狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

深秋

2006-09-24 21:09:42 | 博物館

木犀が匂っている。この木犀が匂う季節になると、昔は(平成元年ごろ迄)山に「初茸」が出たものだ。今は全くない。部屋の古本を探していたら大正時代の貯蓄債券が本の間に挟まっていた。この本は、大正14年11月発行の郷土史である。妻の実家から頂いたものである。

券債蓄貯興複→復興貯蓄債券
圓五金→金五圓
1 本債券ノ発行ニ依ル収入金ハ震災地ノ復興及地方産業ノ振興ノ為必要ナル用途ニ之ヲ融通スルモノトス
1 本債券ノ利子ハ一箇年四分ノ半箇年複利計算ヲ以ッテ据置キ償還ノ際元金ト同時ニ下表ニ依リ之ヲ支払フモノトス

株式会社 日本勧業銀行
大正拾四年拾月 総裁□□□□ 印


  償還期月  支払利金額          償還期月    支払利金額
1 大正15年2月 金5銭     19 大正24年2月  金2円21銭
2 大正15年8月 金15銭     20 大正24年8月  金2円35銭
3 大正16年2月 金25銭     21 大正25年2月  金2円50銭
4 大正16年8月 金35銭     22 大正25年8月  金2円65銭
5 大正17年2月 金46銭     23 大正26年2月  金2円80銭
6 大正17年8月 金57銭     24 大正26年8月  金2円96銭
7 大正18年2月 金68銭     25 大正27年2月  金3円12銭
8 大正18年8月 金80銭     26 大正27年8月  金3円28銭
9 大正19年2月 金91銭     27 大正28年2月  金3円45銭
10 大正19年8月 金1円3銭     28 大正28年8月  金3円61銭
11 大正20月2月 金1円15銭     29 大正29年2月  金3円79銭
12 大正20年8月 金1円27銭    30 大正29年8月  金3円96銭
13 大正21年2月 金1円40銭    31 大正30年2月  金4円14銭
14 大正21年8月 金1円53銭     32 大正30年8月  金4円33銭
15 大正22年2月 金1円66銭     33 大正31年2月  金4円51銭
16 大正22年8月 金1円79銭    34 大正31年8月  金4円70銭
17 大正23年2月 金1円93銭    35 大正32年2月  金4円90銭
18 大正23年8月 金2円7銭     36 大正32年8月  金5円

火野葦平について

2006-05-12 21:49:44 | 博物館

『声の残り――私の文壇交遊録』 ドナルド・キーン著/金関寿夫訳  朝日新聞社
1992年4月から7月まで、57回に亘って朝日新聞に連載されたものである。

半世紀以上にわたり日本文学・文化の研究に打ち込んできた著者が出会った第一線の作家たち―谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、大岡昇平、有吉佐和子、開高健、司馬遼太郎、大江健三郎、安部公房ら18人との個人的な交友をふりかえり、当時の書簡なども交えながら温かい筆致で綴ったエッセイだが、その手始めは火野葦平であった。

>(略)火野が米国国務省の招きでアメリカを訪れたとき、私は初めて彼にあった。まず猪熊弦一郎の展覧会場で落ち合って、そのあと、私は彼をフランス料理店に案内した。席についたあと、火野は大きな手拭を懐中からおもむろに取り出したが、それは赤と青で、河童の絵が描いてあった。そしてそれでもって、派手な身振りで自分の顔と首を拭いたものだった。私は元来、公共の場所で目立つことを嫌うたちだ。今相客の目を引き付けているのは自分ではないとは知るものの、恥ずかしくて、身もすくむ思いであった。

次に給仕が、フランス語のメニューを持ってきた。火野はそれに書いてあるすべての品目を日本語に訳せ、と私に云うのだった。私はベストを尽くしてやってみたが、その間給仕がそばに立って、じっと私たちを見ているのだった。火野はやっと何を注文するか決めたけれど、そのあとで何回か変わった。スープが出て来ると、彼はそれを大きな音をさせて啜ったが、その音たるや、ほとんどナイアガラの滝音にも負けぬくらいであった。私の当惑が倍増したこと、それは言うまでもない。

その晩火野と別れてから、私は自分の狭量な、プチブル根性がいやになった。火野が手拭で汗を拭ったり料理の注文にたっぷり時間をかけて、一体それのどこが悪いのだ、と私は自分に訊いてみた。しかしそのもう少しあとになって、彼は単純素朴な一庶民の役どころをわざと演じて、自作に登場する兵隊を地で行こうとしたのではないか、という考えが、頭に浮かんだ。

