狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

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水野広徳について

2006-01-29 16:31:27 | 反戦基地
私の「水野広徳」という名前を知ったのは、改造社の所謂「圓本」『現代日本文学全集第49編「戦争文学集」からであった。戦後、古本屋で買い求めた1冊である。
この本の内容は、「肉弾」(桜井忠温「銃後」の桜井忠温・「此一戦」水野広徳の3篇で、前者は陸軍の旅順攻撃、後者は日本海海戦(皇国の興廃此の一戦に在り)の忠実なる実戦記録である。

巻末には、
「日本海海戦日本公報」(東郷連合艦隊司令長官報告)が11項目。その確定詳報が、周到綿密に、記載され、
さらに「日本海海戦露国公報」が、5項目、
「露帝とロ提督との電報往復・並びにネボガトフ少将の電奏文の、詳細全文」、
「日本海海戦感状」九篇
「日本海海戦戦死傷者人名表」まで添付されていて、戦争文学というより、完璧な「戦史」であると私は思っている。

『此の1戦』は著者が『軍事思想鼓吹によって得たる印税を以て平和主義を買ひ得たるのも佛家の所謂因果の輪廻であろう。』と述べているように、2回に亘る大戦後の欧州を見て、其の余の惨状に打たれ、反戦運動のさきがけになった兵学校出身の海軍大佐であった。

『最初の外遊は第3年目と第4年目とて、正に激戦の最絶頂であった。英佛伊等を巡遊して、現代文明国の戦争なるものがいかに大規模なものであり、これに比すると

 日露戦争の如きは子供の軍ごっこ(兵隊ごっこ)に毛の生えたくらいに過ぎず、

日本の如き経済要素に貧弱なる国は到底今日の戦争に耐えうるところあらざるを覚った時、僕は愛国的見地かより戦争を否認せざるを得なかった。』と記している。

今日本自衛隊の駐屯地のサワマは戦闘地域ではないとはいえ、隊員たちは戦争の悲惨さは具に検分しているものと思う。
なぜ日本の新聞は、ライブドア、耐震強度の偽装事件ばかりが、連日紙面の大部分を占めらて居るのに、イラクには反戦意識を守り立てるような状況下にはないのだろうか。願わくばそうありたいものだが、60余年前爆弾の恐怖におののいた日本国土のあの頃を考えれば、イラクに平和が戻って、民主的政府が樹立されつつあるなどとは、到底考えられない。

『此の一戦』から著者年譜を開いてみよう。
(前半は略す)
明治37年  2月、日露開戦、第41号水雷艇長として朝鮮海峡、並びに旅順方面の戦役に従事す。
明治38年  日本海海戦に参加す。
明治39年  海軍軍令部出仕を命ぜられ『明治三七、八年海戦史』編纂に従事す。初めて東京に居住す。
明治43年  『戦史』余暇を以て『この一戦』を書く。九月、第20艇隊司令に補され舞鶴に赴任。
明治44年  『この一戦』発刊。
明治45年  2月、佐世保海軍工廠検査官より海軍省文庫主管に転じ、再び東京に居住す。
大正2年  時局に鑑み日米戦争仮想記『次の一戦』を書きしも都合により発表を見合す。
大正3年  一友人の急迫を救ふ為『次の一戦』の原稿を寄与す。「一海軍中佐」の匿名を以て金尾文淵堂より刊行す。書中軍事と外交との機微(機密にあらず)に亘る点ありたるため問題となりて匿名発覚し、無認可出版の廉を以て謹慎を命ぜらる。問題の書として大いに読書界を賑はしたるも、同年8月、欧州戦勃発し日本も亦参戦するに及び、当局の対米外交上の意思を尊重し、刊行後3は月にて絶版とす。
十二月、『次の一戦』絶版の埋め合わせとして金尾淵堂より『戦影』(旅順海戦私記)を「一海軍中佐」の匿名(当局の認可をえて)を以て発刊す。此書は著者最も会心の作なりしも刊行の終末を詳にせず。書肆の店頭に殆ど其の姿見ずして煙滅したるは遺憾なり。
『日独戦史』編纂事業に着手す。」
大正4年~大正6年 (略)
大正7年  海軍大佐  
大正8年 一月、「大阪日々新聞」所載姉崎正治博士の軍国主義攻撃論に対する駁論を「中央公論」に載せ、大いに軍国主義の提灯を持つ。之より先数年来新聞雑誌等に屡所見並に評論を書く。
三月、友人の給費に依り再び私費留学を出願、認可を得、戦後の欧州視察に赴く。時に休戦後僅かに半歳、仏国の戦跡を訪ねては戦争の害毒を目賭し、独逸の惨状を見ては軍国主義の幻滅を覚忍し、思想の大転換をきたす。
大正九年 5月、帰朝。九月軍令部出仕。
大正十年  正月、「東京日々新聞」の依頼により新年『軍人心理』を書く。現役軍人の筆としては聊か大胆露骨過ぎたり、果然物議を生じ「上官の許可を得ず文書を以て政治に関する意見を公表したる」科に依り謹慎処分を受く。
謹慎明け後当局より再出勤の勧めありしも、軍隊は最早永住の境にあらざるを思い、現役引退を希望す。
八月、予備役に編入、軍服に永久の別れを告ぐ。
大正十一年 渡欧航海記『波のうねり』を金尾文淵堂より発行。
華府会議開催、尾崎咢堂翁等と軍縮運動に従事す。爾後軍事並に社会評論に筆を執る。

<水野広徳は1945年10月13日に腸閉塞発病。16日船で度重なる米軍による空襲で壊滅状態にあった今治に向かう途中に機関の故障で漂流、17日手術したが、翌日同市の別府病院で死去。享年71歳。

 敗戦直前の8月12日に一人息子の光徳(日本鉱業株式会社マニラ支店勤務中に招集される)が招集地フィリピンで戦死した(享年36歳)が、水野はこれを知らなかったという。

 敗戦後、彼が帰るのをただひたすら待ちわび、友人より送られた高価なウイスキー一本を、「光徳が帰ったら、一緒に飲むのだ」といって秘蔵していたが、ついに口を開けられないまま残された。そのウイスキーは水野49日忌の仏事の夜、ツヤ子夫人の手で開けられ、近親の人々の盃に注がれた。>遺稿自叙伝

―引用―  「著者の言葉」
(略)『この一戦』は可なりよく売れた。しかも実際に書物が売れた以上に評判が高かった。これが為め印税で5万円儲けたとか、10万円儲けたとか、途方もない噂さへ耳にした。

