狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

最後の戦災犠牲者慰霊祭

2010-08-04 05:25:26 | 反戦基地

1945年の水戸空襲で犠牲になった人たちを慰霊する水戸戦災犠牲者慰霊祭が1日、
水戸市城南2丁目の駅南平和公園であった。81年に始まった慰霊祭は、遺族の高齢化などのため、30回目となった今年で終了する。
 昨年解散した「水戸市平和記念館を創る会」の元会員たちと、「水戸戦災犠牲者遺族会」が主催し、約50人が参加した。遺族会の小林八重会長(97)は「父、姉の夫を失い、幼い子ども3人を抱え、厳しい生活の日々だった。慰霊祭はこれが最後となるが、(今後も)平和記念館にお立ち寄りいただきたい」とあいさつ。加藤皓一水戸市長も「水戸市民が戦争の悲惨さ、恐ろしさを忘れることなく、恒久平和が続くよう、いっそう努力をしていきたい。みなさんの心は永遠に引き継がれる」と話した。(8月2日付朝日新聞地方版)

官製慰霊追悼式

2010-06-30 07:19:01 | 反戦基地

1945年6月10日わが町は米空軍の爆撃によって甚大な被害を受けた。この爆撃による死者の数は371名(町史による)とされているが、その資料は、思い出によるものも多く、客観性や正確さには難点があるとする著作もあるなど混乱していたことは想像に難くない。
いずれそのような悲惨な事実があったにもかかわらず、これまでこの日の慰霊祭を行った記録は全くないと言ってよい。
以下の追悼式典は、この日の犠牲者の慰霊祭とは次元の異なった町の行事である。

■【町戦没者追悼式】開催(町広報誌『お知らせ』)
 先の大戦において戦没された幾多の町関係者の霊に対し、町民をあげて追悼の誠を捧げ、平和への決意を新たにするため、標記追悼式を下記のとおり行います。
 なお、当日式に参加される人は、略礼服または略礼服に準じた服装にてお越し下さい。

 期 日 ×月×日(火)
 時 間 午前10時30分~11時45分(受付:午前9時30分から)
 場 所 町民体育館
 問い合わせ  社会福祉課社会福祉係  電話

     平成××年度 戦没者追悼式参列予定者
 【参加者】
  参列者  
  来賓
     県知事、国会議員、県議会議員、町議会議員、町内大学学長
     町内自衛隊各処長他、県当該地方総合事務所長、県聾学校長
在町私立高等学校長、県自動車学校××校長、町内小中学校長
     町消防団長、町農業委員会会長、町教育委員会委員長、町内郵便局長
     町障害者福祉協議会会長、町遺族会会長他役員、町軍恩支部長、恩欠連支部長
     傷痍軍人会協議会会長、民生委員児童委員協議会会長、保護司協議会会長
     更正保護女性の会会長、青少年相談員連絡協議会会長、区長会会長、
     町ライオンズクラブ会長、町ロータリークラブ会長、交通安全協会地区支部長
     T医大地域病院長、防犯連絡協議会会長、町老人クラブ連合会会長、
     JA××代表理事理事長、地区交番所長、町企業連合会会長、
     県遺族連合会地区支部長、県町村会会長、地域法人会地区会長、
     交通安全母の会会長、全抑協県連地域支部長
     一般
     区長、民政委員、単位老人クラブ会長、町企業連絡協議会会員、
     社会福祉協議会理事・監事、更正保護婦人会役員、保護司協議会会員
     町シルバーセンター人材センター時務局長
     遺族他
 町関係 町三役      3名
     社会福祉課    12名
     児童福祉課    5名
 交通指導隊        8名
 日赤ボランティア     4名
     計      約500名 

