狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

つくばねは…(新万葉集)

2007-03-31 08:59:35 | 日録

 筑波嶺は双なみ並ぶ 山すらも夫婦で並ぶ 欣しからずや   谷 人 

Nちゃん、わがふるさとの山を、昨日買った「携帯」で撮りました。Testにお送りします。この写真は縮小してありますので、よく判りませんが、山の山麓左側に「日光男体山」がくっきりと見えます。(ただしこれは西風の吹いた日の夕方や、雨上がり快晴の朝には見えますが、普段には見えません。)

正直言って、今の所「携帯電話」の必要性は全くありません。運送店をやっていた頃は、片時もこれを手放すことは出来ませんでした。たとえ「お風呂」に入っていても…。寝ても枕元に…。「トイレ」で用を足しながら、顧客から怒鳴られる電話も度々拝受いたしました。お客様は、神様ですが、この時だけは「こんチキショーめ!」と心に叫びました。

 それが、今では、全くその心配はありません。清々しました。何年も充電器の上に置きっ放しで、月○千円の料金が、勿体無く、よほど解約して止めてしまおうかと思いました。
同じ環境の友人が、DoCoMoに解約の手続きに行ったら、
「〝普通電話〟の解約なら兎も角、今時携帯の解約はお珍しい」と笑われてしまったそうです。

 ボクの携帯電話はP211i(2002年)頃の機種で、用が足りると云えは足せますが、進取の気象止みがたものに押され遂に決断いたした。

しかし、電話でMailする相手がありません。『「ブログ」お友達とMailやり取りしたら、携帯の使い道あるじゃないの?』
愚娘は、そう提案します。成る程、成る程、納得。
しかし、「あまり嵌り込み過ぎると○料が嵩みますよ」との友人のアドバイスでございました。
 友人のSさん(女性)は、ご主人と中学生2人、の財務大臣。計4台のツケに悩んでいるそうです。ご主人が、仕事の合間、ゲームを楽しんでて、それだけでも○万円也。自分では連絡に使うだけ、さすが、今一豊の奥様!

 この写真は携帯で撮った処女作でございます。aqgelさん褒めてくれました。
ありがとさんです!

※携帯Mail相手を募集中です。未亡人からや、出会い系イロイロMail は固辞致しますがね。 

筑波嶺は…。

2007-03-30 21:36:52 | 日録

 
       筑波嶺は双なみ並ぶ 山すらも双なみ並ぶ 欣しからずや
                                谷 人 

 「携帯電話」熟慮の末、買い替えました。実はわがブログの師なるNちゃんが、「携帯」からフンダンに、PCに接続しているのをみて、
男児志を立てて郷関を出づ 学若し成らずんば死すとも帰らずなる悲壮な覚悟を決めたのであります。特攻隊出撃のことを考えれば、何のことないです)。
推敲途中で、

<イャー、ケイタイでこんな絵のような、素晴らしい写真が撮れるんですかね。驚きですな。
尤も撮る方の、腕とセンスは、抜群ですからね。毎日のように、素晴らしい写真を待っていますから。挨拶が後になっちゃった。
お早う御座います。> aqgel さんから、こんな感極まるコメントを頂いてしまいました。「削除」寸前でした。
お礼を申し上げます。写真と、短歌は手を少し加えて次ページに移しました。宜しく。有難うございました。そんでわ。

 


病院談義

2007-03-29 22:35:11 | 怒ブログ
もう一回「新関東」に付いて書きたい。その最終号に小生の「病院談義」という雑文を書いたと言ってしまったが、今読み返すと当事のことが思い出されて懐かしい1992年(平成4年)11月号である。

近況

2007-03-29 21:19:52 | 怒ブログ

▼大相撲春場所が始まったと思ったら終わった。
結局は「朝清龍」が勝ったのではなく負けた。小生は自宅のテレビで一度も見たことがなかった。他所へ行って見ていたわけではない。他所様に所要があって相撲放送の時間に訪ねると、其処では客人である小生の用件よりも相撲の方が大切だった。
用件があるから訪問したのにである。従って其の間テレビを見ることになるわけだが、贔屓の力士があるわけでないないから、どっちが勝とうともちっとも面白くない。うーん。どう考えても面白くない。

