狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

昭和の日

2007-04-29 22:10:30 | 怒ブログ


色々な、メモや日記が公開されて、菊のカーテン内の昭和天皇の実像が少しずつ
ではあるが、覗けるようになってきた。勿論、陛下のお書きになったものではないし、中には偽物だという説もあるくらいだから、当時の大日本帝国憲法下の側近のメモも相当割引して読まねばなるまい。
天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラス(旧憲法第三条)の条文を頭において読む必要があると思う。
戦を宣し、和を講じることは天皇以外ではできなかっからである。


天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義卜為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国卜釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ撹乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆二瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

 御 名 御 璽
  昭和十六年十二月八日
                           各大臣副署


朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰スル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯クノ如クムハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳へ確ク州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日
各国務大臣副署

内閣總理大臣男爵 鈴木貫太郎
        海軍大臣     米内光政
        司法大臣     松阪廣政
        陸軍大臣     阿南惟幾
        軍需大臣     豐田貞次郎
        厚生大臣     岡田忠彦
        國務大臣     櫻井兵五郎
        國務大臣     左近司政三
        國務大臣     下村 宏
        大藏大臣     廣瀬豐作
        文部大臣     太田耕造
        農商大臣     石黒忠篤
        内務大臣     安倍源基
外務大臣兼
        大東亞大臣    東郷茂徳
        國務大臣     安井藤治
        運輸大臣     小日山直登

初めての「昭和の日」は日曜日であった。したがって、明日30日(月曜日)が代休となり、さらに「5月4日」も「みどりの日」として残されたから、1日、2日中抜きの大型連休となった。
さて「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来の思いを致す」と銘打った祝日の日の記事としてはあまり目立った特集記事はない。
強いて関連づけるとすれば<歴史と向き合う>『戦争末期、その時朝日新聞は」ぐらいであろう。
しかし社説だけは流石に「昭和の日」取り上げている。
(続く) 


2007-04-24 20:55:26 | 怒ブログ


下書きなしで書いた折角の長文3回も途中でオジャン。今日はこれで諦める!
Vistaめ!!

 ましま翁が文芸春秋特別四月号に載った「小倉侍従日記」について、三月十九、二十、二十一日の3回に亘って自らのブログ「反戦老年委員会」に詳しくその解説を寄せられた。
ボクも、本屋の店頭でこの雑誌を何度か立読みしたが、とうとう求め損なってしまった。なぜなら、隣の図書コーナーにうず高く重ねて置いてあった「徳富蘇峰、終戦後日記『頑蘇夢物語』」に惹かれたからである。

 この本の書名は、新聞書評欄に出ていて知っていたから、なお欲しかった。
しかし所得皆無になってからの小生は、最近頓に本を買う金銭に対しケチくさくなってしまった。
 今日は、どちらかを買うつもりで本屋に出向いたのであるが、勿論文芸春秋は既に五月号になっていて、目的のものは店頭から消えてしまっていたである。そして「蘇峰終戦度日記」も続巻が出てしまっていた。

 遂に断念した。そのうち手軽に買える文庫本に収められるだろうと思ったからである。

 念のため帰途、町の図書館に立ち寄ってみた。該当の雑誌はなかったが、蘇峰日誌は検索できた。
 受付嬢に検索した「蘇峰」を書いたメモを渡すと、
「なんと読むんですか?」と聞かれてしまった。
傍にいた館長らしき人が、
「〝トクトミ・ソホー〟有名な人だっぺ!」と自ら捜してくれた。

 

チューリップの園

2007-04-22 06:14:41 | 日録

ましま様主宰反戦老年委員会が、拙ブログ名を冠した、“狸便乱亭大賞”を設定なされた。
「大日本帝国憲法上諭」を採録なされ、以て美しい国造の基礎探究資料に供せんとする意図にまず敬意を表さねばなるまい。
さて、この上諭(じょうゆ)とは①君主のおさとし。②明治憲法下で、法律・勅令・条約・予算などを公布する時、天皇の裁可を表示したもの。(広辞苑)とある。
この畏れ多い白文は、次のネットで容易に訓読可能だが
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/dainihonnkokukennpou.htm

