、違和感を覚えたのだ。

(略)広辞苑を引いて驚いた。自分の目を疑った。
戦没とは、《戦場で死ぬこと。戦死、戦傷し及び戦病死の総称》と書いてあるではないか。それ以外の意味はない。(略)
となると、僕は、戦没者とは、今度の戦争で死んだ人全部のことと、勝手に思い込んでいたことになる。

(略)天皇は、小泉や中曽根や、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の面々と違って、靖国には、戦後参拝されていないが、それは戦争全体の犠牲者を慰霊するが、軍人の死者だけ慰霊しないと、一線を引いて行動で示していたのだと考えてきた。賢明な判断をされてきたのだと》。

そして、《「最近もある講演会で聴衆に手を上げて答えてもらったところ、ぼくのように考えていた人が、半数を超えていた。もちろん広辞苑通りに解釈する人もいた。」》とした上で、

《「広辞苑よ。今からでもおそくはない。この言葉に、戦争による、軍人も民間人も含めた死者のこと、という説明を加えてもらいたい。
広辞苑は、一九五五年の初版、始めは誤用だった用法を、半数以上の日本語使用者が使うようになると、どんどん正式の意味として、認めてきた。《○○の代名詞》などという用法は誤用だが、今では、正式の意味として採用されてきた。」》と書いている。

 小生は「博文館」時代の「辭苑」から広辞苑第五版まで全版の広辞苑を所持している。調べてみたら、なるほど次のとおりであった。

●戦死
辭苑―うちじに。せんし。
広辞苑第一版―①うちじに。戦死。②戦死、戦傷死及び戦病死の総称。
広辞苑第5版―戦場で死ぬこと。戦死・戦傷死・戦病死の総称。「―者 」

●代名詞
辭苑―【文法】名詞に代えて、人・物事・地位・方向などを示すに用いる詞。人代名詞・指示代名詞・疑問代名詞の三つに分ける。
広辞苑第一版―名に代えて、人・物事・方向などを指示するに用いる詞。代詞(かええことば)
広辞苑第三版(S30年)―①(pronoun)品詞の一。ある場面または文脈に現れた人・物事・方向などを、そのものの名称・名詞を使わず、話者からみた相手・第三者・遠近などの関係によって指し分けるのに用いる語。人代名詞・指示代名詞など。国文法では名詞に含ませる説もある。②比喩的に、同類のもの全体の代表名として使われる物事の名称。「銀座といえば繁華街のーだ」

広辞苑第五版―①(pronoun)品詞の一。人や事物の名称の代わりに用いられる代用形の名詞。多くの言語で、性、数、人称によって区別があり、格による変化が見られる。人称代名詞・再帰代名詞・指示代名詞など。日本語の文法では名詞に含ませることが多い。②比喩的に、同類のもの全体の代表名として使われる物事の名称。「銀座といえば繁華街のーだ」

しかし終戦以前の日本語は「辭苑」に限る。先週書いた「靖国」で旧日本海軍の「善行章」などと記述は「辭苑」によるものだが、広辞苑には初版から削除されている。

休憩室

2005-09-15 22:03:42 | 怒ブログ
台風14号が過ぎ去れば一気に「秋」到来と期待をしていたのだが、11日選挙の日の夕方雷雨が少しあっただけで、それも激しく雨が降ったのは、5分にも充たなかった。その時だけは、ちょっぴり涼しくもなった。だが、夜半からまた蒸し暑さがまたぶり返してきた。以降昨日まで、朝から夜まで猛暑。しかもただの残暑ではなく毎日々々が、
「蒸し、蒸し」の日々である。
今朝4時半ごろ短時間驟雨があり、以後漸く猛暑一服。

故に、今日の午前中は荒れ放題のわが屋敷の周囲を、草刈機で薙ぎ倒す重労働となった。小生若干□□歳。10時半頃までやって、作業終わり。草臥れた。

しかし、気を取り直し
わがtani山窟書棚の一隅に在籍の雑本を、そのまま記録することにした。

「整理」とは、《乱れた状態にあるものを整え秩序正しくすること》だそうである。だが、そんな事していたら纏まるはずがない。記録に留めるだけである。

7段目、幅70㌢の分を、コメントは最小限に止めて記す。

筑摩書房の30年  筑摩書房(非売品) ご挨拶の封書付
狂言集上・中・下  野々村戒三解説 古川及校註 朝日新聞社 (上)2冊あり。最初(上)を買ったのだが、後で、上・中・下の             揃本を古本屋にて購う。
蛇笏百景子 小林富司夫    木耳社
大東の鉄人 山中峯太郎・装丁・挿絵 椛島勝一 (復刻本)  国書刊行会
華麗なる一族(上)  山崎豊子    新潮社
外国人に見た日本4・5   唐木順三・加藤周一編  筑摩書房
半眼抄 若杉慧 木耳社=この出版社は今は文芸書は出版しておらぬ。

