狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

本は眺めるものである

2010-03-27 11:47:15 | 本・読書
         

だいたい、買った本を全部隅から隅まで読むなんてこと自体、下品なことなのだ。永江朗さんは、「本を最後まで読むのはアホである」(『「不良のための読書術』ちくま文庫、唐沢俊一さんは「古書は集めるためににあるものである。読むものではない!」(『古本マニヤ雑学ノート』ダイヤモンド社、のちに幻冬舎)、とそれぞれ名言を吐いている。これぞ、プロというものだ。(「古本でお散歩」ちくま文庫、岡崎武志)


わが町にも、購書を趣味と自賛する著名人がおられ、私邸には書庫専用の2階造りの別棟の蔵があり、蔵書がぎっしり詰まっている。年間300冊前後の新刊書を購入しているといわれるが、氏は整理・整頓も得意趣味の分野のようだ。
 ボクも書庫内を拝見したことがあるが、目録も整備されており(パソコンはまだ非使用)、ジャンル別、出版社別きちんと整理されているので、捜すのにオレのような苦労はないようだ。
ボクの場合は、ご覧のように、整理は全くしていない。それに書棚に2重に本が詰まっているので、捜すとなるとたいへんな労力である。
しかし、正直云って本は、眺めているだけで人生は愉しい。苦労はするが、捜すのもそれにもまして楽しく、長生きする秘訣だと信じている。

小さき命

2010-03-24 04:55:43 | 日録
長いこと心に想っていた歌集である。捜しても見つからずにいた。
以前エントリーしたことがあるかも知れないが、私にとっては単なる思い出ある歌集だというだけではない。貴重な心の財産でもある。
他人にも見せたり、貸し出したこともあるので、あるいは紛失してしまったものと諦めていた。
それがたったいま、本箱の隅から発見した。本の背に何も書かれていない100頁弱の薄い本なので、身近な処に置いてあったのに気が付かなかったのである。
著者は、私が小学校2年の時の担任の先生(ご夫妻共著)であった。
私は6歳の時母に死に別れていたので、惨めな環境にある子供だった。
洗濯などしたことのない服や、汚れた下着のまま通学していたから、身体検査の時など気恥ずかしかったのをはっきりと覚えている。
今ではとても考えられないようなことばかりだ―。私はこの先生に下着のシャッやパンツまで買って頂いたこともあったのだ。
その恩義ある先生でも、何処のお方なのか、本籍も現住所も一切不明でいた。小学校創立90周年(昭和45年)の時、記念事業推進委員会が編んだ全卒業者名簿(謄写版刷り)に旧職員(先生方)の名前も載っているが、住所不明の方が多い。死去された方が大部分だが。昭和20年6月10日米空軍の爆撃で、校舎全体が爆弾の直撃で壊滅した。保存書類は殆ど散逸してしまったからである。
その先生が、偶然というか奇跡というべきか、思いがけない方からの情報で、町内に住んでおられることを突きとめたのである。
約50年振りの再会であった。そしてお会いしたのも1度だけで、間もなく昇天された。(先生は敬虔なクリスチャンだった。)
この歌集は先生が亡くなったのち、御主人さまが共著として発行された私家版で、ご遺族から頂戴したものである。
 先生との出遭いやその後のことはとでも1頁や2頁では説明しきれない。
 ここでは、歌集「小さき命」の序文と扉に添えられた御主人さまの一首の短歌だけの記録にとどめる。

