狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

再び聖教新聞を見る

2007-01-30 21:25:23 | 怒ブログ
以前、非常に熱心な創価学会員の活動についてこのブログで書いたような気がするが、再び書き留めておきたい。今度の聖教新聞は8月9日付バックナンバー号である。
相変わらず次のような手書きのメモが添付されているので紹介したい。
tani様
当紙(1)面コラム「名字の言」は女性平和委員会の「戦争体験の継承・記録」運動の展開にふれ
核弾頭が世界に約3万発存在する事が述べられ「…1発でも発射されたなら“核の報復〟を招いて、全人類を滅亡の危機に陥れる……。」と核のもたらす連鎖的な危機性が述べられています。当紙(2)面を併せて、(1)面お読み下さい。  H

名字の言
終戦61年を迎える今夏。それは広島・長崎の「原爆の日」からも61星霜を数える。被爆者や戦争体験者にとって、時が流れても“あの日〟の凄惨な記憶は消す事ができない▼女性平和委員会が昨夏から「戦争体験の継承・記録」運動を展開。今年6月、DVD「平和への願いをこめて」が完成した。「被爆・長崎」「被爆・広島」「沖縄戦」などで31人証言が収められている▼証言者の一人で、長崎で胎内被爆した松本初美さん。インタービューを契機に、〝本当の平和の心〟をわが家から継承したいと決意。被爆した母・マサさんとともに、昨夏、一族が集った前で初めて自らの体験を語った。子どもや孫たちも真剣に耳を傾け、核兵器の恐ろしさや見えない核放射能の恐怖を身近に感じ、皆で平和への誓いを固めあった▼被爆体験を口にすれば、おぞましい記憶が甦る。今まで受けてきた差別で身も心も苛まれる。が、勇気を振り絞り、語られる被爆体験者だからこそ、聴く人に〝本当の平和の心〟を呼び覚ます▼核弾頭は世界に約3万発あるという。1発でも発射されたなら〝核の報復〟を招いて、全人類を滅亡の危機に陥れる。原爆の記憶が風化しゆく今こそ、世界の指導者が真摯に耳を傾ける必要がある。(知)

ここまでは、まじめな考え方だと思う。ところが次の『寸鉄』では、一段とトーンだ高くなる。
         

寸鉄
      「池田先生」は21世紀の諸葛孔明」
       中国の名優。世界が三顧の礼で大賛嘆
             ◇
       沖縄の友よ、断じて勝て。「立正安国」
       の理想卿へ。正義の団結の力を見よ!
             ◇
       創大通教、夏の講習(スクーリング)万歳。
       「学び続ける」人は勝者。創立者のもと
       学光の人生。
             ◇
       「偉業を見て不愉快に思う嫉妬深い人」
       学者(ヘーゲル)。学会の聖業を妬んだ日顕
       沈没
             ◇
       山友、裁判17件も敗北で心身ボロボロ。
       まだ係争中。陰謀提婆(いんぼうだいば)
       なれの果て。

【註】日顕沈没には特に●の強調傍点があります。
          

Hさんには、まだ<「創価学会」さ入ってください>のような「折伏」は受けた事はないんだけれど、選挙が始まったら「居留守」を決込まざるを得ないボどの頻度のご来訪である。


讃東国原知事

2007-01-29 22:34:42 | 怒ブログ
他所さまではテレビ点けっ放し
ナルホド。
4チャン日本テレビ
5.20ズームインSUPER“あるある〟また発覚▽東国原知事週末 密着
1.55ザ・ワイド超速報!!東国原知事…けさ都内あいさつ回りに密着
11.24N ZERO永田町に東国原知事…アノ大臣と初対決で

6TBSテレビ
5.30 
みのもんた朝ズバッ!▽大忙し東国原知事上京の理由
11.00ピンポン!▽超多東国原知事
8フジテレビ
4.55スーパーニューストリ感染死の不安拡大太郎が東国原知事直撃
10テレビ朝日
11.25スクランブル東国原知事初週末密着!! 5億豪華公舎に困惑
4.53NJチャンネルが霞ヶ関へ
9.54報道ステーション東国原知事きょう上京霞ヶ関で何を訴える?