米国国務省の招待を受け入れはしたけれど、だからといって自分は、魂までアメリカさんに「買われた」のではないことを証明しようと火野は心に決めていたようである。そして彼は、アメリカでの日本人相手の講演会で、あの悪名高いバターンの死の行進は、全く根も葉もない作り話だと聴衆に告げることと、終始アメリカ生活の、暗くて、いやな面のみを強調した一冊の本を書くことによって、その心意気を見せた。

何処かの墓地から、ニューヨークの高層ビル群を眺める図柄の表紙にくるまった彼の本を読んで、この一向にわけの分からない、多分心のどこかに深い屈曲を持つ人間についての、私の分裂した気持ちは、むしろ一層深まっていくばかりだった。







木炭車とカツ丼の話

2006-02-25 22:03:48 | 博物館

年表を紐解くと、当時の主な出来事は次のようになる。

昭和22年(1947年)山口判事餓死
昭和23年(1948年)帝銀事件・太宰治情・東条・広田ら7名絞首刑
昭和24年(1949年)光クラブ学生社長自殺
昭和25年(1959年)泉山三六参院議員当選・朝鮮戦争
昭和26年(1960年)講話条約  

 特にこれ等の事件を検証するために、列挙したのではない。小生が生れて初めて「カツ丼」を食べた年の舞台装置を作ってみたに過ぎない。そしてこの年表最後の昭和26年ごろまでは、木炭自動車が確実に走っていたことの証明にしたいからなのだ。

∵←なぜならば。小生が自動車免許を初めて取ったのが、昭和26年半ばで、その前年、品川区の鮫洲自動車運転免許試験場に行って試験を受けようとした事実による。
そのとき試験場隣の民間経営の教習場で木炭車のトラックで1時間いくらの料金を払って練習をしたのだ。所有トラックは、全車が木炭車で、狭い練習コースを右往左往していた。
 練習だけはやったけれども、理由は分からないが、小生はそこで試験を受けた記憶がない。 免許証は本籍県の試験場で取得した。

 鮫洲での木炭車の運転練習では、運転席同乗の指導員から「うまいなあ、君は。」と褒められたこと。そしてそのときの昼食は、試験場前の大衆食堂で「カツ丼」を食べた記憶にはまず間違いないからである。  
 
 木炭車のエンジンといっても、知らない人が多いと思うので概略の構造を説明すると、エンジン本体は普通ガソリンエンジンである。但し燃料がガスであるから、キャブレター(気化器)を必要としない。
 木炭(薪を使用した装置を薪炭車といった)ガス発生炉→遠心分離機→清浄濾過器を通って導かれた木炭ガスと、途中から空気量を調整する弁が運転席のチョークボタンに連結されて、ガスの濃度を一定にしてエンジンを回転させるだけのことである。

 しかしだが、平均速度で走行中はそれほど空気量を調整する必要はないけれども、試験場のコースのようなところで、アイドリングやカラふかしを何回も続けていると、ガス濃度が絶えず変わるので、運転者はエンジンの調子に対応して、チョークボタンを手動によって微調整しなければならなかった。それは理屈ではない。パソコンのように熟練する以外に習得はできないことだと思う。 小生の無免許熟練度は非常に高かったのである。

 かくして規定の練習時間を終え、昼食は試験場前の大衆食堂へ駆け込んだ。田舎育ちの小生は、品川まで来る道順すら、メモにしてやっと辿りついた位である。 昼飯のメニユーまでは教わってこなかった。 

食堂は身動きできないほど混み合い、客はてんでに「カツ丼!」「カツ丼!」「カツ丼!」と大声で注文していた。 小生も右に倣って「カツ丼!」と注文した。しかし、カツ丼とはどんな食べ物なのか、名前を聞いたのも、現物を見たのも、生まれて初めてだったのである。

  

 写真は「大日本機械工業製マキ自動車1940年モデル 岡崎周氏提供」とあるIEから引用させて頂いたが、小生がこのとき乗ったトラックと、ほぼ同型車のようだ。

 1940年式車体は戦前のトラックである。

 

 


メチャラクチャラ博士の迷講義

2005-12-29 15:25:06 | 博物館

   滑稽大學メチャラクチャラ博士について
            (75歳以上の方優先:18歳未満の方要解説者)

 同じ町内に住む、ブロ名平 落人氏が
<いんごう【いんごう】 について辞書で調べたら結果は次の…etc   「因業」 「印形」 「印章」 「はんこ」 「印鑑」 「みとめ」等々。 言葉・名称の意味が記載されているものばかりで期待はずれ!