憲法発布式典に参加した方々の中で、誰一人としてで読める人が いなかったというようなことを、何かで読んだ覚えがある。

流石、この名誉ある大賞に、名乗り上げられた眠り猫様という偉大なる候補者がおられた。

漢学は白川静先生ばかりではなかった。よって今日は、Mail友SUMU氏から送られてきたチューリップの園で平和を満喫し、以後賞金発送の準備に取り掛かることにしたい。


憲法第九条とは?

2007-04-19 07:29:30 | 怒ブログ
我が家にある憲法に関する本は、倅が大学時代に使った本を入れた、段ボール函を探しだせば、何冊かが出てくるかもしれないが、一体どこにあるのか見当もつかぬ。大学卒業と同時に、全部ごみ箱の中にぶん投げてしまったと考えるのが正解であろう。

それはそれとして、ボクがいま所持しているのは、胸の隠しポケットに入れて持ち運べるような「憲法」と書いた手帳より薄い小冊子と、
何と!

「六法全書 昭和53年版 編集代表 鈴木竹雄 田中二郎 追録贈呈4500円有斐閣」という古典的代物である。

前者は
    ◆日本国憲法第1章~第11章
    ◆教育基本法
    ◆児童憲章
の3部からなり、わずか57ページの中に収まっている。「“住井すゑ九十一歳宣言”記念映画祭」のとき配られたもので、いつでも見られるように、パソコン机の小引出しのいちばん手前に入れてある。

 「憲法第9条を守ろう」という叫び声が、いつの間にか囁き声のような小さな声に変ってしまった。慙愧に堪えない。ここで改めて読み返してみる。
   
 日本国憲法
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永遠にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

折角、引っぱり出した六法全書の最初のページを開いて見る。
◎日本国憲法(昭和21.11.3施行昭和22.5.3(補則)

朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経他帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを交付せしめる。
  御名御璽
 昭和二十一年十一月三日

内閣総理大臣兼外務大臣 吉田 茂
国務大臣 男爵  幣原 喜重郎
              司法大臣           木村 篤太郎
              内務大臣           大村 清一
              文部大臣           田中 耕太郎
              農林大臣           和田 博雄
              国務大臣           斎藤 隆夫
              逓信大臣           一松 定吉
              商工大臣           星島 二郎
              厚生大臣           河合 良成
              国務大臣           上原 悦二郎
              運輸大臣           平塚 常次郎
              大蔵大臣           石橋 湛山
              国務大臣           金森 徳次郎
              国務大臣           勝 桂之助

緊急お知らせ

2007-04-14 15:12:47 | Weblog

突然わがパソコン、ハードデスクが壊れたみたいです。
入院します。
今他所のコンピューターから更新しています。
毎日、ここに来て作業するわけには行かないので、
とりあえず、10日ぐらい、留守にします。
時々来て、覗きますが、メモ程度のものになります。
では。

さくら

2007-04-11 21:32:36 | 日録
ヒサシブリニ…
シンコン○○以来ホドデモナイケド
フタリデ オ花見ニデカケマショタ
嬉シクモ 楽シクモ 悲シクモ アリマセンデシタ