 
逢沢一郎衆院議院運営委員長が宮崎知事選(21日投開票)の投票日直前の19、20日両日、知人や支援者ら約1000人に対し、自民党推薦の持永哲志候補(落選)への投票を呼びかけるメールを2回送っていた。多数の人に対してメールで投票を呼びかける行為は公選法で禁止されている。逢沢氏の事務所は「投票依頼とみられても仕方がないが、宮崎の人に頼んだわけではないし、違反の意図はなかった」と釈明している。

毎日新聞(ネットから)
 逢沢事務所によると、メールは、逢沢氏の選挙区の岡山県内のメールマガジンの登録者や知人に送られた。「宮崎知事選挙『もちなが哲二(原文のまま)』さんをお願いします」とのタイトルで、本文にも「宮崎県にお知り合い、友人の方がいらっしゃいましたら、『もちなが哲二』さんをどうぞよろしくお願い致します」とある。逢沢氏が持永氏と友人であることや16日に逢沢氏が宮崎県えびの市に応援に入ったことがつづられ「もちなが君には、宮崎県政を建て直そう、宮崎の経済と県民生活を向上させようと決意した素志、原点を常に大切にして知事として活躍してもらいたいと願っています」と結んでいる。


 選挙運動として不特定または多数の人にメールを発信することは、公選法の禁止する法定外の文書図画の頒布に当たる。総務省選挙課は「一般論だが、メールで選挙運動をすることは公選法で禁止されている」と話している。【青島顕】






ガダルカナル戦記

2007-01-28 21:51:25 | 反戦基地
昭和18年の今頃、ボクは中学2年生であった。今だって昔だって中学2年生の年齢に変わりはない。ただ今と違ってボクらは何も知らなかった。

2/1 日本軍、ガダルカナル島撤退(~2/7)
Mさんの反戦ブログに、「逃亡兵」とか「精神障害」などというエントリーで思い出したのだが、辻政信の著書「ガダルカナル」に気が狂った兵隊のことが書いてあったような気がした。その本は見つかったが、その気が狂った兵隊のところはとうとう捜せなかった。しかしどのページを開いても、今ではすべてが、想像も出来ない狂人の沙汰であった。その一部を引用してみよう。

飢える兵たち 朝飯の準備に取り掛かった。不思議なうわさが、当番兵たちの口からもれる。
「米が盗まれた。軍司令官閣下の弁当もない。どうしようか…」と。
「おやあやしいぞ。まだ上陸したばかりなのに、たれに、いつ、どこでぬすまれたのだろう」
 上陸地で、荷物宰領に残してきた下士官が、悄然として参謀部に現れた。
「まことにもう仕分けありません。司令部の糧食は上陸地でほとんど全部ぬすまれました。閣下の弁当もぬすまれました」
 唖然として一同しばし口がふさがらなかった。
 あのやせおとろいた兵隊が殊勝にもお手伝いに出てくれたのを心から感謝していたのに、それはまったく泥棒の集団であった。(略)
そこには戦陣訓もなければ、勅諭もなかった。

高価薬

2007-01-27 09:45:40 | 怒ブログ

昔、ボクのかかり付けだった名医T先生(故人)には、大概薬袋に「高貴薬」だったか「高価薬」だったか、そういうゴム印を押した薬を渡された思い出がある。
主に対象は抗生物質だったようだった。
その頃は、抗生物質万能時代でクシャント咳をしても、この高貴薬が処方され不思議によく効いた。しかし、そんなに高価だった実感は湧かなかった。

今日、かかり付け医院の先生の診察を受けた。血圧が2~3日急上昇したからである。現在ボクは、この先生の紹介で大学病院の整形外科の薬も服用している。
それもなくなった。
コーヒー等を呑むと胸焼けがするので、その薬も頂戴した。5種類、14日分と28日分と2種類である。