 僕が知りたい(語源)を調べるにはどうしたらいいのかな…?知ってる方は コメントorトラバ よろしくね!!

 僕の知識では「はんこ」の歴史で呼び名が、当初は「印形」に始まり時代が変わるとともに名称も、順にかわって今に至っているらしいが調べた記憶がないので自信はないんだ。 又、その語源は、「印形」は文字がすべて反対に彫ってあり、捺印して正常な文字になるために、(わからずやで何でも反対する、じじい)のことを例えて(いんごじじい或いは、いんごおやじ)と言うとか…? 語源は「いんぎょう」が「いんごう」となり更に訛って「いんご」になったと以前、博学老人に教えられた。 これで正しいのか、完璧な解答が知りたい。> 
とブログhttp://blog.goo.ne.jp/hekkonet_gg96/
に書き込んできた。そしてその研究結果をTBで送ることを約した。
次がその研究成果である。

 大言海(語源に詳しいとされる辭典)大槻文彦著・冨山房 によれば、

いんごう(名)因業 ①因ト業ト。(因縁ノ條ヲ見ヨ。劉禹錫・碑廣禅師「佛以大慈救諸苦廣起因業故劫濁而益專」 ②頑ナニシテ。苛キコト。心ネヂケテ、情ノナキコト。(悪業ニ因リテ然リトスル意)苛酷「いんごふナ翁(オヤジ)。とあります。

これが正確な語源でしょう。 「いんぎょう」が「いんごう」となり更になまって「いんご」になったとする博学老人は、恐らく
「滑稽大學」(少年倶楽部・大日本雄弁会講談社発行)学長メチャラクチャラ博士の講義から出た学説だと思います。

太宰治「人間失格」に次のようなことが書かれています。
<自分は毎月、新刊の少年雜誌を十冊以上も、とっていて、またその他にも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染(なじみ)で、また、怪談、講談、落語、江戸小咄(こばなし)などの類にも、かなり通じていましたから、剽軽(ひょうきん)な事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。」 

(註)ナンジャモンジャ博士(略称ナ博士)は少女倶楽部担当教授である。

<少年倶楽部のこの学長「メ博士」(メチャラクチャラ博士の略称)は、実在人物「千葉耕堂氏(故人)」であり、大正十五年の4月号に、「滑稽大學創立10周年記念祭」というにぎやかな催しが展開された。この催しの呼び物として、少年倶楽部から滑稽大學学長メチャラクチャラ博士に銅像が贈られ、その写真口絵が巻頭を飾っている。
 銅像は、当時彫塑会の若き俊英杉本宗一氏(後に日展審査員)によって製作され、日本美術院審査藤井浩祐先生によって完成したものである。その口絵写真の説明文に曰く、
 このたび滑稽大學創立10周年記念祭を挙げるにあたり、創立以来十年一日の如く縦横無尽の頓知奇知を揮って読者に「笑いの学問」を授けられる我が親愛なるメチャ博士の偉大なる功労を表彰せんが為に、茲に銅像を建てて博士とその知恵袋の英姿を永久に祈念せんとす。冀くは博士の禿頭いよいよ輝きを加えて、少年の心を絶えず明るき笑いの中に照らし給え。弥栄 弥栄。 

 次はその講義内容の1こまである。
(問)メ博士、一大難問を呈す。ある人が東京駅で十銭白銅を出して、「北京まで下さい」といった。さあメ博士ならどこ行きを差し上げるか、そんなにふるえていると、上から刀が落ちてくるよ。(東京 土井正雄 特賞1円図書券贈呈)
 これははたして子どもの投書だろうか。当時少年倶楽部は家中の人にも読まれていたので、大人にも子供にも人気のあった滑稽大學につりこまれて、「どれどれ」と、こっそり投書した親父さんもいたようだ。

(答)ヘン、一寸考えたナ。北京まで下さいといったら信濃町(支那の町)行の切符をやればよいのじゃ。特賞に慢心してなまけてはいかんぞ。「少年倶楽部時代 編集長の回想 加藤謙一 講談社」より。


皇国史観

2005-10-12 08:28:02 | 博物館

皇国史観 (クワウコクシクワン)国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国として描く歴史観。十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた。      [広辞苑第5版]

