狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

愛国の定義

2005-10-31 05:24:04 | Weblog

愛国
何れの国を問はず、其の国人民の愛国心の弛張は、実に一国拳固元気の消長に関するものなり。

抑々人民相集りて社会を成し、国家を組織すと雖も、其の愛国心欠乏する時は、一国元気の振興は、決して望むべからず。国家多事の際に当りて、最も貴重すべきは、国民各自の愛国心なり。若し之なくんば、以て敵を破り、乱を鎮め、国威を宣揚すること能はざるなり。

斯く愛国心は、一国の精神となりて、国家の元気を左右するものなれば、其の関係する所、実に重く且大なりと謂ふべし。

我が大日本帝国が、皇統連綿たる一帝室を戴きて、開闢以来尺寸の地をも他国に侵略せられたることなきは、実に一国特有の名誉にして、即ち一国特有の精神なり。神功皇后・北条時宗・豊臣秀吉等の名君勇将が、偉大の功勲を顕し、国威を海外に輝かしたるは、此の精神に数層の勢力をへ、之をして、益々鞏固ならしめたるものなり。此の外士人又は匹夫にして、愛国の心固かりしものも、古来其の人に乏しからず。弘安の役に、伊予の国人河野道有が、伯父道時・嫡子道忠と共に、元寇征討の軍に加はりて、抜群の功績を顕したるが如きは、今に至るまで、殊に世人の称揚する所なり。

熟々日本帝国近時の形勢を察するに、欧・米諸国と競ひ立ちて、文明の利器を用ひ、外は対外の方略を立てて、国威の皇張を謀り、内は富国の策を講じて、社会の進歩を促し、以って我が帝国をして、東洋の一大文明国たらしめ、漸く宇内の列国を凌駕せんとするの勢いに至れり。

曩に我が国支那と戦を開くに當りて、我が幾千万の将士兵卒は、身異域の渡り酷熱を忍び、烈寒に堪へ、陸海共に古来未曾有の奇勲を奏し、終に支那をして非を悔い和を乞ひ、台湾・澎湖島を致して、以って和を乞ふに至らしめたり。

是豈偶然の僥倖ならんや、畢竟我が国人、万世一系の天皇を戴き、国家の為に、祖先以来久しく沐浴したる君恩に報い奉らんと欲するより、一士一卒と雖も、皆以て聖詔を奉じ、生を軽んじ、死を甘んじ、敵を見ては一歩も退かざる愛国心の致す所なり、故に我等は、彌々益々此の心を養ひ、以て我が大日本帝国の基礎を固くし、竟に世界唯一の文明富強の国たらしめんことを期すべきなり。

高等国語読本巻七終
明治三十三年十月十八日 印刷
同 三十三年十月二十八日発行
    定価金弐拾四銭

金港堂書籍株式会社編輯永洗・半古画
発行兼印刷者 東京市日本橋区本町3丁目17番地
金港堂書籍株式会社
右社長
代表者 東京市下谷区竜泉寺町四百十四番地
          原   亮一郎
売捌所  各府県特約販売所

弊社ハ常ニ書籍ノ用紙印刷製本等ニ注意シ勉メテ其ノ堅牢ヲ期セリサレド多数ノ中万一学年間ノ使用ニ耐ヘザルガ如キ粗製ノモノ有之候節ハ御通知次第無代価ヲ以テ御引換可申上候 本書ハ僻遠ノ地ニ至ルモ定価ヲ超過シテ売捌カシムルコトナキハ勿論直接ノ御注文ハ多少ニ拘ハラズ運賃ヲ負担可仕候

弛張=①緩むことと、張ること.②寛大なことと厳格なこと。

対談記録後の弁

2005-10-29 22:41:05 | 怒ブログ

 
皇居奉仕団に参加なされた、お二人のお話を、対談の形で整理してみた。
書き終えてから、新聞を片付けていたら、
21日の朝日新聞の第一面トップニュースは《皇位継承順位「第1子優先」の方針・有識者会議・男女を問わず》の見出しで、皇室典範の改正問題を取り上げてあった。

それは《小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が、皇位継承順位を男女を問わない「第1子優先」とし、女性天皇や母方だけに天皇の血筋を引く女系天皇を容認する方針を固めた。25日から意見集約に入る。皇位継承の資格者が増え、順位の変動が少ないことを考慮した。11月末をめどに報告書をまとめ、首相に答申する。政府は世論の動向を見極めながら、皇室典範の改正を目指す。》というものあった。

私は、皇位典範がどう改正されようとも、論評する立場でもないし、それほどの関心は薄い。憲法改正が国民の自己責任であるとは覚悟せねばなるまいが、皇室典範の改革は、皇室さまの、自己責任としていただく他はないだろうと思う。

こうして善良なる国民が、毎日のように身銭を切って奉仕している姿に接してわけであるから、何かしら心に思うことはあって然るべきであろう。女帝にしろ、第一子にしろ、忠良なる日本の国民として、発言できる立場ではないのだから、せめても皇太子様には意見を述べていただきたい。
 
「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定してあること自体が、憲法違反だという学者もおられるし、女帝を認めてもは配偶者に困るだろうという庶民の考え方も耳にするし、さらには「国体」に意義についても、国民には理解しがたいことが数多い。

万世一系の解釈もそうだ。武列天皇から継体天皇のあたりの日本書紀の記述や、南朝の最後の天皇である後亀山天皇の孫にあたる熊野宮信雅王の子孫であり、代々自分の家こそが本来の天皇の正統であるとして「即位」をしてきたという「熊沢天皇」にしても、「新しい歴史教科書」でも、触れていないし今後も書けないだろうと思う。日本書記を否定すれば3種の神器の説明も危ふくなるだろう。

「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」。これは皇太子殿下の記者会見のお言葉である。このお言葉が、聡明な皇太子の最大限のご意見ではあるまいか。大騒ぎするのではなく、心中をお察し申し上げるべきであろう。

朝日新聞は今日の13面《「opinion news project」三者三論「女性天皇どう考える》という特集記事を載せた。
皇位を男系男子に限る皇室典範。政府は女系天皇を認める方針だ。皇室は変わるのか。という副題がついている。
談話としてとりあげた、3氏の言葉の最後の部分を引用する。

・横田耕一氏(流経大法学部教授)『男系限定は憲法に違反』「有識者会議は天皇制度をどうやって永続するかを求められた会議だから,天皇の是非を問うのは筋違い。しかし、会議がどうあろうとも、このままでは天皇制度の存続自体が問われる事態に直面するのではないか。
 なぜ、天皇制を維持しなければならないのか。もしいま、改憲を考えるなら、こうした問題も視野に入れるべきだ。

・長根英樹氏(きもの和文化プロデユーサー)『現制度のほうが皇室安定』有識者会議は「帝王学」や日々の心構えの重さを、安易に考えていないか。現在の皇位継承資格や継承順位には立ち入るべきではない。
 この問題で政治家の発言が乏しいことも心配している。本来、国会議員全員が参加する特別委員会などを設け、有識者を参考人として招いたり、全国で公聴会公聴会などを開き、数年間をかけて、論議を展開したうえで、国民相違による結論を得るべきだ。
 明治の皇室典範は、皇族会議と枢密院顧問によって行われるしくみだった。現在は国会で改正できる法律だが、十分慎みをもって運用すべきで、見直しは皇室の考えをうかがうべきだと思う。

・嘉納実紀代氏(敬和学園大学特任教授)戦後、一般家庭では「家」制度が廃止され、夫婦と子供中心の「近代家族が」が当たり前になった。しかし、現在は家族のあり方も多様化し、ずっとシングルで生きる人も多い。家族単位から個人単位へと社会は大きく動いている。それに歯止めをかけようとする動きも強まっているが、流れは止められないと思う。
 こうした状況において世襲家族を国の「象徴」として仰ぎ続けることは、そもそも無理がある。世論調査などでは8~9割が天皇制を認めているというが、若い世代は無関心だし皇族の人々を自由がなくて「かわいそう」と見る国民は確実に増えている。いまや天皇制存続のために女性天皇を容認するよりも,天皇制存続の是非を議論すべきではないか。



対談:皇居奉仕団に参加して

2005-10-25 22:14:46 | Weblog

K 私は平成13年11月12日~15日の3泊4日の日程で皇居奉仕団の1員で皇居奉仕に行ってまいりました。
今年で3年目になります。団員は56名。私が副団長でした。

I ボクがやはり皇居奉仕に参加したのは、平成10年の11月17日~20日だった。だからKさんは次の年からだ。
あの時、町のK醸造会社正面に5時に集合した。定刻の5時15分にバスで出発した。まだ暗かったね。
 高速道路で走り全く渋滞がなかったので、赤坂御用地に7時には着いてしまった。ボクも副団長だった。  

K 私の時もやはり5時集合。集合場所は町のF会館前でした。東宮御所西門に7時40分に到着、8時30分宮内庁職員のミーテングを受け記念写真を撮りました。 

I あの時は、40分ほど皇宮警察官の交替に約40分待ったね。8時になって下車。奉仕団の待合室に入り、割り当てられたロッカーに、弁当や小荷物を入れた。
沖縄、栃木、愛媛、福島、新潟からやって来た奉仕団が、続々入室してきた。 婦人会とか、若妻会というのもあった。私たちを含めて6団体240名の奉仕だったと思う。