噂の十分の一にせよ、20分の1にせよ、兎に角僕に取りては予期せざる収入である。別に恥づべき悪銭ではないけれども、俸給をもらって居ながら内職稼ぎと言われては軍人気質が許さない。そこで富友から多大の補助を貰い、私費留学の允許を得て、戦時戦後の2回、西洋見物と洒落たのである。

 最初の外遊は第3年目と第4年目とて、正に激戦の最絶頂であった。英佛伊等を巡遊して、現代文明国の戦争なるものがいかに大規模なものであり、これに比すると日露戦争の如きは子供の軍ごっこに毛の生えたくらいに過ぎず、日本の如き経済要素に貧弱なる国は到底今日の戦争に耐えうるところあらざるを覚った時、僕は愛国的見地より戦争を否認せざるを得なかった。
 
 次回の外遊は休戦後僅かに半歳、恰も酔っぱらひが酔いの力で手当たり次第の皿小鉢を叩き割り、醒めて後頭抱えて悔やんでいる居ると同様、連合国民は5年の長年月に亘って自ら破壊つくした戦いの後を眺めて、戦争に勝ちながら後悔と疲労とに茫然自失して居る時であった。

僕はまず北仏の戦跡を訪ね、其の凶暴なる破壊、其の残忍なる殺戮の跡を見て、満目唯荒涼、満身唯悲哀、僕は人道的良心より戦争を否認せざるを得なかった。

更に敗戦の独逸に入り、人は藁パンを齧って栄養不良に痩せ、物は軍用に徴発せられて殆ど完物を見ず、往年世界を睥睨してユーバーアルレスを誇りたる独逸人の意気と独逸の繁栄今何処ぞと顧みたる時、僕は柔順に軍国主義侵略主義に幻滅を感ぜざるを得なかった。

 要するに現代の戦争なるものは、不幸にして負くれば国家民族の廃滅を意味し、幸いに勝っても子弟と骨肉の血を以て野草を肥す以外に、大衆の生活に寸毫の幸福を齎すもやらすものでないことは、欧州戦争が最も最も明確に、最も雄弁に之を立証して居る。

 外遊前数ヶ月、軍国主義の鈍刀を振り翳して姉崎正治博士(姉崎正治)の平和論に打って掛かった僕は、此に至って潔く兜を脱いで博士の軍門に下らざるを得なくなった。戦争の害毒、軍備の危険、軍国主義の亡国、是僕が2回の外遊に依って覚り得たる唯一最大の土産であった。

伯林滞在中、在留邦人の天長節祝賀会の席上 、僕は人類の幸福、世界の平和の為、軍備撤廃論を述べて同席の陸軍将校と深更まで論戦したこともある。露西亜のソビエート政府よりも僕の方が軍備撤廃の大祖かも知れぬ。
軍事思想鼓吹によって得たる印税を以て平和主義を買ひ得たるのも佛家の所謂因果の輪廻であろう。

此書は敢て凶悪なる軍国主義を鼓吹するものではないが、幾分なりと軍国主義や好戦心を刺激する嫌いがあるので、出版社の好意ある了解を得て数年来造反を停止していた居たのである。

然る処今回改造社から之を本全集に加えたいと云う交渉に接したので大いに躊躇はしたが、既に時勢も変わっている居るし、読者の思想も進んで居るし、今では単なる歴史的文学に過ぎないとの見解の下に之を承諾したしだいである。

斯様な書物が文学書として本全集に輯収せられる価値があるや否やは僕は知らない。唯併し明治より昭和にかけて蒼天の星の如く現れたる無数の書籍の中、此書も亦天の一隅に極めて微かな光の一糸を印した小さき流星の一として本全集に加へられたることを光栄とする。

何か著者の言葉を書けという命に依り与えられたる頁を駄言に汚すこと件の如し。
昭和3年12月初旬
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喫煙室

2006-01-27 12:07:54 | 怒ブログ
  
※ この休憩室は、飲酒、喫煙自由です。入室に、年齢、性別、所得等の差別はありません。ストレス解消にお役立て下さい。
「バトン」について「コメント」による質問がありました。私も最近知ったのですが、非常に勤勉・実直な方には、あまり歓迎されないかなぁ。

《これは「バトンシリーズ」といって、自分の趣味や考え方に関する質問と解答を書いて、それを見た人が自分のブログでまた同じようなものを書く、という「幸福の手紙」みたいなものです。一種のコミュニケーションなので、他意はないです》。(畏ブロ友eprechaun 氏による解説)(日々のたわむれ)

【今の内閣で知っている大臣の名前は、大臣は何人歟?】
 こいずみ・たけなか、ぬかが(わが選挙区だが、今やっと思い出した。)3名。後は新聞を読んでから夕方までに答えたい。全部はとても不可能。
【好きな大臣・嫌いな大臣。軽蔑に値する大臣】
過去の大臣では。石橋湛山。泉山三六は良しとしよう。

(註)泉山蔵相、国会内で泥酔悪態
ー引用ー蔵相泉山三六は、一三日、参議院の食堂で酔いつぶれたあげく、民主党の婦人議員山下春江にセップンしようとしてはねつけられ、本会議の答弁にもたてないという前代未聞の醜態を演じた。彼は、翌一四年の未明、議員と蔵相を辞職した。 吉田首相は、蔵相を大屋商工相の兼任とし、安本長官を周東農相の兼任とした。 (信夫清三郎 「戦後日本政治史Ⅲ」p.883)

森・や橋本は、ヤダね。
葉梨という自治大臣がいたのを、ご存知の方いるかなぁ。

【戯作・総理大臣と架空内閣量名簿】
 総理大臣 田中康夫  外務大臣田中真紀子は 留任として、候補に上げたいのは
 池田大作(ノーメル賞候補)
 なだいなだ(老人党党首)
 田原総一郎(評論家)
 鈴木宗男
 福島瑞穂
 神田香織 (女性講談師)(神田香織)
 女性では、NHK美人アナ(名前は組閣の時までには調べておく。
 堀江奇聞 (無罪だったらの話)(元某社社長)
 平野啓一郎(芥川賞作家)
 反戦老人委員長および常連の投稿者の中の学識経験者数名。
 N・Tさんなど特に推薦したいですね。
【大臣の報酬はいくら位か適当か】
(参考)日本の総理大臣の年収は、2004年度で4165万円だそうです。
年収と書きましたが、これは正式に国から支給される総理大臣としての、表向きの報酬額です。実際の年収額は、政治献金(パーティーなどで集めたり)やら各種裏金?やらで、更に高額になるはずです。

