狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

続大言海

2009-03-25 13:43:17 | 日録
また奏楽の挿図(写真版参照)があって其の次にプログラムが出ている。原文を引用すると、
『楽曲譜名  陸軍楽長小篠秀一 楽員二十七名 
     笛手一名 洞簫手十名      
喇叭手 十四名 鐃鈸手一名 
     大太鼓   一名

第一 バー、ルドーブレー
第二 東京ポルカ
第三 エールシャ ホンネー 
   ヒトツトヤ  コチャカマヤセヌ 
   ネンネコ  エサホーヤッシン  ヨイ          

第四 ガルセロヌ ボレーロ
第五 ランクリューム ポルカ
第六 ポルジョ
第七 ラビ、パリシャンヌ クヮトリユー
第八 ペクポルー ポルカ
第九 トレベーゾンド クヮトリュー

 本日招請スル所ノ楽隊ハ陸軍軍医総監松本順軍医監林紀軍医正緒方維準及林洞海石川良信五君ノ膾貽ニ係レリ今其譜名ヲ録スル事右ノ如シ案スルニ「ボレーロ」ハ節ノ名「ポルカ」「クヮドリュー」ハ舞ノ名ナリ而シテ第三曲ハ昔年仏楽士ノ作レル所ニシテ邦俗ノ童謡船歌等ヲ合一せる者トス其第五曲ハ鍛冶職ガ錬冶スル時ノ音楽ヨリ作リ出タセル者ト云フ共ニ其巧妙ヲ極メタリ抑陸軍楽隊ヲ世人一般ノ請求ニ応シテ礼式ノ宴ニ奏スル事ヲ公認セシハ実ニ本月中澣ニ在リ故ニ草堂今日ノ挙ハ官楽ヲ以テ私祭に奏セル事ノ最先嚆矢ト謂フ可シ』
とある。
小篠秀一はもと喇叭教官で明治4年最初の陸軍楽長となり明治11年まで在任した。笛手はフルート、洞簫手はクラリネット、トベースクラリネット、喇叭手は金管各種、鐃鈸手はシンバル、太鼓手は大太鼓を奏したものらしい。
 曲名を仮名の綴りから原文を推測して訳名をつけて見ると次の様になる。

第一 Pas Redouble(速歩曲)
第二 東京ポルカ(日本の東京か?仏領印度支那のトンキンか?)
第三 Airs Japonaises(日本歌曲集)
第四 Barcelone,Bolero(ボレロ舞曲「バルセロナ」)
第五 LEnclume,Polka(ポルカ舞曲「鍛冶」)
第六 Borgio?(歌劇「ルクレチァポルジア」の抜粋曲?)
第七 La Vie Parisienne,Quadrille(カドリュ舞曲「パリの生活」)
第八曲と、第九曲の原語はどうもこじつけられない。第三曲は『昔年仏楽士の作れる所』とあるから雇牧師ダクロン(フランス人、明治5年から明治16年まで陸軍軍楽隊に在り)が編んだものらしい。(月刊楽譜)

 

自らの身は顧みず

2009-03-23 20:31:23 | 怒ブログ
           
「米、英と言えどもおそるるに足らないのであります。」
嘗ての兼攝陸軍大臣の獅子吼は今でも覚えている。

身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂

んだ!小学校のとき教わった吉田松陰の和歌今でもオレは今でもソランじる事が出来る。
恰好は良かった!!堂々たる歩武。神宮外苑。
しかしニッポンは大変は事になったのであった。
繰り返してはならない。
この防衛省前の桜は2代目である。蕾は固かった。