「中央公論」100年を読む 谷沢永一   新潮社 
神風になりそこなった男達 ―ロケットファイター秋水隊   高田幸雄    国書刊行会
唱う工衣 石川貞夫      新俳句人連盟
白の墓碑銘―従軍看護婦の記録   医療文芸集団編    東邦出版社
俳句とあそぶ法 江国滋   朝日新聞社
中島飛行機物語―ある航空技術師の記録 前川正男     光人社

昭和天皇独白録―寺崎英成御用掛日記    文芸春秋
吼える密林 南洋一郎 鈴木御水    大日本雄弁会講談社
見えない飛行機 山中峯太郎 装丁・挿絵 伊勢良夫 (復刻本国書刊行会)
回想の芥川・直木賞 永井龍男     文芸春秋
世界教養全集別巻1 日本随筆・随想集 川端構成編     平凡社

狭き門・車輪の下・赤い小馬 ジイド・ヘッセ・スタインベック   平凡社
石川啄木全集第4巻 評論・感想集      改造社
人間の心得 亀井勝一郎    青春出版社
 
これで終わりと思っていたら、その後ろ側も文庫本で詰まっていた。2列になっていたのだ。冊数は数えられぬ。「ふるさと文庫」わが地方の情熱ある出版社の新書版。60㌢幅である。残り10㌢幅が岩波文庫、これを記して今日は終わりとする。

悪の華 ボードレール 鈴木信太郎訳 岩波書店
寺田寅彦随筆集 小宮豊隆編1~5 岩波書店
この寺田寅彦随筆集第4巻がもう1冊ある。参考のため値段を記すと、
前者全5冊各300円 1979年第39刷発行
後者400円 1983年第43刷発行である。

靖国

2005-09-14 22:45:26 | 反戦基地
 中学生の頃である。私は村(町になっているが)からT市までの約10キロあった道のりを、毎日自転車を漕いで通学していた。この道路は海軍道路といって、日曜日になると海軍航空隊からT市まで蟻の行列のように海軍さんの外出(上陸)光景が見られたのである。

 ある日、私は同僚と一緒に下校途中、この海軍道路で実に恐ろしい出来事に出会ってしまったー。その日は日曜日でなかったから、特別な休暇だったのであろう、T市に向って歩いている1人の海軍士官に、突然T市方面側から自転車に乗って来たジョンベラ(水兵服をいう)の水兵が自転車から降りるやいなや、士官に向って、態度が気にいらないと怒鳴り、凄まじい火の出るような拳固を見舞い、さらに全身に弾みをつけてビンタを張ったのである。士官はその勢いで大きくよろめき倒れた。瞬時の出来事であった。

 私たちは逃げるようにその場から立ち去ったのだが、そのジョンベラの左腕には善行章といふ何本もの山形のマークが貼り付けられてあったのである。口髭まで生やしていて、古参兵であることだけは当時の私にもすぐわかった。

 海軍航空隊では、飛行兵以外にラッパ手や手旗信号手などもいたから、その時のような、碇マークの水兵が多勢来ていたのである。海軍に詳しい同僚は、今殴られた方は「予備学生」だと小声で囁いた。

 どこに区別があったのか判らないけど、海軍飛行予備学生の制服は海軍士官と大体同じだった。階級章は准尉だったように思う。

 海軍は陸軍と比べ、階級よりも年功がモノをいったと聞く。1本の山形は3年の(飯)メンコの数を表し、仮にその善行章が4本あるとすれば12年も軍隊の飯を食って、まだ一等水兵だったという勘定になる。

 制裁のすべては「朕が命令」と拡大解釈されて行われた。
軍人勅諭に「己が隷属する所にあらずとも、上級のものは勿論、停年の己より奮きものに対しては総て敬礼を尽くすべし」という件りを盾にして、こういう古参兵はやくざのように威張りちらし、全く手につけられない存在だったのである。  

