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長いこと心に想っていた歌集である。捜しても見つからずにいた。
以前エントリーしたことがあるかも知れないが、私にとっては単なる思い出ある歌集だというだけではない。貴重な心の財産でもある。
他人にも見せたり、貸し出したこともあるので、あるいは紛失してしまったものと諦めていた。
それがたったいま、本箱の隅から発見した。本の背に何も書かれていない100頁弱の薄い本なので、身近な処に置いてあったのに気が付かなかったのである。
著者は、私が小学校2年の時の担任の先生(ご夫妻共著)であった。
私は6歳の時母に死に別れていたので、惨めな環境にある子供だった。
洗濯などしたことのない服や、汚れた下着のまま通学していたから、身体検査の時など気恥ずかしかったのをはっきりと覚えている。
今ではとても考えられないようなことばかりだ―。私はこの先生に下着のシャッやパンツまで買って頂いたこともあったのだ。
その恩義ある先生でも、何処のお方なのか、本籍も現住所も一切不明でいた。小学校創立90周年(昭和45年)の時、記念事業推進委員会が編んだ全卒業者名簿(謄写版刷り)に旧職員(先生方)の名前も載っているが、住所不明の方が多い。死去された方が大部分だが。昭和20年6月10日米空軍の爆撃で、校舎全体が爆弾の直撃で壊滅した。保存書類は殆ど散逸してしまったからである。
その先生が、偶然というか奇跡というべきか、思いがけない方からの情報で、町内に住んでおられることを突きとめたのである。
約50年振りの再会であった。そしてお会いしたのも1度だけで、間もなく昇天された。(先生は敬虔なクリスチャンだった。)
この歌集は先生が亡くなったのち、御主人さまが共著として発行された私家版で、ご遺族から頂戴したものである。
先生との出遭いやその後のことはとでも1頁や2頁では説明しきれない。
ここでは、歌集「小さき命」の序文と扉に添えられた御主人さまの一首の短歌だけの記録にとどめる。
序(元朝日新聞地方版歌壇選者)
お大切な御夫婦(それぞれの)御歌集 早くおかえし申し上げなくてはとおもいながら 今日になりましたこと お許し下さいませ。
このようにおまとめになられましたものを拝読いたしますと 一そうひしひしと胸深く 尊い御夫妻のお心がしみ入り深く感動いたしました。至らない私を改めてふりかえり お詫び申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
奥様のお歌を拝見して 私こそいろいろと教えて頂きました。
御生前にお目にかかれませんでしたことを残念におもいました。又最後のお歌を折りかえしお返し申し上げなかったを何とも申し訳なくおもいました。お詫びを申し上げて下さいませ。
お歌を通して奥様の深い御信仰を改めて仰がせて頂きました。又ご主人様と御信仰を共にされ お歌のよろこびも共にされましたことは誰にも容易に恵まれないの愛をうけられたあかしとおもいました。
先生のお歌はお心にも 表現にも 奥様のお歌とよく通われるものがおありになることを知りました。長い間の誰にも容易にできない愛の深い御看護を全うされましたのも ほんとうに通い合われて初めておできになったことと感動いたしました。
どうぞお二方の歌集を通してすべての人が 御夫婦の愛と信仰と徳を仰がせて頂くことができますようにと念願してやみません。
御出版の日をたのしみに お待ち申し上げております。
老婆心乍ら 奥様のお歌を初めに先生のお歌をつづいて おまとめになられてはとおもいます。
又お二人とも おはぶきにならないで全部 お入れになって下さいませ ほんとうに珠玉のようなお歌でございますから
かしこ
土屋 セツ子
いかばかり淋しかりしや吾を呼び
「なんでもない」と妻の息絶ゆ
余志夫
略歴の抜粋(歌集から)
昭和10年 洗礼を受け夫余志夫と結婚 2男2女を生む
昭和14年 中国天津に渡り 21年引き上げT市に住む
昭和45年 子宮癌を病み手術 コバルト60の後遺症か股関節炎
関節の骨がくずれ 松葉杖 車椅子の生活 丸山ワクチンの注射を3年間
この間病気は進行しなかった。
その後肝硬変 糖尿病を併発して数回の入院退院を繰り返す
昭和56年7月1日 夫の傍で 安らかに永眠する