K 皇居内には国の諸行事を行う宮殿や、天皇皇后紀宮のお住まいになる吹上御所のほか、宮内庁庁舎、陛下の生物学研究所、皇后陛下の紅葉山御蚕所、公淳皇后還暦記念に建てられた桃華樂堂、昭和天皇の崩御に伴い、皇居から国に寄贈された美術工芸品を保管してある三の丸尚蔵館、付属庭園、皇居東御苑などがありました。約115ヘクタールの面積だそうです。
東宮御所は、皇太子ご夫妻のお住まいの私室をはじめ、公務室や宮内庁関係事務等があり、この広大な皇居や東宮御所に、毎週500~600人、年間に、2万名もの善男善女が奉仕作業員として参加するのだそうです。

I 8時半を過ぎても担当者が現れないので、いらいらした思い出がある。9時になって、やっと係官の説明。団体ごと整列し、作業場所に行くのかと思ったら、見学と記念撮影だった。かなり離れた赤坂庭園にむかって行進だった。
赤坂庭園はかなり離れている。大きな堀の両側は、原生林の風景だった。椎や楠、欅などの大樹の森の下道を進んだ。時折落ち葉が降りしきった。丘を下りると広い芝生と、大きな池がある。背景に赤坂の高層ビルが見えた。
ここが、春秋行われる天皇陛下主催の遊園で、会場芝生に腰を下ろし、庭園課のお世話係りの人の説明を聞いた。もと紀州徳川家のお屋敷だったそうだ。
ここでも記念撮影をし、東宮御所へ移動して、皇太子ご夫妻の拝謁式となる。  11時15分過ぎ御所玄関前に整列した。庭園の片隅に天皇皇后ゆかりのテニスコートの傍を通って、拝謁室にのぞむのだが、奉仕団の人数が多くて拝謁室に入りきれなかった。  

殿下は11時半各奉仕団の中央へ、順々に進まれ、一礼のあと団長から県名、団体名や人数などのご報告を受けられ、団長へ「ご苦労様」の労いのお言葉があり、質問の御言葉を賜った。
皇太子、同妃両殿下が、僅か2~3メートル前にお立ちになって我々全員に目をそそがれる。
肩幅の広いご体格、気品に満ちた、にこやかなお顔、上品な背広など見とれてしまったのもつかの間、次の団体の方へ移られて行ってしまった。
最後に6団長が前に進み万歳三唱をしたのを受けられ、拝謁式はそれで終了、両殿下が御所にお帰りになるのを見送った。
雅子妃殿下には、まだ御妊娠なされていなかったように拝察した。休憩待合室で昼食をとり、奉仕作業は午後となった。

K 私たちのときは、11時頃から雨が降り始め、雨の中での東宮御所の見学でした。昼食後も雨は上がらず、雨天の為奉仕作業は中止となりました。急遽皇太子殿下の御会釈が行われるようになりましたね。
これは通常は、屋外で行われたのだそうですが、私たちは特別な配慮を頂き、御所の普段では入ることの出来ない「会見室」で御会釈を賜りました。雨に感謝、感謝をするほかはなかったのです。(笑)
奉仕作業の中止が決まったので、1時30分には御所を引き上げ、靖国神社に参拝しました。
丁度、全国で名高い某美術館主催の、「盆栽と本器」展が開催されておりましたので、日本を代表するような作品に触れ、大変幸運だったと思います。
3時にはホテルに着き、ゆっくり休養させていただきました。  

I ボクらは其の日、リヤカーに鎌、熊手、モッコ、砥石、竹箒、バケツ、箕などを積んで、約1キロぐらい先のくぼ地と、両側斜面の林に着いた。
各宮様方が、お手植えになったという「山ぼうし」の樹が、あちこち点在する林の中の下草刈り作業だった。広さは300m×60m位なので、55人もの多勢での作業なので、忽ち終了してしまった。休憩時間をたっぷりとり、取手市在住というお世話役から、赤坂御用地管理に関するお話を承った。
バケツや、空き缶を灰皿にして、愛煙家には有難い1服のひと時だった。3時過ぎ、作業を終えて荷物をロッカーから戻し、バスで宿舎・グランドヒル市谷に引き上げた。

K 昨日とうって変わり晴天でした。朝8時に皇居乾門から参入して、バスは窓明館に横付けです。
午前中は、陛下御一家が正月の新年参賀にお立ちになる長和殿東庭、一般の人が入ることの出来ない南庭を掃き清め、その後、正殿や、豊明殿を見学致しました。午前11時から、天皇皇后両陛下、紀宮殿下のお会釈が予定されていましたので、蓮池参集所に参加した各団体の500名が集合しました。シーンとした時間が流れました。
両陛下、紀宮様が私たちに近づかれました。団長のMさんが、T奉仕団の男性18名女性38名、計56名ですと報告いたしました。
天皇陛下からのご下問は、
  ①先日もお見えになりましたね。
  ②皆さんはどちらからお出でになりましたか。
  ③皆さんは主に何をなされておる方ですか。
  ④今年の農作物葉の出来具合はどうですか。
などです。M団長が、緊張した面持ちで、代表してお答えしましたが、両陛下、紀宮を目の前に拝し感激した様子でした。一同も同じ思いでした。(天皇陛下
ご会釈が終わり、午後は、宮内庁から富士見櫓に通じる沿道を掃き清めました。

I ボクらが拝謁を賜ったのは、最終日の4日目だった。帰宅の日でもあるし、何となく心弾む思いで朝のシャワーを浴び体操をして朝茶を飲んだ。
定刻7時に朝食、7時半バス乗車。皇居乾門から窓明館に直行した。8時半から東御苑の見学。この御苑は水、金曜日を除いて無料で一般に解放されているようだ。
広大な歴史公園といえる東地区一帯だ。
大手門を潜り元本丸入口の坂に至るまでに、三の丸尚蔵館同心場所、そして大きな石垣が迫る本丸入り口坂となる。江戸のむかしに、タイムスリップした心地になった。
二の丸庭園の植え込みを見、汐見坂、梅林坂を登ると楽部、桃華楽堂の横へ出て旧本丸跡の高台天守閣跡が直ぐ目の前にあった。そのまま進んでいくと、広い芝生、外側は内堀と外堀、大樹の樹々の下には遊歩道が通り、木陰のベンチ傍に、「松の廊下跡」の標識もある。
いまこの広場は、災害緊急時の避難場所にもなるそうである。
見学後奉仕作業となった。土手下から、フェンスの間に伐られた枝や幹などが、落ち葉の下に埋もれている。それらを掘り出し、フェンス越しに運び出して、少し離れた林の中に並べる作業で、軽い枝葉は女たち、重い幹などは男たちが運び出したのだが、かなりきつい仕事だった。
11時近くになり、いよいよ拝謁の時間が迫ってくる。天守閣の下坂道を下り、昼でも薄暗く内堀にかかる端を渡り、宮内庁庁舎後ろの蓮池参集所に急いだ。
11時15分両陛下は紀宮様をお連れになり、部屋にお入りになった。我々一同、拝礼をする。最初にお進みになったのは、沖縄県奉仕団で、団長が団名や、男女別人数を報告申し上げる。その後すぐ天皇陛下が、団長にお言葉を賜る。
ボクたちT会の前での陛下のお言葉は、
 「皆さん、どんなお仕事をなさっていますか」
 「皆さん、お元気にね」と次の奉仕団のほうへお進みになる。低いお声なので一言一句明瞭には聞き取れなかった。
  
福島県の若妻会のところでは、皇后様もお尋ねになられていた。一巡し終わると、団長が前に進み並んで万歳三唱を唱和した。
  
12時15分これで拝謁式は終わった。団員一同、皇居奉仕の目的のひとつ、最大の喜びとも言える拝謁を至近距離で体験できて、最大の満悦で窓明館で昼食をとった。 

K 私たちの3日目も素晴らしい晴天でした。
朝のミーテング後長和殿の東庭を通り、2重橋を渡り伏見櫓をバックに記念写真を撮りました。
撮影後は、上道潅濠に沿って宮中三殿へ行き、天皇陛下の生物学研究所構内の、お手植えの田圃を見学しました。陛下がお田植えになった稲株は特別に管理され、収穫された新穀は、天皇御自ら天地・天祇に薦め、これを食する祭事、新嘗祭に奉納する状況のお話を聞きました。
その後、皇后陛下が飼育される養蚕の桑園の草取り作業でした。腰を曲げての作業、取った草をモッコで運ぶのは案外疲れました。
帰りは大道庭園の盆栽を見学致しました。全国から奉納された名品や、宮中行事の祭壇に飾る盆栽を専門に管理しているところです。
5時にはホテルに引き上げ、シャンデリアが眩しい宴会場で反省会です。良かったこと、次回に引き継ぎたいことなどを、話し合い、カラオケ、ダンス等も披露され思い出に残る反省会でした。

