狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

軍神その2

2005-08-29 14:49:43 | 怒ブログ
 8月27日の土曜日の午後「戦後60年 平和のつどい」という催しに参加した。
 会場に充てられた公民館のロビーには、平和への思いや願いを込めて作った、絵画・書・絵手紙、俳句、里謡などのほかに、非核平和宣言推進協議会提供のパネル展として、村内に実在した戦時中の海軍航空隊の写真や、戦時中の新聞、前線から届いた軍事郵便なども展示されてあった。
 また別のコーナーでは、
戦時中の食べ物の再現―スイトン・麦ご飯―などを地域の婦人団体が作り、参観者の希望者に振舞われていた。
 戦争中の服装・生活小物―「大日本国防婦人会」の襷をかけたモンペ姿のマネキン人形、やかん、防空頭巾・国債・手紙・写真―出征兵士を送る風景、記念写真等の掲示板前にも人垣ができた。

 大ホールでのイベントは、
第1部 《戦争体験を語る》
 主催者の型通りの挨拶も、開始を告げる言葉も一切無かった。
いきなり幕が開く。舞台は「非核宣言の村」と道標のある農村風景である。少年が小走りにこの道標近づき、その前に立ち止まる。そこへ2人の老婦人が近寄る。
 そこで少年と夫人の会話で始まる。
少年「おばさん、この看板は何と書いてあって、どんなことを意味するのですか?」
 2人の婦人は少年に「非核宣言」について原子爆弾の話や、世界で今でも起きている戦争の話を交えながら、平和の大切さを順序良く話して聞かせた。
そして「おばさんが戦争のお話をしてあげましょう」というセリフの後、ライトアップされた舞台の中央に戻り、代わる代わる自分自身の空襲の体験を聴衆に訴えるという展開である。

 そのお一人は昭和20年6月5日、神戸市灘区で空襲体験。当時13歳(女学校2年生)。母の実家京都府綾部市に疎開した空襲の恐ろしさの体験話。
 も一人の方は、昭和20年7月9日、国民学校6年生。岐阜市で大空襲に遭う。火の海を逃げ惑い、家は丸焼け。ばらばらに逃げた家族は無事だったが、母方の祖父が防空轟で爆死、混乱の中で葬儀も出せず、最後の対面もなかったという、お二人とも実際の体験談であった。
 これが開会の序詞となった。

 その後舞台は一変、村民の劇団による人形劇「村に伝わる狐と大きい黒犬の争いと、仲直りの物語」に代わり、ハッピーエンドのうちに喝采し第1部の幕をとじる。

第2部《立体講談「はだしのゲン」》中沢啓次原作
 これはプロ美人女性講談師による立体講談である。最近は「講談」という言葉ですら、耳にする機会が少ないのに、聞き慣れない「立体講談」とはなんと説明すべきだろう。それは単なる講談のように、釈台を前に張り扇で叩きながら、朗々と講釈をするだけの芸ではなかった。刻々と変わる、背景のパノラマを思わせる壮大な絵巻の中央で、講談師自演がポーズを作りながら、激的なシーンがつぎつぎと繰り広げられるのである。400人を超す観衆は「はだしのゲン」の1時間半に及ぶ大熱演の講釈に陶酔、黙し、涙した。

 私は主催者の一人Mさんの好意で、アフター会にも参加できた。打ち上げは近くのこじんまりしたすし屋の2座敷である。参加者30人弱。予告なしに美人女性講談師が実行委員の1人に導かれて座に加わった時は、惜しみない拍手がまき起こった。
 彼女を囲む座は一段と華やぎ、持ち込みの吟醸日本酒ばかりか、35度中国酒「老桂林」もみるみるうちに空けてしまった。
 靖国神社の話題が出たとき、私は臨席の人にそっと「《軍神》という言葉を知っていますか」と問いかけてみた。50歳になるかならないかの年配の男の方である。
 「広瀬中佐」の答えはすぐ返ってきたが、太平洋戦争(大東亜戦争)冒頭、特殊潜航艇による真珠湾奇襲攻撃で戦死、9軍神と祀り上げられ、国内中が熱狂した「9軍神」のことは全く知らなかった。今始めて聞く言葉だともいった。                
                             (つづく)