ちなみに、日本の総理大臣の報酬は、世界の国家元首(大統領・首相)の中でも、アメリカのブッシュ大統領(4284万円)に次ぐ高報酬になります。

各国首相・大統領の報酬は、概ね国の経済力に比例しており、イギリスやドイツなどの先進国では3千万円前後ありますが、インドネシアの大統領などは約300万円ほどしかないようです。無論この額も表向きの報酬であり、裏金などは含まれておりません。(姉妹サイト; マネー用語辞典より。 
付録【お金があったら買いたい本5冊】
 
①医方心丹波庚頼槙佐知子訳 筑摩書房
②海軍兵学校        秋元書房
③陸軍士官学校       秋元書房
④青木正児全集       春秋社
⑤水野広徳選集       雄山閣

【バトンを渡す5人は?】
まあ、興味のある人、肩が凝っている方、血圧の正常なお方はどなたでも、引き続いて下されたく。



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休憩室

2006-01-26 22:32:53 | 怒ブログ
  ブロガー架空内閣試案
 去る14日、共産党の不破哲三議長(75)が、14日閉幕した第24回党大会で議長を退任した。40歳で書記局長に就任以後、35年半にわり党の指導的立場にあり続けた「党の顔」。「現実・柔軟路線を掲げて天皇制や、自衛隊を「当面容認するなど、革命色強かった同党を「普通の政党」に脱皮させる役割を迫った。しかし、党勢は伸び悩んでおり、再建策を示さず、志半ばの退場でもある。不破氏の引退をどう変えるのか――。【毎日新聞尾中香尚里。衛籐達生】

この一連の記事に中にあった
《「首相=田中康夫(長野県知事)、外相=田中真紀子(元外相)、総務相=橋本大二郎(高知県知事)、女性・少子化対策相=福島瑞穂(社民党党首)……。このような閣僚名簿を国民に示し、国会で多数を占めるべく行動できないか」。

奈良県の党員からはこんな声が寄せられた。護憲勢力の社民党だけでなく、民主党の一部や、公明党の支持母体・創価学会との連携を求める声まであった。》では、少なくとも反戦ブロガー仲間には、かなりの反響を巻き起こした。

若いブロガー仲間で「…バトン」なる親睦遊戯が流行している。
我々も、反半コイズミ反マエハラ、《反戦架空ブロガー内閣バトン》でも作って、大いに気勢を上げようではないか!!!ブロガーばかりでなく、民間からの登用も大いに歓迎すべきであろう。





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再び怒ブログについて

2006-01-24 22:47:25 | 怒ブログ
     
 畏ブロ友ましま氏から、小生のブログのカテゴリ゛怒ぶろぐ゛を題名にお借りして今日の記事を書きました。というコメントを頂いた。

「怒ブログ」というカテゴリは、今の時事問題の全てに適用できる、我ながら痛快な観念分類指標であると自画自賛していた。しかし、それに当てはまる小生の雑文は皆無といってよい。

ところが今日ましま氏が、
<在日中のゼーリック米国務副長官は「日中間の緊張について、日米中3カ国の歴史家による歴史検証作業を仲介する用意がある」ような趣旨のことを、日本政府要人に提唱したと伝えられる。まあ、こんなレベルの低いおせっかいをぬけぬけとよくいえたものだ>

と、痛快極まりない論評を述べてくれた。これが「怒ブログ」の本領でなくてなんであろう。
 そもそも小生の「怒ブログ」の原点は、故前田俊彦「ドブロクをつくろう」農文協にさかのぼる。
その内容の一部を紹介すれば、

☆今「ドブロクをつくろう」と何故か・・・・・・・・前田俊彦
☆酒税法は憲法違反である・・・・・・・・・・・・・小林孝輔(憲法)
☆自立・自醸。自給・・・・・・・・・・・・・・・・真壁 仁(詩人)
☆世界中で流行しだした酒つくり・・・・・・・・・・津村 喬(評論家)
☆酒と農耕文化―どぶろくに思う・・・・・・・・・・玉城 哲(経済)
☆穏健的ドブロク復権崙・・・・・・・・・・・・・・坂本 楠彦(経済)
という本である。

  まえがき
 酒の自家醸造が普及すればおおくの弊害がともなう、という意見がある。事実、以前から私の周囲の人にドブロクづくりをすすめているあいだに、しばしばそういう意見をきかされたものである。たとえば、飲酒量が多くなってアルコール中毒患者がふえるだろう、あるいは酒のうえの喧嘩がおおくなるであろうなどであるが、はたしてどうであろうか。

 戦時中の私の経験であるが、ある軍需工場で働いていた優秀な技術者が自分の仕事に疑問を持って酒びたりになり、統制がきびしくて容易にはてにはいらぬ酒をもとめてほとんど精神錯乱状態意になり、まさに典型的アル中患者であった。

そこで私は彼に酒を自分で作ることをすすめ、さすがは技術者である彼は小型の蒸留装置を製作して果実酒からブランデーをつくることに成功したのである。そして、まもなく彼はアルコール中毒から脱出した。これはどういうことであるかというと、彼は酒を飲むことの快楽をさらに酒をつくることの愉悦にまで拡大し、酒を飲むことは拡大された愉悦の部分にすぎないことの自覚に達し、必然的に節酒にみちびかれたのである。

理屈はこれとおなじではないかもしれないが、杜氏にアル中患者がいないことはよくしられた事実であり、また、阿片の産地であるタイ国チエンマイにはモルヒネ中毒患者がいないということにも注目すべきであろう。つまり、それを多飲すれば弊害があるから警戒を要するのは銭で買うだけの消費者にとってであって、生産者にとっては弊害について心配する必要がないということである。これは単に酒の門題だけではない。

にもかかわらず、すでにながいあいだ酒の自家醸造を禁じられているわれわれ日本人は、そのことがいかに人間の基本的な自由の抑圧であるかを感覚的にわすれており、その自由の回復が必ず日本人の文化の蘇生をみちびくという展望もうしなっている、ということがいえるだろう。

そこで私は不遜をかえりみず、“一国人民の文化の性格はその人民がどのような酒をつくるかによって素朴に表現され、また、その国人民の生産者的自由は自分がのむ酒は自分がでつくる自由の獲得からはじまる”という趣旨をのべて、ひごろ志の通じあっている諸氏に執筆を依頼してこの本ができあがった。