I ボク等の泊った宿舎、「市谷グランドヒルはJR市谷駅の直ぐ近く、靖国通りに面して建っている、防衛庁共済組合ホテルだった。4Fから8Fまでが客室、3Fが大、中宴会場、2Fが結婚式場、小中宴会場、1Fにフロント、レストラン、喫茶室、クロークが並び、地下2Fまであり、1Fが和風レストラン、2Fと共に駐車場がある。ボクたちは新館4Fのツイン室に2人ずつ3泊した。窓外の夜景もよく、快適な3泊だった。
2日目から、皇居内の奉仕作業だ。
午前7時朝食1Fのレストランで済ませ、7時半バスへ。乾門へ直行した。バス中で守衛警官が人員点呼人数確認して、奉仕団控え所窓明館に入る。バスに乗車したまま宮内庁本館横を通り、富士見櫓を過ぎ、皇宮警察署本館近くの駐車場にバスを停めたのだが、ここに置けるのは、ボク等のバスだけだった。
今から約30年前この奉仕団団長のO氏(故人)が、当時の宮内庁長官と大学同窓の縁故から、特別の配慮を頂いているのだそうだ。
8時45分係官の挨拶で始まり、前庭に整列して4列縦隊をつくり、見学場所へ。宮内庁横から吹上御所、盆栽管理園に案内された。続いて天皇陛下お手植えの水田や、桑畑、蚕室、学問所などのある1画の水田前で休憩した。
隣町からお出でのSさん(65歳)から、思いがけない話をきいた。
それは45年前、彼女がまだ18歳の時、村の青年会で皇居へ奉仕作業に来た時の思い出話である。
 ・混雑する常磐線で大きな荷物を抱え皇居へ参内したこと。
 ・坂下門内側の木造の寮みたいなところで合宿、自炊をしながら、草刈り作業。  食材は持込だったこと。
 ・赤坂ご用地へは、作ったお握りを容器に入れて持参したこと。藁草履を履いて行って、着いたとき草履が切れてしまったこと。
 ・昭和天皇の拝謁時のお言葉、
「みな、勤労。ごくろう。」が、今でも懐かしくよみがえるという。彼女は当時 の記念写真を持参してみなに見せてくれた。かすりの上衣、もんぺ姿の横に大八車が写っていた。

K 最後の日はこれまた素晴らしいお天気でした。
いつもの手続きで窓明館にバス横付けです。午前中は富士見櫓下の庭園から窓明館までの道路、桔梗門周辺の道路の清掃となりました。午後からは、主に施設の見学です。百人番所から、昭和天皇がお気に入りの武蔵野の風情を再現した林を通り、二の丸庭園、回遊式庭園、都道府県の植樹庭園を通り、汐見坂を上って桃華樂堂、天守閣跡に登り、東京を眼下に望みゆっくりと休憩いたしました。
最後の作業は「松の廊下」を40分ぐらい掃き清めました。三の丸尚蔵館で、皇居に伝えられてきた「宮中の調度品」や、絵巻、彫刻、装飾金具、など数多くの棚飾りの中から、江戸時代から昭和初期の代表的な調度品の陳列を拝見し、ため息の連続でした。
その後、天皇陛下から菊のご紋章の入った、「たばこ」、皇后陛下から紅白のお菓子、皇室アルバム等のご下賜品を頂き、宮内庁職員から労いのお言葉を頂いて、家路につきました。
6時半には家に着き、4日ぶりに家族と一緒に皇居のお話を土産に愉しい夕食をいただきました。

I ボクの3日目は、話が前後になってしまったが、アメリカのクリントン大統が、来日する日だった。
拝謁式は明日に延びるのかなと思いながら、作業場所に行進したっけ。長命殿の前に着き、女達は豊明殿(大晩餐会場)食器室へ入り作業をした。
後で知ったことだが、26日来日の中国元首相の晩餐会に使う食器類を、収納室から取り出す準備をしたそうである。緊張の連続だったそうだ。
長和殿前の広場の落ち葉の清掃、宮殿や、庁舎後ろの舗装路の落ち葉掃きで午前の作業は終わった。
クリントン大統領は、宮殿には寄らず、まっすぐ吹上御所で、ご挨拶されて、皇居を辞去された由であった。午後は、奥道潅掘りに沿った塀の外側の小道を通3時過ぎ3日目の作業は終わり、3時50分バスで靖国神社へ直行した。

K これで私の皇居奉仕の記録は終わりですが、来年度も皇居奉仕団を募集しております。
11月11日から14日までの3泊4日の予定で実施いたします。募集人員は57名です。15歳以上、70歳までの健康な人ならどなたでも参加できます。
参加経費は、45,000円(バス代・昼食代・宿泊代・結団式費・反省会費・旅行保険料)。宿泊場所は、東京タワー隣の一流の結婚式場である「虎ノ門パストラル」を予定しております。希望者は、団長、または地域の役員にご連絡下さい。

I 最後になったが、ボク等の最終日は、拝謁式の後、窓明館に残り、広い館内の掃除をした。30分ぐらいで終わり午前中やり残しの作業所、桃華楽堂に向かった。
3時15分作業をすべて終了し、休憩ののち、用具をリヤカーに載せ引き上げた。
宮内庁からのプレゼントは、
  ①皇室アルバム②紅白干菓子③ご紋章入りタバコであった。
バスは乾門3時55分退出。さしたる渋滞もなく、わが町に戻った。其の日に早速「砂ばらい」であった。和気藹々、次から次、かくし芸、カラオケが飛び出し、8時10分閉会した。ご苦労様でした。副団長の重荷がやっと下ろせた。

落書き帖2

2005-10-22 20:21:02 | 怒ブログ

十月二十三日(日)
雷鳴にて起床す。4時少し前なりき。降雨「雹」も混じりし模様なり。
昨日朝、隣村のZ寺朝参り行く途中、畑に白菜青々としたるを見しが、
ことしは、大根も白菜も、大豊作にしてブルトーザーで、潰すようだっぺなどと語りたるも、「雹」など天候次第で急変するや否や、『御神籤』にて予測する以外に道なかるべしとも謂う。

Sさん宮城の奉仕作業に来週行くとの事。
余も、数年前誘われたことがあったが、「syou-ben」がマメなので…、とお断わりした。
陛下がお出ましになる時もあるのだそうだ。
お声などかけられたら、ただただ謹聴するしかあるまいなどと、覚えたりける。


皇国史観

皇国史観 (クワウコクシクワン)国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国として描く歴史観。十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた。[広辞苑第5版]

第五十三 今上天皇の即位

第百二十四代今上天皇((昭和天皇)は、大正天皇の第一の皇子にましまし、明治34年4月29日に生れさせたまふ。【天長節】大正5年御年16歳の時、立太子の禮を挙げさせられ、ついで内外多事の間に、摂政の御重任をはたしたまへり。
【天皇踐祚したまふ 昭和元年】先帝崩御の日、天皇ただちに踐祚し、年号を昭和と改めらる。やがて文武百官を召して朝見の儀を行はせられ、かたじけなき勅語を賜ひ、すべて着実を旨とし、みづから工夫することにつとめて、日に日に人文を新にし、国民一体となりてますます国家の基礎を固くし、又広く世界の人々と交を厚くせよと仰せたまへり。【御大葬の儀を挙げたまふ】昭和2年1月先帝に大正天皇のご追号をたてまつり、2月御大葬の儀を挙げたまひて、多摩の御陵にをさめたまふ。
【天皇即位の礼を挙げたまふ】先帝の諒闇終りて、昭和3年11月10日即位の礼を京都の皇宮にて挙げたまへり。この日天皇御みづから賢所を拝して、皇祖天照大神に御即位の由を告げたまひ、ついで紫宸殿に出でまし、高御座にのぼりて、あまねく之を臣民に宣したまふ。実にならびなき盛儀にして、国民ひとしく万歳をとなへて、之を賀したてまつれり。ついで大嘗祭を行ひたまひ、天皇親しく天地の神々をまつりたまへり。【かたじけなき勅語を賜ふ】紫宸殿の儀に於て、天皇の賜ひし勅語の中に、御歴代の天皇は、皇祖皇宗の大御心をうけつがれ、わが国を御家として万民を愛撫したまふこと、あたかも慈母の赤子に於けるが如く、万民また互いに心をあはせ、天皇を国の御親とあふぎたてまつりて、忠誠をつくし、君民一体となりて今に及べり。これ実にわが国体の精華にして、まさに天地と共にきはまりなかるべしと仰せたまへり。まことにかしこき極ならずや。
【国民の覚悟】今や、我が国は五大国の一として、世界に於ける重要な地位を占む。これ実に御歴代天皇の御盛徳と、国民世世の忠誠とによれり。さればわれ等国民は、よく国運発展の由来をつまびらかにし、おのおのその業に励み、一致協力してますます国家の富強をはかり、進んで世界平和の為に力を尽くし、以ってわが国史に一層の光輝を加へざるべからず。

尋常小学国史 下巻 終
  [尋常小学国史 文部省 東京書籍昭和2年(1927年)発行]参考(リンクを張る練習にて特に関連はない)