友人A君宅へは、中学時代の頃から、即ち先々代の時から行き来した。殆どはこちらから出向いたのだが…。


祖父も、父も相撲の放送が始まると、新聞の取り組み表の勝者の方を丁寧に囲み印をを付けて熱中した。

〝そんなことしなくても、明日の新聞を見れは分るのに…。〟A君が親達の態度に対して、吐き出すように云った言葉を今でも忘れない。
 ところが今度は、今A君が、ちゃんと其の家の伝統を引き継いで相撲の放送の時間になると、テレビの前で明日の新聞に出るのにせっせと勝者に赤いボールペンでしるしをつけている。分るような、分らないような…。

▼今の刑法では、三人殺せは「死刑」は免れないだろう。

「一人殺せば殺人者。100万人殺せば英雄になるのか」チャップリンの名セリフだそうである。

ブッシュは自ら手を下して人は一人も殺さなかったかも知れない。正確に勘定できない程人を殺させた事は確かである。しかし殺人ほう助にはあたらない。英雄でないことは勿論である。

従軍慰安婦問題

2007-03-28 15:02:02 | 怒ブログ
3.26付朝日新聞2面[総合]版に、ワシントンから小村田義之記者の伝えてきた次のような記事が載っている。
米紙ワシントン・ポストは24日付で「安倍晋三の二枚舌」と題する社説を掲載し、拉致問題に熱心な安倍首相が従軍慰安婦問題には目をつぶっていると批判した。首相に「拉致問題で国際的な支援を求めるなら、彼は日本の犯した罪の責任を率直に認め、彼が名誉を傷つけた被害者に謝罪すべきだ」と求めている。

 同紙は、6者協議で拉致問題の進展を最重要課題とする日本政府の姿勢について「この一本調子の政策は、国内で落ち込む支持の回復のため拉致被害者を利用する安倍首相によって、高い道義性を持つ問題として描かれている」と皮肉った。

 一方で首相の従軍慰安婦問題の対応は「第二次大戦中に数万人の女性を拉致し、レイプし、性の奴隷としたことへの日本の責任を軽くしようとしているのは、奇妙で不快だ」と批判した。
政府が16日に決定した答弁書は、93年の河野官房長官談話を「弱めるものだ」と指摘し、歴史的な記録は「北朝鮮が日本の市民を拉致した証拠に劣らず説得力がある」と主張。首相が河野談話を後退させることは「民主主義大国の指導者として不名誉。日本政府の直接の関与を否定すれば、北朝鮮に拉致問題の回答を求める正当性を高めると考えているかもしれないが、それは逆だ」としている。

それ以来朝日新聞は、従軍慰安婦問題について27日も、28日も続けての報道だ。

 即ち下村博文官房副長官は、問題の河野官房長官談話を否定するような発言をしたり、首相は「拉致問題は現在進行形の人権侵害だが、従軍慰安婦の問題は続いているわけではない」反論した。(27日)河野氏は、談話で「官憲等が直接(慰安婦の募集に)加担したこともあった」と認定した点について「どなたが何とおっしゃろうと問題ない」と断言。談話の前提となった政府調査での元従軍慰安婦16人への聞き取り結果を理由に挙げ、「明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる」と振り返っている。

従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は「処分されていたと推定もできる」と指摘。「(談話を出した)責任を逃げたり避けたりするつもりは全くない。談話を取り消すつもりも全くない」と強調している。 (28日)

 更に公明党の北側一雄幹事長までが、下村博文官房副長官が従軍慰安婦をめぐり「直接的な軍の関与はなかったと認識している」と記者会見で語ったことについて、「官房副長官は、自分の意見を言う立場にない。安倍首相をしっかり守るのが役割で、個々人の意見についての発言は、慎重にしてほしい」と批判したと言う。

