狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

再度「御名御璽」ー今日の出来事

2008-10-30 12:30:59 | 日録
               

<「明治23年10月30日・・御名御璽」
勅語が終わって直立不動から間もなく「休め」に入る。そのあと
♪アジーアのヒガーシ ヒイーズルトコーロ
だから御名御璽は「ホッ」とする一瞬。

過日「反戦塾長」ましま様から このようなコメントを賜った。

『わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました。』

この麻生太郎総理大臣の所信表明演説のさわりを、ましまさまの反戦塾を啓いて初めて知った小生であった。朝日新聞朝刊には、何も載っていなかったように思う。(あるいは見落としてしまったのかもしれない)数日後この名演説を、ネットから探し出して、記念にコピーしておいた拙ブログへのメッセージである。
ところでボクは、この「教育勅語(正しくは、教育に関する勅語)」の、
全文を今でも空読みできる。(書く事は出来ないが…。)そして、この日は特別にある先生への思い入れがある。
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト俱ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
  明治二十三年十月三十日
     御名御璽 
確かに、この「御名御璽」を宣すると、ホットしたものだった。
しかし、この10月30日には、わが村の小学校では、御名御璽に終わる御勅語の奉読の「式」は無かった。
村の小学校の大運動会だったのである。母親の無かった小生は、2年生担任のY先生から、パンツや運動着を買って戴いた思い出は、忘れさることが出来ない。
先生は、クリスチャンだった事を、戦後に知った。

ただ今考えて不思議なのは、翌月の11月3日は、隣村の運動会で、隣校のわが小学校も、全員参加した。しかし11月3日は四大節の「明治節」であるから、「式」をしなかったのが不思議である。

 今日は、過日町内の小中学校の先生方と一緒に子供達の感想文審査会に交流した事の余韻に浸りつゝ、庭掃きをした。
 そして、昔の10月30日に想いを致したのであった。

 今日の日を語る人なし御名御璽    谷人

小学生の読書感想文審査に参加して

2008-10-29 15:19:06 | 本・読書

   2年前、ボクは町の教育委員会 生涯学習課から、
御名御璽ならぬ、当該推進会議会長である、町長名と大きな会議長の判子の押した委嘱状を頂いて、「読書推進委員」なる崇高な委員に任命された。非常に名誉あることであり、感激して拝受した。名刺があれば、肩書きが目立つように、太字ゴシック体活字体書で書き入れたいような名称である。残念ながら、名詞を差し出すような身分でもないし、そんな機会もない。(これから、そうなりたいとは念じているが、高島易断には、あっさり絶望の卦をたてられた。)
委員活動は、年間を通じて、生活に差し障るような行事や、会議の回数は少ない。
町が企画した、この「○○(郷土が生んだ著名小説家の冠名)記念賞」の「読書感想文・感想画のコンクールが主たる行事のひとつであり、
その審査員を小生が依頼されたのである。 

 読書感想文は、小中学生の夏休みを利用して児童に書かせたもので、一般社会人の部門はない。

 わが町の、小学校・中学校合わせて、11校からの応募作品、125点の中から、最優秀作品1点。優秀作品を数点選ぶ、予備審査である。

この審査結果を元に、最終審査を行うのであるが、2次結果と変わる可能性があるので、審査結果などについて「守秘」をお願いしたいという文書が配られた。
当然当たり前なことであるが、ボクは、今まで2年間の会議で、町の教育長は、短いご挨拶をされ退席なされたが、教育委員はお一人もお見えにならなかったことが、不思議でならない。

 選考の所感を書くつもりがったが、夜長とはいえすでに10時を越している。
今日は、会議風景と、記念撮影の写真を添付してみた。
 男性の発言は余の意外は無かったと言ってもよいだろう。

 