歴史教科書小さな旅

2005-10-22 14:33:44 | 怒ブログ
 
 いにしへの聖の御世のまつりごとをも忘れ、民の愁へ、国の損はるゝも知らず、よろづにきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて思ふ所なく見ゆれ。     徒然草第二段

 あっという間に、歴史教科書採択の時節も終わり、論評も少なくなってしまった。平安な世の中になった。
 思えば2001年の「新しい歴史教科書(つくる会)」の教科書問題では、喧々諤々のすえ「つくる会」の入ったビルが放火されるという事件まで起こった。当時の新聞論調などを見ても、関心の高かったことが裏打ちされている。
 
 『今回の採択をめぐっては、テロまではいかないまでも、それに近い圧力が各地の教育委員会にかけられている。一旦扶桑社の本を採択決めた市や町の各教委に抗議や非難の電話、ファックスが殺到した。扶桑社本を推したとみられる教育委員宅には、毎晩12時すぎに脅迫めいた電話がかかってきたという』(2001.8.9付産経新聞「主張」)

『今回の採択が地滑り的結果(採択が1%にも満たなかったこと)となったのには、教育界に根強い「無難さ」「横並び」に傾く意識も働いていたのだろう。
 侵略の記述が多い教科書の採択も減った。状況はなお流動的である。
「つくる会」は結果的に、歴史観を議論する材料を提供した。同会事務所の入るビルに放火事件があったが、暴力は議論を防げる許されない愚挙である』(2001.8.17付朝日社説)

 ところで、この扶桑社の問題を提起した歴史教科書以外に、その5年前(1996年)皇国史観といわれた、歴史教科書がすでにあったのを御存知だろうか。その道の研究者ではないから詳しくは不明と付箋をつけるが、市販本の嚆矢であるとボクは思う。
 
「高等学校最新日本史 朝比奈正幸 小堀桂一郎 松村剛ほか9名 国書刊行会」がそれである。参照ボクは当時、朝日新聞記事を見て、直接出版社から取り寄せた。
保存してあるけれど、ほとんど意外性にも乏しく話題の提供までは至らなかったようである。

「神話を重視したり、教育勅語全文を掲載、大東亜戦争と正式名称を記載する」というのが、皇国史観に当てはまるらしい。

執筆者の一人、小堀桂一郎・明星大教授は、「私たちの教科書は二度の検定を経ており、細々とではあるが十五年間にわたって学校現場で使われてきた。記述には何の問題もなく、一部メディアや外国に非難される筋合いはない」「中学校で扶桑社、高校で最新日本史を使うのが、望ましい歴史教育のあり方だ」と述べている。

 この高等学校用歴史教科書は、扶桑社の中学校歴史教科書と共通 点が多いといわれている。62年原書房→国書刊行会→明成社と版権が変わっているが、いわゆる『幻の歴史教科書』ではない。使っている高校も何校かあるはずだ。

 この2冊の教科書は中学・高校の差はあるものの、検定済みの教科書であるから、当然内容の流れは、「古代国家の形成」⇒「律令国家の形成」となる。

つくる会の教科書では、イザナギ・イザナミの命、天照大神、スサノオの命、ニニギの命。神武天皇にいたる神話が、律令政治以後にも日本の神話として古事記の内容に詳しく言及している

 歴史教科書問題では、すでに1974年(昭和49年)初版発行の、
「検定不合格日本史 家永三郎  三一書房」もあるが、検定不合格となった申請用の原本と同一の復元とはあるものの、前者2冊は検定を通った本物の教科書である所に両者との違いがあるのは明瞭だ。
 検定不合格だった教科書の検定申請は三省堂からである。

文部省初等中等教育局長 内藤誉三郎の署名○印の通知書が添付されている。

    検定申請教科書用図書の原稿審査の結果について(通知) 
 『(略)この原稿は、構成・記述・表現において特色があるが、高等学校社会科日本史の教科書としては、下記のような欠陥が認められる』としたうえで、3項目の理由を挙げている。

 第1 は具体的に第4編 第4章をあげ史実選択上に妥当を欠く。

 挙げられたページを捲ってみると、
○マッカーサーを訪問した天皇の写真 ○初めて参政権を行使する婦人たち〇、極東裁判でさばかれる東条、木戸ら〇食料品買出し風景〇保安隊とアメリカ軍事顧問団の作戦会議〇再軍備に反対する労働者のデモ風景〇原水爆世界大会 等の写真が載っている。この写真からだけでも内容は押して知るべしだろう。

 第2 記述が往々評論に流れ表現や語調に教科書として適当でないところがみとめられる。

第3 過去の史実により反省を求めようとする熱意のあまり、学習活動を通じて、日本人としての自覚を高め、民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史の目標から遠ざかっている感が深い。

以上のような事由を勘案し、総合的にみて、この原稿は高等学校社会科日本史の教科書としては適当と認めがたい。

さてさて「民族に対する豊かな愛情を育てるという日本史」は戦前文部省から国定教科書として、編纂され、全国どこの学校でも使用された。

『尋常小学国史上・下巻 文部省』小学5~6年用がそれである。
巻頭に御歴代表があり「神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化~」と暗唱させられたものであった。

 上巻は「第一 天照大神」、「第二 神武天皇」、「第三 日本武尊」、「第四 神功皇后」と続く。
仁徳天皇、聖徳太子があって、第七、第八が天智天皇と藤原鎌足となる。
ここから、大化の改新、大宝律令~と続くのだが、このあたりの記述がまことに面白い。

第七 天智天皇と藤原鎌足

推古天皇の御世の前後に、最も勢いありしは蘇我氏なり。蘇我氏は竹内宿禰の子孫にして、代々世朝廷の政治にあづかり、勢いにまかせて、しだいに我がまゝなるふるまひ多かりき。蘇我蝦夷は第33代推古・第34代舒明・第35代皇極の3天皇に仕へたてまつりしが、心よろしからぬものなれば、ほしいまゝにあまたの人民をつかひて、あらかじめおのれ等父子の墓を作り、おそれ多くも之を陵(みささぎ)といへり。

此の時、聖徳太子の御女は大いにいかりたまひて、「天に、二つの日なく、国に二人の君なきに、いかなればかゝる我がまゝをするぞ。」と仰せられたり。蝦夷の子入鹿はなほも思のまゝふるまひて、おのれに縁ある皇族を御位に即けたてまつらんがために、聖徳太子の御子孫をほろぼし、遂におのが家を宮といはしめ、子等を王子といはしむるに至れり。まことに朝廷をおそれざる無道のことといふべし。

中臣鎌足は此のさまを見て大いにいきどほり、朝廷の御ために入鹿父子をのぞかんとはかれり。此の頃皇極天皇の御子中大兄皇子も、また蘇我氏の無道をにくみたまひしかば、鎌足はいかにもしておのが心を皇子にうちあけたてまつらんと思ひしに、ある時皇子の蹴鞠の御遊にまゐりあひ、御靴のぬげたるを取りてさし上げ、これより皇子に親しみたてまつることを得、ひそかに同じ志の人々とはかりゐたり。されど、入鹿は家のめぐりに池を掘りて城の如くにし、出入の時にはあまたの人々をしたがへ、すこしも心をゆるさざりき。たまたま三韓より貢物をたてまつることあり、大極殿にて其の式を行はせらるゝ日に、入鹿はまゐりて皇極天皇の御そばにありしかば、此の折を以て入鹿を誅せんとし、皇子は御みづからほこをとりたまひ、鎌足等は弓矢・劒などを持ちて、かくれゐたり。然るに人々は入鹿を恐れてためらひたるに、皇子はまっさきに進みいり、遂に人々と共に入鹿を誅し、さらに天皇の御前に進み出て、つつしみて入鹿の不忠を申し上げたまへり。

蝦夷は家にありて皇子と戦はんとし、之につきしたがふものも少からざりき。皇子すなはち人をやりて、わが国には、昔より君臣の別あることをいひ聞かせたまかば、人々ちりぢりににげ去り、蝦夷も遂に家を焼きて自殺せり。

   武内宿禰―蘇我石川……馬子―蝦夷―入鹿

   第八   天智天皇と藤原鎌足(つづき) 

やがて皇極天皇は御位を御弟第36代孝徳天皇にゆづりたまひ、中大兄皇子はその皇太子となりたまへり。皇太子は天皇をたすけたてまつりて、大いに政治を改め、これまで勢あるものが多くの土地をもちて、ほしまゝに、人民を使ひたりし習はしをとどめて、これ等の土地・人民をことごとく朝廷にをさめしめたまへり。世に之を大化の新政といふ。

大化とは、此の時定められたる年号にして、之を年号の初とし、其の元年は紀元1千305年にあたれり。

孝徳天皇崩じたまひて、皇極天皇再び御位に即きたまふ。之を第37代斉明天皇と申す。中大兄皇子はなほ皇太子として、引きつづき政治にあづかりたまへり。此の頃支那は唐の代にて、勢甚だ盛なりしが、新羅は其の助をかりて百済をほろぼさんとせしかば、百済の人々すくひを朝廷にこへり。