ボクは何とも言えない。当事まだ中学生であった軍国少年に判るはずがない。しかし河野氏談話が説得あるのも、終戦時の膨大な証拠書類の焼却するのを、見たり聞いたりしているからである。

 しかしそれはすべて(戦争を始めた責任者不在の)戦争がもたらした惨禍だ。僅か2時間半の空襲で10万人が殺された。東京空襲の文献は全く少ないと言う。被災者は全く保護されていないのが現状だ。

 日本政府が東京無差別爆撃の責任者に、勲一等旭日大綬章を贈った事実からも、
「東京空襲での死者はなかった。」などと歴史が書き換えられる日が将来あるかもしれないと思うのである。

地震御見舞い

2007-03-27 07:23:41 | 反戦基地

 

能登半島地震被災された方々、同地の皆様

 
に心よりお見舞い 申しあげます

今朝の新聞によれば
    25日の能登半島大地震の後、昨日26日も
     余震200回、断水5000戸  けがは210人に
という大きな見出し報道と、

 顔を見るまでは 道路をふさいだがれきの上を歩き一人暮らしの父親が住む
孤立した集落に向かう家族」
と書かれた写真が大きく載っていました

ご同情に余りあるものがあります。

 私どもの地方では私が子供の頃、大きな水害こそ2回の経験しましたが、震度3以上の地震の経験は全くありません。 関東大震災を経験した古老(今は殆どいなくなりました)の話ですと、当地方でもかなりの揺れがあったそうです。今で云う「震度」の数値はどの位だったのかは想像もつきません。

戦争はこれ以上の惨禍をもたらすことだけは経験済みです。
 
今私には、早く余震がおさまって、被災地の皆さま方が、一日も早く平和な生活に戻られることを、神仏に祈ることだけしか出来ません。

 


ある山荘の思い出

2007-03-22 21:51:52 | 日録


 嘗てわが町では、民間から採用された町立図書館長が誕生したことがあった。
 店内の一角に美術品や絵画を展示する「そば処」の主人で、異例の登用として全国的に大きな話題を呼んだ。就任期間は何年ぐらいであったかは忘却してしまったが、就任半ばで不慮の死を遂げてしまったのだった。

 車から降りて、客席に乗っていた友人の声楽家を降ろそうとして、外に出たところを、後ろから暴走してきた酒気帯び運転の車に、車ごと撥ねられてしまったのである。声楽家は奇跡的に助かった…。
1994年の12月8日である。(この日だから忘れられない)。

 ボクはこの図書館長と、ふとしたことから懇意な間柄になっていた。格別の厚遇を得た。
 あるとき館長から、筑波山麓にあるA町の音楽会に誘われて同行したことがあった。A町は今でこそ隣市や周囲の町と合併して、新しい市名に変わり、大きな「市」になってしまったが、旧A町だけを例にとれば、農業を主体とした小さな町に過ぎなかった。しかし文化活動に関しては、他町村とは比較にならないほど盛んなところでもあった。

 いろいろな講座や教室、スポーツ大会などの催しも盛んに行われていることで有名な町の中央公民館傍には、オーケストラの演奏が出来るほどの大きな芸術館があった。自主文化事業として(オペラ 魔笛)を初め、たくさんのイベントが催されたのである。
その日誘われたのは、ベートーベンの音楽祭であった。

(今日はこの音楽祭がテーマではない。)
 音楽会が終わっての帰途、「お茶でもやっていきましょう」と連れて行かれたのは、日ごろ館長が文化活動などで知り合いだった、A町で設備業を営んでいる会社社長の山荘であった。

 丁度外国の青年達が、ホームステーで、この山荘を利用していたのだ。令夫人が外国青年たちと学習活動の最中であった。

 音楽会で時間をすごし、そこへ着くまでには、かなりの時間が経っていたので、すっかり暗くなっていた。何よりも喉が渇いていた。
 夏だったので出された缶ビールを、一気に飲んでしまった味は今でも忘れられない。長居はしない積もりだったが、存外の持て成しを受けてしまったのだった。

