狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

美しい日本

2006-09-30 21:02:56 | 怒ブログ
  



イギリスの男
     神保光太郎
昭南島で
私が会ったイギリスの俘虜
ケンブリッジ大學を卒へたといふ
そして
ごそごそポケットから取り出した写真
―これ ワタクシノオクサン
と言って めそめそ愬へ出した
―ヘイワハイツクルデセウカ
私はこたへた
―うん、平和はくる
―ロンドンとワシントンに白旗のあがる日
―その時 きみらは
―だいの日本通として歓迎されるだろう
赤道直下の陽はまばゆく
今日も あのイギリス将校は
オクサンの写真をいだいて
かれらの故国に
白旗の翻る日を待ちわびてゐるだろう
          『アサヒグラフ』昭和18年5月5日号


はずかしーい。     ―日本人

プロレスラー繰上げ当選

2006-09-29 21:33:51 | 怒ブログ
竹中平蔵前総務相は26日午後、「政治の世界での役割は終わった」として、扇千景参院議長あての議員辞職願を参院事務局に提出した。28日の参院本会議で許可される見通し。竹中氏の辞職により、2004年7月の参院選で自民党比例代表の次点だったプロレスラーの神取忍氏が公職選挙法に基づき繰り上げ当選する。

たいへん喜ばしいことでございます。

〝美しい日本〟!
〝悲しいわが家〟!

戦ひに国傾きて牡丹かな   荷風散人

以下摘録断腸亭日乗(下)永井荷風著 磯田光一編 岩波文庫
昭和19(1944)年
九月初七。午前驟雨あり。無花果熟して甘し。近隣の南瓜早くも裏枯れしたり。鳳仙花白粉花秋海棠皆満開。萩木芙蓉の花また満開となれり。町会事務所にて鮭の缶詰の配給をなす。噂によればこれらの缶詰は初軍部にて強制的に買上げをなせしもの。貯蔵に年月を経過し遠からず腐敗のおそれありと見るや町会に払い下げをなし時価にて人民に売りつけ相当の鞘を得るなり。軍部及当局の官吏の利益これだけにても莫大なりといふ。日米戦争は畢竟軍人の腹を肥やすに過ぎず。その敗北に帰するや自業自得というべしと。これも世の噂なり。××氏に送る返書の末に、

 世の中は遂に柳の一葉かな    残柳
 秋高くもんぺの尻の大なり    〃
 スカートのいよよ短し秋のかぜ  〃
 スカートの内またねらふ薮蚊哉  〃
 虫ききに銀座を歩む月夜哉    〃
 亡国の調せはしき秋の蝉     〃
 秋蝉のあしたを知らぬ調べかな  〃
 




人の噂も七十五日

2006-09-28 15:07:22 | 怒ブログ
福島県の佐藤栄佐久知事が、県発注工事の談合事件で、実弟が逮捕されたのを受けて、辞職を表明したそうです。昨日の新聞では、9月の定例県議会の本会議で、実弟と元件土木部長が逮捕されても、自らの進退には言及しなかったので、議会各派が、辞意を表明しないなら不信任案提出も辞さない構えと書いてありました。これでは辞めざるを得なかったのでしょう。

 私は隣県の住民ですが、今から約13年前の1993年、これは弟でなくて、知事本人ですが、建設業者から9500万円の収賄容疑で逮捕され、辞任致しました。当選5期18年目の出来事も、まことによく似通っていると思って、特に感慨深いものがあります。
 こちらは容疑者が、2003年12月に、病気の為公判手続きが停止になり、翌年2004年9月肺癌の為死去致しましたので、一切は解明されない、うやむやのまま幕は閉じてしまいました。

今日の朝日新聞コラム『天声人語』ではこの福島県談合事件に触れ冒頭草野心平詩集から入っています。

《「阿武隈山脈はなだらかだつた」。福島県生まれの詩人、草野心平が「少年思慕調」と添え書きした詩「噛(か)む」の1行目だ。「だのに自分は。よく噛んだ。鉛筆の軸も。鉛色の芯も。/阿武隈の天は青く。雲は悠悠流れてゐた」と続く。▼幼い日々を顧みる詩句に、故郷の自然の豊かさとのどかさが溶け込んでいる。「小学校は田ん圃の中にぽつんとあり。春は陽炎につつまれてゐた」(『草野心平詩集』岩波文庫)》