 しかし軍隊経験者のほとんどが、鉄拳や日本精神注入棒と称した樫の棒(海軍)で、顔は変形、尻などは腫れ上がって動きがとれないほど、ブン殴られた話はよく聞くのだが、ぶん殴ったという話は一度もきいたことだけが私は不思議に思うのだ。

 ―あの時の水兵が当時30歳だったと仮定して、今生きて居れば90歳を超えているかもしれない。一方飛行予備学生の方は、その頃まだ飛行機が充分あった頃の時代だった…、おそらく戦死されたのではないか。噫。

 真偽の程は定かでない。しかし戦死者の多くが「靖国神社で遇おう」と戦地に赴いたというのは虚構とは言わぬばっても、深く考えさせられることだと私は思う。

 確かに明治の頃は「軍神」と呼ぶに相応しい軍人もいた。
 佐久間艇長など、己が潜水艇内に海水が進入し浮上できなくなったとき、深度は高々15mであり、魚雷発射管を使えば脱出は可能であったにもかかわらず、「陛下から預かった大事な艇を、捨てて脱出することは許されない」と、彼は己の最後が近いことを予想し、どういう状況で艇が沈むに至ったかを記録し、遺書を書いたという。

《小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス。誠ニ申シ訳ナシ
その潜水艇が引き上げられたのは2日後のことであった。艇内には自分の持ち場を最後まで離れず任務を全うした軍人の遺体があった。逃げようとした形跡などはなく、ここに日本海軍の名誉は保たれた。特に、佐久間艇長の遺書の内容は軍人の本分にあふれるものとして賞賛された。》HP佐久間艇長の遺書による。

 先を急ごう。
 コイズミは「適切な時期に靖国神社を参拝」すると約束みたいなことを言っていた。
 私は、そんなことはどうでもいいと思う。それよりも「人間天皇」を宣言された天皇陛下が、陛下の御為に命を捧げた臣民に「朕が悪かった」と、靖国神社に密かにでも良いからお参りするのが、私たちが修身で習った「道徳」だろうと考えるのだが…。




衆院選雑感

2005-09-12 22:43:24 | 社会欺評

 幾ポイント活字というのだろう。久しぶりに見る大きな1面見出しである。
 産経新聞は中の社会面も同じような大きな見出しがあった。昭和天皇が崩御遊ばされたときと比べて、同じくらい大きなポイント活字ではなかったか。

《自民圧勝与党320:衆院議席の3分の2 民主惨敗岡田氏辞任へ》=朝日新聞

 しかし、僕は今度の選挙を冷静に受け止めていたから、それほど 腹も立てず、興奮もせずに、「ヤッパリ」と納得するくらいで済んだ。僕は誰が何と言おうとも「棄権」する決意に変わりはなかったからである。

 それよりも僕の一番の関心事は土井たか子であった。朝日新聞は特に彼女の落選について何も報道されていない。も一方は当選を果たした辻元清美である。近畿比例区で前者は落選、後者は当選した。
 今ここに泣きべそをかく衆院予算委の参考人質疑の答弁中の辻元氏の大きなカラー写真付きの「社民の元看板 驚く周囲」という見出しの朝日新聞切抜きがある。この切抜きの裏側がテレビ番組表になっているから、第一社会面記事であろう。 

 今日は論評なしに朝日新聞の2003.7・20付朝日新聞社説を点検するだけにとどめる。

  辻元前議員 なぜいま逮捕か

 社民党の辻元清美前衆院議員が警視庁に逮捕された。歯切れよい言葉で疑惑を追及してきた社民党の元エースは秘書給与問題で刑事責任を問われる身となった。
 今秋の解散風が吹き始めた矢先の突然の逮捕だった。なぜ今なのか。政治的な意図はないのか。疑惑の徹底的な解明を期待する一方で、どこか、すっきりしないものを感じる人も多いのではないだろうか。

 もちろん、容疑通りならば、刑事責任は重大だ。勤務実態がほとんどない女性2人を政策秘書として登録し、その給与として計約2千万円を国からだまし取った詐欺の疑いがもたれている。

 永田町にそれほど詳しくなかった辻元前議員に秘書を紹介したのは、社民党の土井たか子党首の当時の秘書だった。その秘書らも共犯として逮捕された。
 土井氏は政治的な責任を免れない。社民党の資金管理のあり方も問われよう。土井氏には、事件についてきちんと説明する責任がある。