皇太子すなはち天皇を奉じて九州におもむきたまひしが、天皇間もなく行宮に崩じたまひしかば、皇太子つぎて立ちたまふ。第38代天智天皇これなり。天皇兵を出して百済をすくはしめたまひしに、我が軍利をうしなひ、百済は程なくほろびしかば、天皇はながく我が軍を海外に労することの不利なるを見たまひ、遂に之を引上げしめたまへり。

ついで高麗もまた唐にほろぼされ、新羅ひとり威をふるふに至り、これより朝鮮は全く我が国よりはなれたり。されど唐とは此の後もなほ交を絶たざりき。

これより天皇はもっぱら御心を国内の政治に用ひたまひ、都を近江にうつし、鎌足をして、いろいろ新しき法令を定めたまへり。此の法令は、後に第42代文武天皇の大宝年中に至りて大いに改められ、之を大宝律令といひ、此の後ながく政治の政治の本となれり。

ここで注目したいのは、「白村江の戦」は『わが軍利をうしなひ』のみの記述である。皇位継承の争い「壬申の乱」には触れていない。

戦時の大本営発表は、
太平洋戦争ガダルカナル撤退を、

『南太平洋方面戦線 新作戦の基礎確立
 ブナ、がダルかガダルカナルより転進』と発表したのを思い出してしまった。

扶桑社本は、『唐・新羅の連合軍との決戦は、663年半島南西の白村江で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本軍の大敗に終わった。(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり天と海を炎で真っ赤に焼いた。こうして百済は滅亡した』。
そして防人と水城の構築を挙げ、防衛努力として、『日本における国家統合の意識をおのずと高めた。』と書いた。

十月二十日(晴れ)

2005-10-20 22:22:34 | 怒ブログ
十月二十日(木)
 久しぶりの快晴也。先週14日以来、初めて元気な顔のお天道様を拝む。14日の「日の出」をデジカメで撮っておいたのと比べると、随分南に寄ってきた。
ゴミを燃やしたり、木障払いをしたり、浄々と田圃に向かって、立小便を垂れたりした。庭で5円玉を拾った。縁起がいいと家内は喜ぶ。
あと2ヶ月経つとお正月。「刺客」が今年の文学賞だって?

 今朝の新聞を見るに、一面記事は
《「医療費予防、負担増で抑制」 厚生省改革試案
          地域に目標、罰則も》 

 お医者さん出身の政治家、小説家、漫画家随分いるけど、医療費はこれでも安いとでも思うのかしらん。そんなにお金困っているなら、政治献金など、ムダ遣い止めて、経費を節約したらどうだろう。医療費も自由化したら、うんと安いお医者 さんできるんじゃないかなぁ、と愚考。

なだ・いなださん、コイズミに老人党を造って、文句を言うのもいいけど、
医師会さ文句を言って下さいよ。風邪気味だからといって、医者さ、行くといくら銭かかる?公定価格廃止ぐらいの改革やったら、どうだろう。お得意さんには、オマケするとか、盆暮れの付け届けをするとか…。昔は保険などなかったが、百姓やっていても医者さかかれたよ。なださんも、医療費は「安すぎる」とは言わないようだが、
「あんまりだ。高すぎるよ。」と思わないのだろうか?著名な作家にして、精神科医、しかも老人党党首の立派な肩書き。言うことと、やることと、辻元清美に似ているんじゃあないですかね。

 今日のA紙地方版
つくば市常住人口20万を突破、水戸、日立に続き県内3例目
合併・TX効果伸び率トップ。

突き上げる強い揺れ
  落ちた倒れた強い揺れ割れた

 19日夜、茨城県沖を震源に起きた地震で、県内では鉾田市で震度5弱を記録。他の多くの市町村も震度4の揺れを観測した。鉾田市内の女性(78)がベットから落ち鼻血を出した、という連絡があり、病院を紹介したほか、棚などからものが落ちる被害があった。(略)  
    110~119
常磐線で荷台から豚が転落
 豚に怪我は?

酒を飲んで寝る。
 


序の序

2005-10-19 22:34:11 | Weblog

 いま凄い地震があった。震度5なりという。震源地は茨城県南部、丁度わが家の真下でわないかと思われるほど激しい揺れだった。
 しかしB-29の爆撃の時に比べたら、まだまだ、こんなものではなかったですぞ。
地震では、天井が落ちてきまいか、パソコンの電源はどうするか、火は大丈夫だっぺか、外に飛び出そうか、一応は考える余裕はある。
 爆弾ではそうは行くまい。見えないあつい雲の上からでも降ってきて、瞬時に爆発するのだから、逃げる暇などあるはずはない。「念彼観音力 爆弾段段壊」もまずムリであろう。

 また昔話になってしまった。友人のような交際をさせて頂いたT氏の回想である。
氏は1901年生まれ、昭和天皇と同じ歳だといっておられた。新聞A紙の記者の経歴を持つ。東京大空襲の時、東京本社地下室にいたという。100歳で亡くなられるまで、ご厚誼を頂いた。

 氏は、晩年「瀬戸内水軍」に非常な関心を持っておられ、小生はその講義を飽きるほど聞かされた。しかしその内容はこれといって明記すべき記憶はない。
 覚えている言葉は、この水軍に家内の先祖がいた…という学説(?)だった。根拠は、「瀬戸内水軍史」という1冊の古本だっただけである。

 そのときの余談だが、「序の序」というエッセーを書いてみたいということであった。あるいは町のサークルで出している会報誌へ寄稿文の構想だったかもしれない。

 今や、句集とか歌集などをはじめ、自分史の出版が非常に盛んである。大成したひととか、環境が自分によく似ているひとの書いた自分史なら、あるいは読んでくれる他人がいるかも知れないけど、句集・歌集の類は、序文と跋文だけをパラパラ捲っただけで、書棚の装飾品となるのが常だ。
 序文は、著者を知る上で、それが自序であったとしても、興味ある文が多いことも確かである。

 その序文を集めて、序文の序文集ををつくり、その序文を自序とする。-というような話であった。誰も死ぬまでには1冊ぐらいは本を、モノしたいであろう。
 「序の序」というその企画は、大変面白いかもしれないと思っていた。

 折も折り、天智天皇の記述を3歴史教科書所から調べる宿命を負ったのである。
 雨降りだったので、1日中それに取り組んでみたが、さっぱり纏まらなかった。

 そんなことを考えていたら、丁度まだ開けたことのない「日本歴史」が出てきた。天智天皇に入る前、序文に目をやってしまった。その「序文」の引用で今日のブログページを埋めることにする。

 『定版民族日本歴史』王朝編 白柳秀湖 千倉書房昭和十三年二月二十三日再版 
 
    定版発行に際して     (著者)
『民族日本歴史』五部編の業は、著者と読者と出版企画者との三位一体的な水も漏らさぬ渾融協和によって、事前にも事後にも、何等作為的な宣伝方法と、何等背景的な威嚇方法とを用ひず、ゴーレムの如く、黙々として進み、タンクの如く夷々として行き、初版出版後、僅々二年幾箇月にして屢次の重版全く庫中に竭き、ここに厳密なる校訂と補修とを経て、定版を世に問ふに至った。  

 蓋し出版界空前のことである。若しそれこの書が、日本帝国空前の重大時期に際会し、その内部的革新と、対外的調整との上に負担した民間歴史の役割に至っては、過去の国家的、民族的転換期に於いてした民間歴史の役割が、いつでもさうであったやうに、これを後世の人の公平な評価に俟つの他はあるまい。 
                          (昭和十三年二月)
 


靖国神社参拝

2005-10-18 08:44:23 | 反戦基地

 小泉が靖国神社を参拝したということを、ブログでMさんからのコメントで知った。小生はテレビを殆ど見ないから、その日の社会情勢に非常に疎い。
 だからMさんのコメントの意味が解らなかった。ボクが靖国神社正面の「大村益次郎像」についてのコメントへの揶揄かと思った。夜になって初めて「アサヒ・コム」で小泉の靖国参拝を確認したのである。 
 
 ボクは、小泉の靖国参拝を、それほど大きく取り上げる関心は殆ど薄い。むしろそれは、彼小泉の、選挙公約だから当然だろうと思っている。しかし、大阪高裁の違憲判決があったばかりでもあり、秋季例大祭中の今日の参拝になるとまでは、考えがついに及ばなかった。 

 ボクは昨日、朝から雨降りだったので、先日のグログ記事、終戦直後の進駐軍慰安所のことを、補足する積りで、当時昭和20年9月前後の頃の記録を、本の中から探しだして調べていた。
 靖国神社や、天皇の地方巡幸の様子が克明に記されてあった。

「東条勝子の生涯 “A級戦犯の妻として 佐藤早苗 時事通信社」

《(略)いまでは、これらA級戦犯もすべて靖国神社に祀られているが、40年たってもすんなり受け入れられたわけではない。
 戦死した軍人と同じように日本のため、天皇のために戦争に参加していたのに、敵国が戦犯として裁いたからといって、母国の日本までが受け入れないのはおかしい、と遺族も不思議に思い、納得しかねていたようだ。