私個人にしてみれば、ながいあいだの念願がようやくかなえられたというものであるが、しかしまた、ここに、容易ならぬことがはじまろうとしているのでもある。あとはこの本よむ人たつの、自由と愉悦にむかっての決断次第ということになるであろう。

1981年3月         前田俊彦

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高遠菜穂子さんの新聞記事から

2006-01-23 21:45:26 | 反戦基地

朝日新聞地方版の「まちかど、」というコラム記事に
▽《「命に国境はない」と高遠さんが講演》という彼女の写真と小さな記事が載った。

<04年4月にイラクでボランティア活動中、武装勢力に一時拘束された高遠菜穂子さん(36)が22日、K市の市中央公民館で「命に国境はない」と題して講演をした。
 高遠さんが米軍の空爆を受けた現地の映像を流し、「私の周りにもカウントされずに消えていった命が多い」などと訴えると、400人以上集まった参加者からすすり泣きが聞かれた。
 講演後、会場から「自衛隊派遣は賛成か」と問われると、「米軍兵が学校に勉強道具を持っていっても、子どもたちは逃げてしまう。武器を持った人道支援はできないと信じている」と話した。>

 新聞記事の引用ばかりで恐縮が、もう1本、地方新聞「茨城新聞」の古い記事(2004・8・14)を引用する。

<イラク人質事件の高遠さん
   ―何かせずにはいられない
 4月のイラク日本人人質事件で、武装勢力に拘束、解放されたボランティアの高遠菜穂子さん(34)。7月末、ヨルダンに渡り、再開したイラクへの支援活動に奔走している。事件の体験やイラクへの思いをまとめた本も出版したばかり。高遠さんに現在の活動や心境を聞いた。

―なぜヨルダンに渡ったのか。
 「精神的に落ち込みから立ち直るきっかけになったのが、イラクの友人から届いた電子メールだった。今も多くの人々が命を失う現実を前にして、何かをせずにはいられなかった。支援に没頭することで、自分も元気を取り戻したかった」

―4月の帰国後は、どんな生活だったか。
「家から出ることができず、日常生活が成り立たない状態。精神安定剤が手放せず、じんましんもひどかった。直後は日本中の人に迷惑をかけたという自己嫌悪を感じ、周囲の人の視線が痛かった。地元では、ほとんど外出していない」

―体験を本にまとめたきっかけは。
 「事件の経過や背景を伝えることが、生きて帰ってきた自分の義務だと思った。それをクリアしなければ、自分が最も伝えたいイラクの人々の心情も伝えることができない。思い出すのがつらいことも多かったが、義務を果たして楽になりたいとの一心で書いた」「帰国直後には事実無根の報道も多く、メディアへの不信感を持ったこともある。自分の言葉でしっかりと意図を伝えたかった」

―アンマンではどんな活動をしているのか。
「非政府組織(NGO)と協力し、(バグダット北方の)バクバなど二カ所の病院に緊急医療物資を届けた。人質事件の時に全国から集まったカンパが約八百万円あるので、イラクの友人と相談してファルージャの学校再建にも取り組みたい」

―イラクに行きたい気持ちはあるか。
 「今は考えていない。命の危険を感じた拘束時の恐怖は未だ消えていない。気力がそこまで回復していない。治安情勢の悪化も伝えられているので、状況がよくなるのを待ちたい。今回は八月末に帰国する」

―今後の活動は。
「イラクからのメールをもとに、日本の市民が情報を共有できるネットワーク『イラクホープネット』を立ち上げる準備を進めている。多くの人が日常生活の一部としてイラクの現状を考えるようになれば、何かが変わると信じたい」

―自衛隊のイラク派遣をどう考えているか。
「多くの自衛官が住む北海道千歳市で生まれ育ったので、身近な存在だった。ただ、自衛隊派遣後のイラク人の対日感情の悪化を肌で感じた。直接自衛隊の活動を見ていない多くのイラク人にとっては,占領軍と同じに見えてしまうはずだ」。>
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今日の出来事(抄)

2006-01-21 22:19:28 | 日録

 一月二十一日(土) 朝目を覚ましたのは6時である。 そのまま書斎(わがベンキョウ部屋)に駆け降り、テレビ体操をしたのだった。
 いつも、「みんなの体操」という、手のひらを握ったり開いたりしてから、両手を突き出したり戻したり、腕を振って駆け足みたいなことやり、最後は、体重を使って両手を広げる足腰の運動などで、身体をほぐしてから、更にもう一段階の準備運動を踏んで、ラジオ体操に移るのだが、(寒いので略したのかもしれない)今朝はいきなり「第二ラジオ体操」となった。
一寸高齢者にはテンポが速すぎるので、いい加減に手を抜いた体操をした。

  その後、雨戸を開けに外を見たら、神武以来とも思える大雪だったのである。  雪

は寒くて嫌だけれど、何となくゆっくりした気分になれた。 
 かつて、運送屋をやっていたときの悪夢は、(雨であろうと、雪が降ろうと、たとえ槍が降ったとしても、横須賀・厚木辺りまでは、AM:8.00までに着けなければ罰金ものであった)、もう思い出したくはない。

 毎日雪に慣らされているトラック屋はどう思うか知らないけれど、それに従事している方々は、恐らく雪の朝は、小生と同じ恐怖を感じておられることと思う。運送屋と、戦争はまともな人間なら決して、やるべきではないと断言したい。思わず興奮してしまった。話題を移す。

 パソコンが厭きると、部屋の片付けとなる。それは整理することではなく、反って散らかすことになってしまうのであるが…。 しかし今日は、思いかけず、懐かしい冊子を見つけてしまった。  

《「実録万年筆外伝 その1」1997 編集・絵古山 浩一(町工場二階空目薬煙突工房)》が引き出しの奥の方に潜っていたのである。それを引っ張りだしてしまった。
今日の結果は「大吉」そのものの卦が見事に当たった。http://members.jcom.home.ne.jp/y-mo/fullhalter/gallery5.html

  その昔つまり毎週、新聞に折り込まれてくる、無料カルチュア紙の記事から、注文して購入したものである。 その冊子の表紙には「よんほん(4本)のヘミングウェイ」という主題が書いてある。「はじめに」と題する序文の、最初の6行だけを引用してみたい。  