こんな風に詩句に読まれた、阿武隈川流域の下水道工事で、県で一番の権力を持つ知事の弟が、談合を仕切っていたのだとすれば、長く県政をあずけてきた県民の気持は複雑だと思います。

しかし、わが県の場合を見てみますと、10年も経ちますと、もう事件は風化してしまって、すっかり忘れ去っています。隣県の福島県は、政治風土も、言葉遣いも私の県と似通ったものがあります。
これもおなじように、「人の噂も七十五日」という諺通りの、結果に終わるのではないでしょうか。

丁度私はこの詩集を持っておりました。
「噛む」の次はこんな詩が続いています。

   豊旗酒
八岐大蛇が飲んだのは猿酒だったか。
それとも人間がつくった紅い莢蒾(ガマズミ)の酒だったろうか。
などと他愛ないことを考へながら。
冷や酒を飲む。
二十世紀の後半で。
古事記の時代を遠想しながら。
(酒が酒を飲むとはよく言ったものだ。)
着物はなめした月の輪熊。
ちゃんちゃんこは青猪の皮。
なんて勝手にカッコをつけながら。
(酒が酒を飲むとはよく言ったものだ。)
二階のベランダにおんでたら。
ああ凄い。
ヴァミリオンの豊旗酒。
その真つ下の冨士は生憎見えないが。
コップをあげて豊旗の雲を映し。
七十五歳ごとガッと飲む。

草野心平は、いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章を受けています。



講談教室

2006-09-27 21:25:28 | 阿呆塾

紅の講談教室
●ーーーーー●ー●ーー●
元禄十五年十二月十四日―(げんろくじゅうごねんじゅうにがつじゅうよっか)
●ーーーーーーーーーーーー
月は変われど日は同じ(つきはかわれどひわおなじ)
●ーーー
亡浅野内匠守のご命日=(ぼうくんあさのたくみのかみのごめおにち)
●ー●ーーーー●
本所松坂町吉良邸を取り囲む(ほんじょまつざかちょうきらていをとりかこむ)
●●ー●
赤穂義士―(あこうぎし)

表二十三人裏手二十四人(おもてににじゅうさんにんうらてににじゅうよにん)
●ーー●ーーー●ー●ー
表裏別れる四十七人=(ひょうりわかれるしじゅうしちにん)
         「赤穂義士討ち入り」より
探し物をしていたら、古い日記帳(平成5年)の間に挟まっていた、こんな一枚、の紙切れを見つけました。これは、隣市の文化会館で開かれた「講談教室」の教材なのです。
 毎週新聞と一緒に配達される情報誌で判って、聴きに行きました。
「紅」は紅色のことではありません。
女流講談師「神田紅(くれない)」の講談教室という意味です。EIで“神田紅〟で出てきます。講談で教養を深めたい方はどうぞ。

文句の上の●しるしは、アクセント、ここでは多少(大分)狂っています。また分節に“張り扇〟で釈台を叩きつけて、調子をとる記号もあるのですが、うまく貼り付けられません。
私も前さ出て実際やらされましたが、カラオケより面白いものですョ。
声を出してやってみてください。缶ビール1缶引っ掛けると、なお、調子付きます。



天皇陛下の稲刈り

2006-09-26 17:51:00 | 日録
天皇陛下が、皇居内の水田で稲を刈るお姿を、テレビで放映されたのを拝した。
同じような光景は、昭和天皇の頃から何回か見た覚えがあるので、今更物珍しいことではない。
然し陛下のこのお姿は、恐れ多いことだけれど、けっして格好の良いものではなかった。テレビでは稲を2株3株刈り取る部分しか放映されないので、田圃にお入りになる前、どんな儀式を経て、お始めになるのか分からないが、あのお姿から想像して大それた神事ではなさそうだ。