目立つ公明党立て看板

2008-10-21 21:10:02 | 怒ブログ
         
ぼくは、それほど創価学会を忌み嫌っているわけではない。しかし絶対平和主義者の平和宗教団体が、なぜ戦争を助長すると思われる、公明党の印度洋給油活動法案に賛成するのか。
小生には非常に理解に苦しむ所だ。
町には至る所この様な立て看板が目立つ。この立て看板は創価学会員の奉仕で立てられていることには、ほぼ間違えいないと思うゆえなればなり。
戦中派のぼくにはこれが非常に心配だ。

憂国忌

2008-10-20 16:42:41 | 怒ブログ

憂国忌近しわれすら国憂ふ    谷人

 この小生の句を、今は亡くなってしまった友人が、当時選評までそえて採って頂いた。
《今の世相に、眉を顰める人がどれほど多いか。憤りの強さが直截に伝わる句調のの強さは、季語「憂国忌」にぴったりである。ーI.I郎》
何よりも有り難かった。講師のI先生だったら「詩が欲しい」の一言で片づけられてしまいそうな句のような気がした。
 事実俳句形式の五・七・五ではあるが、選挙用の標語だと云われても致し方ないと、自分でも嘲笑いたくなる。勿論詩的感覚など全くないとも…。
 然し、今三島由紀夫が実在すると仮定したなら、「何の役にも立ちそうもない腰の引けた日本の自衛隊の少数部隊」(朝日新聞天声人語)をアメリカの傭兵に仕立て、イラクにまで派遣するような愚挙に、彼三島は、一体どういう「檄」を飛ばしただろうかと、いきなり机を拳で叩かざるを得なかった。
 最近の自民党政治、特にブッシュに対して千切れるほど尾を振りつづける小泉・川口のやり口は、小生の頭に来る事ばかりだったからである。俳句など、どうでも良い!と自棄に口先だけの、小さな憂国の俳人に、小生は成り下がってしまったのであった。
 三島由紀夫は昭和四十五年十一月二十五日午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地屋上から、集まって来た自衛隊員達に、憲法改正と隊員の決起を促す檄を飛ばして、東部方面総監室にて割腹自殺した。この日を「憂国忌」として最近の歳時記には載せてあるものが多い。
   辞世
益荒男がたばさむ太刀のの鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜

散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

ところでこの稿は、古るーい「平成15年9月」のオレの所属する町俳句会例会会報からの引用文である。ひょっとしたら、本ブログのバックナンバーと重複しているかも知れぬ。
しかし、「インド洋給油活動継続」など、「民主党」すら、「憂国」に値しない法案を賛成するようような、三島の意志に逆らう世の中になっているのではないかと、憂いざるを得ない。

一句鑑賞

2008-10-14 09:48:41 | 怒ブログ

敬老の写真授かる齢かな       孝子

 だいぶ昔の話になってしまったが…。わが俳句会の講師であらせられたI.S先生は、俳句に「老」や「孫」の詞の挿入を、非常に忌み嫌われた。(先生は大正末のお生まれの方だった)このことは、何度も繰り返し強調されていたので、胸に焼きついている。その影響で、ボクも句作では、これまで「孫」と「老」は使わないよう心掛けてきた。実際使った記憶はない。
 また選句の際も、その点を考慮せざるを得なかった。この孝子さんの句は、9月例会時の出句だが、共感を呼びつつもその理由から、選の対象から外して、頂かなかった。
 しかし同じこの句が、町の芸術文化祭俳句部門の秀逸句参加作品を選ぶ、合同俳句会の句稿に見た時は、疑わず○をつけた。
 さらりと敬老の日を詠んだ作者だが、あのとき、町から授けられた額縁入りカラー写真に複雑な思いを抱いたに違いない。

 ボクも、やがては「写真授かる」歳になることは間違いない。その時こそ、誰がなんと言おうとも、断固辞退したいと今から覚悟を決めている。
 「姥捨て山」行きの証明写真、100万円付けられても頂きたくないのは当たり前ではないか。
 そして「後期高齢者」という蔑称を、速やかに廃棄して頂く事を切に望みたい。

 後期高齢者呼ばわり黄門さますら激怒すべぇ     谷 人

 


