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原爆忌 げんばくき 広島忌 長崎忌
昭和20年8月6日。広島市に世界最初の原子爆弾が落とされた日である。人命の喪失約12万。つづいて同月9日長崎市にも投下された。この未曾有の惨事をふたたび地球上にもたらさないため、この日を記念日として、広島市を中心に全国的に、平和祈願、原爆反対の催しがもたれる。(合本俳句歳時記新版 角川書店)
この漱石全集は、全く招かざるお客さんであった。
正月次男が小生の部屋に持ち込んできて、そのままにしておいた。置き場がなかったからである。しかし、いつまでもべた置きで放っておいてはいけない呵責に苛まれてきた。
今日、やっと書架から雑本を持ちだし、席を漱石先生に譲った。
下段には、あまり漱石の作品を評価したくなさそうなD・キーンの著作を並べたが、特に他意はない。
但し三島由紀夫全集(新潮社1,000部限定版)や、鴎外全集(岩波書店37巻)とは別室とした。
「6月10日魔の90分」:屋口正一より(昭和25年8月9日撮影)
ボクはこれまで、六月十日という日に特別の想いを抱いてきた。弊ブログバックナンバーを検索してみたら、やはり同じタイトルで「六月十日」に関連するものが複数をかぞえることができる。
1945(昭和20)年6月10日午前、村は米空軍B29の約1時間、2波に亘る爆撃で、平穏だった村が一転して「屍の街」と化してしまったのである。
当時の報道機関は、(新聞とラジオ放送しかない)軍のきびしい管制下にあったのだろう、空襲の惨事は一般には伝わらなかった。
町史や、町教育委員会編纂による「町と予科練」、同好会文集などにも、この日の惨状体験の思い出話が何編も載せられているが、
当日は、「雲一つない快晴の日」であったり、「曇天」 であったりする。
また敵機についても、グラマンF6Fと、P51を艦載機として混同したり、カーチスP51と書いている例もあり、必ずしも正確でない。(ボクの記憶が確証とは言えないが…)。
半世以上経って、しかも高齢者の記憶であるからある程度ヤムを得ないことであろう。
平成7年8月15日、T中学校・T高等女学校 動員学徒の集い実行委員会の手によって編まれた文集「戦いのなかの青春」誌が手元にある。その中に、当時高等女学校4年生だったU.M子さんの『勤労動員学徒の日記抄』が載っている。
ちょうどボクとだいたい同じ世代であり、書かれてある環境もほぼ同じである。あの頃あこがれの的であった高女生の考え方が伺われ、ボクも青春に返ったような錯覚で一気に読んでしまった。
昭和20年3月卒業した私達は、4月2日(月曜日)から「国思隊」という名前で養成所へ行く事になり、皆で不平をいうとH中尉より怒られて全員森の中で
重大ないまの戦局をこんこんと聞かされて、泣きながらあきらめる。
今日から挙手の礼を練習して敬礼をさせられる事になった。
午後土運びをして疲れた。
(今思うと、女学校卒業したのに殆どのクラスメイトが動員されていたことが不思議に思われ当時の当時の身分はどうなっていたのでしょう)
昭和20年4月3日
山の上で木の株切りをした。ノコギリでギイコギイコひいてなかなか切れない。暑くて汗まみれなのに、欠席者が多いとH中尉に叱られる。
4月4日
雨で外仕事が出来ず、ヤスリかけをする。半分以上欠席で欠席者の家へ電話をかけろといわれ、Aさんと二人で庁舎へ行ってかけたが、記録なのでなかなか出なくて1人40分も待たされてしまい、H中尉に「明日友人の家を家庭訪問して連れて来い』と言われた。出ている人が怒られて悲しい。
4月6日
今日は溝掘り、廠長巡視が1時にあるというので、雨でも作業を休めず皆ずぶ濡れになってしまった。H中尉が後で焚き火をしてあたらせてくれた。
4月7日
今日も土建作業をしていたら10時空襲になり待避をしたが、この近くに壕がなく、山の中をウロウロしていた。午後材木運びをした。
4月15日
廠長訓示の後、第二工場からトタン運び。H学生(技術委託学生)が2度づつ運んだので「もうよいから帰れ」と言ってくれたのに、H中尉が「終わるまでやめてはダメだ」と6時迄やらされて腕が抜けそうだった。帰り真っ暗い夜道をお腹が空いてOさんの雑嚢に入っていた生のスルメを2枚もムシャムシャ食べながら歩いた。空にはOH中尉のアゴのような月が出ていた。「ガダルカナル戦詩集」を読んで寝る。
4月18日
小松(場所の名前)のところで材木運びをした。仕事は辛いがお国の為だ。お昼は道路脇の草の上で食べた。朝、母が作ってくれた蒸しパンを3人で分けて食べながら、映画「勝利の日まで」「跡に続くを信ず」の感想を話し合った。沖縄の戦局もだんだん不利になり、父母達はこの戦争は負けるかも知れないと心配しているが、私は必勝の信念を持って毎日をがんばっている。
5月23日
朝大雨でカッパ着て自転車で行くが、向かい風で雨が頭にかかって目が見えなくて困った。これが勝利への道と思うと、困難がむしろ楽しく感じられる。
5月29日