 詳しいことが新聞にあるかと思ったら、第三社会面の僅か10行の短文に収まっていた。(朝日新聞26日朝刊)
 杉浦法相が死刑執行命令書に署名を拒否したまま26日の任期を終える見通しの記事があって、世界の気温と天気予報欄の脇に、見落としがちのような小さな記事である。

 収穫したお米は、新嘗祭、大嘗祭のとき、「皇祖皇宗」に捧げられるものであるという。これは、田植えからはじまる天皇家の年中行事で、天武天皇の時代から引き継がれている「神事」なのらしい。

 抑々天皇家のなすことは、私たちには理解できないことばかりだが、せめて、稲刈りの時くらいは、皇后さま、皇太子ご夫妻、秋篠宮様もお揃いでお出でになり、愛子様にも、鎌を持たせてお遊びをなさせる位のことが出来ないものだろうか。
あのお相撲見物の時のような、無邪気なお顔を拝見したものだ。

 天孫降臨の昔話なども、してあげられるご一家団欒の日であってこそ、天津日嗣は天地と偕に無窮なものになるだろうと、国民の一人としてふと思った次第なのである。あなかしこ。

話の特集

2006-09-25 22:23:25 | 怒ブログ
M氏からメール便が届いた。
週間「金曜日」の部分コピーである。先週も送っていただいた。

>安倍晋三(官房長官)の正体
“安倍首相〟ブレーン人脈の見識、評判、人格
保守本流の看板を辞任したいらしい安倍氏は、経済重視の宏池会保守の政策を行き過ぎた福祉と考え、日本が“自立する〟ために外交や軍事の強化を主張する。
われわれの税金を福祉よりも軍備に使いたいわけだ。そんな安倍氏を支える面々とは。   天城慶という署名がある。

深秋

2006-09-24 21:09:42 | 博物館

木犀が匂っている。この木犀が匂う季節になると、昔は(平成元年ごろ迄)山に「初茸」が出たものだ。今は全くない。部屋の古本を探していたら大正時代の貯蓄債券が本の間に挟まっていた。この本は、大正14年11月発行の郷土史である。妻の実家から頂いたものである。

券債蓄貯興複→復興貯蓄債券
圓五金→金五圓
1 本債券ノ発行ニ依ル収入金ハ震災地ノ復興及地方産業ノ振興ノ為必要ナル用途ニ之ヲ融通スルモノトス
1 本債券ノ利子ハ一箇年四分ノ半箇年複利計算ヲ以ッテ据置キ償還ノ際元金ト同時ニ下表ニ依リ之ヲ支払フモノトス

株式会社 日本勧業銀行
大正拾四年拾月 総裁□□□□ 印


  償還期月  支払利金額          償還期月    支払利金額
1 大正15年2月 金5銭     19 大正24年2月  金2円21銭
2 大正15年8月 金15銭     20 大正24年8月  金2円35銭
3 大正16年2月 金25銭     21 大正25年2月  金2円50銭
4 大正16年8月 金35銭     22 大正25年8月  金2円65銭
5 大正17年2月 金46銭     23 大正26年2月  金2円80銭
6 大正17年8月 金57銭     24 大正26年8月  金2円96銭
7 大正18年2月 金68銭     25 大正27年2月  金3円12銭
8 大正18年8月 金80銭     26 大正27年8月  金3円28銭
9 大正19年2月 金91銭     27 大正28年2月  金3円45銭
10 大正19年8月 金1円3銭     28 大正28年8月  金3円61銭
11 大正20月2月 金1円15銭     29 大正29年2月  金3円79銭
12 大正20年8月 金1円27銭    30 大正29年8月  金3円96銭
13 大正21年2月 金1円40銭    31 大正30年2月  金4円14銭
14 大正21年8月 金1円53銭     32 大正30年8月  金4円33銭
15 大正22年2月 金1円66銭     33 大正31年2月  金4円51銭
16 大正22年8月 金1円79銭    34 大正31年8月  金4円70銭
17 大正23年2月 金1円93銭    35 大正32年2月  金4円90銭
18 大正23年8月 金2円7銭     36 大正32年8月  金5円