【参 考】 戦没者追悼式次第
                日 時  平成××年×月×日(火)
                     午前10時30分から
                場 所  町民体育館
 趣 旨
   先の大戦において尊い犠牲となられた本町関係の戦没者等の御霊に対し、敬虔な追悼  の誠を捧げるとともに、ご遺族のご苦労に対し深い敬意を表し、町民あげて平和を祈念  し、町勢発展への決意をいっそう新たにしようとするものであります。
 式次第
   着     席  (奏楽)
   開 会 の 辞    町副町長        (午前10時30分)
   国 歌 斉 唱  (奏楽)
   黙とう(1分間)
   式     辞   町長
   追 悼 の 辞   町議会議長  県知事 町遺族会会長 県遺族連合会会長
             県選出国会議員  県議会議員
   献     花   (奏楽)
             町長 町議会議長 県知事 
             来賓
             遺族 旧軍人軍属 一般
   閉 式 の 辞   町教育長          (午前11時45分)


沖縄慰霊の日

2010-06-23 20:57:06 | 反戦基地


週刊朝日創刊50周年記念
朝日新聞でみる世相50年(朝日新聞社1972)

 1945年6月10日空襲による爆撃を身をもって体験した。しかし、何分65年もムカシの記憶であり、記憶違いや、明らかな誤りもないとは言えない。赦されよ。

町史には、次の様な記述がある。

「昭和20年6月10日、B29、250キロ爆弾投下による被爆状況。
T海軍航空隊即ち予科練は、7、8割の施設が灰じんとなり、281名の尊き少年航空兵を失った。その他負傷者115名(病院収容後26名死亡)。当日は日曜日であったので、多くの父兄が遠方から予科練の子弟に面会に来ていたが、そのうち面会人の方の死亡13名、A地区台地の奥行300メートルほどの防空壕の入り口付近に爆弾が投下され壕がつぶれ、中に避難していた少年兵が右のような結果となったのである。
B29 250キロ爆弾及び焼夷弾投下による各被害状況。
○A地区
  死者       13名
  負傷者      多数
  焼失家屋     集会所ほか15戸
             付属家屋物置納屋約30棟
○T地区
  直撃死亡    10名
  直撃家屋     6棟
  負傷者      10数名
  大破焼失家屋  15棟
○A地区、T地区の爆弾穴跡200箇所以上に及ぶ
○H地区
  死者        5名(内直撃弾にて家族4名死亡)
 旧F村
 S地区 
  死者        16名
  負傷者     約15名
  直撃全焼家屋   4棟
  家屋半壊     60棟以上
  F小学校は、直撃弾を受けたるも、日曜日のため学童不在、不幸中の幸であった。爆弾投下穴跡60箇所以上に及び、K湖に相当数落ちたらしい。
○T地区(F村)
  死者        7名
  負傷者      10数名
  全焼全壊家屋  10数棟
  殆どの家が大破した。
  爆弾穴跡      96箇所
 
K地区の第2海軍集会所は爆撃で火の海となり灰じんに帰した。不思議にもS町(予科練正面繁華街)だけは爆撃を免れた。
371名の人命を失った6月10日は正に悲劇の1日であった。」

ボクは正直云って「沖縄慰霊の日」を全く忘れていた。朝日新聞コラム「天声人語」で、ゴルフの宮里藍さん(25)が米国ツアーで今季4勝目をあげ、世界ランクの首位に立った快挙を取り上げ、

 
▼世界一を育んだ「日本の亜熱帯」は観光資源でもある。米軍基地がなければ、大自然とリゾートの楽園だろう。そんな夢想を許さない、がんじがらめの現実の下で沖縄は「慰霊の日」を迎えた。本土防衛の捨て石が、20万の命と共に捨てられた日である▼65年を経て、島はなお爆音と硝煙の中にある。基地負担をどう軽くするかの算段は、日米合意で振り出しに戻った。沖縄言葉(うちなーぐち)で通じ合えるほどの関係を首相が築かない限り、普天間は動くまい。国政の関心は参院選に移り、昨日の党首討論も基地を掘り下げなかった▼沖縄タイムス紙上で、宮古島の詩人市原千佳子さんが嘆いていた。「日米共同声明は沖縄(日本)が今なお米占領下にあることを示した……我々の戦後はしつこい」と。米国とのしつこい交渉だけが、霊を慰める道である。 