《私が万年筆への傾斜を深めたのは、万年筆が絵の仕事に使えるようになってからである。それまでは万年筆に使えるインクが耐水性、耐光性ともに不十分なため、パーマネントが要求される絵の仕事には使用できなかった。ところが近年万年筆用のカーボンインクが発売されるにおよんで、万年筆で作品を描くことが可能になった。年来の私の夢がかなったのである。…(略)》

この方は、同じ県内、しかも私の住所から、それほど遠くない町に住んでおられる方のようだ。
万年筆で、絵を書いておられる。しかもその作品の中には、万年筆そのものを描いている作品も多いのだ。

そのことについてもう少し書きたい。しかし、時間になったようだ。浪花節ではないが、丁度時間となりました。また次の機会があれば…。

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「戦地からの手紙」を読む

2006-01-19 16:13:46 | 反戦基地

過日、元M村長I氏が拙宅にお出でになり、
「こんなのが出来ましたので何処か見えるところへでも置いといてください。読まなくても構いません」といって、ま新しい分厚い一冊の本を恵贈して帰られた。

『戦地からの手紙― 一郎・ハナ書簡集』であった。
土蔵の奥に保存してあった、I氏母堂ハナさんと、戦病死なされた、ご尊父一郎氏との往復書簡を編纂したものである。
 この本の出版については、以前氏からそれとなく聞いて、凡そのことは知っていたのだが、某地方新聞が大きく取り上げてくれたことで、初めてその内容を知ったのである。

本の帯には、次のように記されている。

   いま、なぜ、『戦地からの手紙』なのか?
『いま日本は、あの忌まわしい戦争の時代に逆戻りしようとしています。日支戦争、第二次世界大戦と二度の戦争に通算4年間、否応なしに召集されていった若い兵士と残された新妻の往復書簡集は、戦争を知らないあなたに是非読んで欲しいのです。手紙には愛の言葉などありません。しかし文章の底に流れている、真実の愛と信頼は、いまの時代を見直しさせるでしょう。いいえ見直さなければいけないのです。』 

 昭和十二年八月二十三日
《拝啓 愈々入隊しました。五郎、真、喜美、靜子、皆姉さんの言ふことを聞いて兄さんの凱旋を待ってゐてください…(略)》から始まるこの往復書簡集は、
第一回応召出征昭和十二年八月から昭和十四年十二月、
第二回応召出征昭和十六年八月から昭和十八年四月
までの分を合わせて、約二百通も収められている。

 その手紙の量にも圧倒されるが、私が小学生~中学生だった時代に生きた若い兵士と若妻の生々しい書簡の記録でもあることに思いを致さなければならない。

 一晩で通読できた。  
ハナさんがご主人に宛てた一通の手紙に付けた俳句に

こうろぎの身にしむ秋のふかさかな 「和子の母」よりがある。

何という愛の表現であろう。目頭が熱くなる。ハナさんは嘗て(平成五年)句集「白鷺の舞え」を同じ出版社から上梓された。私は今この『戦地からの手紙』という書簡集を併せ読んでみて、あの句集に収められた絶唱の意をあらためて正す事が出来たのであった。

 夏帽子かぶれば若き父となり 
 夏の夜の赤紙足を踏まえ受く 

 白鷺の舞ひ納めたる刈田かな(句集〝白鷺の舞え〟より)
 ハナさんは、今年88歳になられが、今でもお元気に村の毎月ある句会に必ず出席されている。

  ※I氏の承諾を得ていないので「人名は仮名とした」

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敗戦直後の雑誌から

2006-01-18 21:45:02 | 反戦基地
  
 昭和天皇がお酒を召し上がらなかったことは、遍く国民の知るところであるが、香淳皇后が、お酒をこよなく愛で遊ばされた逸話はあまり知られていない。
敗戦直後には、天皇のゴシップ類の記事が大手を振って罷り通った。食糧事情が極限にきていた。
「朕ハタラフク食ッテヰル。爾臣民飢ヘテ死ネ。」こんな幻の「勅語」を聞いた古老もまだ沢山おられる筈。

食料メーデーで大衆が宮城の中に押しかけた。『米よこせデモ』(メーデー)という言葉を時々思い出す。

 「日本大雑誌」流動出版という本を図書館の廃棄処分で入手した。
 以下引用再録してみる。

「天皇一家の配給生活 探訪記」(秋田菊平)『真相』二十三年八月号」

今では到底考えられない暴露雑誌で、勿論天皇も呼び捨て、蔑称で書きなぐっている。気味の悪いほどの表現が見立つ。
当時の混乱の時代に生きてきた一人として頷ける記事でもあるが、あまりにも現代の感覚から見ると、表現が露骨すぎ、私の考え方とも相当の距離があると言わざるを得ない。適当な時期に削除する積りでいる。

<―天皇(昭和天皇)は、味噌汁とくに三河の八丁味噌(八丁味噌)でつくった赤だしがきらいで、絶対に食わないという。それなのに、毎日、一回はかならず赤ダシをつくっているのはナゼかときくと、「皇后様が大そうおすきなので……」との答。なお良子夫人は、お味噌が大の好物で、おツユのほか時々はナマのままでペロリとなめることもあるそうな。

 好物といえば、ヒロヒト氏は非常な食道楽で、とくにウナギのカバ焼き、天プラなどの脂っこいものにおそば、果物ではバナナがお好き。酒は公式の宴会以外一滴ものまず、まれにフランス直輸入の時代物のブドー酒をのむ程度の下戸だが、そのかわりに皇后が大の左党。天皇のいるところではけっして飲まぬが、毎晩ビールならコップに一杯、日本酒なら茶碗に八分目くらい、かならずおシキセを召し上がる。(宮内府厨司長秋山徳蔵氏談)

また鹿児島名物のお酒司という下戸には縁の遠いタベモノ――酢のかわりに酒をつかった上戸向きのスシと思えばいい――が何よりの好物。(元大膳寮料理人金丸哲生氏談)長屋のおカミさんならまず「いいお酒だネ」といわれるところ。

 ちなみに、天皇一家の食事は、シモ人民どものように一家ダンランして、和気アイアイと食卓を囲むのではなく、天皇夫婦、大宮御所(皇太后節子)東宮(皇太子明仁)義宮、呉竹寮(女の子ばかり)(参照の五ヶ所に分かれて生活しているので、食事を共にするような機会は1週間に1度くらい(秋山厨司長談)あまり恵まれた家庭生活ではない。>
 