     序(元朝日新聞地方版歌壇選者)
 お大切な御夫婦(それぞれの)御歌集 早くおかえし申し上げなくてはとおもいながら 今日になりましたこと お許し下さいませ。
 このようにおまとめになられましたものを拝読いたしますと 一そうひしひしと胸深く 尊い御夫妻のお心がしみ入り深く感動いたしました。至らない私を改めてふりかえり お詫び申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
 奥様のお歌を拝見して 私こそいろいろと教えて頂きました。
 御生前にお目にかかれませんでしたことを残念におもいました。又最後のお歌を折りかえしお返し申し上げなかったを何とも申し訳なくおもいました。お詫びを申し上げて下さいませ。
 お歌を通して奥様の深い御信仰を改めて仰がせて頂きました。又ご主人様と御信仰を共にされ お歌のよろこびも共にされましたことは誰にも容易に恵まれないの愛をうけられたあかしとおもいました。
 先生のお歌はお心にも 表現にも 奥様のお歌とよく通われるものがおありになることを知りました。長い間の誰にも容易にできない愛の深い御看護を全うされましたのも ほんとうに通い合われて初めておできになったことと感動いたしました。
 どうぞお二方の歌集を通してすべての人が 御夫婦の愛と信仰と徳を仰がせて頂くことができますようにと念願してやみません。
 御出版の日をたのしみに お待ち申し上げております。
 老婆心乍ら 奥様のお歌を初めに先生のお歌をつづいて おまとめになられてはとおもいます。
 又お二人とも おはぶきにならないで全部 お入れになって下さいませ ほんとうに珠玉のようなお歌でございますから  
                    かしこ
                    土屋 セツ子


     いかばかり淋しかりしや吾を呼び
          「なんでもない」と妻の息絶ゆ
                      余志夫

略歴の抜粋(歌集から)
昭和10年 洗礼を受け夫余志夫と結婚 2男2女を生む
昭和14年 中国天津に渡り 21年引き上げT市に住む
昭和45年 子宮癌を病み手術 コバルト60の後遺症か股関節炎
     関節の骨がくずれ 松葉杖 車椅子の生活 丸山ワクチンの注射を3年間  
     この間病気は進行しなかった。
     その後肝硬変 糖尿病を併発して数回の入院退院を繰り返す
昭和56年7月1日 夫の傍で 安らかに永眠する  

辞書彷徨

2010-03-19 08:36:25 | 日録
              

日録抄
 町の生涯学習課で刊行する郷土の作家(大正~昭和にかけて活躍した。)の研究・顕彰誌(小生が委員会からの依頼で文集化155ページ)の校正刷り冊子を、町から委嘱を受けた委員5名の手で校正作業に入る。女性小学校校長(お一人は元)さんも2人名前を連ねている。お一人は欠席なされたが、付箋が数え切れないほどあり、各ページ赤ペンで、ぎっしり書き込んだ校正刷りを別の先生に託して寄こした。
 皆さん非常に熱心に冊子に目を通して来られたようだ。恐れ入る。
 最初の目次から異論が続出した。
 書式を横書きから縦書きにする。インデントの問題。主題から筆者に繋ぐ点線の長さの不揃い…等など。
 しかし、こんな事までわれわれが議論していたら、遅々として本文の校正まで行き着かぬ。
 取り敢えず、本文中の誤字脱字を検討していこうや、とオレは提案した。
 こうして校正が始まったのだが、いくらやっても問題点は続出する。
 49ページまでやっとこぎ着けたが、家に帰ってまた辞書との対決である。今日決まった事も次回覆さねばならないかもしれない処も出てきた。

 「おゝ、たうとうあの山へ登らして頂けたのかえ」と母親は純一の腕にすがり、感極まって咽び出してしまった。…」(引用文)
この「たうとう」が旧かななら「たうたう」、新かななら「とうとう」だと校長先生が仰るのだ。
 小生は、「そんなことはない。この小説は当然旧かなで書かれた小説だから、『たうとう』でいいと思う。」と強く言いきってしまった。
 あまりにも細かい処まで追求するから、オレも意地を張ってしまったのである。しかし自信ある反論ではなかった。
 「どうして調べる?」
 「広辞苑なら調べられると思う」とオレ。若い事務局員が事務所へ捜しに行って戻ってきた。
「あいにく『広辞苑』はありません。これでどうでしょう。」
 講談社版国語大辞典であった。オレが目を通したが、旧かなの表示はなかった。
 実は内心ホッとした。しかし別の課の方が、
「『広辞苑』ありましたから。」と言って、函に入った真新しい第六版を抱えて来たのである。
 