と記したのを読んで、「あ、今日は沖縄慰霊の日」を知ったのである。
 
沖縄戦から比べれば、わが村の爆撃の惨状などはその比ではあるまい。しかし、あの日(1945年6月10日)あのときの状況は町民として後世に伝えなくてはなるまいと思った。

残念ながら、今では町民も殆どこの日のあったことを忘れ去っている。「慰霊祭」と云えば過去の記録を捜して見ると、10月末町主催の「戦没者追悼式」が行われた記録がある。

謹啓
仲秋の候、ますますご清祥のこととお慶び申しあげます。
さて、先の大戦において戦没された幾多の町関係者の霊に対し、町民あげて追悼の誠を捧げ、平和への決意を新たにするため、町戦没者追悼式下記により挙行いたします。
 つきましては、ご多用中のところ誠に恐縮に存じますが、ご臨席賜りますようご案内申し上げます。                                                                                                                                              謹言
                      記
日時     平成 年月日 午前10時30分(9時30分受付開始・11時45分式典終了)
会場     町体育館
※準備の都合上 月 日までに、返信容葉書に出席の有無をご記入の上返送くださるようお願い申し上げます。
   平成 年 月 
                            町長 氏 名
尚、当日ご参列の際に、お手数ですが本紙をご持参下さるようお願い致します。
又、当日の服装は略礼服または略礼服に準じた服装にてお越し下さい


平和の大切さ

2010-05-23 11:44:55 | 反戦基地

     
予科練平和記念館案内チラシより

 主題を「平和の大切さ」と書き込んだだけで、何かきな臭い思いが先行してしまって本文の書き込みが全く先に進まなかった。

<当時の少年たちの憧れであり、予科練の代名詞といわれた制服 の「七つボタン」七つのテーマと空間とで構成された展示からは今と変わらぬ少年たちの青春群像に触れることができます。
そして尊い命と平和への認識をふかめることができます。>

 この写真とともに、記念館開館案内チラシの中に書かれた解説である。
なんと、A4判1枚のチラシの中に、「命の尊さと平和の大切さ」という詞が3カ所に繰り返し述べられているのである。そればかりではない、町のH.Pをみても、新聞や町の広報誌にも、町長談話にも必ずこの「命の尊さ、平和の大切さ」が空念仏のように頻出する。

 だが、その詞とは裏腹に、記念館内で気になったのは、少年らへの当時の美辞麗句、時として本質を覆い隠す美しい言葉が多いことだ。

 まず玄関に入ると、正面大きなガラス窓に次のような言葉が刷りこまれてある。

< 予科練の少年たちは特別な少年ではなかった。
 普通の少年で、強いて違っているところといえば、大空を愛し、
 格別に飛行機が好きだったという位であったろうか。
 彼らはあまりに純真であり、それ故には情にもろく
 血と涙が多すぎる、そんな性格の少年が多かった。
 そのような少年達が、困難に対して献身した、燃えた、
 そして八割が戦死した。
               倉町秋次という署名。
 そして、その入り口のガラスを通して大きな写真が目に入るのは、昭和を代表する写真家、土門拳が土浦海軍航空隊で撮影したという予科練習生たちの写真だが、ここには陰鬱な隊内の様子は微塵も写っていない。
 むしろ楽しそうな隊内生活が写し出されているではないか。

 
ボクは今このことを書きながら、平行して「きけ わだつみのこえー日本戦没学生の手記」を手元に置いていた。冒頭渡邊一夫が「感想」と題するまえがきがある。

 …略。 初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、或る時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与へるようなことがあってはならぬといふのが、その理由であった。僕もそれは尤もだと思った。その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かへって「公正」を欠くことがあると思ったし、更に、若い戦没学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍暗黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思ひ、これら痛ましい若干の記録は、追ひつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考へた。そして、影響を顧慮することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐へられないとも思ひ、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したやうな痛ましい記録を、更に痛ましくしたやうな言辞を戦前戦後に弄して、若い学徒を煽てあげてゐた人々が、現に平気で平和を享受してゐることを思ふ時、純真なるがまゝに、扇動の犠牲になり、しかも今は、白骨となってゐる学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。…略。