ムヒョウジョウ ノ 人 人 人 ノ波トイショニ
ムヒョウジョウ ノ 顔デフタリハ
オ花見ヲシマシタ

ケイタイデンワキ デ ミンナガ
パチパチ (ア!オトハシマセン)櫻ノ花ヲ撮ッテイルモノダカラ
ツラレテ ボクモ 2マイトリマシタ

ラーメンデモ 食ベタイナ ト 思イマシタ
非ローマンチックナ
オ花見デゴザイマシタ
ウン





風景

2007-04-10 22:12:19 | 日録
 
静かな農村風景の様に見える。拙宅から観た「辰巳」方角である。森の手前には結構道幅のある道路があって、朝夕多少の通勤用の車の通路になるのと、村の小学校児童の通学路となる。日中は宅配の車や、農家の老年の人たちが農作業に使う軽トラが通る「過疎の寒村」のように見えるけれど、この道路は約30年位前は、国道○○号線の主要道路であった。

車が少なくなってしまったのは、この写真を撮った場所からは背面になるのだが、バイパス道路が出来、更に前方に見える森の約1キロ先には大型の住宅団地の開発する処となり、その向こう側に国道○○線の直線道路が開通されたからである。


写真

2007-04-09 21:41:51 | 日録
「お気に入り」だったこの酒店が店を閉めて3年ぐらいは経つだろう。
今日耳鼻科医院に診察を受けに行き、受付を済ますと、待ち時間が相当あったので、近くの櫻名所であるS川土手を徒歩で散策した。その道すがら、この元酒店の前を通ったのである。久しぶりに、つも締め切ってある店の雨戸が開け拡げてあった。

店の中を覗いてみたら、店をひとりで切り回していた店主夫人のおばさんが、まだ営業中だった頃置いてあった、4斗入りこも被り酒樽や、化粧箱が雑居している、店内の片付けと掃除をしていたところだった。

 挨拶をしたら、「時間がお有りでしたら、中でお茶でもどうぞ」と招じ入れられた。
 おばさんは写真を趣味としておられた。店には、一見写真家である事が理解できるパネルが、何枚も掲示されてあった。そして酒を商う時は、決まって酒の講釈をした。酒は常時、一定の温度に保たれているショーウインドウに保存展示してあって、宅配を利用するときは、生鮮食料を送る時利用する、クール便を使う程、保存温度の気の使い方だった。散らかった侭の元の店内の片隅のテーブルで、お茶をごちそうになった。

「店を止めたきり、そのままなんです」おばさんは、しきり弁解した。
店に飾った侭になっていた写真数点の中からこれを選んで撮った。

おばさんの「処女作」、しかも入選作だそうである。
脇に置いてあるのが見えるのは、「霧筑波」と「武勇」の空き瓶である。

痛恨碑

2007-04-07 12:03:53 | 怒ブログ
これは村に建っているの「忠魂碑」である。揮毫は元帥伯爵東郷平八郎花押とある。
こんな小さな村に、東郷元帥揮毫の忠魂碑があることを証明しようと、アップ撮影してみたが、判りづらぃ画面となってしまった。主題を「痛恨碑」としたのは他意があったわけではない。「キー」の打ち間違えである。この忠魂碑の裏面には日露戦役で斃れた数名の方々の、戦没年月日と戦域が刻まれている。
10数年前までは、村の老人会などが、清掃のボランティアをしていたらしいが、今は何処で管理清掃しているのか、時節柄雑草の繁茂はなかった。



明らかに「忠魂碑」の打ち間違えではあるが、「痛恨碑」の方が、戦没者への慰霊の意味を込めて修正しなかった所以である。   合掌

筑波山

2007-04-05 21:40:50 | 本・読書


関東の名山といわれる筑波山の容姿は、山を中心にして、東・西・南・北から眺めてみて、ひとそれぞれの好みにも依るが、ボクはこのカメラアングルがいちばん好きだ。

 この写真は、連日のように筑波山周辺の「花」を撮り続けている、T氏から送られてきたものである。
撮影した場所については触れられていないが、恐らく西側から撮ったものと想像出来る。筑波山の枕詞になっている「ふたなみ」男体、女体の双峰が重なるようになっているからである。
 もう少し場所を南に移すと、長塚節の「土」に出てくる舞台となるが、勿論現在では、その小説に描かれている頃をイメージすることは全く出来ない。