 勿論健康保険適用であるから、ボクは1割の値段なので、生計に差しさわりを来たすほどの金額ではない。
 領収書の様式が変わった。次のような領収書だった。
   領収書
調剤技術料      271点
薬学管理料       59点
薬剤料       1,246点
医療材料料       0点

内税対象額       0円
非課税対象額      0円
外税対象額       0円
外税額         0円

保険内合計金額     15,760円    
患者負担割         10%
負担金         1,580円
保険外金額         0円
前回未収金         0円
請求金額        1,580円
今回未収金         0円

領収金額        1,580円
以上、医療費として領収いたしました。

新年会

2007-01-24 16:27:06 | 日録


友人から、「倅の金沢の土産です。冷蔵庫へ直ぐ入れておいて下さるようにとの託けです」と言って銘酒を頂戴した。友人は倅も含め一家は下戸党である。
 おそらく酒屋での受け売り言葉であろう。
 酒は「純米大吟醸 藍」加賀鳶 福光屋 という銘柄だった。

契約栽培した酒米の最高峰「山田錦」のみを使用し、伝統の技で丹念に仕込んだ純米大吟醸です。軽快に旨味がふくらむキレの良い飲み口は、肴に良く合う「旨さの吟醸」です。
製造方法 純米大吟醸 タイプ 香り高いタイプ
山田錦・使用率100%(兵庫県多可郡中区坂本産)
精米歩合/50%  アルコール分/16.1
日本酒度/+3.2  酸度/1.61

歌舞伎の出しものに「盲長屋梅加賀鳶」(めくらながやうめがかがとび)というものがある。加賀藩江戸屋敷お抱えの大名火消し加賀鳶と、江戸の町火消しとのケンカがらみの、江戸の人情や風俗を生き生きと表現した明治初期のヒット作である。作者は河竹黙阿弥。芝居の冒頭 は加賀鳶勢揃い。その意気のよさがブランドのコンセプトになった。
我々を歌舞伎にいざない、加賀鳶を知らしめた河竹登志夫は黙阿弥を曽祖父にもつ。
多くの分野に亘って深い造詣をもち、食を愛し、酒をあそぶ。自ら加賀鳶の書を手懸けた。


ここでボクは酒の講釈をするつもりはない。
今日あるグループの新年会が、すし屋で行われた。
6人の新年会である。うち女性2人。酒(アルコール飲料所望は小生を含めて3人であった)。
「乾杯はビールですか、酒ですか?」
「酒は燗酒ですか、冷酒ですか?」次々係り(主人?)が客の要望を伺いに来た。
 ボクはこれでダメだと思った。
「熱燗にしますか」
「甘口ですか、辛口ですか」
すし屋での新年会は、狭い6人の会場は、暖房が入っていないのに、鍋料理や、アルコールランプ使用の料理で蒸せかえった。ダメだこりゃあ!と、更に、更に思ったのである。


 

立体芸術

2007-01-23 11:39:55 | 阿呆塾
去年の1月21日雪が降った。わが地方とすれば、1月に降った雪としては、記録的大雪ではなかったかと思う。
実は、その雪景色のコピーを捜すのに、その頃と思われるCDを漁っていたら、平成
16年(2004)の1月の日記が出てきた。
その中に「立体芸術」という写真が入っている。
「はて?」開いたらこんな写真が出てきた。
町の図書館2階のロビーに知友T氏の「文学碑写真展」が開かれていた。
夜、T氏宛てにMailを送った。

前略 貴展今日拝観して参りました。所用がてらだったので、貴兄が不在だったのは反って幸いしました。
デジカメで撮ってきたかった作品もあって、所持はして行ったのですが、小生まだ操作に慣れておらず失敗でした。ただ鑑賞してきたのみです。
25日までなので、朋友を誘ってもう一度貴兄とお話の機会があったなら…と願っております。
偶然、「尾の道」のアルバムで林芙美子を見ました。小生は「放浪記」の書き出しの部分
「私は宿命的放浪者である。私は古里を持たない。」…。碑の文はこれでなくちゃ。とも思いました。
「どんな男と一緒になっても同じだろう」と私が言うと「そんな筈はないわ 石鹸だって拾銭のと五十銭のじゃ随分品が違ってよ」 こんな言葉も思い出しました。
また我孫子では旧志賀直哉邸のみでしたが、小生は杉村楚人冠邸を一度だけでも行ってみたいと思っています。
とまれ、素晴らしい作品展でした。
そんでは。(2004.1)                