 靖国神社に合祀するかしないかは、戦後は天皇が決めるわけでもない、ましてマッカーサーが決めるものでもなかった。
 靖国神社の判断で行うべきものである。それを、占領軍に気をつかい、国民感情を考えて時期を待っていた、というところである。

 だからB・C級戦犯だけを先に合祀し、A級戦犯は保留してあったのである。
53年(1978年)10月、靖国神社の宮司が松平永芳に変わった時、A級戦犯もやっと靖国神社に入れて貰えたのである。(略)

 ところで、A級戦犯を裁いた東京裁判は国民の間にも広く知られているが、数からいえば他の裁判所で裁かれた戦犯のほうが遥かに多い。(略)
 彼らが残した遺書のほとんどは、裁判は納得していないが、陛下の御ために、御国のために、日本軍人らしく刑を受けると書き遺している。  

 戦地で戦死した軍人も、戦争裁判で処刑された軍人も、みな天皇陛下の御ために死んでいったのである。母親のためでも東条のためでもなく、まして、自分の罪を認めて刑に服したのでもない。銃を持って命がけで戦ったのも、処刑を甘んじてうけたのもみんな天皇陛下のためだったのである。》

 言うまでもなく天皇の責任についての明確な言明は避けている。

 東条以下A級戦犯とされ、死刑判決を受けていた7人、土肥原、松井、東条、武藤、広田、板垣、木村は、1948年12月23日、巣鴨刑務所の刑場で絞首刑になった。 この7人の中には、ボクの知らない名前の人が何人かある。

 当然戦犯になるだろうと予測されたなかで、マッカーサーと連合国が国益を理由に、個人免責を認められたものも、多数いるという。中国における日本軍の細菌戦で知られる、732部隊が、その顕著な例である。(「昭和天皇」H・ビックス)

 また1946年当初からが開始された、天皇の地方巡幸についても、その背景や意図について、H・ビックスは、

《君主主義的官僚が「さくら」を演じ、GHQと検閲下の日本の新聞が巡幸の重要性を強調するのに応じて、国民の間には順次熱狂的な雰囲気がひろがっていった。》とも書いている。

 その巡幸時の情景を書いた次の1冊があった。この著者は、1910年生まれと奥付にある。本の“まえがき〟に、

「1介の百姓として地べたから見た村を書こうという意図」としたうえで
《(略)ただ、連載中は世の反動化の風潮を強く身に感じたこともあり、憲法や天皇制について「論じた」事もある。しかし本書では、不調和なので削除した。云々。》と文は起こされている。

「敗戦そのとき村は」―続・農民私史― 真山新太郎 (社)農山漁村文化協会

《(略)「天皇陛下万歳ァーイ」と口のメガホンも張り裂けんばかりの大声で音頭をとった。すると、続いて数百の群集が手を挙げ帽子を振り、「万歳ァーイ」と唱和した。
 万歳が3回繰り返される中を、天皇をはじめ、県知事、随員県議、町村長が行く。歓呼の嵐が運動場に舞った。 

 天皇の姿が玄関口に消えると、群集はホットわれに返った。この群集の中には、赤紙一枚で召集され、戦場の露と消えた息子、兄弟を持つ遺族たちも多くいあわせたに違いない。私もその一人だが、その戦争を許し宣戦布告をしたその人が、今万歳の絶叫の中にあった。20年8月15日の敗戦から、まだ2年目の8月14日だ。主権は国民に在る、と新しい憲法はうたっているが、群集のどよめきや熱狂ぶりは、主権在民どころか、昔と寸分の変化も感じさせないものであった。(略)》 

 小泉首相靖国神社参拝のニュースは、今日まだテレビでは見ていない。今朝の新聞の見出しは、一面記事に比較的小さく、さめた扱いに映った。9月末に示された大阪高裁の違憲判決はいったい何であったのか、ボクには理解できない。

 さて昭和天皇はすでにこの世にはあらせられない。今上天皇陛下が、この夏サイパン島玉砕の地を訪問された。
 天皇が人間天皇個人の意思として、靖国神社の行幸は出来ないものであろうか。

小泉なんかどうでも良いと小生は思うのだ。

Cherry blossom house

2005-10-16 21:44:03 | 反戦基地

 啓 U君暫らくご無沙汰。今日は中学時代の同窓会、貴兄は所用の為、欠席の通知を出したと以前聞いたが、小生も兄に右倣いした。
 しかし、こちらの用件は午前中でキリが付いたので、午後はパソ子とのお付き合いとなった。

 イガい地震だった。ゴーと音がしたから、隣の家で何かオッ始めたのかと思った瞬間、パソコンのモニターがぐらぐら揺れた。スイッチはどうしたらいいか慌てたね。勿論貴邸は何でもあんめ。拙宅も大丈夫だった。

 ところで話は飛ぶが、昔、兄の街T市から、わが町に通じる国道脇に、(××線のガードを越えたあたり現在k町)終戦の頃「Cherry blossom house」いう建物があったのを知ってっかね。今、警察の独身寮になっているところだ。クソ真面目な君の事だ。分かんねえだろうなぁ。

 ある日、オレは下級生のK君とあの道を自転車で下校した。昭和20年(1945)の今頃(10月)だった。

 あそこの道路に、それらしい女たちが、2~3人屯していた。そこでK君が女の方に向かって自転車をよろめかせた。わざわざやったかどうかは知らない。女の一人が、いきなりK君の自転車のハンドルを掴んだので、彼はそこから放り出された。そして彼女はウロウロしているK君に、

「何、バカにするのょ!!好き好んでやってんじゃないのよ!」と凄んだ。K 君は哀れであった。おろおろした。中学2年生だろ。彼は女たちを馬鹿にした積りはなかったのだと思うが、彼は「孫悟空」のような貌をしていたんだよなあ。それが災いした。気の毒だった。

 k君は現在何処に住んでいるかは判らないが、禅僧であり、茶道を極めたらしい。あの思い出は一生付き纏うと思うょ。


 その「Cherry blossom house」というのは町の2業地の赤線業者がやっているとばかりオレは思っていた。いま

「昭和史の瞬間」下、朝日ジャーナル編 朝日新聞 、それから「昭和天皇下」ハーバート・ビックス吉田裕監修 講談社 を勉強中。
 その米軍慰安施設に関係ありそうなところの抜粋を書く。あの頃を思い出しながら、読んでくれ。君より勉強好きな奥様になおさら読んでくれと伝えてくれたまえ。あの頃の内情が少しは判ると思う。

 
 《(略)殆どの日本人は、占領が何をもたらすかについて自らの考えを持っていなかった。軍隊の駐屯地の近くで生活した経験のある者は、連合軍が、日本軍の兵隊が中国で行ったことと同様の振る舞いをするのではないかと危惧した。

 つまり、略奪、強奪、強姦を心配し、さらに雑婚の結果民族が弱体化する恐れを口にしたのである。占領軍の上陸後における強姦と暴力の心配にまつわる問題については、速やかに処理された。近衛の示唆を受けた東久邇は、僅か数週間のうちに日本の本土にやってくる性に飢えた連合軍兵士の相手をさせるため売春婦の動員を承認した。

 8月18日、内務省は全国の都道府県に対し、国庫からの資金提供による「特殊慰安施設協会」(RAA)を設置するように命じた。ほとんど一夜にして、全国各紙のほかさまざまな媒介に女性募集の広告が掲載され、参加を志願したもの全員に食料、衣類、そして宿舎が支給される旨を告知した広告を掲載した。RAAの発足式には宮城前広場に群衆が押し寄せ、およそ1500人もの若い女性たちが銀座7丁目(現在の松坂屋付近)に臨時に設けられたRAA本部の周辺に集まった。彼女たちはそこでRAAの関係者が読み上げた次のような宣誓に耳を傾けたのである。

 “昭和のお吉〟幾千人かの人柱の上に(占領軍の)狂乱を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方の護持培養すると共に……社会の安寧に寄与し、以って大ひにこれを言へば、国体護持に(わが身を)挺身せむとする他ならざることを重ねて直言し、もって声明となす。》
                      (昭和天皇H・ビックス より)

 つぎ朝日ジャーナルの記事は、「断腸亭日乗」の引用である。 

(永井荷風は知人から手紙をもらったが、それは当時の東京の街頭風景を次のように伝いている。)
《九月二十日、晴れまた陰。東京の知人よりまたもや可笑しき手紙を得たり。曰く、
「東京の町々の様子、その後は恰も御維新当座のごとくに相成り、舶来の錦切(官軍兵のこと)続々市内に繰り込み、省線と言わず市電と言わず、我物顔に横行致居候。尤も是等の錦切は舶来だけあって、芋や夏蜜柑(薩長のこと)の錦切とは違いいくらか上品に見え申候。事件は錦切の略奪が一番多く記念品漁りも有之、女出入は少く相成候。

 略奪の原因はなかなか面白く、近頃横浜で本牧基地、東京では向島、白山、品川、五反田、大井、人形町に諸処に彼等の遊場所出来上がり、降るアメリカの露に濡れたき自称唐人お吉が続々と出現致居候得共、其遊興費はなかなか高価の由にて、噂によれば本牧で一晩三百円位、東京で二百円位の相場の由に御座候。