 同じような秘書給与のピンハネで詐欺罪に問われた山本譲司元民主党衆院議員は、実刑となっている。判決は「政治改革への国民の期待を裏切り、政治不信の原因ともなる悪質なもの」と厳しく戒めた。
 今や政治資金収支報告書にうそを書いただけで国会議員が逮捕される時代だ。政治と金の関係をできるだけ透明にすることで、政治家が説明責任を果たすことが求められている。税金の詐欺となれば、有権者を裏切るものにほかならない。

 一方で、なぜこの時期に逮捕したのか、捜査当局はきちんと説明する必要がある。解散前に辻元前議員、更には土井党首の秘書を逮捕すれば、社民党が大きな打撃を受けることは目に見えている。

 昨年3月に週刊誌が疑惑を報じ、辻元前議員は辞職に追い込まれた。それから1年4ヶ月もの間、捜査当局はいったい何をしてきたのだろうか。
 辻元前議員は政治活動を再開しつつあり、地元では人気はなお高い。次期総選挙に推そうという動きもあった。
 また、犯意を否認しているとはいえ、在宅でなく逮捕という操作手段に踏み切る必要がどこまであったのだろうか。今さら証拠隠滅などする恐れは考えにくい。辻元前議員は金利分を含めた全額を国に返納している。流用の事実は大筋で明らかだ。

 秘書給与にかかわる問題で議院辞職に追い込まれたのは、辻元議員だけではない。
 自民党に所属していた田中真紀子前外相は、ファミリー企業を使って秘書給与の一部を流用した疑いがもたれている。辻元前議員は国会で事実関係を大筋で認めた。田中氏は流用疑惑を否定している。
 永田町では国会議員の逮捕が年中行事のようになっている。だからこそ、捜査当局には、国民が納得するような徹底した、かつ公平な捜査が求められる。

 今問題となっている朝日新聞の社説引用はちょっと気が引けるが…。

軍神その3

2005-09-07 21:59:47 | 博物館
 第二十七 橘 中佐
 敵は山によりて陣地を固め、盛んに弾丸を打出す。我が兵これを物ともせず、敵陣目がけて突撃すれば、敵は剱の林を以って我を迎ふ。橘中佐、真先に立ちて敵中にをどり入り、忽ち三人を斬倒す。
 敵の弾丸、雨あられの如し。中佐、すでに右手に傷を受けたれども、左手に軍刀を振るひて、部下の兵士をはげましはげまし、遂に日章旗を山上に立つ。時は明治三十七年八月三十一日、朝日のいまだ上らざる頃なりき。
 敵はこれを見て、三方より盛に大砲を打ちかく。いかに心は堅くとも、身は鉄石にあらざれば、砲丸に倒るゝ兵士数知れず。敵はすかさず、更に新手を加へて攻来る。中佐は大音に、
「一度国旗を立てたる此の高地、全滅すとも敵の手に渡すな。一歩も退くな。」
と叫びて、敵を撃退すること数度。中佐すでに第二弾を左手に、更に第三弾を腹部に受けたれども、少しもひるむ色なく、なほ奮戦を続けたり。忽ち砲弾の一破片、その腰にあたり、中佐は、どうと其の場に倒れたり。
 かたはらにありし内田軍曹は、急ぎ中佐をざんがうの内に助け入れて介抱す。戦ますます烈し。中佐、目を見張りて、軍刀を杖に立ち上らんとす。軍曹、中佐を背負ひ、弾丸の下をくぐりて、けわしきがけをかけ下りる。
 ほっと一息つく折から、飛来る一弾、又も中佐の胸を貫ぬき、軍曹の胸をも貫ぬく。二人は一度に打倒されて気を失へり。
 吹く朝風に、中佐も軍曹も、ふと我にかへれり。軍曹、かたはらにありし負傷兵と共に、中佐をいたはる折から、敵の突撃の声盛に聞ゆ。陣地は再び敵に取返さるゝにあらずや。中佐は言へり。
「残念なり。多数の部下を失ひて占領したる陣地を取返さるゝか」。
と。更に形を正して言へり。
「今日は、我が皇太子殿下の生まれ給ひし日なり。此のめでたき日に一身を君国に捧ぐるは、まことに軍人の本望なり」。
と。静かに両眼を閉ぢつゝ、聯隊長・将兵の安否を次々に尋ね、ほとんどおのれの苦痛を知らざるもの如し。
 中佐の全身は次第に冷えぬ。日も暮れんとする頃、
 「軍刀はあるか」。
の一語を最後として、遂に息絶えたり。
 橘中佐は、平生志堅く、勇気に満ちたる軍人にして、上を思ひ、部下をあわれむ心深かりき。此の平生の行ありて、此の壮烈なる死を遂ぐ。中佐が多数の戦死者中、特に軍神とあがめられるもうべなりといふべし。