第五十三 今上天皇の即位

【天長節】第百二十四代今上天皇は、大正天皇の第一の皇子にましまし、明治34年4月29日に生れさせたまふ。

大正5年御年16歳の時、立太子の禮を挙げさせられ、ついで内外多事の間に、摂政の御重任をはたしたまへり。

【天皇踐祚したまふ 昭和元年】先帝崩御の日、天皇ただちに踐祚し、年号を昭和と改めらる。やがて文武百官を召して朝見の儀を行はせられ、かたじけなき勅語を賜ひ、すべて着実を旨とし、みづから工夫することにつとめて、日に日に人文を新にし、国民一体となりてますます国家の基礎を固くし、又広く世界の人々と交を厚くせよと仰せたまへり。

【御大葬の儀を挙げたまふ】昭和2年1月先帝に大正天皇のご追号をたてまつり、2月御大葬の儀を挙げたまひて、多摩の御陵にをさめたまふ。

【天皇即位の礼を挙げたまふ】先帝の諒闇終りて、昭和3年11月10日即位の礼を京都の皇宮にて挙げたまへり。この日天皇御みづから賢所を拝して、皇祖天照大神に御即位の由を告げたまひ、ついで紫宸殿に出でまし、高御座にのぼりて、あまねく之を臣民に宣したまふ。実にならびなき盛儀にして、国民ひとしく万歳をとなへて、之を賀したてまつれり。ついで大嘗祭を行ひたまひ、天皇親しく天地の神々をまつりたまへり。

【かたじけなき勅語を賜ふ】紫宸殿の儀に於て、天皇の賜ひし勅語の中に、御歴代の天皇は、皇祖皇宗の大御心をうけつがれ、わが国を御家として万民を愛撫したまふこと、あたかも慈母の赤子に於けるが如く、万民また互いに心をあはせ、天皇を国の御親とあふぎたてまつりて、忠誠をつくし、君民一体となりて今に及べり。これ実にわが国体の精華にして、まさに天地と共にきはまりなかるべしと仰せたまへり。まことにかしこき極ならずや。

【国民の覚悟】今や、我が国は五大国の一として、世界に於ける重要な地位を占む。これ実に御歴代天皇の御盛徳と、国民世世の忠誠とによれり。さればわれ等国民は、よく国運発展の由来をつまびらかにし、おのおのその業に励み、一致協力してますます国家の富強をはかり、進んで世界平和の為に力を尽くし、以ってわが国史に一層の光輝を加へざるべからず。

尋常小学国史 下巻 終
        [尋常小学国史 文部省 東京書籍昭和2年(1927年)発行
(註)この尋常小学国史は小学5~6年用教材である
[参照] 
高等学校最新日本史  朝比奈正幸 小堀桂一郎 松村剛 国書刊行会(のち明成社に版権譲渡)
新しい歴史教科書新訂版  西尾幹二ほか13名 扶桑社
検定不合格日本史  家永三郎  三一書房

 



軍神その3

2005-09-07 21:59:47 | 博物館
 第二十七 橘 中佐
 敵は山によりて陣地を固め、盛んに弾丸を打出す。我が兵これを物ともせず、敵陣目がけて突撃すれば、敵は剱の林を以って我を迎ふ。橘中佐、真先に立ちて敵中にをどり入り、忽ち三人を斬倒す。
 敵の弾丸、雨あられの如し。中佐、すでに右手に傷を受けたれども、左手に軍刀を振るひて、部下の兵士をはげましはげまし、遂に日章旗を山上に立つ。時は明治三十七年八月三十一日、朝日のいまだ上らざる頃なりき。
 敵はこれを見て、三方より盛に大砲を打ちかく。いかに心は堅くとも、身は鉄石にあらざれば、砲丸に倒るゝ兵士数知れず。敵はすかさず、更に新手を加へて攻来る。中佐は大音に、
「一度国旗を立てたる此の高地、全滅すとも敵の手に渡すな。一歩も退くな。」
と叫びて、敵を撃退すること数度。中佐すでに第二弾を左手に、更に第三弾を腹部に受けたれども、少しもひるむ色なく、なほ奮戦を続けたり。忽ち砲弾の一破片、その腰にあたり、中佐は、どうと其の場に倒れたり。
 かたはらにありし内田軍曹は、急ぎ中佐をざんがうの内に助け入れて介抱す。戦ますます烈し。中佐、目を見張りて、軍刀を杖に立ち上らんとす。軍曹、中佐を背負ひ、弾丸の下をくぐりて、けわしきがけをかけ下りる。
 ほっと一息つく折から、飛来る一弾、又も中佐の胸を貫ぬき、軍曹の胸をも貫ぬく。二人は一度に打倒されて気を失へり。
 吹く朝風に、中佐も軍曹も、ふと我にかへれり。軍曹、かたはらにありし負傷兵と共に、中佐をいたはる折から、敵の突撃の声盛に聞ゆ。陣地は再び敵に取返さるゝにあらずや。中佐は言へり。
「残念なり。多数の部下を失ひて占領したる陣地を取返さるゝか」。
と。更に形を正して言へり。
「今日は、我が皇太子殿下の生まれ給ひし日なり。此のめでたき日に一身を君国に捧ぐるは、まことに軍人の本望なり」。
と。静かに両眼を閉ぢつゝ、聯隊長・将兵の安否を次々に尋ね、ほとんどおのれの苦痛を知らざるもの如し。
 中佐の全身は次第に冷えぬ。日も暮れんとする頃、
 「軍刀はあるか」。
の一語を最後として、遂に息絶えたり。
 橘中佐は、平生志堅く、勇気に満ちたる軍人にして、上を思ひ、部下をあわれむ心深かりき。此の平生の行ありて、此の壮烈なる死を遂ぐ。中佐が多数の戦死者中、特に軍神とあがめられるもうべなりといふべし。