大言海

2009-03-21 12:53:01 | 本・読書
           
まず辞書からの出発である。
大言海:大槻文彦 冨山房 昭和10年9月印刷・発行・初版。定価金6円50銭也。
期間限定特価金5円のシールが貼り付けてある。この辞書は索引を入れると5巻本で、索引を除く4巻はわが町にある古本店「H書房」で魂消るほどの安値で購い求めたものだ。ここの主人は古本屋としては若いオーナーだった。しょっちゅう出入りしていたから、奥さんのいたときなどはお茶をよばれたこともある。
「古本H書房」と書いた看板の〝古本〟の文字がバカでっかい。
あるときボクが「〝古書〟と書き代えたら?」といったことがある。
その時主人の詞、店内の割と広いスペースのあるコミック誌コーナーを指さして、
「これでは〝古書〟とは言えないでしょ。これがバカに出来ないのよ」と笑うのだった。(平成の現在はギャラリーを設けて、文庫本は、岩波と中公以外は扱はず、硬派本と稀覯本限定本のネット販売が主流で、コミック誌のコーナーはない。
 索引付きは神田のY書店で、高い買い物だったような気がする。
だから私は現在2組の「大言海」を所持している。欲しい方、本を大事にする方だったら4巻の方を譲ってあげても良い。月報が付いているかいないかで本の「価値」は違ってくると言うが、この月報にはいろいろの人がかいてあり、面白いものだ。

道草をくって、「大言海」彙報 第一号の一部を引用紹介する。
大言海並に本紙表題に用ゐた大言海の三字は唐代の名筆、柳公権字は誠□の、玄□塔碑中より集字したものであります。

陸軍軍楽隊出張演奏の初記録
          堀内 敬三
 明治九年九月二十八日、東京本郷金助町五十三番地に新築された大槻磐渓氏の邸で故大槻水翁の五十回追遠会が行はれ、陸軍軍楽隊の出張奏楽があった。
 大槻磐水翁は玄澤と称し奥州一関の藩医の家に生まれた。誕生は宝暦七年九月二十八日。家業をついで医術を修め、江戸に於いて蘭医杉田玄白・前野良澤に学び、また長崎に遊学して蘭学・西洋医学の蘊奥をきはめたので、仙台藩の侍医に挙げられ更に幕府から蘭書翻訳の命を受け、「蘭学階梯」「重訂解体新書」を初めとして多くの名著を残し、文政十年(即ち明治九年の五十年前)三月晦日に七十一歳で逝去した。
 その子の磐渓(清崇)氏は大儒として知られた碩学で、孫には文学者大槻如電先生と、「大言海」の大槻文彦博士とがある。
 この時の追遠会は午後三時先ず磐水翁の遺像の前に於いて祭典を行ひ、それがすんでから祝宴が催ほされ、宴半ばにしてロシアの宣教師ニコライ氏が立って日本語で祝辞を述べ、宴終って庭園内で陸軍軍楽隊の奏楽があり午後九時すぎに参会した。
(略)
三浦俊三郎氏著「本邦洋楽変遷史」の第82頁に陸軍軍楽隊沿革の一部として
『又一般庶民の奏楽依嘱に応ずるの規則を設けられた。而して同年(明治八年)十一月には初めて仙台の大規模の祝賀の宴席に於て奏楽した。之が洋楽を市井に開放したる最初の試みで現時の出張奏楽請求手続きに依る奏楽のイニシャチヴと云ふべきである。』と記してある。此の『仙台の大槻某』が爰んぞ知らん大槻磐渓・如電・文彦の三氏であったのだから驚いた。
 この会の記事は如電先生の編んだ「追遠会誌」の中に記してある。此の本は明治十年四月二十三日に出版された和綴六十二頁のもので四号活字で組み、書だの画だのは木版で入ってゐる。
 付録として此の会の事を叙した新聞記事が転載してあるが、朝野新聞の記事として
『…陸軍の楽隊二十有八名盛装し、前堂に環列して楽を奏する数曲(頃日士民の礼会に陸軍楽隊を貸与せらるる事を許すの令有り故に松本君陸軍省に乞ひ本日楽隊を大槻氏に送る蓋し官許を受け楽隊を私事に用ゐるの嚆矢なり)其音洋々賓主皆楽しめり…』とある。