そして帰り際、
「ちょうど外国の方がおりますから、日本の曲を弾いてみましょう」と、傍らの部屋から「琴」を持ち出して、ボクと館長のために弾いてくれたのは、日本の曲「サクラ」の変奏曲であった…。

 ところでボクは運送屋であり、車の運転歴もベテランなのに、人任せで客席に乗っていたから、どの辺りを走ったか、後で地図を広げて見たがさっぱり見当が付かない。山道は何本もなく、それ程複雑な道ではなかったはずだ。
 僅かに記憶に残っているのは、山荘の入り口の小さな渓流に、「男女川源流」と記した杭が立っていたことである。

 一昨年だったかその前かに、「カタクリ」の花を訪ねてTさんと裏筑波を彷徨したことがある。確かにこの辺りには違えないのだが、とうとう分らなかった。添付はそのあたりと思われるGoogle地図である。



敗戦の頃

2007-03-20 21:27:16 | 反戦基地
小泉前首相が昨年(2006年)8月15日に靖国神社参拝のころ、いわゆる「富田メモ」というものが話題となった。

昭和天皇は松岡元外相や「白鳥」(白鳥敏夫と解釈されている)が靖国神社に合祀されたこと、また、靖国神社宮司の筑波藤麿が合祀を保留していたのに次の宮司である松平永芳が合祀してしまったことを批判されたという内容が書かれていたという日経新聞記事である。

今回また、「支那事変やりたくなかった」「戦争は始めたら徹底して」「自分の花は欧州訪問の時」(何れも朝日新聞3月9日付)の見出しで、昭和天皇の肉声として、元侍従長の日記を紹介している。
日記の主な記述は最近発売の月刊誌『文芸春秋』4月号に掲載されていると書いてあったが、早速その詳しい分析をM氏の「反戦老年委員会」ブログに見つけた。
勿論一部始終共感することばかりである。

 わざわざこの雑誌を買いに行ったわけではないが、所用がてら、九日に、ボクも近くにある町の大手書店を覗いてきた。そのときはまだ店頭には置いてなかった。
その代わり新刊書コーナーの処に、

『徳富蘇峰 終戦後日記「頑蘇夢物語」徳富蘇峰[著]講談社』が高く積まれているのが目にとまった。この本は以前朝日新聞の書評欄で読んだことがあった。

〝戦争責任の存在を否定しながらも、敗戦の責任の対象追及を昭和天皇にまで含まれている〟というような事が書いてあった。本に食指が動いたが、R大学生協の1割値引きを考え、その場は立ち読みだけにとどめた。
「会社がつぶれて最高責任者が責任を取らないということはおかしい」石原慎太郎まではそんなことを書いたのを思い起こした。
ボクは帰宅後所持している古本、
「敗戦そのとき村は」―続・農民私史― 新山新太郎(農文協・人間選書)を開いた。
以下抜粋を引用してみる。過去この記事を引用したかも知れないので、重複していたときはお赦しを乞いたい。

「天皇陛下万歳ァーイ」
と口のメガホンも張り裂けんばかりの大声で音頭をとった。すると、続いて数百の群集が手を挙げ帽子をふり、「万歳ァーイ」と唱和した。
 万歳が三回繰り返される中を、天皇をはじめ、蓮池秋田県知事、随員県会議員、町村長等が行く。歓呼の嵐が運動場に舞った。
天皇の姿が玄関口に消えると、群集はホットわれに返った。この群集の中には、赤紙一枚で召集され、戦場の露と消えた息子、兄弟を持つ遺族たちも多くいあわせたにちがいない。私もその一人だが、その戦争を許し宣戦布告をしたその人が、今万歳の絶叫の中にあった。20年8月15日の敗戦から、まだ2年目の8月14日だ。主権は国民に在る、と新しい憲法はうたっていたが、群集のどよめきや熱狂ぶりは、主権在民どころか、昔と寸分の変化も感じさせないものがあった。