最期に『寄生虫の寄生虫』という無記名のコラムがある。

 <天皇一家がいくら胃拡張にかかっているといっても、毎日20貫の野菜や10日に羊豚各1頭づつ食えるはずがなく、さりとてそれだけの代金がヒロヒト氏のふところ(内廷費)から支払われているいるのはたしかな事実。

つまり何処かで誰かが、ヒロヒト一家の胃の腑にかわって莫大な食物をパクついているのではないかという疑いが出てくるが、クサイのは宮内府(宮内府)の庁員食堂菊葉会。ここを牛耳る元大膳課長佐野恵作(現在総務課勤務)は小学校教員出身の成上り二級官でロハ酒のオーソリチィ。近頃の食糧難も何処吹く風との豪勢さ、金回りも相当なもので、最近は桂ニコポン公爵の愛妾(参照)だったお鯉さん(今は目黒なる草案にすます尼さん)や、救世軍の植村益蔵中将なども、彼を宮内府におとずれて莫大な寄付金をねだったというウワサ。

もっとも御本尊の佐野大明神は大の日蓮信者で、池上本門寺に最近大枚5万円を寄付した>。『真相』二十三年八月号

[註]にこぽん にこにこして相手の肩をぽんと叩き、親しそうにうちとけて人を懐柔する態度。明治後期の首相桂太郎の政党懐柔策に対する標語に始まる。(広辞苑)


「真相はこうだ」のラジオ番組について

真珠湾攻撃4周年にあたる昭和20年12月8日にあわせて9日に始まり、翌年2月10日まで毎週日曜午後8時のゴールデンタイムに全10回、NHKで放送された。
日本が敗戦に至るまでの出来事を「太郎君」の質問に「文筆家」が東条英機元首相ら「戦争犯罪人」らの罪状を暴露、「真相」を明かすというドラマ形式の番組だった。

連合国軍総司令部(GHQ)で教育やメディアの改革を担当していた民間情報教育局(CIE)のラジオ課が、東京・内幸町にあったNHKに陣取り、脚本、演出を手がけた。ただ、番組では米国を「敵」と呼び、日本製であるように装っていた。
 米国で人気があったラジオ番組「マーチ・オブ・タイム」を参考にしたとみられ、爆撃音や悲鳴などの効果音やクラシック音楽を使う演出は、それまでの日本のラジオ番組にはなかったという。(参照)
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別冊ノート開設の件

2006-01-16 22:24:36 | 日録
日記すら怠りがちな昨今、「別冊・太陽」ならざる、別冊ノートを開設致しました。(乞笑覧)
ブロ友Mさんから、どう使い分けるのかとの心配をおかけしてしまいました。

特に深い事情はないので、今後どう使い分けるか、暗中模索の状態なのですと、正直申し上げる他はありません。

開設理由は単純なことです。無料であると言う魅力に尽きます。

しかしそのきっかけは、反コイズミにたいへん情熱を燃やしておられる、N・Tさんのブログ(ウェブリブログ)にコメントするのに、大変手間取ってしまい、画面の指示に従ってキーを叩いていったら、如斯き次第に相成ってしまったのです。

古典的表現になりますが、今更『転進』(誰か昭和を想わざる)するわけにも行かず、どう使い分けるか、M学兄はじめ、読者諸姉兄のご意見を賜りたいと存じます。

追記:申し遅れましたが、最近当地方にも地震が多く、しかもその度、震源地がテレビで報じられますが、丁度拙宅の真下辺りに×印が付けられるのです。
お見舞いのお言葉有難うございました。

学兄のお住まいも、どうやら津波のご心配がおありかと、推察致します。
『地震・雷、火事・親爺』。(おやじの語源)どうも最後のほうが怪しい単語になってしまったように思います。

貴委員会(反戦老年委員会)のご発展を祈念。お礼まで。
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ロッキード観音

2006-01-15 22:07:04 | 怒ブログ

 昨夜、嘗て共産党のプリンスと言われた、不破哲三引退ニュースをテレビで見た。朝日新聞は勇退と報じたが、贔屓目の表現だと思う。テレビにクローズアップされた顔は、随分老けたなあと思ったのが率直な感じである。

 僕が共産党の幹部、志井、不破に疑問を持ったきっかけは、はっきり覚えているのは、湾岸戦争勃発のときの、志井の談話である。海部俊樹が首相だった頃である。このときの海部は、コイズミみたいに、ブッシュに千切れるほど尻尾を振るようなことはなかったが、アメリカの(大統領は誰だったか忘却)言いなりだったことは同じだった。

 志井は、「国連を通じて日本は貢献すべき」と言う様な言い回しで、戦争反対のつよい態度は示さなかった。新聞に小さく出ていたから、切り抜きをしておいたが、紛失してしまった。

 もう一つは不破であるか志井であるかははっきりしないけれど、皇太后(香淳皇后)逝去の時の謹話である。確かに、元天皇夫人に弔意を表すのは、当然といえばそれまでだが、僕は腑に落ちなかった。共産党の堕落を痛感した。今までの理論を否定する不可解な対処だった。  
 
 話題は全く変わるけど、わが町の近くに「ロッキード観音」と称される慈母観音寺がある。ロッキード事件といっても大方は既に風化してしまった疑獄事件である。 いまそこを訪れても、人影は全くない。

 シャッターを締め切った仲見世に、1軒だけ漬物を商う店が開けてあった。覗いて見たら、店内は埃だらけだった。

 この慈母観音は、元地元出身代議士の選挙当選の守護観音であった。後援者を煽って金集めのため自ら建立したものである。  そこにはロッキードで名を成した航空会社の社長の名や、施工に当たった建設会社の奉加の額が刻み込まれた大きな石碑が建っている。

 その代議士は、月毎ここを訪れ、参詣者や、後援会に手を振り、握手をして歩き、愛嬌を振りまいていたそうである。彼は青雲西湖会という強力な支持団体があり、佐藤内閣では、幹事長などの要職を務め、運輸、建設相に登りつめたが、ロッキード事件に連座し落選した。彼に師事し続けた元県議が、今の防衛庁長官である。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きを、不破哲三の引退に相通ずる悲哀として感じたのであった。

 長官を、地元後援会では、総理候補と信じきっている。 それには、このロッキード観音を再興して、そのご利益にすがる以外に道はないだろう。
決して皮肉ではない。

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私が投票しない理由

2006-01-14 21:23:05 | 怒ブログ
       
1昨年(2004年)は3月末に町議会議員選挙、第20回参院選が7月にあった。
それに先立って6月始め朝日新聞地方版に、「参院選の投票に行かない」有権者の意見を募集という記事が載った。