万世一系

2006-09-23 21:55:30 | 阿呆塾

今日は土曜祭日。秋彼岸中日たり。実は、わが家には仏壇がないので、この日なるを忘れていた。某兄宅へ寄ったら、仏壇前で若い僧の読経最中だった。そこで初めて気が付いたのである。

 ボクはわが奥津城所だけは確保してあるが、まだ更地のままである。ここから愚生tani一家の歴史が続いていく。(続くか続かないかはまだ分からぬ。)
しかし、わが祖先をたどっていけば、伊邪那岐・伊邪那美命の神代まで到達することは間違いないであろう。(違うか。途中から海を渡ってきたのかもしれないね)しかし万世一系で、今日のオレまで綿々と続いてきた。

だが「万世一系」とは広辞苑にもある通り、<永遠に同一の系統が続くこと。>であり、<多く皇統についていわれた>ということになるようだ。
tani家はいつの間にか皇統から外れた。

昔天武天皇が律令を制定し、国史の編纂を創められてから、持統(妻)―文武(孫)―元明(姪)―元正(孫)の手を経て、和銅5年稗田阿礼の記憶を太安万侶が筆録した「古事記」や、更に舎人親王らの選による「日本書紀」が出来て、アキヒト氏まで万世一系の系譜が確立されたことになっている。

まことに複雑怪奇極まりない歴史物語であるが、わが家の系譜は、これから小生の記憶、筆録によるものであるから簡単明解である。

神代―神武天皇(または同時代の人類)――――――-(悠遠不明)―――――高祖父・母(貧乏宮大工なりという説あり)―曽祖父・母(貧乏百姓)-祖父、母(貧乏百姓・大呑んべえだったらし)―父・母(貧乏百姓、陸軍歩兵上等兵、シベリア出兵の軍歴あり・商人兼務)―小生・荊妻(貧乏会社経営)―愚伜(貧乏地方公務員)
今系図は、お金を払って簡単に作ってもらえるそうだ。

「断腸亭日乗」を追う

2006-09-22 21:18:52 | 本・読書
「声の残り」に中でドナルド・キーンが市川市の永井荷風邸を訪問したのは、、1957年(昭和32年)、か58年、と書いているので、思わず「断腸亭日乗」を繙いてみた。この頃は、殆どの日が、1日1行、天候、浅草。とのみ記した日が多い。島中(嶋中の誤りだろうと思う。)、高梨両氏が度々訪問しているが、キーン氏の名前は見つけられなかった。荷風はこの年3月27日、市川市八幡町4-1228の新築家屋に引っ越したばかりであった。荷風79歳である。

3月27日。晴。午前10時凌霜子小山氏来る。小林来る。11時過荷物自働車来り荷物を載せ八幡町新宅に至る。

これより数日前の記述にキーン訳〝すみだ川〟のことが出てくる。

3月22日。晴。小林来話。凌霜子来話。正午過ぎ浅草にて食事。帰宅後米人キーン氏訳余の旧作すみだ川をよむ。(Modern Japanese Literature an anthology compiled and edited by Donald Keene. Grove Press.New York.)

荷風はこの地で1959年4月30日死去した。81歳だった。

4月29日。祭日。陰。
これがその前日最後の記述である。

「断腸亭日乗」を拾い読みしていたら、荷風全集24巻から、月報がでてきた。
「荷風の矛盾」と題した湯浅芳子の荷風の人物評が書いてある。

…己に甘く他人に厳しい点では常人の域を越えていた。これは女に対してばかりでなくあらゆる他人に対してである。人間への批評は辛辣だが自分自身には聊かの反省もない。
いったい荷風は芸術的な感覚はすぐれていたけれどもモラルの感覚は至って低く4書5経的な偏見で簡単に片づけている。また倫理的な思考は最低で、読んだ本の数は驚くばかりだけれども、感性で受けとめていたきりではなかったか。それは音楽や劇についても同じで、だから彼には読後にも観劇後にも感想の記録が殆どない。荷風がゾラやモーパッサンや後年はバルビュースなどにも惹かれたというのはまことに奇異な思いがするけれど、荷風なりの読み方をしたので、作者や作品の深いイデアは解ろうとしなかったし、もともと解る筈のない人物だったのである。