帝都からはるか彼方のみちのくの中老年男女たちには、新しい憲法も何も、「われ存ぜず」ということだったのだろうか。万世一系の天皇の歴史と教育勅語しか知らない人たちの頭の中では、天皇は崇拝と羨望、あるいは興味の的として考えられていたのだろうか、私はしばし考えこんだ。
(略)
 帰りのぺタルを踏みながら、私は考えるともなく考えていた。
 極東軍司令部は、あの時天皇を、何故戦争責任者とて問わなかったのか?不思議でならなかったが、新聞や雑誌で文化人が言うところによると、天皇を戦争犯罪人に指名すると、長い間天皇を崇拝させられた日本国民の精神的支柱が崩れ、日本国内は大混乱と化し、その結果占領政策も順調に行かないとの結論に達し、占領軍は天皇を是認したのだと。
その当否をにわかに断ずることは出来なかったが、新しい憲法が制定公布されても、主権在民のの民主国家になっても、日本人の精神構造は古いままで、民主主義の理念、精神が一般民衆には定着していなかったことを、私はこの日見せ付けられた思いだった。それから間もなく山田村役場前に建立された巡幸記念碑の碑文を見て、私は、それが全く敗戦前感覚で刻まれているのを知って愕然とした。それには、

「天皇陛下、昭和二十二年八月十四日山田村ニ行幸アラセラル
コノ日天気快晴ニシテ炎熱灼クガ如キ(中略)
山田村小学校庭ハ村内外ヨリノ奉拝者ヲ以テ埋リ粛トシテ声ナキ裡ニ陛下ヲ奉迎台ニ迎へ奉レハ湧然トシテ君ヶ代ノ斉唱、続ク万歳ノ合唱、天皇陛下畏クモ御帽子ヲ高クカカケテ奉拝者一同ニ御会釈賜レハ満場歓喜ト感激ノ咽ビタリ(中略)
沿道蒼生ノ万歳万歳声裡 聖駕粛々トシテ御帰還アラセラル 時正ニ午後三時三十分ナリ
         昭和二十四年八月十四日建之
            山田村長××××謹記」




春分近し

2007-03-19 21:42:02 | 怒ブログ
TさんからのMail

今朝は一番の寒さ、朝早めに筑波山に行ったが、歩いていても手がカジカム。
時間があったので帰りに小田山も登ってきたが、花もチラホラ目に付く。


1.カタクリ    時期が過ぎていて良くないので見せたくないのだが初物だから。
2.ニリンソウ  本当に2~3輪しか咲いていないが
3.モミジイチゴ 少し大写しになって
4.水花火    寒かったのでこんな光景も



新聞折込広告余話

2007-03-17 21:46:21 | 社会欺評

先週「新聞折込チラシの話」というタイトルで、このブログに書いた。
しかし、それは話題の谷間を埋めた、その日の朝刊の折込をカテゴリー(?)別に羅列したものに過ぎなかったモノだった。ところが、見て下さった方から予想外のメッセージを頂いてしまったのには、いたく恐縮している。
その中に、日ごろ私が、読書の神様として毎朝遥拝を続けている、塾講師であらせられるVIVA先生から、

『ところでチラシに塾がありませんね。お近くには塾がありませんか。もしよろしければお知らせ下さい。(開校しようかな(笑))。』

いう鄭重なコメントを頂いてしまったのである。

 そう言われて気がついて、今朝もそのチラシを『精査』して見ることにしたのだが…。
内容分析は避けるが、40㌻におよぶ、本紙の他、土曜日には「Be」版8㌻建の付録が2部、あって、かなりの新聞紙の量になる。
その量と同じ位、あるいはそれ以上のチラシが挿入されてきたのに、「学習塾」に類するものは1枚もなかった…。