《参院選について朝日新聞M総局では『投票に行かない有権者』のご意見を募集します。皆さんはどのような思いで、どんな基準で行かないのか、又「投票には行きたくないが、言いたいことはある」という方「ここが変われば投票に行きたい」など自由なご意見をお聞かせ下さい》というものである。

僕は、採用された意見は、投書欄のような体裁で、特集記事として新聞に載るのだろうと勝手に想像して応募した。字数制限には触れていなかった。大体500字ぐらいが限度だろうけれど、今までの投書の経験から、多少の削除を計算して600字に纏めて投書した。

  「政治不信の意思表示」というテーマをつけた。
《小生は国政選挙の投票には殆ど行った事がない。勿論今回の参院選には絶対行かないと1人で力んでいる。
行く、行かないの基準があってそうしているわけではない。『政治不信』の意思表示として、大声を発して「棄権!」を宣言するのである。

確かに今度の参院選は、年金改正、自衛隊のイラク派遣、憲法改正、多国籍軍参加など、国民が判断を下さなければならない、極めて重要な選挙だとは思う。しかし政治の流れは、到底我々が小さな堰を二つ三つ作ってみたところで、堰き止めることは絶対不可能な勢いで迫ってきている。重要法案が次々と碌な審議も経ないまま可決されてしまう。二大政党とかいうヘンな政党以外からは、宗教組織に頼らなければ当選できない選挙の仕組みに小生は納得できない。

この矛盾を政治家、あるいは有権者自身にアッピールする方法は、1票を行使しないことによって、たとえ何万分の一でも良いから、選挙の棄権率を30%以下あたりに低下させる方法以外道はない。爆弾テロをやる勇気も組織も銭もないからだ。

投票率が、民意を現さないほど小さな数値になれば、選挙改革の芽は、国会の与野党議員の党籍を問わず、ひとりでに生まれてくるであろう。そういう運動や組織があるとすれば、小生も積極的に参加したい。

1票の行使で政治を変えようなどと、愚かな考えを持つより、投票率を下げることのほうが、政治を変える1歩も2歩も近道だと思うからである。》
 
これほど熱を入れて書いた僕の意見は、文を投書欄に載せるのではなく、有権者の声を追う『私が投票しない理由』として、ルポルタージュ形式で地方版に7回に亘り連載された。M総局いうところの若い記者から、二度までも執拗な電話による質問を受け、連載4回目の中に僕と思われるような記事が、次のように僅かに掲載された。

《昨年、自衛隊派遣のイラク復興特別措置法は、参院の委員会で審議打ち切りに採決された。太平洋戦争で空襲も体験したF町の自営業の男性(75)は「議論が足りなかったと」振り返る。
 年金改革でもそうだ。だからこそ、参院選で国民が審判を下すべきだと思っている。一方で、自民、民主の2大政党に限界も感じている。
 だが、衆院選は小選挙区制になり、参院選も非拘束名簿式。選挙制度は大政党に有利だとされている。
「こうなったら、民意を現すとはえいないほど投票率が低くなれば、逆に改革の芽も出てくるだろう」
(06/12)》
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歌会始の疑

2006-01-13 21:34:18 | 怒ブログ
   
パソコンと対峙しているオレの部屋に、退院あがりの妻が来てテレビをつけた。
それは、皇居正殿松の間から「歌会始」の御儀の生中継であった。

難聴のオレには、音だけが殊更大きく、言葉が全く分からない。歌を詠むのが、丁度法螺貝を吹くような大音に響くのである。

結局は皇室の方々、参加なされている臣民たちの、真剣な顔つきを垣間見ただけなのであった。果たして天皇は、日ごろお笑いになることがお有りになるのであろう歟。
「笑み」という御題には相応しからぬ顔、顔・顔が並んでいた。

「笑み」といふ歌会始鬱々と貴き人ら並びゐにけり    TANI

若しも、どうしても、いにしえのしきたりに拘るのなら、服装だって神武天皇の御代の服装にすればよい。背広を着て何が国体なのであろう。
さらに歌そのもの自体が、高校生並の作品に近い。

武列天皇ですら、次のような、まともな歌を詠んでいるのである。

塩瀬の 波折を見れば 遊び来る 鮪が鰭手に 妻立てり見ゆ

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溥傑の書

2006-01-13 06:31:47 | 日録

 僕の組内(隣組近所内)のY君宅に溥傑の書がある。若い世代の人たちに、そう言ってもぴんと来る人が少ないかと思われるので、ヒントを与えよう。

愛新覚羅彗星さんの父である。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/amagiyamasinnjyuu.htm それでも説明不足と思われる方には、例によって「広辞苑」の引用となる。

ふけつ【溥傑】(Pujie)清朝最期の皇帝、溥儀の弟。学習院・陸軍士官学校・陸軍大学校卒。満州国の軍人となる。第二次大戦後ソ連に抑留、1960年特赦。のち全国人民大会代表。書家としても有名。(1907-1994)

    

 
 夕刻Y君宅に徒歩で遊びに行く。
ここに「魚躍鳶飛」の書があるのは、昔から知っていた。今豪邸に建替えてしまったので、これがどうなっているのか、急に確めたくなって出かけてきたのである。

 十畳の奥座敷の長押の処に、上写真のように鎮座していた。そればかりではない。床の間にかけてある掛軸も溥傑の書であった。

 いま中国旅行をすれば、この高名な書家の書は、グラフ誌などに掲載されているのを入手できるけれど、実物の入手はどうなのか、その道の素人である僕には、全く分からないが、一農家の(Y君宅は農家だった)、奥座敷に60年近くも掲げられてあったのである。

 実はY君の叔父は、旧軍人で陸軍士官学校卒の憲兵少佐(或いは中佐かも)であった。 終戦で満洲から奥さん共に引き上げてこられたのである。引き上げ当時の経緯については、全く聞く機を逸してしまった。 

 中学を終えたばかりの僕は、その頃ようやく左翼的本を読むようになっていて、当時抑留中洗脳されて帰国した人たちと、進んで交際するようになっていた。 「唯物論的弁証法」などという語彙の覚えて、さかんに会話に使用した。
 青年会などが主催する弁論大会に出場して得意になっていたこともある。
 Y叔父の話はさすがに憲兵上級士官だった為か、共産主義に対しても学問的解説を何回か聞かされた。