尤も、〝長塚節〟を知らない人も多くなってしまい、〝長塚ブシ〟と民謡と感違えする人も多いとか…、昭和も遠くなったけれど、明治は更に更に遥か彼方となってしまった。

長編小説『土』は、明治43年(1910)に『東京朝日新聞』に連載されたもので、ボクの中学1年の時の『国語』教科書に載っていたが、岩波文庫の『土』は所持しているけれど、まだ読み終えていない。

      
小春の岡    長塚 節
 小春の日光は岡の畑いっぱいにさしてゐる。岡は田と檪林と鬼怒川の土手とで囲まれ、他の一方は村から村へ通ふ街道へ傾いてゐる。
 田は岡に添うて狭く連なってゐる。田圃を越して、竹薮交じりの村の林が
田に添うて延びてゐる。竹薮の間から草家がぽつぽつと見えかくれする。箒草を中途から伐り離したやうに枝をひろげた欅の木が、そこにもこゝにもすくすくと突ったってゐる。
 田にはもう掛稲は稀で、竹の「をだ」だけがまだ外されずに立ってゐる。「をだ」には黄昏に鴨でも来てとまる位のことだろう。見るから寂しげである。
(中略)土手の篠に上には、対岸の松林が連なって見える。更にその上には、筑波山が一脚を張り、他の一脚を上流まで伸ばして聳えてゐる。小春の筑波山は、常盤木の部分を除いては赭く焦げたやうである。その赭い頂上に、點を打ったやうに観測所の建物がぽっちりと白く見える。やゝ不透明な空気は、針の尖でつゝくやうに其の白い一點を際立って眼に映じさせる。(「国語」巻二岩波書店)



S先生の書

2007-04-03 10:01:31 | 日録




 s先生は、学校の教師でもなければ、議員さんでもない。お医者さんである。ボクの主治医でもあった。今でも小さな街の開業医である。しかし傍らの作家活動のほうが著名になってしまって、著作物の執筆の時間や、講演依頼等を含めると、診療時間はかなり制限されてしまっている。
 先生は絵も描くが、毛筆も堪能である。診察室でも「カルテ」こそボールペンで書くが、手紙やはがき等は、すべて毛筆である。勿論著作の原稿は、パソコンで打つ。それ以外は、提携病院への紹介状ですら、すべて毛筆であった。

 封書であるから、宛名が毛筆で、中の紹介状(今はそれぞれの病院で、記入形式の決まった、症状情報の内容に決まっている様だが)がポールペンでは先生の意に沿わなかったのかも知れないし、先生は毛筆ですらすらっと認めたほうが、労力的にも楽なように見えた。

 ボクもs先生の紹介状で、その病院では、約1ヶ月の入院生活もした。その後の紹介状の窓口に当たる主治医は、決まって呼吸器専門の内科女医さんであった。
「血痰」でお世話になった。
 症状は心配ないという診断だったが、女医先生ボクに、
「どんな、ご返事を書いたら良いでしょう?」と笑っておられた。
「紹介状読めましたか?」と小声で尋ねてみたら、
「とても、とても。s先生は芸術院会員ですから…。」
返信には、大分時間をかけ神経を使っている御様子がありありとわかった。

 

 


オペラ座に響く NARITAYA!

2007-04-02 13:39:53 | 日録

 

 パリ福井聡】パリ・オペラ座(ガルニエ)で23日、市川團十郎、海老蔵さん親子を中心とする計5日の歌舞伎公演が始まった。演目は「勧進帳」「口上」「紅葉狩」で、弁慶の見えを切る姿や六方を踏む場面にパリジャン、パリジェンヌから「ブラボー」の拍手がわき、シャガールの絵が描かれた天井に「成田屋!」の声が響いた。