 


 


摘録 「断腸亭日乗」

2009-09-04 20:21:05 | 反戦基地

昭和三十二(一九五七)年
昭和丗二年歳次丁酉
            荷風散人年七十九歳

九月四日。晴。小林来話。正午浅草。

昭和三十三年(一九五八)年
            荷風散人八十

昭和丗三年正月

九月四日。晴。後に陰。正午浅草アリゾナに飰す。

書店にて

2009-08-07 20:42:34 | 反戦基地

 必要があって、資料蒐集のため古い日記を整理していた。日記は昭和57年9月から、確実にノートや自由日記に記していたつもりである。
 記載されている日記に偽りはない筈、当時の社会情勢がわかる新聞記事なども書かれていた。(手書きである)
平成5年1月6日
朝日新聞記事である。「クーデター論文」で免職
 元陸自三佐が「不服」申し立て郵送
クーデターを容認する論文を週刊誌に投稿して 懲戒免職処分となった元陸上自衛隊高射学校教官、柳内伸作・元三佐(45)が、防衛庁の審理の課程で「処分の理由を具体的に示されなかった」などとして五日、処分の取り消しを求めて同庁の公正審査会に不服申し立てを郵送した。
柳内元三佐は昨年十月、金丸信・全自民党副総裁の五億円献金問題に関連し、「週刊文春」に「もはや合法的に選挙で不正を是正する事は不可能だ。それを断ち切るには革命かクーデターしかない」などとする論文を投稿。宮下創平・前防衛庁長官が「民主主義制度を否定する見解の発表は許されない」と表明、自衛隊法五八条の「自衛隊の威信を損する行為」などにあたるなどとして、昨年十一月十二日に 懲戒免職 処分とした。
柳内元三佐は「記者会見で公表したような明快な懲戒処分の理由を、個人的に告げられなかった。(投稿も)歴史的事実を示しただけで民主主義を否定する内容ではなかった」としている。
申し立てでは「自衛官の言論の自由はどこまで認められるか」と問うとともに、「週刊誌への掲載にあたり、同誌の編集者が「加筆削除した部分に誤解を生む箇所もあった」として、掲載前の投稿全文も公開する。

田母神俊雄がもてはやされている今日と比べ隔世の感がある。
ちなみに日記には問題視された「週刊文春」誌のコピーも挟んであった。
自衛隊三佐(現役)激白 特集 巨悪を眠らせるな!
「金丸が辞めなきゃクーデターをやる」
 自民党政権の腐敗は佐川疑獄で頂点に達した。しかも竹下内閣誕生に暴力団が一役買っていたのだ。政界に自浄能力なく、国民が傍観をきめこむならば、最後の手段"伝家の宝刀"を抜くしかない!現役自衛官が職を賭して夜に問う「クーデターの論理」とは!?

柳内三佐はこの時45歳とあるから、まだまだ政界進出も可能の年齢とみるが、何故かネットでは忘れられてしまったような存在で詳しい記載はなかった。一方田母神俊雄の場合はすさまじい。田母神俊雄講演会・株式会社田母神俊雄事務所いさましい看板が、目白押しに立ち並ぶ。
書店のこの田母神俊雄の著書の洪水に聊か感を深くせざるを得なかった。