軍神

2005-08-22 22:29:59 | 怒ブログ
昔、男ありけり。で始まる「伊勢物語」を真似て、小生もこの「狸便乱亭ノート」のプロローグとしようとしたのであったのだが…。
往(い)にし人は、
名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

などと暢気なことを詠んで侍っ(はべ)て済んだのだが…。
世は21世紀である。ある国の政党みたいに緊急に軌道修正に迫られるのは当然のことかも知れぬ。
しかしこの男の物語はヤッパリ昔話のカテゴリーの域を超えられなかった。
「軍神」とした。
敗戦忌とともに首相の靖国神社参拝が問題(選挙になってしまって焦点が薄れた)となる。靖国神社に祭られている方々は「軍神」であるのか?

考察は「軍神」の定義からはじまる。

ぐんじん(名)[軍神]いくさがみヲ見ヨ。
いくさ‐がみ(名)[軍神]武運ヲマモル神。合戦ノ勝利アラムコトヲ祈ル。弓矢神(ゆみやかみ)。
軍神。武神専ラ、武甕鎚神(たけみかつちのかみ)、(鹿島ノ神)経津主神(ふつぬしのかみ)(香取ノ神)ヲ称シ、源家ニテ尊崇シタルニ因リテ、又、八幡大神ヲモ称セリ。

参考、保元物語、二、義朝白河殿夜討事(京師本)「サラバ軍神ニ祭ラムトテ、暫シ弓ヲ取持チ、表ニ進ミタル伊藤六ガ真中ニ、押当テ発チタリ」(血祭ナリ)太平記、六、赤坂合戦事「六波羅ニ誡メオキテ、軍神ニ祭リテ見懲リサセヨトテ、一人モ残サズ、首ヲ刎ネテ懸ケラレタリ」(節文、河内国、赤坂城ノ守兵ノ、降参シタルナリ)

兵家ニテハ、北斗星ヲモ祭リ、(其第七ニ、破軍星アリ)或ハ、仏ノ摩利支天、勝軍地蔵、三寶荒神ノ眷屬、夜叉神ナドモ祭リキ。
これは大槻史彦博士著「大言海」によるものである。(つづく)


名車語り部

2005-08-20 21:15:37 | 博物館
神代の事は悠遠邈乎容易に窺い知りません。
――これは私だけが知っている物語です。
秘め事です。
天照大神様が天の岩戸にお篭りになったときの事でございます。
高天原皆暗く、葦原の中つ国は悉に闇になってしまいました。
このとき八百万の神様が天の安の川原に神集いに集い
神諮り諮り給いました。

闇夜でも安全に物を運んだり、
やんごとなきお方を乗せて運ぶ便利なものはないかと…。

高御産巣日神様のお子さんに聡明な神様がおられました。
御名を思金神(オモイカネノカミ)とまおしあげます。
「皆さんにまおし上げます、クルマという丸いワッパを4個つけて、
それをまわすのに、天手力男神(アメノタジカラオノカミ)の心の臓を切り取り、
その原動力にすれば事足りるでしょう―。」

悠久とはいうものの、
僅かそれから二千有余年、
日本国を脱兎のごとく走るクルマという機械が出来たのでありました。

楚人冠全集について

2005-08-11 13:04:36 | Weblog
むかし日本評論社という出版社があった。今も同名の出版社があるが、おそらく別なものと考えていいと思う。
因みに楚人冠全集の奥付をみると
昭和12年1月22日 印刷
昭和12年1月30日 発行
著者         杉村廣太郎
発行者
  東京市京橋区京橋3ノ4
        鈴木利貞
印刷者
  東京市麹町区土手3番地29
発行所
  東京市京橋区京橋3ノ4
株式会社  日本評論社
       電話京橋6191-4
       振替東京16       とある。
名著「湖畔吟」は昭和3年12月東京・大阪朝日新聞社から発行され
  「続湖畔吟」「続々湖畔吟」は日本評論社からの出版である。
この3冊は「楚人冠全集」第五巻に収められている。
「楚人冠全集」は当初10巻での出版予定だったのが12巻になり、最後は15巻に膨らんだ。あるいは18巻(?)。
時局が戦時色を背景にページ数を13巻より少なくなっているのは当初の定価を維持する事が容易で開くなってきたことが、13巻の月報編輯だよりに見られる。
◇全集進行中に、紙価・印刷費・材料費が暴騰しました。全く思いがけないことで出版者としては苦しい事情もありましたが、予約したことでもあり、定価は据置き、頁数も大体予告通り大体550頁を守ってきました。ただ今日となっては従来の頁数を守ることがいよいよ困難を加えて来ましたので、恂に不本意ながら、増巻以後は頁数を減らし450頁前後と致しました。このため杉村先生、土岐先生にも色々御迷惑をおかけ致しますが、読者諸兄も私共の此の間の事情を御了察下さることをお願いいたします。
註 この楚人冠全集は各冊1円50銭 申込金50銭となってる。   