 是ではいくら金持ちのメリケンでも兵隊さんでは手が廻り兼ねると見え、市俄古本場仕込みのホールドアップ、舶来の斧定九郎が登場したという事と推察致され申候。(中略)さてまた銀座辺へ買い物に出る異人供の後をゾロゾロトついて廻り、やれタバーコ、チョコレートなどと、片言の英語で乞食のように恥も外聞もなくねだる国民服を見る時は、おのれ日本人たる事を忘れつくづく日本人がいやに相成申候」》


 《おなじ20日、吉田外相と藤田尚徳侍従長とは相ついでマッカーサーをたずね、天皇との会見を打診した。27日、天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪問し、三五分間会談した。天皇は「戦争の責任はすべて私にある。私の一身はどうなろうともかまわないが、国民が生活に困らぬよう連合国の援助をお願いしたい」と懇請したという。マッカーサーは「どんなことでも相談に来てください」といい、室のドアのところまでという予定を変えて、玄関口まで天皇を見送った。》

 思い出話は尽きない。ブログをやれよ。奥さんは出来るんだから。15万円も出せば、いいパソコンが買えるんだ。こんなこと書いているのも、「ブロ友」へ贈る記事だ。プライベートは何も判らないのに、親戚付き合いが出来るブログの魅力だ。その「ブロ友」の著書が手に入ったらお見せする。「和寇」って知っている?

詳しいことはまた。
      ソンデワ。   BY.


落書き帖

2005-10-16 10:20:39 | 怒ブログ
IMGガード下のコンクリートの壁や、道路際の擁壁などにラッカースプレーで書いた落書きをよく見かける。http://www.meiseisha.com/

勿論その行為はよくないことだけれど、その書いた文字や絵など感心させられる作品(?)も沢山ある。いつぞや上野の美術館にM新聞社主催書道展で、「前衛書道」の部に英語の「Peace」を崩した書の作品があった。それなどはボクら素人の目から見ると、「書」というよりスプレーの落書きに近かった。
コンクリート壁は展覧会場に持ち込めないから、あの前の広場にトラックで運びいれ、展示したら、
「岡本太郎賞」に値する巨大作品が現れるかもしれない。

リンクを張る練習をしているので、ここを開かれた諸兄は無視して欲しい。
数日経ったら削除する積り。スクリプト プロンプト
質問2IMG

影山正治と矢吹省吾と

2005-10-15 21:06:45 | 怒ブログ

 古本屋H書房の書棚に「影山正治」の著作が纏まって並んで置いてあった。思わずそこに釘付けになった。その著作者の名前や、旧友S君、更にはかつて、わが郷土では右翼の大物といわれた矢吹省吾氏の名前が、次々とボクの脳裏を過ぎったからである。

 終戦直後の頃ボクはまだ中学生だった。クラスメートにS君という非常に生真面目な生徒がいた。今なお、現役の農業人をやっていると聞くが…。(20年以上は遇っていないと思う)彼は、時々「ひむがし」という謄写版刷りの会報らしいチラシを、学校へ持ってきては読んでいた。何回も見せてもらった記憶がある。それは「不二歌道会」という結社の短歌会報であった。

 そこに載っている、愛国の熱血溢れる影山正治の檄文が、われ等少年の心を強く打ったものである。右翼という語彙が過激派をさすことは、少年たちもうすうす気づく歳頃だった。

 中学を終えて、ボクもS君も進学できなかった。S君も家庭の経済問題があったらしい。ボクの場合もそうだ。親の借財が嵩み、赤貧の生活に喘いでいた。約束手形というものを、市販コクヨの用紙で書けば、トラックを容易に購うことが出来た時代だったから、運送屋が出来たようなもので、20歳代で約束手形を乱発した。
 
 今考えると、トラックデーラーの為に人生半分を働いたようなものである。また悪友の一方的な融通手形を頼まれ、深みに入ったこともあった。 だが、1回も不渡りを出さなかったのが、あとの信用に大きく繋がったのは、以前このブログで述べたことがある、通人「菅原通済」の著書に啓発されたことが大きかった。

 そういう一家の負債や、己の結婚問題などに忙殺されて、影山正治もS君のこともすっかり忘却してしまっていた。しかしその名前だけは、強烈にボクの頭の中の片隅に焼きついて残っていたのである。

 またその頃、ボクは矢吹省吾氏と深いかかわりのあった、得意先O氏(出光興産特約店主)の知遇を受けていたので、いわゆる「ヤクザ」や右翼の世界の概略も知ることが出来た。

 矢吹氏は愛郷塾、橘孝三郎の塾生として5.15事件に参加した農民行動隊のメンバーの一人である。氏は、晩年陶芸家として名をなし、筑波山麓の山小屋で余生を送っていたが、99頃に他界された。多くの交友達が葬儀に参加したと聞く。今でも、氏を偲ぶ文化人たちの集い(多くの女性も含む)が、その「山小屋」で定期的に行われているもようである。

 激動の時代に行動で示すことを選んだ影山氏も矢吹氏も、いわゆる民族派右翼とでも言うのだろうか、頗る魅力的人物だった。

 今でこそ否定はするが、5.15事件等も当時は共感を受け入れられる部分もあったのではないか。

 右翼というと、今では街宣車や、暴力団のイメージが強い。推測だが、当時は「愛国」や「民族」という理念が強調され確立された、れっきとした正義感に燃えた思想結社が多かったように振り返る。

 それなのにただ、昔の軍歌をボリューム一杯に上げ、善良な人々に迷惑をかけていても、一向お構いなしの街宣行動が残念である。

 影山正治がどういう思想、信念の生き方をしたのか、「ひむがし」以後の氏の足跡を知りたかった。著書を読んで確めたかったのである。
 それゆえ、値段も手ごろ、装丁もしっかりしたものを選んでH書房で1冊を買った。

 『千里行脚の記 影山正治』
 
 昭和二十八年三月二十五日 初版
 昭和四十二年十一月二十五日再版
 昭和六十二年五月二十五日三版
 発行所  大東塾出版部
 
 影山正治は、生年月日から考えれば、いま100歳前後だから、まだ存命の可能性はあるかもしれないと思っていた。しかし氏は79年に凄愴な自殺して果てていたのだった。
 その日は、1979年5月25日である。当日は大楠公「楠木正成」の湊川討死と伝えられる日であり、偶然にも小生の誕生日に当る。

年譜によれば、
  影山正治
(1910.6.12~1979.5.25).愛知県豊橋市出身.父は神官.右翼活動家.
1932:大日本生産党入党.
1933.7.11:神兵隊事件にて検挙.
1936:維新寮開設.代表就任.
1937:日本主義文化同盟を組織.
1939.4.3:維新寮を大東塾に改称.塾長就任.
1940:生産党書記長.
1940.7.5:7・5事件=皇民有志決起事件にて首謀者として検挙.
1941.:新国家協会設立.
1941.12:東條首相批判の檄文.反戦とみなされ検挙.
1944.11:陸軍召集.
1945.8.25:塾長代行=父庄平と大東塾生13名が代々木練兵場にて集団割腹自殺.
1946.1:超国家主義団体とみなされた大東塾に解散命令.
1946.5:帰国.
1954.4:大東塾再建.
1979.5.25:割腹散弾銃で自殺。

 ただ古本のことを書く積りだった。H書房の看板は「古本・H書房」(性に関するエッチではない。ローマ字の頭文字である)と書いてあった。ボクが古書店と書いたほうが格好よかっぺと店主に忠告したら、大きく場所を占めた漫画本のコーナーを指さして、これが古書とは言えなかっぺと大笑したものである。影山正治の著書を集めてある古本屋も尠いが、ここは旧帝国陸海軍に関するジャンルの本、高価な原稿や美術品も数多い。ギャラリーを兼ねたロビーもある。
 全国各地から注文された本の発送が沢山ある。勿論右翼人ではない。

 とうとう、話題が己の貧乏物語まで及んでしまった。
 小生と同じ世代の方なら若干の御理解はいただけると思う。


100万円ウヰスキー余聞

2005-10-13 21:19:08 | Weblog
 樽の中で50年以上も熟成させたという国産ウヰスキーが(2005年5月)11日、1本(700㍉リットル)100万円(税別)で売り出された。サントリーの「山崎50年」で、同社によると熟成期間は国産で最も長く、値段も最も高いという。

 発売数量は50本限定。酒屋やデパートなどで予約を受け、6月下旬から発送する。国産ウヰスキーは1本1500円~2500円のものがよく売れている。同社は「一生に一度は飲んでみたいという人は少なからずいる」と期待している。

 これまで国産で最も熟成期間が長かったのは2000年に同社が発売した「ザ・センチュリー40年」の40年。最も高価なのも同社が02年に発売した「響35年」の100万円。これは人間国宝の13代目今泉今右衛作の有田焼ボトル入りで、ウヰスキーだけの値段は山崎50年が高いという。(朝日新聞切り抜きから)