訪朝ニュース

2009-08-05 20:48:54 | 反戦基地
            
 テレビを見ないので、今朝の新聞紙上でクリントン元米大統領の訪朝を初めて知った。我が国の首相があたかも北朝鮮を仮想敵国のようにして、国民に支持を訴えている最中である。安堵した。
 それにしても思い出すのは、過去の小泉首相の電撃的訪朝であった。
このニュースを伝えた朝日新聞(2002年8月31日付)のコラム「天声人語」は次のように書いている。
[天声人語]
 あのときほど心中が悲壮感にあふれたことはなかったろう。56年、モスクワで日ソ国交回復に臨む当時の鳩山一郎首相の心境を推しはかった一節だ(『鳩山一郎』時事通信社)。鳩山首相は交渉を成立させて帰国した翌日引退表明をした▼鳩山ほどではないかもしれないが、72年、北京で日中国交正常化に臨んだ当時の田中角栄首相もたいへんな緊張下にあったろう。日ソ、日中いずれも時の首相が政治生命をかけた交渉だった。小泉首相訪朝の報に、こうした歴代の交渉の厳しさを思わざるをえない▼日ソ交渉は北方領土問題で揺れに揺れた。日中交渉では台湾問題が難題だった。どちらも外交交渉の争点であり、国内問題でもあった。与党内でも意見が割れた。北方領土問題は棚上げによって妥協を図り、台湾問題は国内の親台湾派を押し切る形で正常化にこぎつけた▼今回も拉致問題をはじめ難題が少なくない。その点は過去の交渉と変わりないが、突然の首脳会談発表には驚かされた。交渉を繰り返して機が熟す。そして首脳会談で決着する。そうした過去のやり方から見ると唐突感はいなめまい▼「非公式には綿密に話し合ってきた」と福田官房長官、「水面下で交渉してきた」と小泉首相が言うのだから機が熟した面もあるだろう。そう思うが、決して容易な交渉とは思えない▼30年前の話である。『大平正芳回顧録」によると、中国から帰国する機中、当時の田中首相と大平外相が「オイ、生きて帰れたなあ」としみじみ語り合ったそうだ。

政治家の俳句

2009-08-02 16:59:37 | 反戦基地

終戦忌列島の蝉無き止まず

何年前になるのだろう。1985年8月15日、時の内閣総理大臣・中曽根康弘は、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝した。この句は、参拝の年から10年も前に詠んだものだそうだが、終戦忌を迎える日本人なべての心境はまさにその通りだろうと、肝に銘じたい俳句である。

鎮魂の黄葉にひざまずく

 当時の官房長官で「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」を作り一年に亘って検討、政府として公式参拝の道を開いたといわれる、藤波孝正の句である。
 中曽根翁は時に応じ機に乗じて感銘を与える秀逸な句を詠んでいるが、この句もまた、今の何の役にも立たない他の政治家並の駄句ではない。

悲しみの夏空へ向け鳩放つ

この句碑が、広島の平和公園の中に建っているそうだ。1987年11月、多くの市民の必死の反対を押し切って、強引に建てられたと反戦団体のホームページに見られるが、私は率直に平和の願いが伝わってくる秀句と受け止めたい。
私は総理大臣の靖国神社参拝の良否を論じるほどの見識もないし、知識も情熱もない。しかしただ、この度の解散総選挙で、これだけの句を詠める候補者がわが選挙区にいたとしたら、迷うことなくその候補者に1票を投じるであろう。

六月十日

2009-06-10 20:36:00 | 反戦基地
            

1945年6月10日。この日が日曜日であることは今でも忘れられない。
そして、その日の朝は、2009年の今日と同じような曇天であった。添付写真は畏友Y氏の著書から借用した。空襲で炎上するその日のT航空隊の貴重な写真である。
加納誠氏提供とあるが、ネット検索では特定出来る氏の項目はなかった。
当時の状況のすべての再現は、少年だった私には到底出来得る事ではないが、直面した爆撃の後の惨状の部分部分は言語に絶する。不幸中の幸いは日曜日の朝で、学童も教師も校舎内には一人もいなかった。学童は400人ぐらいいた筈。もしもという仮定を想像すれば大惨状になったに相違ない。今でも夢に見ることがある。
町史によると、(戦後の合併で町になった)合併前の我が村の死者23名。負傷者25名、家屋全壊24棟、半壊60棟以上。爆弾投下穴跡156以上とある。
 爆撃は、町史などの記載は、爆撃現場近くにいた方の思い出話で、正確を欠いている部分も少なくはない。
 この数字は民間側だけの数字で、航空隊では281名の少年航空兵の命を失い、負傷者115名(病院収容後26名死亡)という数字からも当日の惨状は想像出来よう。