断腸亭日乗考

2005-08-10 20:26:18 | Weblog
むかし男がいた。永井壮吉という小説家である。膨大なその著作品は荷風全集としてすべて収められている…。荷風全集は、そのむかし春陽堂と中央公論社からもそれぞれ発行されていたそうである。前者は大正7年、後者は昭和24年の発行と解説書にはあるのだが僕はまだお目にかかってはいない。
ある日僕は行きつけの古本屋で、岩波の荷風全集がヅでんと店頭に高く積んであるのに出会った。(1962.12~11965.8)28巻である。購入の気は全くなかったのだが参考のためにと、値段を聞いてみたら、最初5千円といい、ちょっと首をひねってから3千円と訂正したのであった。

ただし14巻と28巻が欠本ですが、ここに積んである26冊は全部月報も付いておりますとのご主人の説明である。即座に買うことにした。「14巻」も「28巻」も割合見つかる本だと思いますと主人はつけ加えたのだが、全集には必ずこういうものがあって、これを古本屋仲間では「ききめ」といい、容易に見つかるものではないということくらいは僕も知っていた。しかし何といっても魅力は嘗て買いたいものだと思っていた「断腸亭日乗」が全部揃っていたことである。

この日録は近年にも「断腸亭日乗」7巻本として岩波から出版された。1冊あたり5千円もする豪華なもので到底僕には手が出るようなものではなかった。

僕は今から放送大学挑戦という意欲だけまだ残ってはいる。だがこの7巻を全部読んでいたらオレの人生100年としても、これを読むだけでオレの人生は終わってしまうであろう。
僕はこの全集を辞書を牽くような使い方でせいぜい利用させてもらっている次第である…。

今年の朝日新聞の3月10日付「天声人語」を見ると荷風の偏奇館漫録が引用されている。これは断腸亭日乗とは若干違っている。 余談だがこの日の1面トップ記事は、警視庁が10日未明、路上で女性に抱きついて胸を触ったとして、自民党衆院議員中西一善容疑者(40)=東京4区=を強制わいせつの疑いで現行犯逮捕した。云々。とある。
断腸亭日乗では、
三月九日 天気快晴、夜半空襲あり、翌暁4時我が偏奇館焼亡す、から始まりその時の様子が綿密に書き記されていた。
八月六日の広島の原爆、八月九日の長崎の原爆も荷風の記録にはない。
八月十日 晴広嶋市焼かれたりとて岡山の人々戦々兢々たり。と原爆の惨状には触れていないといってよい。

八月十五日 …S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりしといふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、[欄外墨書]正午戦争停止
簡単な記録である。

さて永井壮吉こと荷風先生は昭和二十七年十一月三日、おそらく辞退されそうだという巷間の話とは裏腹に、あっさりと文化勲章の授与を拝受したのであった。

十月三十日。陰。正午島中氏高梨氏來話。島中氏洋服モーニングを持ち来たりて貸さる。来月三日余が宮中にて勲章拝受の際着用すべき洋服を持たざるを以ってなり。
十一月初三(ここには文化勲章授賞式ならびに晩餐会の様子が細かく書かれ
ているが省略する)

日本国天皇は永井壮吉に文化勲章を授与する
昭和二十七年十一月三日皇居において璽を捺させる
大日本
国 璽
昭和二十七年十一月三日
内閣総理大臣 吉田 茂 印
内閣総理大臣官房賞勲部長村田八千穂 印
第65号