「声の残り」の中の荷風

2006-09-21 15:24:42 | 本・読書
朝日新聞連載D・キーン「声の名残」18回に永井荷風が出て来る。
以下その引用。

永井荷風には、一度だけあったことがある。実はそれだけでも、大したことなのだ。特に晩年、荷風は、奇人的性癖が強くなってきて、作家や知識人と付き合うのを、極端に嫌がったからだ。
 私が彼に会ったのは、1957年。あるいは58年だったろうか。それに先立つ56年に、私の編纂による英訳アンソロジー『近代日本文学』だ出ていた。そしてその中には、私が訳した荷風の「すみだ川」が入っていた。だから私は当然荷風にも、1本を贈呈していたのだ。私が彼に会う資格があったとすれば、これ位なものだったのである。そしてその会見も、もし荷風の出版社の嶋中鵬二が、ついて来てくれていなければ、おそらくは実現しなかったにちがいない。

 市川の荷風の家には表札が出ていなかったし、彼の有名な断腸亭とはちがって、特にハイカラな建物ではなかったので、すぐそれとは分かりにくかった。
とにかく家を見付けて、入って行った。私はそれまで、日本人の家に初めて入った時、家の人が、
「きたないところですが」と、へりくだって言うのを、よく聞いたことがあった。しかし言葉どおり、本当にきたないことを実感させられたのは、実はこの荷風の家が、初めてであった。例えば私たちが畳の上に座った時、もうもうたる埃の煙が、たちのぼったものだ。

間もなく荷風が、姿を見せた。荷風という人は、まことに風采の上がらなぬ人物だった。着ている服は、これといって特徴のない服で、ズボンの前ボタンが、全部はずれていた。彼が話し出すと、上の前歯は殆ど抜けているのが分かった。しかし彼が話すのを聴いているうちに、そうしたマイナスの印象なぞ、いつの間にか、どこかへ、すっ飛んで行ってしまった。彼の話す日本語は、私がかつて聴いたことがない位、美しかったのだ。第一私は、日本語が、これほど美しく響き得ることさえ、知らなかった。その時彼が話したことの正確な内容、せめて発音の特徴だけでも憶えておけてらよかったのに、と悔やまれる。ところがその日は、前の晩の飲みすぎで、私はひどい二日酔い、荷風が何をしゃべったのか、記憶が全く定かでないのだ。それにしても、彼の話し言葉の美しさだけは、あまりにも印象深くて、忘れようにも忘れられない。
 
 荷風は、私の訳した『すみだ川』の翻訳を読んでいて、褒めてくれた。しかし今自分で読み返してみると、ところどころミスをしていることに気付いて、顔から火が出そうな思いをする。それは大抵において、私が当時東京や日本の習俗を知らなかったことから起こったミスなのだ。例えば、今川焼きとは、言うまでもなく、その発祥が江戸時代にまでさかのぼる大衆菓子のことだ。ところがそれを私は、陶器の一種と勘違いしている。荷風はおそらくこうした間違いに気がついていたに違いない。しかし同時に、近代日本文学の中で最も美しい作品の一つであるこの小説への、私の深い愛情を、感じ取ってくれていた、と私は思う。ただの一回きりであっても、荷風に会えたことは、私にとってこの上ない幸運だったのだ。

「声の残り」余聞

2006-09-20 21:12:09 | 阿呆塾

ドナルド・キーン(Donald keene)
1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大學卒。在学中から日本語を学び、戦後ケンブリッジ大學、京都大学などで日本文学を研究。「国性爺合戦の研究」でコロンビア大學博士となる。日本文学を多数海外に紹介している。1962年の菊池寛賞受賞。1985年『百代の過客ー日記に見る日本人』で読売文学賞、日本文学大賞受賞。現在コロンビア大學教授、朝日新聞社客員編集委員。
「著書『碧い眼の太郎冠者』『日本人の西洋発見』『日本文学史・近世篇』『日本文学史・近代・現代篇』『日本文学散歩』『日本人の質問』など。
『人間失格』他英訳も多数。