こんなことを書くと、わが村は「パチンコ」に明け暮れている怠け者村に聞こえるかも知れない。しかしそれはウソだ。確かに元地主達は大金の使え道に困っているだろう。しかし子供たちも孫達には殆ど大学進学を望んでいるようだ。他所から越してきた方々の学歴水準も高いように思う。
 わが村は大型開発事業によって、村の中に1丁目から5丁目(あるいは今はもっと増えているかも知れぬ)迄ある大都市を形成中なのである。
今なら分譲中のところもある。←PRになっちゃった。
学習塾には最適の場所だろう。

 ボクがもしここの元大地主で、巨額の財があったとしたら、この一角を買取り「熟年学習塾」を開きたい。年金の使い道に困っている老人はたくさんおられる。
 ここで、老人たちに、英語や中国語を学ばせ、日本や世界の歴史の目を向け、反戦学習塾とすることが出来たら何と素晴らしい事だろう!
ただ残念ながら、ボクにはその条件を満たすものは何もない。無念である!

 

カタクリの思い出

2007-03-17 16:43:10 | 
この「カタクリの思い出」を書くに当って、肝腎の「カタクリ」の画像を探すのに
だいぶ手間取ってしまった。
この写真は、大きい方が、畏友Tさんのもの、小さい方がボクの作品である。
数年前、Tさんが、ボクと妻を、裏筑波のカタクリの「穴場」に案内していただいた時、一緒にカタクリを撮ったものである。
このとき、ボクは「デジカメ」をやっと手にした頃である。
このデジカメは
「Canon PowerShot S50」というやつで、倅嫁から「○の日」にプレゼントされたものである。結構グレードは高いもののようだが、そのときはまだ操作に不慣れであった。「接写」の方法は分らずやっと1枚ものにした。

 山の様子や、周りのスナップをバチバチと矢鱈に撮ったが、残念なことにその後、保存しておいたPCが、2回もウイルス感染にすっかり消滅してしまった。
日付も分らなくなってしまった。
 だからこれは、写真にしておいたものを、スキャナーを使って再生したものである。
 最近閨秀歌人「純情おばさん」とブログの交信をするようになり、
…ところで、taniさんは茨城の情報に詳しいのでしょうか?
八郷から笠間に抜ける峠の吾国山のカタクリの開花の様子を教えて欲しいのです。ここ数年行ってます。今年はどうでしょう?
というコメントを頂戴してしまった。幸い「のん兵衛さん」が次のような助け舟を出していただいた。感謝している。

筑波山近くの山は葉が2枚まで出ていますが、蕾も見ることは出来ません。矢張り桜の咲く頃でないと無理かも。 
 走りとして1~2輪咲いても、咲いただけで豪華さはないが、初物を見た感激はするだろうね。
テレビでも放映していた佐野市の三毳山は2分咲きです。


吾国山は嘗て小生は、トラックを乗り回して工事現場に通ってたので、道すがら路上駐車で「狭き門」を潜り、その先にある洗心館に足を運んだことが何回がある。しかし、遠い昔話なので現在では大分変わっているのではないだろうか。
ネットで調べると、「洗心館」のカタクリ祭りのイベントが毎年行われている様である。






出羽三山の旅だった

2007-03-15 10:43:34 | 日録

 記憶が非常に曖昧になってしまった。
今日、寒くて(暖冬、暖冬だとみんながわいわい騒ぐものだから、各地で辛夷が一斉に咲き始めたのに、小休止である)、部屋の中でストーヴ焚きっ放しであった。

写真を見つけた。この頃はまだデジカメも、PCも無かった頃だったと思う。
友人が小生と、Nさんが並んで歩いている処を2L版の写真に撮ってくれた。
秋口だったにちがいない。柿が見事になっている宿屋(宿坊)の佇まいが思い出されるし、この旅はZ寺「朝詣り」グループの秋の小さな旅だったからである。