寸鉄抄から

2007-01-22 14:44:47 | 怒ブログ
創価学会の日刊紙「聖教新聞」を、近所にお住まいのH氏が毎週拙宅の新聞入れに配達される。
『「バックナンバー」ですが、非常に良いことが書かれてありますから、是非読んでください。勿論代金は要りません』こういう口上だった。固辞したが毎週入っている。

 H氏の経歴は自衛隊退職者であることだけは分っているが、現在この布教活動以外は、目だった活動はなされていないようだ。その勤勉ぶりは、学会から相当額の「費用弁償」を頂いているのではないかと疑いたくなるような活動である。
選挙の節にともなると、なお激しくなる。連日バイクを駆って軒並みの家庭訪問をするらしい。田舎のことだから、喧嘩仕掛けの対応をする家庭はない。(留守を預かっているのは小生をも含めて、みな老人ばかりだからである)。

そればかりではない。新聞にはH氏の手書きのメモが毎号貼り付けてある。たとえば最近号のメモ。


当紙(1)面「名字の言」で江戸時代の国学者“本居宣長〟とその師”加茂真淵〟の二人の出会いにふれて、「…師匠の教えを、どこまで自身の人生の糧としていけるか。そこに苦難に負けない“強さ〟が生まれる。師との原点を大切にするからこそ…」と“師弟の絆の教〟の重要性が述べられています。また(3)面には“日中友好教育者交流団〟の交流の様子は掲載されています。当紙(1)面と併せて(2)(3)面お読みください。   H.



「名字の言」は、1面下部のコラムで、朝日新聞の「天声人語」に当たる。その左に2段11行の「日顕」「日如」「竹入」罵倒の暴言の欄『寸鉄』がある。
以下、2号分のコピーである。

「池田先生は学問の巨人」中国副学長。198の名誉学術称号、世界一の大英知。
            ◇
「幸福になりたい者は、真実地ともにあれ」哲人(プラトン)学会とともに生涯を歩め
            ◇
夏季友好期間を楽しく!海・山の事故に絶対注意。和楽と友情の絵日記を。
            ◇
「忘恩」は最大の犯罪だ。師子身中の虫ケラどもは仏罰哀れ。害虫の死骸か。
            ◇
山友、7月だけで裁判に5回敗北。負けグセついた、提婆のお笑い珍記録。『7月29日(土)掲載』


ロシアの国会議長から感謝状。友好交流の大壮挙。超大国に新人間主義(ニューヒューマニズム)の光
            ◇
全国の青年部、2級試験に挑戦!学ぶ友。教えるとも、行学二々の汗は尊し。
            ◇
各地に「新会館」の建設発表。堂々たる学会興隆の象徴、偉大な同志の城
            ◇
恩師「恩を仇で返す奴はクズ」。竹入らクズの豪邸は所詮クズ箱
            ◇
日如が憎い。除暦が怖い。講義に出しゃばる日顕、毒蛇の脱け殻悪あがき『8月5日(土)掲載』




寛仁親王殿下の歌会始の儀

2007-01-20 14:40:07 | 本・読書
 
寛仁親王の御著書「皇族のひとりごと」二見書房に「歌会始の儀」に触れた部分があった。「和歌」という表題である。その冒頭部分と中ほどのところを引用すると、
 

皇室というのは歴史的にいろいろな文化を大事に伝えてきたわけだが、そのなかでも現代でも色濃く継承しているもののなかの一つに和歌がある。
 およそ文化とか芸術がわからずに、というより人間にしか興味のない私でさえも、年に一度の陛下の催される歌会始の儀(毎年一月初旬)には成人した年から毎年出している。
 (略)
 私は出たり出なかったりなのだが、その理由は両陛下、皇太子両殿下のお歌は当然詠みあげるが、皇族は何人出てもその筆頭皇族の歌しか詠みあげてくれないので、自分のを詠んでもらいない歌会始めに出てもつまらんというわけで、私しか出られないという場合にしか出席しないことにしている。オフクロや他の伯母様方はできるだけ人前では詠んでほしくないとかおっしゃるが、こういう心理は私には皆目わからない。以下私の詠んだ歌を列記する。