 これは著作権発行者・文部省の「尋常科用小学国語読本巻九」の軍神の教材である。 此の巻九という国語読本は、小学生五年用後半学期の国語教科書をさす。
 此の文を読んで、今のみなさんにはどう映るのだろうか。

 戦争についていえば、遠くイラクの方まで、全く目的のない戦争に派遣されている多数の日本の自衛隊員。其の家族。日本国内ではそんなこと一向構わず、郵政民営化一点張りの政争真最中。教師は児童にこれを何と教えるのだろう。
 お目出度いことである。

 軍神広瀬中佐は50歳代の人なら大概知っていると思っていた。しかし真珠湾攻撃の9軍神を知らない老人たちが大分多くなってきたことを考えると、小生は今回の選挙が益々投票がバカらしくなるのであった。

 改めて軍神について考える。
 《軍神とは軍功をたてて戦死し軍人をいうが、公的な定義はない。歴史的には日露戦争の際の広瀬武夫海軍少佐と橘周太郎陸軍少佐(死後ともに中佐)を出版物が軍神と称えたことが始まりで、広瀬武夫海軍少佐は、広瀬神社に祭られている。

 乃木希典や東郷平八郎も死後、神社に祀られ軍神とされた。
 だが、その大半は、軍部に盲従し、戦意高揚のキャンペーンを行い、国民を戦争に駆り立てるとともに、大本営発表をもとに虚構の報道で国民大衆を欺いたケースが多い。新聞・ラジオを代表とするマスコミが「軍神報道」を続けるうちに、特定の戦死者が軍神と祭り上げられていったケースが多い。

 しかし(昭和13年)5月、日中戦争最中の徐州作戦で戦死した「西住戦車隊」の西住小五郎戦車長(死後大尉)以降は、軍が公式に軍神を指定するようになった。
 太平洋戦争期には2階級特進の措置がとられ、特殊潜航艇で真珠湾を攻撃した「9軍神」屋「空の軍神」加藤建夫(加藤隼戦闘隊長)らが有名である。》

 これはインターネットを使って「軍神」を検索したその1部である。
タイトルが「軍神一口メモ」とあって署名はない。《参考文献:牛島秀彦著『九軍神は語らず 真珠湾特攻の虚実』(光人社NF文庫)》

 靖国神社は満州事変1万7176柱、日中戦争19万1250柱、大東亜戦争213万3915柱
の英霊を祀る。其の中で「軍神」といわれるお方は幾柱おられることだろう。

勲章

2005-09-06 14:15:15 | 怒ブログ
 前に小生は「断腸亭日乗考」というタイトルで、
《永井壮吉こと荷風先生は昭和二十七年十一月三日、おそらく辞退されそうだという巷間の話とは裏腹に、あっさりと文化勲章の授与を拝受したのであった。》と書いた。

 このことに関して半藤一利が、筑摩書房PR誌「ちくま」に十八回にわたって連載した「荷風の戦後」の最終回(九月号)で 文化勲章受賞のあとさきを詳しく述べている。

《昭和二十七年十一月三日に、七十三歳の荷風は文化勲章を授けられた。文部省(現・文部科学省)大臣官房人事課長の十月七日付け書状によると、
「貴台には多年わが国文化の発展のために貢献され、その勲績の顕著なゆえをもって」というのが受賞の理由である。
 さっそく東京新聞十一月六日の匿名批評「大波小波」(署名・浅木夢路)が冷やかしている。だいたい文部省の小役人が十年も後輩の志賀直哉や谷崎潤一郎より後回し〔ちなみに御両所は二十四年に受賞〕にしたのは可笑しいのだ、と一発かまして以下、
「おそらく芸術院もことわった荷風はきっと文化勲章もことわるだろう。自分たちがやるようなつもりでいる勲章にケチをつけられてはたまらぬというのは、官僚根性からすれば当然の理屈である。しかしこれが単に荷風のポーズにのせられた文学の半可通の妄想にすぎぬことが今度の荷風の行動でハッキリした。荷風は元来明治の良家の子弟である。(略)だから彼は勲章もすきだし、でるところへでればそこらの役人などよりずっとエチケットも知っている。そういう簡単なことが見抜けなかったのは、役人たちに自信がなかったからである。(以下略)」》とこの覆面子の批評を「紙つぶて」として紹介したのち、荷風に勲章をあげたいと考えたのは「昔の弟子」の久保田万太郎であったことや、中央公論の嶋中鵬二がその根回しに動いたこと「中央公論八十年史」、や小門勝二氏の「実説荷風日記」を引用して書かれている。