新瓢鰻亭通信

2005-08-08 18:54:53 | Weblog
2005年  ドブロク祭 再開ご案内
    ――今年から再開いたします――
      『ドブロク祭』
 「自分で必要な物は自分でつくる。」 前田俊彦の志を〝祭〟の中で表現してきたドブロク祭も2003年を最後に久しく中止していました。しかし浴農余市民の熱烈なアンコールに応え、今年からの再開を決意しました。蓄えおいたドブロクを賞味しながら「前田俊彦」のプラトン節を、存分に堪能いたしたいと思います。ご都合のつく方は、友人お誘い合わせの上参加くださいますよう、お願いいたします。
なほ当日は酷税酒税局長や、閻魔大王閣下もご出席の筈でしたが、衆院解散のあおりでキャンセルが充分予想されますのでご了承下さい。

日時: 2005年8月13日(土)

 第一部 AM 11:30~PM 3:30 出店、催し物等
 第二部 PM 4:00~PM  6:00 記念講演「―永田町でドブロクをつくろう」講師・前田俊彦 
 第三部 PM 6:00~  どぶろく「三途乃誉れ」飲み放題。食事をとりながら「権力との闘い」を語りましょう。

場所: 三徒川瓢鰻亭講堂 (浴農余市怒撫碌町)    雨でもやります。
参加費: 一部 二部 無料  三部 5,000円(飲食代)

主催: 三徒ドブロク祭実行委員会 ――連絡先: 三途川瓢鰻亭講堂

杉村楚人冠について

2005-08-06 13:37:56 | Weblog
むかし朝日新聞社に高名な記者がいた。縦横と号し阿美湖に居を構え枯淡庵と称した。
ボクが中学生の頃、ある日の国語の授業時間、
「俳人で知っている名前は?」という教師の問いに一斉に生徒のほうの手が挙がった。
指名された順に、芭蕉、一茶、虚子、秋桜子、鳴雪、井泉水と黒板に書き上げられていく。そのうち生徒たちには、忽ち答える俳人の名前の種に窮してきた。それでボクはなるべく皆が知らないだろうと思う人をねらって「楚人冠」と答えてみた。教師はちょっと首をかしげたが、
「う、うーん、楚人冠かねえ。俳人というより新聞記者の部類ですかなぁ」と答えたきり深くは言及しなかったことを覚えている。

杉村楚人冠が我孫子に住んでおられたのは「湖畔吟」などを読んでボクはとうに知ってはいた。
しかし、そのお住まいや「楚人冠公園」の実在を知ったのは、そうむかしの話ではなかった。
ある日、ボクは関東圏1:50,000に地図をたよりにとうとう我孫子市内にある、楚人冠公園や杉村邸を探し当てたのである。

我孫子市は拙宅から魂消るほど遠い距離ではない。そこには嘉納治五郎、柳宗逸、バーナード・リーチ、武者小路実篤、志賀直哉、中勘助などの住居跡や記念碑などが数多く実在していた。
現在は武者小路実篤旧邸への出入りはけっこう難しいと聞いたが、ボクがそこを訪ねて行ったころは、お住まいになっているその家の方が、
「どちらからお出でになりましたか?」などと、世辞も惜しまなかったころである。一般農家のように見えた。
手賀沼を望む高台にある邸内から写真を撮ったり、整備された芝生の上で持参の弁当を広げたりした。

しかしボクにとっての我孫子は何といって楚人冠である。その縦横無尽の筆致はどの芥川賞作家も遠く及ばないとボクは信じている。

前記「犬猫牛尼耶賦」は楚人冠全集第一巻(日本評論社版)からの引用だが、大正名著文庫第三編「へちまのかわ」(至誠堂)の文とは些細な違いがある。
「加藤清正公にさゝぐ」とする、扉の次に渋川玄耳による「舊版「七花八裂」序も大袈裟なものだが、次の自序がまた奮っている。
 自序
過去十三年間の悪文悪詩を蒐めて一巻となし、題して「七花八裂」といふ。
天下に誇り示す名作とては、一篇も之あることなしと雖も、収むるところは盡く是れ他が掣肘威圧を受けざる、我が独立の思想也。其の一章一節だに、誠実に我が見得底を披瀝せるに非ざるはなし。偶々其の語る所に、互いに矛盾するものあるが如きは、畢竟著者の個性が、互に相矛盾せるものあるに由る。
文、文を成さず、詩、詩を形づくらずと雖も、この書は是れ半点の修飾を加えざる著者が本来の面目也。追うて竟に及ぶことなき理想を追ひて、手負猪の如く突進したる著者が半生の浄裸々史也。是を公にして大方の清鑑を求むるは、敢て自ら負む所あるに非ず、唯狂人の病床日誌を公にして、医家の参考に供せんとすると、其の意を同うするのみ。       縦横杉村廣太郎識す