長崎市長のことば

2008-08-11 11:51:23 | 反戦基地
  

長崎等市長が市議会で、質問に答えて「歴史家の記述を見ても、私自身の軍隊経験からも、天皇の責任はあると思う」と述べたのが発端で、長崎市は、街宣車の騒然たる街と化してしまった。あげくの果て、市長は右翼の短銃に撃たれ重傷を負う始末となった。
この時、市長宛に「批判抗議するもの」「指示激励するもの」の文面の手紙、ハガキ、電報等が7,300通に達したという。1988年12月の出来事である。
これらの手紙は、「長崎市長への七三〇〇通の手紙」の表題で、径書房という小出版社から発行された。もちろんこの出版物は、初版6刷という空前のベストセラーになったが、その中の1通をめぐり、解放同盟の抗議と要求で、絶版に追い込まれる事態も発生した。さらにこの事件の総括ともいうべき「長崎市長のことば」という岩波ブックレットも発行されている。
あれから約20年の歳月が流れ、この問題も風化の一途を辿っているようだ。最近タブー視される言論が多くなりつつあるような傾向を懼れる。
朝日新聞は1988年12月19日付紙は「長崎市長の発言と言論の自由」という社説をかが掲げ『天皇制に関することを含めて、思想、表現の自由は憲法で保障されている。日本を再び「言論の不自由」国にしてはならない』と結んでいる。
写真は、「感謝のことば」と題した小生が出した手紙への礼状と、「長崎市長への七三〇〇通の手紙」誌と当時の新聞切り抜きである。

原爆忌

2008-08-06 16:12:41 | 反戦基地
          
私は昭和二十二年の五月、東京へ帰ってくるまで廣島の田舎にいた。ときどき廣島市内へでて、焼けこげた電車にのった。走る電車の両側に、烏有に帰した残骸の街がはるかに遠くまで見渡せた。日ごろ泣虫でもない私が、電車でそこを走るたびに、涙がでて困った。瓦礫の底から死の歌ごえがきこえて来る気がし、地中に埋もれた白骨がまざまざと見える思いがするからであった。足のうらに死体のつめたさがつたわり、るいるいとした屍の上を踏んでいる心地が生々しい実感となっていた。
 (略)
 治癒した癩者の五本の指に似た、湾曲した手の指にも、白と淡紅色の光ったひき釣れがあり、あるときはそのような女の人が、指のあいだに切符をはさんで車掌にわたしていた。真夏なのにこの人はガーゼのマスクで口をかくしていた。(このことをある小説に書いたとき、批評した一人は、こしらえものだと書いていた。)
 (略)(略)(略)
 廣島は戦前、水の都と自称していた。戦争ちゅうは軍都と誇示し、戦争が終わったとたんに文化都市といいかえた。いまは平和記念都市というのだが、私は東京へもどってくるまで、その街に雑草のようにしか生い繁れなかった人間の再生の姿を見た。原子砂漠と呼ばれた廣島に、生き残った人たちは、貴重なものでなくてはならないはずであった。だが、そこには浮浪児も闇の女も、泥棒も、強盗殺人も、ほかの都市にまけないほどいっぱい生まれていたのだった。可哀そうなあの人々は、戦争の真の惨状と罪悪が、戦争している時よりも、それが終わったあとに深くくることを、いま身にしみて知ったことと思う。
(大田洋子「屍の街」原子爆弾抄 昭和25年5月30日 冬芽書房)より引用

敗戦日の朝日新聞朝刊について

2008-08-04 18:27:44 | 反戦基地

 終戦日、昭和二十年八月十五日の朝日新聞朝刊を見て、まず疑問に感じることは、十五日付朝刊には、すでに当日の正午に放送された「玉音放送」がのっており、朝刊を読めば、敗戦は誰でも分かる筈と思うことである。
 事実ボクもそう考えた。この朝日新聞社史ですべてがよく分かった。
 このことに関して朝日新聞社史 大正・昭和戦前編からその事情のくだりを抜粋してみる。