とうとう(タウー)【到頭】《副》(トウドウとも)ついに。結局。最後に。「ーたどりついた」「ーこなかった」
 「たうとう」で良かったのだ!しかし活字があまりにも小さくてわかりずらい。
帰宅後さらに「大言海」大槻文彦 冨山房で確かめたのがこの写真である。

 




三月十日

2010-03-10 15:41:58 | 怒ブログ
          

朝日新聞「声」欄〝語りつぐ戦争〟トップに、
「東京大空襲 無表情の人、遺体の山」の見出しの投稿が載った。 無職 富田てる子 (東京都葛飾区 82歳)の方からである。
 投稿者は、単純計算すれはボクより一つが二つ年上の方である。 当時ボクは田舎に住んでいて、三月一〇日東京大空襲の現状は直接分からないけれど、このわずか3ヶ月後の6月10日、わが村もB29の絨毯爆撃に遇って、空襲の惨状を具に体験しているので、このリアルな光景は手にとるように分かる。
 爆撃の跡は道路、田圃、住宅地を問わず、大きな爆弾の穴と爆弾炸裂時の大量の赤土が盛り上がり、破壊と瓦礫の廃墟の巷と化した。火災も起きた。死傷者の数は300以上に達した。理性も感性もなかった。
 爆撃の目標は、わが村から、隣村にかけて連なる海軍軍事施設・大型飛行艇格納庫、海軍練習航空隊であったのだが、当日は厚い雲に覆われた天候で、もちろんその頃も米軍機にはレーダーなどもあったのだろうと想像できるが、間違いなく雲上からの攻撃は盲爆であった。

 投書は次のようなものである。
  
1945年3月10日、18歳の私は弟2人と東京。向島の親類宅にいた。灯火管制の、真っ暗な2階窓から見た隅田川対岸の浅草は既に真っ赤。ひどく恐ろしくなり、弟と手をつなぎ東の葛飾方面に逃げることにした。
 隅田川では、逃げ場を失い飛び込んで溺れた人が、水面を覆うように流れていた。煤けた顔で無表情に、ただ人の流れに沿い歩く被災者たち。背負ったわが子が既に焼死しているのも気付かず、あてもなく歩く女性も目にした。
家はすぐに全焼し、見渡す限り焼け野原。家が焼けると何も感じなくなるのか、焼夷弾が雨のように落ちる中をただ歩いた。死体は道に幾重にも重なっていた。
6歳の頃、両親を失い、兄は招集で戦地に赴いていた。疎開先もない私たちは都内の親類の家をさまよい続けた。
 兄は数年後、シベリア抑留後に帰ってきたが、私も兄も互いの苦労を言わぬまま時は過ぎた。兄は昨年旅立った。


3月10日は今では東京大空襲の代名詞のようなものだ。(65年経って若い人たちには知らない人が多い)当時は報道管制もあって、われわれにはその実象は何ひとつ知らされていなかった。むしろ5月25日の東京だか横浜だかの大空襲では、100キロ以上離れているわが家からも、赤く燃えている空が遠望されたし、翌朝は燃えた紙くずが無数に飛来した。凄い被害があっただろうことを実感した。
新聞発表は2日遅れた5月27日である。
[大本営発表](昭和20年5月26日16時30分)
南方基地の敵B29約250機は昨5月25日22時30分頃より約2時間半に亘り主として帝都市街地に対し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。
右により宮城内表宮殿その他並びに大宮御所炎上せり。
都内各所にも相当の被害を生じ火災は本払暁までには鎮火せり。
我制空部隊の邀撃戦果中判明せるもの撃墜47機の外相当機数に損害を与えたり。
(朝日新聞でみる世相50年 朝日新聞社1972年より)

見出し写真は、[核密約歴代首相ら黙認]外務省極秘メモ公開ー
今朝の朝日新聞第一面である。