とした上で昭和41年から昭和51年までのお題と和歌を列挙してある。その最初の一首のみ記せば、

昭和四十一年「声」

声あげて母校の勝利いのりつつ応援団の指揮とる我は

これは二十歳のときではあるが、高校時代教育大付属との運動部対抗の定期戦の応援団長をやったことをいっている!


さて今年は「月」、寛仁親王殿下どんな秀吟をお出しになったのか、興味を持って隅から隅まで探したが、載っていたのは、寛仁殿下の言われたとおり、天皇・皇后両陛下、皇太子・皇太子妃雅子さま、秋篠宮・秋篠宮妃紀子さま、常陸宮・常陸宮妃華子さま、三笠宮妃百合子さま、寛仁親王妃信子さま、高円宮妃久子さま、のお歌だけであった。

御製と御歌

2007-01-18 22:05:59 | 

新春恒例の「歌会始の儀」が15日午前、皇居・宮殿「松の間」で開かれた。今年のお題は「月」。天皇、皇后両陛下や皇族がたに加え、2万3737首の応募作から選ばれた一般の入選者10人、選者、天皇陛下に招かれた召人の歌が、独特の節回しで披露された。(1月16日朝日新聞朝刊)

私のような戦中派と呼ばれる年代は、天皇陛下の詠まれた和歌を「御製」、皇后陛下は「御歌」と教えられてきたので、新聞をみるかぎり、テレビで放映されたあの厳かな雰囲気はこの記事からはとても伝わってこなかった。

>宮内庁によると、天皇陛下は宮殿の認証官任命式を終え、御所へ戻る時の情景を詠んだ。皇后さまは毎年元日の早朝、宮中祭祀に向かう天皇陛下を見送った後、空を見上げて月の満ち方を楽しむ長年の習慣を歌にした。>

と解説があり、両陛下の和歌が記されている。「御製」とも「御歌」とも書かれていない。


天皇陛下  務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

皇后さま  年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて

「御製」「御歌」といえばやはり
明治天皇・昭憲皇太后がまず頭に浮かぶ。
勿論ここで、その御四方の和歌を比較するつもりではではないが、
現代日本文学全集38 現代短歌集 現代俳句集(改造社)に巻頭に両陛下の御製・御歌を掲げ、巻末に『明治大正短歌史概観』という解説があるのを見つけたので、これを興味深く読んだ。
その中から御製、御歌に関する部分の抜粋を記す。

  
 明治天皇
 明治天皇は和歌を好ませたまひ、且つ歌聖にましました。その歌調の堂々たる、御心のままの直ぐなる、さながらを咏じたまひて、豪も巧むことあらせられず。
これ御製の特色と拝察したてまつるのである。
 ともしびをさしかふるまで軍人(いくさひと)おこせしふみをよみ見つるかな
(5首の御製)以下略。

   昭憲皇太后
 昭憲皇太后は明治天皇の大業を済したまふに配して、内助の功を全くしたまひ、天皇の和歌に執心したまふによって、皇后また御生涯を作歌したまうた。
 鳥羽の海の波風いかで騒ぐらむなみなみならぬ行幸(みゆき)とおもふに
 (5首の御歌)以下略。

…万葉の歌人は、『み民われいけるしるしあり天地の栄ゆるときに遇へらくおもへば』と歌った。上に聖天子をあふぎ、国新に興隆してやまざるときに、文運のこれに伴はずといふ道理がない。明治大正の歌壇が、建国以来の盛観を呈したことは、決して偶然ではないのである。
よって、この小史略のはじめに當り、恐れ謹みて御製、御歌にことを記し奉る。