ポツダム宣言を正式に受諾
(略)
 終戦の詔勅の新聞発表は14日夜11時すぎから首相官邸の地下壕の一室で行われた。しかし、当局の要請により、詔勅をのせた新聞の配達は玉音放送以後にする、ということになった。十五日の付朝刊一面の大組みが開始されたのは、夜も白み出したころであった。

八月十五日
八月十五日の朝刊は午後に発送された。東京本社発行の第一面は、一段分を全面通しの横の見出し「戦争終結の大詔渙発さる」、トップの五段見出しは「新爆弾の惨害に大御心 帝国、四国宣言を受諾 畏し、万世の為太平を開く」、記事の横に「詔書」が大きくのっている。他のおもな記事の見出しを列挙すると、「必ず国威を恢弘 政断下る・途は一つ 信義を世界に失う勿れ」(内閣告諭)、社説「一億相哭相哭の秋」「再生の道は苛烈 決死・大試練に打克たん」などがあり、ポツダム宣言受諾までの経過については、「大権問題を慎重検討 受諾を決するまで」「ポツダム宣言全文」があり、十四日の御前会議については「国の焦土化忍びず 御前会議に畏き御言葉」「国体護持に邁進 親政厳たり随順し奉る」がある。(略)

八月十五日の紙面編集がどのような手順ですすめられたのか、残された資料は少ないが、後年、当時の整理部長だった杉山勝美が、読者の問いあわせに答えるため、整理次長で二面担当だった大島泰平らを招いて座談会を開き、「その結果、つぎのようなことがわかった」と社報・朝日人(昭59・8月)に書いている。
 (略)大島君の言うには、正午の玉音放送開始時刻に合わせて末松記者は皇居前に行って取材した。すぐ社に帰っていたが、感激のあまり筆が執りにくい状態であったという。
 この原稿を整理部に渡したのが十二時半ごろ。それから印刷におろして三時頃発送した。
 一面の詔書は交付が十四日午後十一時だったので、これは玉音放送前に入手できたが、文字にするのは十五日正午の放送以後ということだった。
 結局、普通の場合は前夜印刷するのだが、このようような緊急事態だったので、十五日は午後編集が終わって印刷、発送と夕刊なみの朝刊発行となった。
 発送も、当時の手不足から隣組組織を利用して、まず隣組に発送して読者の家にそれぞれ渡したものである。

「一億相哭の秋」余聞

2008-08-03 21:40:39 | 反戦基地
           
朝日新聞でみる世相50年非売品朝日新聞社(1972年刊)より
live doorハイクブログというサイトがある。ボクは投稿が多い方かも知れぬ。ボクを『お気に入り』に登録されている方に出会うと、感謝感激のあまり、なりふり構わず、駄句を返句したり「コメント」などを投稿している次第である。この「狸便乱亭俳句」若いお嬢さん方にファンが多いようだ。(ほんとうなのだ!!)

過日、8月が近くなったので、「敗戦忌」を詠んだ。
 人間の襤褸なりけり敗戦日    谷人
ボクはこれまで「人間襤褸」という詞を多用してきた。
これは、原爆作家大田洋子の著作名を流用したものであるが、爆撃に遭った惨状を表す詞はこれを措いて他に見つからぬ。ボクの町は1945年6月10日の空爆で500人以上の死者を出した。
 大津留公彦さんという方から返句とコメントを頂戴した。

実吼え夾竹桃いや盛る     大津留公彦
『小田実を偲ぶ会に出てテレビ番組を見てファンになりました。季語終戦日を敗戦日としているひ人を探してここに来ました。』

 有難い話である。
大津さんは『大津留公彦のブログ2』という硬派ブログを発信なされていて、このボクの愚句をサイトに紹介されている。
 その中で、ボクが書いた1945年8月15日付朝日新聞社説の全文までネットサイトから引用なされて、