侵攻8年

2008-10-10 05:42:25 | 怒ブログ
          
アフガニスタン侵攻は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者への報復として、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンのタリバン政権への武力攻撃のことである。日本以外の国では通常アフガン戦争 (Afghan War / War in Afghanistan) と呼ばれている。

この戦争はアメリカ政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の戦争に賛同した。また、日本は2001年11月から07年11月まで正式に後方支援として参加し、インド洋に海上自衛隊の艦艇を派遣した(→自衛隊インド洋派遣)。

主な参戦国については対テロ戦争参照。

作戦名は当初「無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)」とされたが、有志連合諸国の間で評判が悪かったため、「不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と改められた。 対テロ戦争の動きは更に、イラン、イラク、北朝鮮の3ヵ国をテロ支援国家であるとするブッシュ米大統領の「悪の枢軸発言」に発展し、2003年3月にはイラク戦争が始まった。


             [
[編集] 戦争の概要

[編集] 空爆開始と北部同盟の進撃
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を計画・実行したとアメリカに名指しされた、国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン=ラーディンを保護するイスラム原理主義政権タリバンをアフガニスタンから駆逐するため、アメリカとイギリスを始めとした連合軍が10月7日から空爆を開始した。11月13日には北部同盟軍が首都カブールを制圧した。

アフガニスタンの多数民族パシュトゥーン人を中心とするタリバンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後の内戦において、最終的にアフガニスタンの支配力を勝ち得ていた勢力であり、アフガニスタンの90%の土地を実効支配していたが、北部にはタジク人・ウズベク人など非パシュトゥーン系勢力の組織がいくつかあった。彼らは反タリバン同盟として北部同盟を結成しており、アメリカがこれを支援する形で戦争は進められた。

アメリカを中心とする圧倒的な軍事力の下に、紛争としては比較的短期間(約2ヵ月)で終結し、タリバン政権は武力により粉砕された。対テロ作戦の継続の為、なおもアメリカ陸空軍2万人が駐留を続けた。

アメリカ本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機、ミサイル巡洋艦からの巡航ミサイルが使用され、また無人偵察機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司令部も活用され、クウェートやインド洋ディエゴガルシア島の米英軍基地からも航空機を飛ばして攻撃した。しかし、英軍が訓練していたオマーンからの攻撃をアメリカは望んでいたが、これは実現しなかった。

アメリカは当初、攻撃目標は軍事目標に限定していると発表しているが、誤爆などにより住宅や民間施設も被害にあっており、多くの人命が失われている。戦争を原因とする犠牲者は、公的には明らかになっていない(出典:CBS 60 Minutes“Bombing Afghanistan” )。

戦争から逃れるために多くの難民が発生し、周辺国とりわけパキスタンへ流入して問題になった。そのパキスタン政府は戦争でアメリカ支持の方針を出し、米英軍機の領空通過を認めたため、自国民やイスラム・アラブ諸国の反感を買った。北方のタジキスタン・ウズベキスタンも戦争を支持し、国内へのアメリカ軍駐留と施設使用を認めたため、影響力を持つロシアや周辺の中央アジア諸国に動揺を与えた。


(以上出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)による。写真は2001年10月9日付け朝日新聞)

名所信表明演説

2008-10-08 10:00:33 | 怒ブログ

十月六日(月)(余の日記から転載)
 朝から雨なり。終日降る。
殆ど何もせず。ましま氏の「反戦塾」ブログで麻生太郎の所信表明演説冒頭の「御名御璽」発言を初めて知った。それもその筈で、オレはテレビも見ていないし、ラジオも聞いていない。今頃になって三十日付け朝日新聞を探し出して隅から隅まで目を通してみた。とうとう見つからなかった。恐らく夕刊記事だったのだろうが、田舎なので夕刊は入っていない。それにしても不思議である。
その後今日まで読者の「声」欄にも、とうとう関連記事は見つけらなかった。

《首相に選んだのは天皇でなく国民(衆議院)である。憲法に疑義をいだかせる中山発言におとらない失言だが、誰も問題にしない。戦後は遠くなりにけりで不感症になっているのがこわい。》とましま氏が嘆いておられた。朝日新聞までこの症状に冒されてしまったのだろうか。
ネットで捜したら沢山出てきた。アサヒコムの記事も他のブログの参照URLから漸く探し当てた。