「十月二十五日。陰。正午島中氏高梨氏來話。島中氏洋服モーニングを持ち来たりて貸さる。来月三日余が宮中にて勲章拝受の際着用すべき洋服を持たざるを以ってなり。」(小生写書きの『断腸亭日乗考』が十月三十日 となっているのは写し誤りである。)文中の島中氏とは中央公論社社長・嶋中鵬二氏のことを指す。

《荷風先生がすんなり受賞した理由は、よく言われているような勲章とともに下付される百万円のためでも、天邪鬼のためでもなく、『断腸亭日乗』こそがわがライフワーク、どんな栄誉や勲章を受けようとも、どうして恥ずべき所あらんや。この自負と自信である。ここに荷風の本音があった。》と半藤一利は持ち上げて書いているが、そういうものでしょうかね。
《…『日乗』にはなにやらかにやら祝い事の数々が続くが略とする。全体を見渡すと、結構、爺さん、嬉しがっておるわい。とそんな感じが行間から滲み出ている。ただし、その後に荷風さんは勲章をどうしていたか、といえば、新聞紙にくるんでそのへんにほっぽり出したまま、ほとんど見向きもしなかったそうな》作者はそう結んでごまかしているように聞こえるが果たしてどうか。

 文化勲章の辞退者はノーベル文学賞受賞の大江健三郎ただ一人ということも何だかうなずけられるような気分にもなる。

 ところで小生はここで再び永井荷風の古い物語を長々と書く積りは本意ではなかった。考察はあくまで『勲章』という奇抜な装飾具についてである。
 わが故郷にも、あるいはゆかりのある方が、過去ノーベル賞を頂いたり、勲一等に叙せられたりした。まことに御同慶の至りである。
 しかし、ノーベル賞は兎も角として勲章について言えば、「軍人」や「葦原帝」がこの拝受を無上の栄誉とし、身体中に隈なくこれを纏い、写真に納まる姿は絵にはなるだろう。だが現代の政治家が勲一等菊花大綬章に大騒ぎするその感覚は如何なもの乎。

 ここで小生は必然的に芥川龍之介の次の言葉が頭の中に浮かんできた。
《軍人は小児に近いものである。…この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなったものではない。勲章も―わたくしには不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わず勲章をさげて歩かれるのであろう?(侏儒の言葉)》
 ただ今の小児は勲章などはちっとも喜ぶ玩具ではない。

 閑話休題(オット、むだばなしはさておいて)。
 日本列島はいま選挙戦真最中。わが選挙区は無風であるけれど、今回は異変が一つできた。宗教団体が自民党候補の選挙運動をかって出ていることだ。この宗教団体の選挙活動は凄まじいことで有名だ。他の政治団体と違って「布教活動」の大義名分が、選挙活動を有利とされているらしい。わが町のちょっとした広場や、至る所の交差点には自民党候補の看板と小泉自民党総裁、神埼公明党代表の写真のたて看板が、ずらりと並ぶ。社民党もはもう諦めきった体で見当たらないし、元自民党員なのに、今回無所属で立候補した父親が防衛庁長官の経歴を持つ某候補は、無所属のため応援する人も少ないのだろうか、法定の掲示板以外はほとんど看板らしいものが見当たらない。共産党だけは自民党、公明党からやや離れた所に、小さく縮こまって立っているのが実情である。