日本にとって運命の日、1945年8月15日。終戦日の朝日新聞の社説です。ここには戦争への反省はありません。この社説に対しその後朝日はこれを否定する見地を表明したのでしょうか?
表明してなければ今それをやるべきでしょう。
過ちはどんなに時間がかかっても改めなければなりません。アジア民族解放の戦争であるとかこの言葉は難しいですがこの社説の立場は今のネット右翼の論調そっくりです。
戦前の立場のDNAをこの社説もネット右翼も見事に引き継いでいる。

と厳しく批判なされた。

 ボクは朝日新聞の代弁をするような立場ではないが、かつて朝日新聞社要職にあった畏友I氏から恵贈された
朝日新聞社史の「序」の一節を紹介しておきたい。

 
朝日新聞の百十一年の歴史は、その綱領にもうたわれましたように、私たちの先輩が、不偏不党の立場で言論の自由を貫き、正義に基づいて暴力や腐敗と闘い、真実を公正迅速に報道し、進歩的で中正な、また寛容で品位と責任のある評論を展開しようと、心を砕いて苦闘してきた足跡でもありました。しかし残念ながら、太平洋戦争の一時期などのように、この創刊以来の伝統が守り切れなかったり、逸脱して大きな汚点を残したりした事実も、消すことができません。
 その意味でこの『社史』は、いたずらに自社の業績を自画自賛する、お手盛りの履歴書では決してなく、客観的に誇れるものは誇り、同時に、過ちは過ちとして包み隠さず記述して、この冷静、客観的な史実の編集から、私たち朝日人の実りある反省と、将来への明るい展望を引き出せる、歴史的な〝教書″になれば、と願っております。

後期高齢者

2008-07-28 20:34:26 | 反戦基地
         

 町から『「○町長寿福祉計画・第4期介護保険事業計画」策定に関するアンケート調査 調査書在中』というA4版用の大型封書が届いた。(無作為抽出だそうである)
 質問の項目は分からないことが90%。一例を挙げれば、オレがいくら介護保険料を支払っているのか分からなかった。アンケートでは、「知らない」の項目にレ印を付けるのが、良いんだろうけれど、役場に問い合わせ初めて知った。
最後に、「その他要望事項」の欄がある。
 あまり大きな欄ではなかったが腹たち紛れにぎっしり書き込んだ。
聖路加国際病院理事長・日野原重明氏の朝日新聞「be」記事を引用した。

『まず、「後期高齢者」という老人に対して差別的ともえいるお役所用語を撤回してほしいことです。
近年、「老人」という呼び名は敬遠されて「高齢者」が一般的になっています。しかし「老」という言葉は、「長老」「老師」など尊敬の念をこめた言葉に使われています。老人の「老」は、長い人生の過程で得られた知恵を持つことを意味しているのです。
65歳以上を老人としたのは半世紀も前のことで、当時の日本人男女の平均寿命は70歳にも満たなかったのです。現在では80歳を超えています。老人という用語を適用する区分を底上げして75歳以上としても差し使いないと思います。
後期高齢者医療制度導入後に75歳以上の人が払う保険料は、低所得者ほど本人負担が増すと言う実態が、最近の厚生労働省の調査で報告されています。さらなる不平等を生む現行のやり方は廃止されなければならないと思います。』


 書き込み欄が小さいのでここまでで打ち切った。
書きたかったのは次の事である。

しかし、高齢化傾向は今後ますます進み、老人にかかる医療費が増え続けることは明白です。付け焼き刃な制度で国民に負担を強いる前に、もっと工夫の余地はあるはずです。
一つの提案として、自衛隊の維持費や駐留米軍への思いやり予算など軍事にかかる費用の一部を回してはいかがでしょうか。 平和憲法を守るためにも、よいアイデアだと思います。
戦後、日本は戦争を否定して平和憲法を作るという思いきった政策を打ち出しました。平和を目指すことにおいて世界の先端を走るという憲法上での約束を実践することに、今後も国の運命をかけるべきです。暴力による生命の破壊の続く今日の世界にあって、日本人の健康問題も平和への国家的行動と関連づけて考えるべきなのです。