犬猫牛尼耶賦

2005-08-03 17:33:36 | Weblog
次の文の作者をご存知だろうか。
今日は作者名を伏せ論評を加えず文の紹介だけに止めておこう。
むかし朝日新聞におられた偉ァーい記者・新聞人であった。

犬猫牛尼耶賦
一に取る基大そPス悪か分落はに迄とな名尚らのサ様其さもの
極丁廃我もれこのた著者か京結ほ脱い立S減氏淆準はと御だい
越田せ慰る仕も丸あを適才説もに友をて本景一にはり見かの點
に来もすせを管洋に風に唯風六をのにヌ突た退○る性国用述買
ま有ら上悪宗格こ臺ぬ夢Pな淵不にるA神角の氣がとレこら知
切はに記女てらと官Rに々るをケ謹情ウK京地れん慮毛竹的は
つてわるやざ其の但京又にた金と然をとケか居門蔵立左武に吾
ざじふ五とての堕の狭ず行師後本ヲれば十も甲金重しせの成て
自職従越も意たのすのし宗の的こ足配於のマMてにサも手氏
き也

犬猫牛尼耶賦賛
是れ野馬臺の詩に非ず、是れ天王寺の未来記に非ず。是れ其のかみイーディポスが解けりといふなるスフェンクスの謎語にも非ず。是れバビロン王宮の壁に現れたりといふUpharsin Pere 云々の呪文にも非ず。こは是れ、畢竟滔滔たる天下の納僧が旦暮に読誦する底。読む者、固より是を解せず、聴く者亦如何ぞ之を解するを得んや。而かも読むものは、之を読んで格外の財利を収め、進んでは之によりて肉を食ひ色を漁せんとし、聴く者は之を聴いて、多少の財物を捧げて、之によりて己の極楽浄土の往生せんことを祈る。謂ふこと勿れ、是れ難読難解と。妙味は寧ろ不可読不可解の間に存するを悟らずや。強ひて漫りに註脚を加へば、毫末の差遂に千里を隔つベし。
玄の又玄摩訶不思議、秘すべし、秘すべし。丑の年かみんなめ月

岩波文庫「神皇正統記」雜考

2005-08-03 08:40:10 | Weblog
むかし(昭和50年以前の頃)行きつけだった古本屋の書棚に、「神皇正統記」という岩波文庫を見つけたことがあった。ボクがまず1等先に調べるところは、後ろの見返し遊び部分に付けられた鉛筆書きの値段の数字である。初版本であったかどうかなど、眼中になかったが、書かれてある2,000という数字に圧倒され、購買意欲はその時点で、全く失ってしまった。
ボクはその本の歴史的内容に魅せられたわけではない。当時この文庫本は絶版本として朝日新聞のコラム欄に何かの話題提供記事として載っていたのを見ただけのことである。それを見て知っていたから掘り出し物を見つけた時のような感激を味わったのだが、流石古本屋のソロバン勘定はボクよりははるかに上手だった。2,000という書き込みは売価は2,000円ですという定価表示で、値引きは今までの経験から、この本屋ではありることではない。
2,000円は当時のボクとして法外もない高価な金額ではなかったが、岩波文庫のコレクターでもなかったし、その内容たるや猫に鰹節(小判の間違え)に等しかった。

当時岩波文庫のプレミア付でも1,000円ぐらいが相場だったように思う。
「能狂言上・中・下」「何々俳風柳多留」などがそれである。
2,000円も払って「神皇正統記」入手するにはボクの良心が決断を赦さなかった。
当時古本屋の文庫本で1,000円以上の鉛筆書きの値段をつけてあったのは、旺文社文庫の「内田百」の著作集ぐらいだっただろう。その理由はボクにはわからない。
ただかつて「新輯内田百全集」で味をしめたと思われる福武書店の内田百文庫作品は、どの本屋でも売れなさそうな文庫本だったのに、不思議なことに社名をベネッセコーポレーションと変えた途端店頭から姿を消してしまい、今古本屋に800円~1000円で出回っていたということである。