 そこで勲章に話題を戻そう。
 元公明党の竹入委員長、矢野絢也、運輸大臣まで務めた二見伸明氏の消息である。この中で竹入・二見の両氏は創価学会を破門になっていると聞く。
 二見元運輸大臣が勲章をもらったかどうかは不明だが、学会が竹入氏を嫌う理由には、氏が勲一等勲章を貰った事と、朝日新聞に回想録を書いたことに起因するらしい。
 因みに、この宗教団体の名誉会長池田大作先生は諸外国でさまざまな叙勲、名誉教授、感謝状をもらっているが、何と日本国内からはほとんどそれらがなされていないという。勲章の功罪は思わぬ所に落とし穴があるものである。
 
 問題の朝日新聞の切りぬきを添付してみた。これは朝日新聞得意の「虚偽報道」ではない。宮沢りえの写真広告を重ねたのは他意ではなく、これも朝日新聞の1ページ大の新聞広告で勲章とはまったく関係はない。時代考証の為並べたと思っていただきたい。

宮沢りえ 篠山紀信「Santa Fe」1991・11月13日全国の書店で発売。予約受け付け中。定価4,500円B4版変形140ページ朝日出版社。(当時これの入手は頗る困難だったそうだ)
「秘話55年体制のはざまで―竹入元公明党委員長が政界回顧」 1998、8,16~とある。  

物乞い考

2005-09-02 22:16:18 | 社会欺評
夕方、我が屋の台所から出てきた、空の一升瓶や空き缶等を軽トラに積んで、ゴミ蒐集場所に捨てに行った。
 毎週金曜日は、ゴミを分別して回収する指定日である。そのための小型コンテナ袋が回収場所に3個置いてあって、それぞれボトル類、ガラス空き瓶類、空き缶類と別けて入れてくるのである。

 醤油より値段が高いとされる「ナチュラル・ミネラル・ウォータ」類のボトルがコンテナから溢れ出していた一方、ガラス瓶はわが家から持ってきた酒の空き瓶のみであった。水まで買って飲むのに、日本酒は買わなくなってしまった社会を実感し詠嘆してしまった。

 時節柄ご多分に漏れず、拡声器のボリューム一杯に上げた宣伝カーが次第にこちらに近づいてきた。右翼団体のそれではない。世は衆議院選挙真只中である。

 まさかこんなゴミ置き場の方までは、現れてこないだろうと思っていたのに、ゴミ分別作業中の小生に、宣伝車から降りてきたのは、大きな名前を書いた襷がけの候補者だった。足早にこちらに近づいてきて名刺を差し出し、
「3期目の□□□□候補者自身です。頑張ります」と握手を求めるのであった。

 向こうは白い手袋をしていたが、こちらはゴミを弄っていた汚れた素手である。いたく恐縮もしたが、逆に蔑まれている感じも拭いされなかった。不快だった。
 非常に不適切な表現になるかも知れないけれど、
《□ものを乞う代わりに、「票」を他人からネダッて生活する「□□い」ではなかろうか》とも映ってしまった。
 ゴメンごめん伏字にする。

 そもそも小生は選挙の投票に行く気などさらさら無い。今回は知事選と衆院選のダブル選挙であり、決して無関心ではないのだが、結果はあまりにも明白だ。
 ヘンな宗教法人に頼らなければ、国政も侭ならない現在の選挙の仕組みを考えれば、その矛盾を政治家自身に悟らせる方法は、1票を行使しないことによって、たとえ何万分の1でもいいから、選挙の棄権率の数値を伸ばし、投票の百分率を低下させる方法以外に道はないと小生は思うのだ。
 投票率が民意を表さないほど低い数値になれば、選挙改革の芽は国会の与野党議員の党籍を問わず、自然と生まれ来るだろう。そういう運動があるとすれば積極的に参加したいというのが小生の持論である。

 1票の行使で、政治を変えようなどと愚かな考えを持つより、如何にして投票率を下げるかを考えたほうが、政治を変える1歩も2歩も近道であると確信する。

 今度の選挙で気に入らないことはうんとある。最後にそのことの一つだけを記そう。
 今回わが選挙区で、初めて新興宗教会員が、「比例区は乞命党、痴呆区は児民党の候補」と選挙運動をくり広げていることだ。借りが出来たのであるから、児民党でも次はお返しをしなければならないだろう。
 立て看板は、この二つの党以外は、官立表示板以外は協賛党をも含めて全く立っていないことだ。あるはあるは、乞命党首の立看板の数。痴呆区からは出ていないのに…。
 日本はどうなるのだろう。杞憂であって欲しい。

 ※発音通りに党名が記載になってしまったのは、パソコン「word」の 悪戯と寛容を乞いたい。