狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

憂国忌

2008-11-26 21:12:19 | 怒ブログ
            
この「檄」は以前にも投稿したやも知れず。ただし写真(上)は、三島由紀夫全集34新潮社版「限定1000部」(全35巻 補巻1)の巻頭写真をコピーしたものである。
下は朝日新聞「時時刻刻」2008年11月12日付
『田母神前空幕長』″文民統制 欠けた資質″を引用した。
                

 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 
  われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
 政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。

  もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 
  四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは小数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 
  しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。
その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自身を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
 
  銘記せよ! 
 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつて悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。
 これ以上のパラドックスがあらうか。

  われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。
 
  しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン・コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。

  しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。

  沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?
 アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。
 
  われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。
 しかしあと三十分、最後の三十分待たう。
 共に起つて義のために共に死ぬのだ。
 
  日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。
 
  もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


讃麻生総理

2008-11-19 21:06:41 | 怒ブログ
 
麻生太郎首相は19日、首相官邸で開かれた全国知事会議で、地方の医師不足問題に関連し、「地方病院での医者の確保は、自分で病院経営しているから言うわけじゃないが大変だ。社会的常識がかなり欠落している人(医者)が多い。とにかくものすごく価値観が違う」と述べた。

 首相の発言は、地方病院の勤務医不足を問題視したものだが、今後波紋を呼びそうだ。日本医師会などが反発する可能性もある。


 深夜、更新のため、livedoorblogのサイトを開いたら、サイドバーのニュースの冒頭にあった内容である。ずいぶん思い切った発言であり、ズバリボクは喝采を送った。下降気味の内閣支持率が首相の発言で一挙急上昇すのではないかとさえ思ったくらいだ。
 もちろん医師全部が「社会的常識」の欠落者でないことは間違いあるまい。
しかし、医師にはそう思っている方はいないだろうが、大方の一般大衆は首相の発言を肯定する人が多いのではあるまいか。ひどい医者でも文句の言えないのが患者の泣き所である。 

世界平和

2008-11-03 16:41:36 | 怒ブログ
            


田母神俊夫・航空幕僚長の、
<「我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣」と主張する論文が、民間の懸賞に応募し、最優秀作品に選ばれたという。>朝日新聞の社説やコラム「天声人語」で知った。
一体どんなことを書いたのか、論文を読まなくても大意はオレなりに想像したが、一応全文を読んでみたいと思って、ネットで検索した。
すぐに拾うことができた。「武士のたしなみ」で検索した。
ぼくが驚いたのは、田母神論文を肯定、賛美する掲示板の書き込みが予想以上に多かったことである。
むかし「クーデターが必要」という現職自衛官の中央雑誌への寄稿が問題になったことがあった。しかし、この「田母神論文」比べれば、はるかに政党政治の堕落を突いた真理の戯作だったように記憶する。
「更迭」とはいっても、辞職して巨額の「退職金」を戴けるのだから、これからもその持論を評価する人達からの推薦があれば、政治家になることも充分考えられると思う。

 それはそれとして、ボクにはどうすることも出来ないから、せめて子供たちの「作文」や「書道展」を、田母神氏や、その論旨に賛同する、戦争を知らない方々に、是非見てもらいたいのが、以下の「感想文」である。



「火垂るの墓」を読んで
          小四 □□  □  

 今年の夏、わたしは「火垂るの墓」という本を読みました。
このお話は、今から六十年以上も前の第二次世界大せんの時のお話です。せい太というお兄さんと、せつ子という幼い妹の悲しいお話です。
 お父さんがいて、お母さんがいて、家族四人で幸せにくらしていたのに、日本がせんそうを始めて、お父さんはアメリカとたたかうために、家族とはなれ、そして海で軍かんごとしずめられられました。
 お母さんは、アメリカのB29という飛行機が落としたばくだんで大やけどをして、亡くなりました。せんそうのころは、毎日のようにB29がたくさんのばくだんを落とし、家もなにもかもやけてしまいました、そして、たくさんの人が死にました。
 その時。せい太が14才、せつ子は4才でした。わたしは、今9才です。だからせい太とは5才しかちがいません。もしわたしがせい太だったら何ができたでしょう。家もやかれ、お父さんもお母さんも死んでしまったら、どこに帰ってらいいのでしょう。だれがごはんを作ってくれるのでしょう。
「行ってらしゃい。」
とか、
「おかえりなさい。」
とか、毎日あたりまえのことだと思っていたお母さんの声が聞けなくなってしまったら、いっしょに遊んでくれて、
「がんばってな。」
と、ほめてくれるお父さんがいなくなってしまったら、わたしは、どうしたらいいか考えられません。
 わたしにも弟がいます。時々けんかもしちゃうし、すごく頭にくることもあるけど、食べる物もなく、病気になってもどうすることもできず、目の前でどんどんやせて、弱っていったらどんな気持ちでしょう。つらくってかなしくって、たえられないと思います。
 せい太は、死んだせつ子の骨をドロップのカンにいれて大切に持っていました。きっとせい太は、一人ぼっちになってしまったから、せつ子はずっといっしょにいたかったんだと思います。
 わたしは、せんそうはいやです。せんそうは、大切な家族も、大好きな友達も、楽しいことも、幸せな毎日も全部こわしてしまいます。たくさんのかけがえのない命をうばいとってしまいます。とてもこわいです。
 どうしたらせんそうがなくなるのでしょう。世界中の人が、みんな相手を思いやる心を持って、仲よくなって、命を大切にしたら、きっとせんそうがなくなると思います。だからわたしも、相手を思いやることを実行していこうと思います。そして、せい太やせつ子のような悲しい思いをする子供のいない、平和な世界を作っていきたいと思います。


 あらすじ
1945年9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。
太平洋戦争末期、兵庫県御影町[1](現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の空襲で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。
やがて血の繋がりのない節子と清太を、小母は邪険に扱うようになる。二人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池[2]のほとりにある防空壕[3]の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていく。清太は、畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしながら生き延びる。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。
 節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが既に手遅れで、幼い妹は終戦の7日後に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として死を待つのみであった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』