 

本の旅人

2009-03-14 21:12:34 | 日録
         

 私はまだ飛行機に乗ったことがない。自慢出来る話ではないので、此方からわざわざ相手さまに言い触らすことは避けるようにしているけれど、かりに間違っても会話の中でそういうことを言ってしまった位なら、
「嘘オ?」と、軽蔑的返事が返ってくるに決まっているだろう。今どきそんな時代遅れの人間は、希少価値が極めて高い世の中になってしまったのである。
 私が、飛行機に乗ったことがないということは、取りも直さず「旅行」などしたことがない結論に達するであろう。私は旅の思い出も、これから旅の計画も立てていない。
 それでは、『特集「旅」』にものを書く資格がないのだろうか?私は今回の「旅」特集号にあわせて、是が非でも何か書きたいと心に決め、思案に耽っていた。
 その一案として、わが書棚に並んでいる本を引っ張り出して改めて整理し直してみた。「旅」について、新しい概念が浮かんでくる可能性についての[充足理由の原理]に基づいての行動だった。
私の書架にはそれ程大袈裟なタネになるようなモノは揃っていない。しかし私は、親戚や運送屋の同業者、その他ご近所の大体同じぐらいの年齢の人達と比べて比較的本を買い集めている部類に属すると思う。もちろんこの研究会誌に寄稿常連のK氏とは、量も質も比べものにならないけれど、私なりに地味に雑本を蒐集してきた積もりだ。
 『蔵書は、その人の顔であり、思想であり、人格であり財産である…』何処かで読んだことのある詞である。はて、小生の場合は…?
 とまれ我が家の書棚を眺めてと、その一冊一冊に、購入時の思い出や、それに纏わる出来事なども、記憶力の減退した□□歳になってしまった現在ですら、脳裏に焼き付いていて、丁度鏡にでも写し出されるように、鮮やかに蘇り、あらためて己の来し方に、渺茫たる想いを致すのである。
 然り而して私はわが書棚から《馬の口をとらえて老いをむかうる人》の如く、当て所もない「本の旅人」になってしまったのであった…。


菜の花畑

2009-03-03 21:15:01 | 日録

 

 〝雛祭り〟の3月3日登山家で「花」の写真家でもあるタカヤマ・ノボル兄から、菜の花畑のメールが送られてきた。

今日は風が冷たく寒い一日でした。でも春はすぐそこに、小学唱歌の朧月夜を思い出します。吾が集落の近くに咲いて良い香りを放っています
このメールにある通り、この「菜の花畑」は拙宅から歩いて10分ぐらいの処にある。
普段、通り馴れている主要道路側に広がる畑で、外周は小径で囲まれているから、朝のウオーキングには最適のコースである。
土地の所有者や管理はどうなっているのか分からないけれど、ボクの感じでは種 を播いたり肥料を施す光景は見たことがないから、去年の種が自然にこぼれて、花畑を形成しているのではないかとさえ思っている。
ただ、畑の周囲はバリケードで仕切られているから、栽培者も管理者もあるに違いない。何か町の活性化に繋がらないか?!政治家みたいなことを考える時もある。

 そんでわ、この小学唱歌は浮かんで来ないだろうな。

高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌(六年)
 
菜の花(ばたけ)に、入り日薄れ
見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし
春風そよふく、空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)

里わの火影(ほかげ)も、森の色も
田中の小路(こみち)を、たどる人も
(かわず)のなくねも、かねの音も
さながら霞(かす)める、朧(おぼろ)月夜
 

 

 http://photo.hokkaido-blog.com/html/11/takikawananohana.html
文部省唱歌「朧月夜」の歌詞があやふやだったので、「菜の花畑」をネットで検索したら、北海道無料写真集に出会わした。
  滝川・江部乙の菜の花畑
の菜の花畑だそうである。利用させて頂いた。なほタカヤマ兄は北海道出身の方である。