駄弁を弄してしまった。
ボクはその後何回か未練があってその本屋に2,000の鉛筆書きだけをながめに行ったが、ある日とうとうその「神皇正統記」は書棚から姿を消してしまった。売れたのであろう。

ところがである。いまどき「絶版」などあり得ないだろうと思っていた矢先、それみたことか、この「神皇正統記」岩波文庫版が再版されたのである。しかも300円の手ごろな定価で…。
昭和50年の事である。それを知ったときボクはあの時2,000円吝んだのは本当に正解と思って今日まですっかり忘れて過ぎた。

Leprechaun さんが「北畠家」という民族・歴史に関するカテゴリー欄に寄稿された。
ボクは歴史についての知識はほとんどない。しかし岩波文庫版「神皇正統記」について以上のような思い出があるので駄文を綴ってみた。
しかし、先刻調べてみたら、再版されたのは同じ「神皇正統記」でも校注者が山田孝雄から岩佐正と変わってしかも現在品切れ。あーア2,000円!!あの時コイズミが買って行ったのかなぁ。残念無念。
ボクは地団駄を踏んだのであった。
 参考まで
1934年 神皇正統記 山田孝雄肯定246頁菊半載(110×152㎜)40銭
1975年 神皇正統記 岩佐 正校注294頁A6版(105×148mm)300円
                  (岩波文庫総目録)

越乃寒梅物語抄

2005-08-01 16:04:15 | Weblog
むかし広島に一人の勇ましい「やまと女性」がお生まれになりました。むかしと言っても伊邪那美命ほど遠い昔ではありません。昭和の御代のお話です。

ところで突然お訊ね致しますが皆さんに中に、『越乃寒梅』といわれて何のことかお分かりにならない方がおありでしょうか。
多分ないでしょうね。このお酒を初めて「酒」という趣味の雑誌に紹介したのがこの「やまと女性」だったのです。昭和42年のことです。古いでしょう。

《-たまたま2ヶ月ほどまえ、味わい深い純米酒を知ったのがきっかけで、私は各地の銘酒を捜し始めていた。新潟の酒造組合に雪の中訪ねて行ったのも『越乃寒梅』という酒をつくる石本省吾蔵元に紹介を頼むためだった。『越乃寒梅』といえばいまでは名酒の代名詞になったが、10年前は知る人ぞ知る〝幻の銘酒〟で、私もまだ飲んだことがなかった。》(日本の銘酒・稲垣真美 新潮選書 昭和59年発行)というような時代です。

このお酒は今ではボクたちだって購う事は容易ですが、《贋物を作って1升(1.8㍑)1万5千円といった高値で売る輩も出てきた。本当に情けない話である》(私の放浪記 法藏館 平成10年)でお分かりになると思いますが、新潟にコネでもなければ手に入らないように有名になってしまったのです。

そのころボクはまだ、この趣味の雑誌「酒」の実物を見たことがありませんでした。たまたまあるとき、親戚筋の葬式の斎場の忌中払いの折、隣り合わせた人が東京奥多摩の酒蔵(東京に酒倉があったんですねえ)の製造部長で「酒」誌を何部か持っているというお話を聞き、後日その1部を頂戴することが出来たわけです。それは彼が「酒」編集長との対談の記事が載っているものでした。

それまでボクは「酒」は鎌倉書房あたりから発行されているものとばかり思っておりました。実物を手にとって見ましたら「酒発行所」というこの勇ましい「やまと女性」の個人発行所の雑誌でした。

さてさて、広島出身の彼女は当時万年Cクラスに低迷していた「広島カープ」プロ野球球団に大きな喝を入れました。
「広島カープを優勝させる会」を結成したのです。
物語は「太陽が西から上がっても、カープが優勝するなんて絶対ありえない」と馬鹿にされていたカープが昭和54年リーグ制覇・日本1の座を手中に収めたという筋書きなのでありますが、この物語の主役むかしむかしのお方こそ後の高名な佐々木久子さんであります。

なお「酒」誌は平成9年から休刊になっております。
《鯉幟昭和も古くなりにけり tani》