狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

彼の自分史の中から

2009-10-31 18:07:38 | 老年阿呆塾
           
20歳代
彼は貧乏百姓の小倅だった。母親は彼が7歳のとき33歳の若さでこの世を去った。だから、惨めな少年時代を送った。
 この年代の後半運送やを始めた。お金がなくても創められる職業だった。
∵(なぜならば)この商売を始めるための設備、必要品すなわち貨物自動車(トラックともいう)は、約束手形という紙切れを何枚も書けば、容易に月賦にて購うことが可能だったからである。
 当時約束手形は、銀行取引がなくても、文房具店に売っている「コクヨ」の手形用紙でいくらでも発行出来た。
           
30歳代
運送やは、客から依頼された品物を運んで報酬を得る単純な商いだが、この職業には雁字搦めの規制があった。(今考えると捜せばいくらでも抜け道がある、バカバカしい項目ばかり並べたものである。)「免許事業」という特殊事業で、法人でなければ許可されなかった。
しかもこの免許を得るには政治家の口利きが必須条件ともいわれていた。
彼はこの歳この難関規制を突破した。永田町の議員会館に地元選出議員を訪ね陳情した事も数回に及ぶ。それまでは、「もぐり」の運送やを続けてきた。申請にもぐりの実績を必要とした。
彼は会社を設立し代表取締役になった。その肩書きをつけた名刺を作った。有頂天になってその名刺をばら撒いて歩いた。
彼は『30歳』という題で小説を書こうと思った。
当時彼は、太宰治に傾倒していた。「斜陽」という小説が雑誌「新潮」に載ったころである。
31歳の時現在の妻を迎えた。妻はそれまで貧乏生活の経験がなかった。彼女は某女子高の教師だったが、「なこうどぐち」の口車にのってこの不幸な人生航路にのめり込んでしまったのであった。
小説はものにならなかった。 
           
40歳代
隣市に大手建設会社の商業ビル建築工事が続いた。偶然工事用の足場に使う杉丸太の運送を工事現場主任から依頼をうけたのが取引の始まりである。
順調な滑り出しだった。車両も次第に増え続けた。
代表取締役とは社長ということだが、この社長は自らトラックの運転手を兼ね、営業労務庶務すべてを一人でこなした。
税務署が一番おっかなかった。当時の税務署は弱いものから税金をとる為、しばしば調査にやってきた。小さな運送店の不正経理は、つつけばいくらでもボロが摘発できたからである。調査官にはそのたび最上級の「カツ丼」の食事を振る舞った。
こんどこそはと、『40歳』の題名を原稿用紙に書いた。『大葉雅八朗』というペンネムまで考えた。しかし一枚も書けなかった。
           
50歳代以降
定年のない職業だった。やる気があれば死ぬまで働けたかもしれない。またそのつもりで彼はいた。歳をとることなど念頭になかった。
運送会社といっても、北海道だとか関西・九州界隈までものを運んだことはない。
関東一円、遠くて横浜ぐらいか。だから彼にでも出来たようなものである。
得意先も大手建設会社だったことが、彼の人生を大きく支えてくれた。
(もちろんNAIJOの功あってのことである。)
ワープロ書きの時代になり、原稿用紙は要らなくなった。経理は「エクセル」任せである。
パソコン購入は、全額会社経費として落とせた。
しかし小説『50歳』が、モノにならなかったことは云うまでもない。
 デーゼル排気規制で、首都4県への往来が出来なくなり、過大な出費を重ねるか、廃業するかの道を選ばねばならなかった。
彼は後者を決断した。
残された産業廃棄物の山。
仮設ハウス、移動可能ハウス2棟、工事資材、バタ角など、今日まで持ちこたえてきた。元得意先建設会社の残材が大半である。3日間で全部搬出し処分し終えた。
4トントラック延べ6両。作業人員延べ20人。
費用は、元得意先の大手建設会社が全額負担してくれた。
単管パイプと敷鉄板数枚が残っているだけである。
彼の人生はこれで終わった訳ではない。しかし彼は、片付け終えて更地になった資材置き場に佇って、今更のように過去を振り返り、彼を支えてきてくれた心の友人達(ブロ友を含め)に、しみじみと感謝の祈りを捧げるのであった。