 その日、早速
小生(tani)は予約を申し込んだのだが、すでに時遅く、完売済みであった。(本当かどうか、本当だと思う人はそれで良し、チクだと思っても一向に構わない。)

このウヰスキーを、
天皇陛下に差し上げたかどうかは、推測の域を越えぬ。

下記は大槻史彦著「言海」の編者への宮内大臣からの御達である。

 日本辭書 言海 四部
右今般編輯ノ趣ヲ以テ
天皇陛下
皇太后陛下
皇后陛下
皇太子殿下ヘ献上被致候ニ付夫々
御前ヘ差上候右ハ斯道ニ裨益不少
善良ノ辭書ニシテ精励編輯ノ段
御満足ニ被思召候此段申入候也
明治二十四年七月二十三日
宮内大臣子爵土方久元
            
    以上である。Tani 山人九拝



雌鳥歌えば国滅ぶ

2005-10-12 22:33:36 | 社会欺評
証人喚問の頃
 今日、週刊誌が捨ててあったのを、ミジメに思ったけれど拾ってきた。週刊誌だって320円もするのだ。勿体ないではないか。

 週刊誌といえば、女性週刊誌でさえ嘗ては、裸女の妖艶なグラビア頁から始まるのが主流だった。「ヘアー露出」などといって女性の陰毛まで写したものである。
 ずっと以前、ある歯科医院の待合所においてあった女性□□という週刊誌を開いたら、袋とじ部分が開かれていて,「男性を悦ばせる方法」とあり、なんと男性のpenisを、女性が啣える絵図があったのには、小生はうっかり開いてしまって、慌ててページを伏せたことがある。
 この拾ってきた女性週刊誌は、そういう写真も、記事もないところ見ると、いまは絶滅したのかもしれない。あれでは、女性誌にはどうみても相応しくない。時代遅れだよネ。センスがなくちゃぁ。

拾ってきたこの女性週刊誌のグラビアページは、『今日の紀香は〝エレガンス・ロコガール〟!』『愛子さまの旅「雨のお散歩」』の2本だけの寂しいものであった。
 大概の週刊誌には、雲の上の天皇御夫妻や皇太子、雅子さま愛子さまの写真、物語がページを埋める。表紙の見出しに真紀子さんが出ていないから、ネタがいよいよなくなったのかと思ったら、元外相も、ムネオ先生ともども、ヤッパリ健在だった。「NHKvs朝日新聞」は女性には向かないようだ。
(おおっと、ちょっと待て。待て。まて。マテ。この週刊誌は去年(2004)の5月28号だったのだ)

しかし、そんなことはどうでも良い。そんな皇室の写真や,ムネオ先生vs真紀子さんのゴシップなんかで、誇り高き小生が、ゴミ処分の週刊誌を、拾ってまで持ち帰る猟奇心は湧く筈わないだろう。

 ボクが大いに関心を持ったのは、その表紙に
《〝債権者〟女性が涙の告発!「辻元清美さん、お金を返して!私の会社が潰れる!」》の見出しである。
『巨額の政治資金の借金返済を渋っていた辻元清美(42)。その知られざる“裏の顔〟を知人の会社経営者が明かした!』
記事もトップページで、あの泣きべそをかく、有名なシーンの写真が、大きく再現されていた。
週刊誌だから、あまり本気にはしないほうが良いと思うけれど、 土井たか子の醜態を見ても分かるとおり、今の社民党の政治屋には、碌なものはいないことは、こんな記事が書かれることを見ても明らかだろう。

残念だ。無念至極としか言いようがない。
 労働者の味方だとか(今はそんなこと言わないか…。憲法9条―ん。戦争反対。当たり前じゃあないか。それより我輩は銭がなくて困っているのだ!莫迦!)、ソーリ!などと得意になって絶叫し、秘書の給料までネコババして、泣きべそをかいて、辞めた女が、また議員バッチを付けたのだ???世の中どうなっているの。小生には判らない。なんとも判らない。中卒の学歴だからか?

 若しかして辻元が、小泉と、談合して自民景気を、煽っているのではないかとさえ疑いたくなる。ああ…、少々我輩も久しぶりに興奮してしまった。今宵は焼酎の捗がいくド!!社民党(旧社会党残党)を考えると、小生は理性だの、知性だの糞くらえと、怒鳴りたくなるのだ。

 真面目に社民党、特に純真無辜な福島党首や、神田香織さんを後援なされている方には、恂に申し訳ないが、辻元や土井に象徴されるのが今の社民党だと小生は言えたい。
 
 「雌鳥歌えば国滅ぶ」土井たか子引退の詞にする。

 



  
 

皇国史観

2005-10-12 08:28:02 | 博物館

皇国史観 (クワウコクシクワン)国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国として描く歴史観。十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた。      [広辞苑第5版]

第五十三 今上天皇の即位

【天長節】第百二十四代今上天皇は、大正天皇の第一の皇子にましまし、明治34年4月29日に生れさせたまふ。

大正5年御年16歳の時、立太子の禮を挙げさせられ、ついで内外多事の間に、摂政の御重任をはたしたまへり。

【天皇踐祚したまふ 昭和元年】先帝崩御の日、天皇ただちに踐祚し、年号を昭和と改めらる。やがて文武百官を召して朝見の儀を行はせられ、かたじけなき勅語を賜ひ、すべて着実を旨とし、みづから工夫することにつとめて、日に日に人文を新にし、国民一体となりてますます国家の基礎を固くし、又広く世界の人々と交を厚くせよと仰せたまへり。

【御大葬の儀を挙げたまふ】昭和2年1月先帝に大正天皇のご追号をたてまつり、2月御大葬の儀を挙げたまひて、多摩の御陵にをさめたまふ。

【天皇即位の礼を挙げたまふ】先帝の諒闇終りて、昭和3年11月10日即位の礼を京都の皇宮にて挙げたまへり。この日天皇御みづから賢所を拝して、皇祖天照大神に御即位の由を告げたまひ、ついで紫宸殿に出でまし、高御座にのぼりて、あまねく之を臣民に宣したまふ。実にならびなき盛儀にして、国民ひとしく万歳をとなへて、之を賀したてまつれり。ついで大嘗祭を行ひたまひ、天皇親しく天地の神々をまつりたまへり。

【かたじけなき勅語を賜ふ】紫宸殿の儀に於て、天皇の賜ひし勅語の中に、御歴代の天皇は、皇祖皇宗の大御心をうけつがれ、わが国を御家として万民を愛撫したまふこと、あたかも慈母の赤子に於けるが如く、万民また互いに心をあはせ、天皇を国の御親とあふぎたてまつりて、忠誠をつくし、君民一体となりて今に及べり。これ実にわが国体の精華にして、まさに天地と共にきはまりなかるべしと仰せたまへり。まことにかしこき極ならずや。

【国民の覚悟】今や、我が国は五大国の一として、世界に於ける重要な地位を占む。これ実に御歴代天皇の御盛徳と、国民世世の忠誠とによれり。さればわれ等国民は、よく国運発展の由来をつまびらかにし、おのおのその業に励み、一致協力してますます国家の富強をはかり、進んで世界平和の為に力を尽くし、以ってわが国史に一層の光輝を加へざるべからず。

尋常小学国史 下巻 終
        [尋常小学国史 文部省 東京書籍昭和2年(1927年)発行
(註)この尋常小学国史は小学5~6年用教材である
[参照] 
高等学校最新日本史  朝比奈正幸 小堀桂一郎 松村剛 国書刊行会(のち明成社に版権譲渡)
新しい歴史教科書新訂版  西尾幹二ほか13名 扶桑社
検定不合格日本史  家永三郎  三一書房

 



寿限無

2005-10-11 20:50:54 | Weblog
 小学生のヤツから、
『「寿限無」って分かる?』というオレに質問の電話がきた。
「なんだ、それ落語だろ。」オレは辛うじて返答をした。

「アノー、それを教えて貰えたいんだけど」ヤツは、オレ様がわからないと思って、バカにしてかかった電話をかけてよこしたのだ。こんチクショウめ!

「調べてFAXで送る」とは返事したものの、ちょっと、その落語全集が見付かるかどうか自信がなかった。しかし分厚い本だったから、直ぐに見つけた。事なきを得た。恥をかかずに済んだと胸をなでおろした。
増補版落語全集(下巻)金園社である。

 至急報FAXで解答した。しかしその後、広辞苑でひいたらちゃんと叮嚀に全文が載っているではないか。ヤツはそれを調べてオレに電話をよこしたのだ。
バカをみた。

《じゅげむ【寿限無】落語の一。生まれた男の子に檀那寺の住職から

「寿限無寿限無、五劫のすり切れ(ず)、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所.に住む所、やぶら小路ぶら小路(藪柑子とも)、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグリーンダイ、グリーンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」という長い名をつけてもらい、何かのたびにそれを繰り返すおかしみが狙いの前座ばなし》。
 
 酷立筑波大の学園祭「双峰祭」も間近い。
香車亭一門(訓読みYARITEEという欲求不満のオチケンのワカモノたちの集団)にしっかりヤレと教えてやれ!!