(消息筋談話)
さる古書店の紙くずの中から、《恐れ多くも葦原帝が在院中皇位継承の将来を憂慮遊ばされ、自ら渙発せられていた詔書》なるものを発見した。勿論贋作である確率は極めて高いのではあるけれども、皇位継承問題が真剣に論議されているおりから、その将来観の正確さを検証すれば、「皇室典範に関する有識者会議」もあながち狂人・奇人の戯言と無視することも出来ないものと思われるという。
贋説葦原帝勅語
大日本帝国ノ国体ヲ護持セムトスル任ハ極メテ重シ偏ニ汝ラ有識者学識者ノ双肩ニ在リ汝ラスベカラク古今ノ史実ニ典拠シ余カ事跡ニ鑑ミ其ノ思索ヲ深メ識見ヲ高メ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気ヲ養ヒ決シテ軽重浮薄ノ法ニオチイラス以ッテ負荷ノ大任ヲ完遂セラレンコトヲ祈ル
(ここからは真説)
葦原将軍の履歴は小田晋著「日本狂気誌」によると
芦原将軍は嘉永3年高岡藩士の3男に生まれた。櫛問屋に奉公しているうち発病、清国の高官李鴻章に合わせろと交番にかけあい、「我は正3位芦原将軍藤原諸味なるぞ」と見得を切った。すぐさま東京府顛狂院に強制入院せられ、在院実に56年、昭和12年2月2日87歳で死去した。
墓は世田谷の豪徳寺にあり諡号を「至天院高風談玄居士」という。
またかつて弟子入りした櫛問屋の菩提寺である埼玉県深谷市の東源寺にも分骨され、こちらには櫛型の墓が立てられた。「狂聖」と墓碑銘にある。-狂聖・芦原将軍探索行-出久根達郎。
なおボクは広辞苑第5版には「狂聖」も「芦原将軍」の記述はないと書いた。
しかし昭和6年11月発行の平凡社大百科事典第一巻には
「アシワラショーグン 葦原将軍」の綿密な記載がある。この巻頭に掲げてある「凡例」の第6項「人名の扱い方」には、
「1、現存人物の伝記は国宝的人物のみをあげるに止め、今後の活動がまだその人を成長せしむるであろうと思わるる人々は、大人物であってもこれを採録しなかった。ただし外国の現在人物はこの限りでない」とあるから、葦原将軍は国宝的現存人物と認定されたと、この本には書いている。
ただし戦後編纂の同百科事典には、芦原将軍の記述はない。
※ 芦原、葦原と混用したのはボクの責任ではない。
さる古書店の紙くずの中から、《恐れ多くも葦原帝が在院中皇位継承の将来を憂慮遊ばされ、自ら渙発せられていた詔書》なるものを発見した。勿論贋作である確率は極めて高いのではあるけれども、皇位継承問題が真剣に論議されているおりから、その将来観の正確さを検証すれば、「皇室典範に関する有識者会議」もあながち狂人・奇人の戯言と無視することも出来ないものと思われるという。
贋説葦原帝勅語
大日本帝国ノ国体ヲ護持セムトスル任ハ極メテ重シ偏ニ汝ラ有識者学識者ノ双肩ニ在リ汝ラスベカラク古今ノ史実ニ典拠シ余カ事跡ニ鑑ミ其ノ思索ヲ深メ識見ヲ高メ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気ヲ養ヒ決シテ軽重浮薄ノ法ニオチイラス以ッテ負荷ノ大任ヲ完遂セラレンコトヲ祈ル
(ここからは真説)
葦原将軍の履歴は小田晋著「日本狂気誌」によると
芦原将軍は嘉永3年高岡藩士の3男に生まれた。櫛問屋に奉公しているうち発病、清国の高官李鴻章に合わせろと交番にかけあい、「我は正3位芦原将軍藤原諸味なるぞ」と見得を切った。すぐさま東京府顛狂院に強制入院せられ、在院実に56年、昭和12年2月2日87歳で死去した。
墓は世田谷の豪徳寺にあり諡号を「至天院高風談玄居士」という。
またかつて弟子入りした櫛問屋の菩提寺である埼玉県深谷市の東源寺にも分骨され、こちらには櫛型の墓が立てられた。「狂聖」と墓碑銘にある。-狂聖・芦原将軍探索行-出久根達郎。
なおボクは広辞苑第5版には「狂聖」も「芦原将軍」の記述はないと書いた。
しかし昭和6年11月発行の平凡社大百科事典第一巻には
「アシワラショーグン 葦原将軍」の綿密な記載がある。この巻頭に掲げてある「凡例」の第6項「人名の扱い方」には、
「1、現存人物の伝記は国宝的人物のみをあげるに止め、今後の活動がまだその人を成長せしむるであろうと思わるる人々は、大人物であってもこれを採録しなかった。ただし外国の現在人物はこの限りでない」とあるから、葦原将軍は国宝的現存人物と認定されたと、この本には書いている。
ただし戦後編纂の同百科事典には、芦原将軍の記述はない。
※ 芦原、葦原と混用したのはボクの責任ではない。