これは『二つの母国に生きて』朝日選書1987年の奥付にある筆者紹介である。
これを見ると、小生と著者とは、○歳しか違わない勘定になる。
敬老日の前後、ボクも己の年齢について考えないわけではなかった。
だから、年齢などの記述があると、大いに注目するのだ。
「声の残り」のあとがき、〝おわりに〟を読んでみよう…。(以下引用)
おわりに
…(略)
 しかし初めから、現在活躍中の作家より、どちらかというと故人になった作家のほうに、より多くの紙数を割くことになるだろうことは、予想していたことであった。思うにこのことは、今やその声も聞けず、会うこともかなわぬ人々に対して、私が抱いているノスタルジーから来る、当然の結果なのである。そしてそれだけではない。
私がある年齢に達した今や――私は七十歳になったばかりだ――新しい友人を作るのがのが困難になって来た、ということもある。同時に、いわば新種の文学を受け入れるのも、むずかしくなって来ている。
最近ある人に、好きな漫画家は誰か、と訊かれたことがあった。その時私は、日本の漫画で、最後まで読み通したものは一冊もない、と白状せざるを得なかった。多分漫画も、読むべきなのだろう。今の私には、ただ単調なドドン、ドドンという騒音としか聞こえないロック音楽でも、もっと理解しようと努めなければならないのかもしれない。しかし人間は、年を取るにつれて、自分の趣味を変えるのが、ますますむずかしくなって来るものなのだ。したがって、この私も、漫画の文化性を探ることによって、自分の文化的関心を拡げるよりも、すでに自分が感服している作家を、さらに深く読み込むほうを、採るのである。
 …(略)

D.Keene著作本について

2006-09-19 22:02:46 | 阿呆塾

私は決して読書家ではない。しかし「本」の話になりと、やはり嬉しい。そして愉しい。
それは、湖の岸辺の面に、釣竿を垂れて、いつかかってくるのか分からない獲物を、焦ることなくじっくりと、待っている人類と同じだろうと思う事がある。(オレは、あれほど聖人君子のような気分にはなれないが…)

希有の読書家であり、勤勉超人的、時の学習塾講師V先生とブログの上で、得がたい好誼を得た。
私が、D.Keeneの「碧い眼の太郎冠者」のことを書いたら、早速
「その本は、ネット扱いは、中止になっておりました。我が家の近くには、ブックオフ以外古本屋がありません。
手に入るものも沢山あったというより、ありすぎでしたので、もし、“これが良かろう”というようなものがあれば、一冊でも二冊でも、教えていただけませんでしょうか。」というコメントを頂いたのである。これにはすっかり狼狽してしまった。

V先生と小生とでは学問のレベルが違う。隔たりがあまりにもおおき過ぎる。
しかし、皇室さまだって、週刊誌のネタになるような今日、魂消ることもあるまい。
 と、ボクは、己の程度で、これはV先生に薦め出来ると思う本は、
「D.Keene 『声の残り』朝日文庫である。」と小さい声で囁く次第なのである。
怱々。謹言。

<余聞>
この本は1992年(平成4年)4月1日から、朝日新聞朝刊に連載されたものを、「大幅加筆したものである」と解説がある。(ボクはその新聞を切り抜いて2冊のファイルに綴じ込み、保存してある。ところが今捜したのだが、1冊37回分だけしか見つからぬ。だから何回に亘って連載されたのか、今のところ不明である)。

この連載ものは、完結次第単行本になることは充分予測できた。しかし、これまでのその種の例を見ると、新聞掲載の挿絵は、ほとんど削除されていたから、ボクはわざわざ切り抜きという、面倒な作業を実行したのであった。
新聞には、毎回、守屋多々志の軽妙な日本画風の絵が挿入されていたのである。



 

敬老微

2006-09-18 21:35:33 | 怒ブログ

【敬老】老人をうやまうこと。「-精神」
―‐かい【敬老会】老人を招いて慰安する会。尚歯会(しょうしかい)。
―‐の‐ひ【敬老の日】国民の祝日の一。九月十五日。従来の「老人の日」を新たに祝日として1969年に制定したもの。(広辞苑第5版1998年11月11日・第1刷)