春一輪

2007-01-17 17:14:13 | 日録
ボクと同じI県南にお住まいらしいY子さんの15日のブログに、珍しい「鉢植えの蕗の薹」の写真が載っていた。ボクも去年自分のブログで「蕗の薹」について書いたような気がしたので、バックナンバーを辿ってみたら、去年(2006年3月5日)のページに写真まで付けてあった。

そうだ。「去年3月に入ったばかりでこんなのが採れたんだ。」と思うと居た堪れず、屋敷内にある去年採った場所に行ってみたのだが、ささげ粒ぐらいのやつが2~3個見つかっただけであった。

いくら今年は暖冬だといってもまだだナ、と諦めて、Y子さんブログにコメントを送る。

<[蕗の薹]のことを書いた記憶があるので、辿ってみたら、去年3月5日でした。TBを貼り付けて見ました。今年は暖冬といわれていますので、近いうち見られるでしょう>

このボクのコメントに対してすぐ返信が載った。
<taniさんこんにちは。 蕗の薹まだちょっと早いかなと思う大きさですが、香りがよいので先日つんできて食べました。 寒中というのに 春の香り一番を食しました。>とあるではないか。

発奮して方々電話をする。
遂に見つけた!!友人宅の畑に作って(?)あったものである。
おそらく今夜の晩餐は盛大なものとなるであろう。





I新聞100年史から

2007-01-15 22:00:36 | 怒ブログ

S.17
  1.2    マニラ占領
  2.15   シンガポール占領
  4.18   米機 東京、名古屋、神戸を初空襲
  6.5    ミットウエー海戦

S.18
  10.26   常磐線T駅にて脱線転覆2輌がS川に転落・
       死者 110人 重軽傷  107人
  2.1   ガダルカナル撤退
  4.18   山本五十六戦死
S.19
  6.15   米軍サイパン島上陸
  11.24   ペリリュー島玉砕
S.20
3.7 硫黄島全滅

  3.9    東京大空襲
  6.10    日立製作所大爆撃を受ける
  

宴のあと

2007-01-14 07:49:16 | 日録
町の広報誌に毎号町長コラムが載る。
これは97年(平成9年)12月号皇太子殿下ご夫妻が、町の県立大・同付属病院を見学されるため、わが町をご訪問になった時の食事会のご様子を書いた『雅子様との昼食会』と題したエッセーの一部です。

(略)昼食会での同席者は、皇太子殿下ご夫妻、県知事、県議会議長、県立大学長、宮内庁関係の同行者の他は、地元町長の私と、N議長でした。
 早いうちにこの報告をと思いながら、何となくためらいがあって、そのままにしていましたが、やはり町にとって滅多にないこの機会の報告をして置こうと思い立った次第です。
 まず座った位置関係。皇太子ご夫妻が向き合ってテーブルの中央部にお座りになり、私は皇太子殿下の左隣りで、雅子妃殿下とほぼ正面に向き合う位置でした。
 昼食の料理は、T市○○ホテル謹製のものですが、まず、御献立を紹介しましょう。

御献立

造里 …… 鯛の桜花〆……添え野菜等7品
煮物 …… 筍土佐煮 ……ふき、木の芽等6品
焼物 …… 常陸牛のステーキ和風ソース
揚物 …… (地元)産レンコンのはさみ揚げ、ワカサギのフライ等4品
椀  …… 桜花海老真丈、わらび、木の芽他
食事 …… 当町産筍のご飯
水菓子…… 地元産スイカ、さくらんぼのムース
飲物 …… コーヒー、紅茶、ほうじ茶

 やはり料理担当者も、当県産、当町産のものをとり入れようとした努力したあとが見られる献立です。品数はいかにも多いのですが、いうなれば、上品な箱弁という感じに盛り付けられいました。(以下略)