麻生太郎的ユーモアなのであろうか。聞いていないので不明だが、爆笑は誘わなかったようである。永久保存に耐えうる名演説として前文をコピーしておいた。 

わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました。

 わたしの前に、58人の総理が列しておいでです。118年になんなんとする、憲政の大河があります。新総理の任命を、憲法上の手続きにのっとって続けてきた、統治の伝統があり、日本人の、苦難と幸福、哀(かな)しみと喜び、あたかもあざなえる縄の如(ごと)き、連綿たる集積があるのであります。

 その末端に連なる今この時、わたしは、担わんとする責任の重さに、うたた厳粛たらざるを得ません。

 この言葉よ、届けと念じます。ともすれば、元気を失いがちなお年寄り、若者、いや全国民の皆さん方のもとに。


秋日和

2008-10-02 21:56:09 | 日録
           

           

           

秋日和である。久しぶりのような感じである。布団を干したり、メールを書いたり電話をしたり…。
当ブログも「長期休暇」をとった。
このところ全く気力をなくして、やる気がなく、ぶん投げ放しにした。
「秋田」と題して、写真2枚を載せただけで本文は中断してしたまゝにしておいたら、ブロ友凡々氏から、お見舞いのメッセージをいただいてしまった。
今日は、このブログを再開するカクゴだった。
しかし、新聞を見て再びやる気を失ってしまった。
幸いというか、用件が出来た。
5日にある町の文化祭に出展する「俳句作品」展示のための合同俳句会の打ち合わせで町に赴いたのである。
用件を終え、帰宅途中出会ったのがこの風景である。

ひとの噂もなんとやら

2008-10-02 21:32:52 | 怒ブログ

 新聞切り抜きを整理(逆に散らかしっぱなしで収まりがつかなくなってしまった。)していたら、わがイバラッケンの政治家の、華々しいデビューと、あまりかんばしなかった記事が切り抜いてあった。

(2007.9.29)
政界有数の政策通  県内外から大きな期待
重鎮として5回目の入閣は重要ポスト(常陽新聞 特集:額賀福志郎氏が『財務大臣』再任)
(2007.11.16)
「宴会に額賀氏・久間氏」
 守屋氏、喚問で実名  両氏「記憶にない」(朝日新聞見出し)

(2007.6.3)
攻めの農政に向け決意  赤城脳水相 初の“お国入り”(常陽新聞見第1面見出し)
(2007.8.2)
赤城農水相更迭
首相(安倍)1問1答
―4人目の閣僚交代だが任命責任は。
 当然、私にすべて責任がある。任命責任については痛感をしている。
―自分の身を守るために大臣のクビを切ったということですか。
 敗戦の責任ということではなくて、事務処理における対応の問題というのがあった。
―「人心一新」に自分自身を含めない根拠は何ですか。
 私自身、この選挙の結果、厳しく受け止めている。その上で、政治の空白を作るべきでないという判断をした。
(2008.9.9)
聞きたいホーダイ
事務所経費問題。ばんそうこう政治家としての今後は
私の顔よりも「農政」
農水相にまた就きたい
―参院選で自民敗北の一因になったと言われています。選挙前の辞任は考えなかったのですか。
 農政の課題で大事な時期で、いろいろとやりたいこともあり、自分がやらねばと歯を食いしばっていました。一方、大きな騒ぎとして取り上げられ、色々な方面にご迷惑をおかけした。けじめをつけるべきだと、8月1日に官邸に連絡して、総理に辞表を提出しました。
―地元の反応は。
 多くの厳しい声を頂きました。事務所費については同情もいただいていますが、1年たっても、「ばんそうこう」「ばんそうこう」といわれる。誰だって一時ケガしたとか、包帯巻いたとか、そんな写真は1回しか使ってほしくないのに…・(朝日新聞第2茨城)