目黒のさんま

2006-09-17 19:51:34 | 阿呆塾

殿さまは午飯も上がらんで、未刻すぎまで駆けずり回ったから、お腹がすいて如何ともしかたがございません。けれど大名のことだから、近所で食パンのひときれも、焼いもも買うわけには参りません。

これから立ち上がって、ただいまの別当所の方へおいでにならんとする折から、秋の末で、さんまの多い時分ででありますから、近所の百姓家で焼いていたものと見えて、さんまの香気がプンとした。

さんまの焼く香気は、大へん遠走りをいたしますもので、この前私の心やすいかたが、長崎の丸山でさんまを三匹焼きましたが、三日目に支那の香港まで匂って行きましたが、なかなか遠走りが致します。
今プンとしたやつが、香ばしいうまそうな匂いでありますが、雲州公には、なんの匂いかおわかりがない。これはご存じのないわけで、さんまはそのころ下魚と言われ、お大名がたは召し上がりません。

お旗本でも、千石以上のかたは口に入れません。さんま、このしろ、いわしなどは、みな下魚で、ことさら十八万石のお大名でありますから、ご覧遊ばしたこともないのですが、一ト塩にしたのを焼くのでうまそうな香気、ことに人は腹がへってくるとよく鼻がきいて来ます。

殿「コレだいぶ美味そうないい匂いがいたすが、その方どもにはかおりがいたさんか。どうじゃ?」
家「先刻から匂っております」
殿「よほど香ばしいかおりじゃな」
家「なかなか結構なかおりで、ただいま竹内の申しますには、だいぶ空腹の折りからじゃによって、どうかこの匂いで一杯茶ズリたいと申しています」
殿「ハア……空腹の折りからじゃによって、この匂いで茶ズリたいと申すわけはどういうわけ?」
家「恐れながら申し上げます。茶づけを一膳食べたいと申すので。茶づけを一膳食べたいと申しましては、だいぶ手間が取れますから、早手回しに茶ズリたいと申しましたので」
殿「ウムなるほど茶づけを一膳食べたいと申すのを、詰めて茶ズリたいという言葉は軽便でよろしいな。この方もよほど空腹じゃ。この匂いを肴にして、茶ズリたいと存ずる」
家「ウフ……恐れ入ります」
殿「なんのにおいじゃ?」
家「恐れながらお上は存じあらせられません。下様でさんまと申す、一ト塩にした魚で、丈は一尺も御座います。脇差の身に似ており、細く光る魚で御座います。そのさんまを、近辺の農家で焼いていることと存ぜられます」
殿「ウムこの匂いは、さんまと申すものか」
家「御意」
殿「さればこの近辺の農家で焼いている、さんまという魚を焼く匂いか。うまそうな匂いじゃな?この方も空腹の折から、苦しゅうない、そのさんまを求めてまいれ」
家「恐れながら、その儀は相叶いません。下様の下人どもが食いたします。俗に下魚と唱えますものゆえ、高位のかたの上がるものでは決してござらん。下魚でございますからお上がりには相なりません。
殿「農民どもの食いたすものは大名は食するものではないか。
家「さよう……」
殿「しからば食べようとは申さんが、その方の心得が少々ちがっておろうかと存ずる。なぜならば、その方は治にいて乱をを忘れずいうところの心がけが少ない。ただいまは太平の御世じゃによって、そのようなことを申しているが、イザ戦場になったときに戦は勝つことばかりはない。たまには負けることもある。もし敗走して逃げるときは、山また山をこえ、寒村僻地に至り、空腹を覚え食を求めるときに、大名は下人どもの食するものは食さんといって、眼前に食ありながら、大名はそれを見ながら餓死すかる、どうじゃ!」
家「へエ……」
殿「この方の考えるには大名も人間。下様も人間。人間に別はないと存ずるが堂じゃ?身分に高下こそあれ人間に別はさらにない。人間の食うべきものを大名のこの方じゃとても食えんことはない。苦しゅうないから求めてまいれ」
家「へエ恐れ入りました」