天壌無窮の御神勅

2006-09-03 09:19:35 | 老年阿呆塾

     「老年阿呆塾」 入塾試験
  老年阿呆塾応募資格概要
国籍、年齢、学歴、所得額、所属政党・宗教団体など当塾入試選考の対象にはならず。
但し、敬老会さ行って、演芸会を楽しむような爺さん婆さんは、予め入塾を拒否される事を覚悟の上応募せられたし。       ―塾長談話。

     2006年実施 口頭試問
試験場は〝阿呆塾1号学習教室〟。教室は学習机は部屋の片隅に片付けられ、ガランとして床が広く見えた。窓を背に試験官と、塾長らしい大男が椅子に腰を下ろしている。向かい合わせの椅子に受験生である小生が座った。
試験官「『天壌無窮の御神勅』を暗誦しなさい。
受験生は、座ったまま昔小学校で習った御神勅を目を瞑って徐に暗誦しはじめた。
最後のところを「
…アマツヒツギノ、サカエマサムコト、マサニ、アメツチトトモニ、キワマリナカルベシ。」と諳んじた。
試験官「その意味を言えなさい。」
受験生「(起立して、不動の姿勢をとった。)畏くも万世一系の天皇陛下に於かせられましては、天と地がある限り、永遠にお栄えするでありましょう。」
試験官「座っても宜しい。この御神勅を暗誦して、どんな感じがしますか。」
塾長らしい男は、黙って目の前の紙に評価を記入した。


既にして、天照大神、思兼神(おもひかねのみこと)の妹萬幡豊秋津媛命(いろもよろずはたとよあきつひめのみこと)を以て、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)に配(あは)せまつりて妃とし、葦原中国に降しまさしむ。
是の時に、勝速日天忍穂尊(かちはやひあまのおしほみみのみこと)天浮橋に立たして、臨睨(おせ)りて曰はく、「彼に地は未平げり。不須也頍傾凶目杵之国(いなかぶししこめきくに)か」とのたまひて、乃ち更に還り登りて、具に降りまさざる状を陳す。
故、天照大神、復武甕槌神(またたけみかづちのかみ)及び經津主神(ふつぬしのかみ)を遣して、先づ行きて駈除はしむ。
時に二の神、出雲に降到りて、便ち大己貴神(おほあなむちのかみ)に問ひて曰はく、「(いまし)、此の国を将て、天神に奉らむや以不や」とのたまふ。
 対へて曰さく、「吾が児事代主(ことしろぬし)射鳥遨遊して、三津の碕に在り。今當に問ひて報さむ」とまうす。
乃ち使人を遣して訪ふ。対へて曰さく、「天神の求ひたまふ所を、何ぞ奉らざらむや」とまうす。
故、大己貴神、其の子の辞を以って、二の神に報す。二の神、乃ち天に昇りて、復命をもて曰さく、
「葦原中国は、皆已に平け竟へぬ」とまうす。
時に天照大神、勅して曰はく、
「若し然らば、方に吾が児を降しまさむ」とのたまふ。旦将降しまさむとする間に、皇
孫、已に生まれたまひぬ。号(みな)を天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と曰す。
時に奏すこと有りて曰はく、
「此の皇孫を以って代へて降しまつらむ」とのたまふ。
故、天照大神乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八坂瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙劒、三種の宝物を賜ふ。
又、中臣の上祖天児屋命
(あめのこやねのみこと)・忌部の上祖太玉命(ふとだまのみこと)・猨女の上祖天鈿女命(あまのうずめのみこと)・鏡作の上祖石凝姥命(いしこりどめのみこと)玉作の上祖玉屋命(たまのやのみこと)凡て五部の神を以て、、配へて侍らしむ。
因りて、皇孫に勅して曰はく、

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、當に天壌と窮り無けむ」

(あしわらのちいほあきのみずほのくには、これ、あがうみのこののきみたるべきくになり。いましすめみま、いでましてしらせ。さきくませ。あまつひつぎのさかえまさむこと、まさにあめつちときわまりなけむ)

とのたまふ。已にして降りまさむとするあいだに、先駆の者還り白さく。「一の神有て、天八達之衢(あまのやちはた)に居り。其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り。t當に七尋というべし。(日本書記神代下第九段)日本古典文学大系:岩波書店

   瑞穂の国「日本」