 これは著作権発行者・文部省の「尋常科用小学国語読本巻九」の軍神の教材である。 此の巻九という国語読本は、小学生五年用後半学期の国語教科書をさす。
 此の文を読んで、今のみなさんにはどう映るのだろうか。

 戦争についていえば、遠くイラクの方まで、全く目的のない戦争に派遣されている多数の日本の自衛隊員。其の家族。日本国内ではそんなこと一向構わず、郵政民営化一点張りの政争真最中。教師は児童にこれを何と教えるのだろう。
 お目出度いことである。

 軍神広瀬中佐は50歳代の人なら大概知っていると思っていた。しかし真珠湾攻撃の9軍神を知らない老人たちが大分多くなってきたことを考えると、小生は今回の選挙が益々投票がバカらしくなるのであった。

 改めて軍神について考える。
 《軍神とは軍功をたてて戦死し軍人をいうが、公的な定義はない。歴史的には日露戦争の際の広瀬武夫海軍少佐と橘周太郎陸軍少佐(死後ともに中佐)を出版物が軍神と称えたことが始まりで、広瀬武夫海軍少佐は、広瀬神社に祭られている。

 乃木希典や東郷平八郎も死後、神社に祀られ軍神とされた。
 だが、その大半は、軍部に盲従し、戦意高揚のキャンペーンを行い、国民を戦争に駆り立てるとともに、大本営発表をもとに虚構の報道で国民大衆を欺いたケースが多い。新聞・ラジオを代表とするマスコミが「軍神報道」を続けるうちに、特定の戦死者が軍神と祭り上げられていったケースが多い。

 しかし(昭和13年)5月、日中戦争最中の徐州作戦で戦死した「西住戦車隊」の西住小五郎戦車長(死後大尉)以降は、軍が公式に軍神を指定するようになった。
 太平洋戦争期には2階級特進の措置がとられ、特殊潜航艇で真珠湾を攻撃した「9軍神」屋「空の軍神」加藤建夫(加藤隼戦闘隊長)らが有名である。》

 これはインターネットを使って「軍神」を検索したその1部である。
タイトルが「軍神一口メモ」とあって署名はない。《参考文献:牛島秀彦著『九軍神は語らず 真珠湾特攻の虚実』(光人社NF文庫)》

 靖国神社は満州事変1万7176柱、日中戦争19万1250柱、大東亜戦争213万3915柱
の英霊を祀る。其の中で「軍神」といわれるお方は幾柱おられることだろう。

名車語り部

2005-08-20 21:15:37 | 博物館
神代の事は悠遠邈乎容易に窺い知りません。
――これは私だけが知っている物語です。
秘め事です。
天照大神様が天の岩戸にお篭りになったときの事でございます。
高天原皆暗く、葦原の中つ国は悉に闇になってしまいました。
このとき八百万の神様が天の安の川原に神集いに集い
神諮り諮り給いました。

闇夜でも安全に物を運んだり、
やんごとなきお方を乗せて運ぶ便利なものはないかと…。

高御産巣日神様のお子さんに聡明な神様がおられました。
御名を思金神(オモイカネノカミ)とまおしあげます。
「皆さんにまおし上げます、クルマという丸いワッパを4個つけて、
それをまわすのに、天手力男神(アメノタジカラオノカミ)の心の臓を切り取り、
その原動力にすれば事足りるでしょう―。」

悠久とはいうものの、
僅かそれから二千有余年、
日本国を脱兎のごとく走るクルマという機械が出来たのでありました。