 オペラ座での歌舞伎公演は初めて。04年秋にパリのシャイヨー宮劇場で海老蔵襲名披露公演を行った際オペラ座から声がかかり実現した。仏語字幕が舞台上の電光掲示板で流れるほか、段差を付けた所作台を舞台の上に敷くなど工夫された。

 「口上」では團十郎さんら9人のフランス語の自己紹介に拍手が起きた。團十郎さんが舞台から客席をにらむ「にらみ」も、「にらまれたら1年間風邪をひかない」と仏語の説明で行われた。

 パリの大学教授、ジャック・マチウさん(60)は「衣装やしぐさが美しく、浮世絵の世界を思わせた。(勧進帳で)家来が主人を打つ場面は西洋ではあり得ず興味深かった」と話した。(毎日新聞3月25日付)
テレビのニュースでこの、団十郎・海老蔵のパリ公演のことを初めて知った。残念ながらボクはテレビを殆ど見ていない。茶の間にテレビが置いてあって、食事の時にニュースを見る位である。だから、ほんの一こまを見たに過ぎなかった。また、恥ずかしながら、『歌舞伎』も不案内である。しかしこの「勧進帳」にでる、揺曲の「安宅」の場面での、「~旅の衣は~鈴掛のォ~」ぐらいは口ずさめる。正月にはよくテレビで放映されるので、ビデオに撮った記憶があるが、保存場所が特定できない。
パリ「オペラ座公演」という特殊事情の為だろうと思うけれど、画面には迫力があった。
この記事の新聞切り抜きをやって、ふと気が付いて『テレビ 見・聞・録 ラジオ』のページを調べたら、
あった!見たかったなァと悔やんでも後の祭りである。
しかし、「NARITAYA!」なんて、何と!素晴らしかっただろう。団十郎親子の演技にも力がこもっただろうと思う。
因みにテレビ番組は、

NHKハイビジョン
午後7:00HV特集 パリ・オペラ座史上初の歌舞伎公演▽最高の人気演目・勧進帳▽市川団十郎・海老蔵親子競演が話題。    1時間20分に亘る番組だった。

 

 


四月一日

2007-04-01 22:11:28 | 阿呆塾
以前この「ブログ」に書いてあるかも知れぬ。しかし一年以上ブログを書き続けて(更新と言うべきか?)いると、重複することは免れない。まして小生の年齢では致し方がない。其の場合は、ご勘弁を願う。

 戦後間もない頃、T君という身寄りのない青年(小生より少し年上)が、拙宅の家族の一員として同居していた事があった。彼は明治商業(現明治大学付属)卒のインテリ青年であった。文学青年と言ったほうが適切かも知れぬ。

 当事ボクは彼も加わって、仲間を募って、文学雑誌を創った。謄写版刷の雑誌であった。 田舎の雑誌としての「内容」は、「ヒューマニズム」だとか、「唯物論的弁証法」などが誌面を飾っていて、レベルはかなり高かったように思う。誌名は「十次元」であった。

 今日はそれは論旨ではない。

T君が僕の親友A君に「はがき」を書いた。

 <A様。突然ですが、お知らせです。Tani君がトラック運転中。相手トラックと正面衝突。重傷を負い付近の病院に担ぎ込まれましたが、介護の甲斐なく死去致しました。とりあえずお知らせ致します。>

だいたいこんな文面だったそうだ。
A君も魂消たが、A君のお袋は涙を流したと言う。

 今は「エープリルフール」を知らない人はいないだろうけれど、当事は殆どの人は知らなかった。A君早速『香典袋』にお悔やみ料を添えて飛んできたらしい。
拙宅に近づくにつれ、それらしい気配は何もなかったから、
「計られた!」と初めて思ったそうだ。はがきが着いたのは4月2日だったそうだからである。

「よっぽど、当てつけに「香典」を置いて、恭しくお悔やみの挨拶をして来ようかと思った!」今もA君の語り草になっている。

 T君は数年亡くなってしまった。静岡県の創価学会員墓地に眠っている。