 憲兵であった故、旧軍人の行動に責任を負う最先端の立場におられたわけで、帰国にあたっては、大分危険な橋を渡ってこられたと思う。
 氏(Y叔父)は、暫らく此の家に寄寓していたが、プライベートな事情も続き、東京に住まわれる様になった。晩年は熱心な創価学会員になったという風の便りである。

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Edoさんへの手紙

2006-01-12 11:14:29 | 反戦基地
 
Edo さん。
 貴ブログ『縁故疎開』拝見しました。やはり同世代の、「ウンチクの蓄え」これは単に自慢話や、回想録はなく、貴重な歴史ページへの記録となると思います。
 
因みに私は、その『縁故疎開』を、早速ITで検索してみました。続々と戦争末期の状況が出てきて、否応なしに、空襲の恐怖、爆撃の恐ろしさを掻き立てられずにはいられませんでした。(縁故疎開)

 「老年反戦委員会」のブログ記事「旗はた」に共鳴され、TBしたいのだけれども、
<老反戦委の御仁は世事にも幅広く、奥深い豊富な知識とその文章を見る限り普通人ではないようにも思え、結局、小生ごとき幼稚なレベルでは「TB・コメ」など投稿するには至りませんでした。>とメールを送ってくれました。

 Edo さん。
確かに私たちは、元運ちゃん仲間だし、ベンキョウなど関係ない職業についておりました。それに学歴もあまりないのですから、共に論陣を張るのは不可能なことを、私自身もよく承知しております。
しかしそれはグログ上のことであって、委員会のご寛容を信じて、パソコンの勉強、頭の体操(?)と割り切って、私もコメントやTBを差し上げおります。
それに対して、丁重な返信も下さり、今年は委員会の指定席を頂戴いたして非常に感激しております。

 Edo さん。
トン・ツーは私も知っております。「モーシとコーシ」「ノギトーゴー」「チカトーキ」なんちゅうのもありましたね。しかし51文字全部は覚えていませんので、平凡社「世界大百科事典」で調べてみましたが、ありませんでした。ITで調べられるかどうかこのあとやってみます。

 それから、あの房だけとなった聯隊旗は、明治天皇御自ら授け給うた(本当かどうかわかりませんけど)水戸第2聯隊の聯隊旗なんですね。
 昨年今上天皇が訪問されたサイパンでも、軍旗を恭しく焼却した後万歳突撃をしたのでしょう。嗚呼。

Edo さん。
 ところで、貴兄は今の携帯電話の普及には、驚きませんか。あの、年がら年中歩きながらでも、パチパチやっている男女青少年たちの格好は、決して褒められたものではありませんが、時代の流れと受け止めます。
今年はパソコンからもう一歩進めて、あれをやって、頭の体操を始めてみようではありませんか。

話は飛躍します。今中国や、北朝鮮に対して、強硬姿勢で臨めとする、論調が自民党や、一部民主党の政治の間に高まりつつあります。その声に靡く世論もマスコミもないわけではありません。

それは、日本のハイテク技術は、彼等より勝っているという優越感が根底に潜んでいるからではないでしょうか。
 自衛隊を堂々軍隊に仕立てれば、ロボットや、携帯電話で戦争ができる。或いは核兵器だって日本の技術から見れは、今すぐにでも造れるぞ。などと思いこんでいるのかも知れません。

Edo さん。
縁故疎開の画面は、あの頃の単なる回想ではありません。戦争を知らないコイズミや、政治家全体に知って欲しい願いからです。
空襲の恐ろしさ、灰燼と化した東京を我々には忘れろと言っても忘れられないことですから。S.20年3月10日の真っ赤な東京の空は、遥か茨城なるわが家からも見え、「あれはなんだっぺ!」と驚いたのものでした。

貴兄の「縁故疎開」全文を無断コピーしました。

不愉快でしたら、直ぐ削除します。
お互いの 録運長久なるを祈念して、稿を閉じます。     そんでわ。

 ≪昨日ブログを検索中「旗はた」の記事が目にとまる。と言っても冒頭に一寸だけだったが、僕の頭の中に眠っていた六十数年前の秋田の頃が突然目を醒ました。

 米どころではあるが、戦時供出でご飯よりおかずの方が多かった。とくに冬場になると注文してあった箱入りの 「はたはた」を弟と二人で橇を引っ張って駅の丸通(日本通運)にとりにやらされた。

そして朝昼晩「はたはた」を食わされた記憶がある。そのくらい沢山漁れた。 (はたはた文化)  
次に記事は「赤旗」「軍旗」に続いて「軍艦行進曲」のウンチク、僕もこれにはウンチクがある。昔昔と言っても明治の時代のことである。

 瀬戸口藤吉の未完成交響曲が後に天皇の要請によって、瀬戸口藤吉の編曲により軍楽管弦楽に変わり、マ-チの名曲として世界中の音楽家に賞賛されている。

 マ-チとして今日まで長きに亘って愛聴されているが、原曲は未完成交響曲のままである。  そんな名曲をパチンコ屋の煽り曲に使うとはなんと不謹慎なことぞ!!
  
 更に記事は「手旗信号」と続いていたが、僕は当時「モ-ルス信号」の方が得意だった。 
 イ 「伊藤」  ロ 「路上歩行」  ハ 「ハ-モニカ」 だぞ!!
 
先日、元自衛官で通信隊にいたと言う、友人(50歳位)に訊いたら答えは全く知らない・・・と???   たのむぜ ”小泉総理” 頑張れっ!  にっぽん!!≫

Edo さんのブログを無断盗用した。






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「新日本古典文学大系」完結元旦新聞広告

2006-01-10 21:03:29 | 日録

元旦の朝日新聞に出版社の【全面広告】がかなりの数にのぼった。
「三越」だとか、「マイクロソフト社」とか、「男たちの大和」「ダ・ヴィンチコード」「shiseido」「HONDA」「積水ハウス」「花王」「TOYOTA」「伊勢丹」「サッポロ、ビール」なら特に不思議がることはない。

ただ、これから先どうなるんだっぺと思う「出版社」が顔を並べているのが気になった。それも、
講談社の「2006 FIFA ワールドカップ 公式ガイドブック」の広告なら分からないこともない。はたまた、新潮社文庫、集英社もそれだけの効果はあるだろう。

だけど、岩波書店「新日本古典文学大系」全巻セット完結祈念「総目録付」全100巻・別巻5完結。
一体どんな効果があるのであろう。

わが伜たちの家計を心配するような気持ちでこの広告を見るのは、俺の「貧乏性」なのだろうなぁ…。

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