戦争がもし起ったら…

2007-01-13 21:39:41 | 反戦基地
 
  
 覚悟という題にて詠める三首

 戦争がもし起ったら小生は
     逃げるしかない何処に逃げよう

 命令あればただ任務に従うという
     戦争知らぬ自衛隊員

 愛国の教育すれば戦争も
     国のためならやるかも知れぬ



ある宴の献立

2007-01-13 21:03:14 | 本・読書

これは三島由紀夫「宴のあと」の一節である。
霞弦会という、それはむかしの同期の大使たちのいわばクラス会で、年に一度十一月七日が例会の日であるが、今までいい会場に恵まれてゐなかったので、ある大臣が見かねて口をきいたのだ。という設定である。

 まず第一章は「雪後庵」の説明から入る。

 
雪後庵は起伏の多い小石川界隈の高台にあって、幸ひに戦災を免かれた。三千坪に及ぶ名高い小堀遠州流の名園と共に、京都のとある名刹から移された中雀門も、奈良の古い寺をそのまま移した玄関や客殿も、あとに建てられた大広間も、何一つ損なはれてゐなかった。
 戦後の財産税さわぎの只中に、雪後庵は元の持主の実業家の茶人の手から、美しい元気な女主人の手に渡って、たちまち名高い料理屋になった。
 

 その日の雪後庵の献立は次のようであった。

 汁  松露、胡麻豆腐、白味噌
 作  烏賊細作り、防風、橙酢、
 鉢  あま赤貝、青唐、橙酢、出汁
 八寸 鶫附焼、伊勢海老、貝柱、千枚漬。甘草芽
 煮  相鴨、筍、葛餡かけ
 鉢肴 鰉二尾、甘鯛塩焼、橙酢
 椀  ぜんまい、栗餅、梅干

かづは藤鼠の江戸小紋の着物に、古代紫地に菊花菱の一本独鈷の帯締め、錆朱の帯留に大粒の黒真珠をつけた。かういう着物の選び方は、豊かな体を引きしめて、すっきりと見せるのに役立った。

ボクがなぜこんなところを興味深く引用したかというと、古い(97年)町の広報紙の「町長コラム」に皇太子殿下ご夫妻との昼食会に臨んだ時の献立が記されていたのを見つけたので、何となくその両者を比べてみたかったからである。

 しかしボクは、昨日物置内の片付けに丸一日を費やしてしまった。東京に住む倅を動員して、欅や銀杏の落葉で、すっかり詰まってしまった物置の雨樋や、排水溝のゴミを取り浚らわせた。
 物置内には、運送屋をやっていた時の、工具や機材が散乱したままになっている。あまりはりこみ過ぎて夜は草臥れて酒を煽って寝てしまった。
 今朝、起きてすぐブログ更新作業に入ったところであるが、 皇太子殿下ご夫妻と共にした御献立表を、謹記し終わったところで、家内が朝食の準備完了のお迎い。

 拙宅の朝食は概ね次ぎのようなものであった。

 汁…蜆汁。赤味噌仕立て、妻・ねぎ
 煮物…切干大根人参さつま揚げ和え(昨夜の残り物)
 椀…自家製沢庵漬けもの、焼き海苔
 雑…サラダ(これも残り物であろう)・鰹塩辛
 飯…電気炊飯
 揚…農協緑茶
味噌汁はお代わりを頂戴した。(14日追記) 




賀状総括

2007-01-12 23:20:29 | 日録
賀状はもう終わっただろう。はがきにスタンプがついて「寒中お見舞い」が2通来た。
一枚は小生から出した賀状の返信であった。

寒中お見舞い申し上げます
十二月十八日妻の母(92歳)が永眠し新年のご挨拶を失礼させていただきました
昨年中賜りましたご厚情を深謝致しますと共に本年も変わらぬご交誼の程をお願い申し上げます。


 去年の賀状交換の名簿を元に、約150枚を送ったが、30枚位返信がない。
交友達がすべて高齢者なので、気がかりではあるが、どうしようもない。
 その中に大正生まれのSさんと、小生とほぼ同年輩の元電気店経営者N兄の賀状をスキャンしてみた。