 同行のA君は、何時もこの旅行記を、町の文芸誌に載せているので、年度を探すのに、綴じこんである文芸誌を探してみた。

平成17年度号「上高地の旅」
平成16年度号「比叡山法要参拝の旅」
平成15年度号「護摩代法要に詣でて」
平成14年度号「身延山・三峰紀行」
平成13年度号「善光寺参拝」
平成12年度号「陸奥の旅」
平成10年度号「A神社を訪ねて」※A神社は筆者A君の苗字と同じ名前の神社である。
?とボクは思った。必ず書く文筆家であるはずのA君である。
しかしその謎は直ぐに解けた。平成15年号と、16年号の間に、「出羽三山の旅」と題した3ページ分のワープロ原稿が綴じこまれてあったのだ。比叡山「護摩法要」が、15年号と16年号に載っているが、これは重複したものではなく、朝詣りとは別の県単位での天台宗寺による、大掛かりな比叡山法要参加の旅行記を載せた為、誌面スペースが無くなった事によるのかも知れぬ。しかしこの原稿で、平成14年の10月18~19日であることが分り、当事のことが走馬灯のように思い浮かんできた。

2007-03-14 21:59:40 | 怒ブログ

   池水は濁りに
               にごり藤波の 
                 影もうつらず   
                      雨降りしきる  

 
                 録左千夫歌         太宰 治

 昭和23年 死に際して伊馬春部に遺した色紙

                    日本現代文学全集  88 太宰 治集  講談社より


山は招く

2007-03-13 17:02:12 | 
 
畏友Tさんから先刻Mailがあった。トレーニングがてら今日も筑波山へ行って来たそうだ。氷柱が下がっている写真(沢だろう思う)と、岩場を登って汗ばんだという写真。更に、帰りがけに花畑で撮ったという、「ユリワサビ」と「セリバオウレン」である。ここに載せたのは後者で、「旬を過ぎているので色が出ないね。」という解説が付いていた。
[添付写真」
1.セリバオウレン(上の写真) 
2.ユリワサビ 
3.訓練だ(山歩き風景)
4.凍り付いて(垂れ下がった氷柱)



こちらは、今日西風がビュービュー吹きまくった。
ボクは一日中ストーヴ焚きっぱなしの部屋で、パソコンを弄ったり止めたり。
しかし、Tさん去年の暮れ、悪い風邪にかかってしまい、どこへも出かけなかったようだが、例年のことを考えると、そろそろ腹の虫が騒ぎ出すのでは…。
「啓蟄」はとうに過ぎてしまった。
 これは一昨年(2005年3月16日)の蔵王ルポである。

昨日早起きして山形蔵王のモンスターを見に行って来ました。
月初め暖かかったので、モンスターが傷んだのですが、10日過ぎからの大雪と寒さで修復されたようで何とか見られ、今年は昨年違い樹林帯の中を歩きました。
 天気が良かったので顔は日焼けしてピリピリと痛み、標高差約1000m7時間30分歩いたのでホテルに着いたときは、腰が痛いの腿が突っ張るのと世迷言が………。
 まあ、写真を見てもあの雄大な実感は沸かないと思いますが、想像をめぐらしてみてください。

1.蔵王山麓駅ここが楽しみの入り口  乗るも良し歩くも良し
2.樹雪と言う事にしたが  第一ゲレンデを降りると目の前は 
3.枯れ木に花が  暫くはこの様な風景が  
4.いよいよモンスターの始まり   
5.いろんな形の物が
6.この中をあの山頂まで歩いて楽しむんですよ
7.仲間達
8.中腹から見た下界
9.地蔵山頂
10.地蔵尊の深い雪の中




新聞折込広告の話

2007-03-11 14:44:40 | 怒ブログ
昨日の新聞折込を勘定して見た。
パチンコ        4
自動車         5
不動産         3
墓地          3
携帯電話        5
パソコン・デンキ     1
洋品・洋服       3
総合ホームセンター   1
石油          1
食品          3
求人          1
家具          1
情報誌         3部