午前中空襲でB29が500機も来た。お昼頃空が真っ黒になった。横浜が燃えているらしい。その中、火の粉が、炭みたいのまで飛んできた。恐ろしい。
6月10日
朝6時空襲、近くの航空隊に爆弾が投下され、大きな響き、B29が次から次へ飛んでくる。10時解除になってもT駅の近くに憲兵が立っていて先に行かせてくれない。予科練に面会に来た家族もたくさん足止めされてお気の毒でした。
6月17日
若草工場でタイム取りをした、Aさんがグミを持ってきて。H学生に皆で甘いと嘘をいってすすめたので、本気で食べて怒った。串柿の配給あり。4円。
選挙の前哨戦の幕は、普段はさる宗教団体の推薦する政党の候補予定者のポスターから、切って落とされる。
参院戦ともなると、1つは都道府県単位の選挙区選挙で、個人に投票する選挙であり、242名の参議院議員のうち、146名が選挙区選挙で選ばれるそうな。
もう1つが比例代表選挙で、政党に所属していないと立候補できないらしいが、有権者は政党名で投票するか、立候補した人の名前で投票するか、自由に選択することができるという。
いざ選挙選になって、県内に氾濫する立て看板のうち、県内まんべんなく行き渡るには、後援会が強力な宗教団体の組織力であり、この政党の支持者はすさまじい底力を発揮することは言うまでもない。
弱小だと、ポスターの数も当然少なくなる。
そこへいくと、今回の選挙前哨戦の異変!今朝 隣村の友人の処に用件あり、出向いたら、
途中1キロの道中、このポスターが8件(枚)!も立っているではないか。
カメラに収めるのに車から降りて覗いたら、その宗教とは全く関係のない、かつて政権与党だったJ党から、一等先飛び出した猛者氏の創った政党の時局演説会のポスターだったのである。主催した隣市支部名が記されていた。
誰、それ?!何党!?
それば読者諸兄の賢明なご想像にお任せしたい。そんでわ。
序(元朝日新聞地方版歌壇選者)
お大切な御夫婦(それぞれの)御歌集 早くおかえし申し上げなくてはとおもいながら 今日になりましたこと お許し下さいませ。
このようにおまとめになられましたものを拝読いたしますと 一そうひしひしと胸深く 尊い御夫妻のお心がしみ入り深く感動いたしました。至らない私を改めてふりかえり お詫び申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
奥様のお歌を拝見して 私こそいろいろと教えて頂きました。
御生前にお目にかかれませんでしたことを残念におもいました。又最後のお歌を折りかえしお返し申し上げなかったを何とも申し訳なくおもいました。お詫びを申し上げて下さいませ。
お歌を通して奥様の深い御信仰を改めて仰がせて頂きました。又ご主人様と御信仰を共にされ お歌のよろこびも共にされましたことは誰にも容易に恵まれないの愛をうけられたあかしとおもいました。
先生のお歌はお心にも 表現にも 奥様のお歌とよく通われるものがおありになることを知りました。長い間の誰にも容易にできない愛の深い御看護を全うされましたのも ほんとうに通い合われて初めておできになったことと感動いたしました。
どうぞお二方の歌集を通してすべての人が 御夫婦の愛と信仰と徳を仰がせて頂くことができますようにと念願してやみません。
御出版の日をたのしみに お待ち申し上げております。
老婆心乍ら 奥様のお歌を初めに先生のお歌をつづいて おまとめになられてはとおもいます。
又お二人とも おはぶきにならないで全部 お入れになって下さいませ ほんとうに珠玉のようなお歌でございますから
かしこ
土屋 セツ子
老 年
老年は私が達したいと思ふ理想境だ。今更私は若くなりたいなどと望まない。どうかして、ほんたうに年をとりたいものだと思ふ。十人の九人までは、年をとらないで萎れてしまふ。その中の一人だけが僅かに真の老年に達し得るかと思ふ。
孫の愛
私はまだ孫の可愛さというものを経験したことがない。自分の子供のそのまた子供から初めて『おじいさん』と呼ばれた時の気持ちは、果たしてどんな深刻なものだろう。まことの『老年』は孫の愛から始まると言ってもいゝやうな気がする。遠い遠い『未来』の空がそこから明けかゝって来るもののやうな気もする。
春の七草をいれた炊いた粥を七草粥といい、正月7日に食べるならわしがあり、年中行事の一つになっている。七草粥の習俗は、古く万病をのぞくといい、正月のはじめての子(ね)の日に、山野に出て小松をひき、若菜をつんであつものにして食べた子の日の遊びにはじまるという。正月7日を人日(にんじつ)とし、この日に七種の菜であつものを作り、これを食べる風は、古くから中国でも行われており、その影響だ考えられる。正月7日は、江戸時代には五節供の一つと定められ、若菜節、七種の祝、七種の節供などとよんだ。当日は将軍以下七草粥を食べ、諸候は登城して祝儀を言上した。また民間では、当日の朝七草粥を食べる外、六日の夜から七種ばやしといい、小さなおけの上にまな板をおき、若菜をたたいてはやした。
七草粥の習俗は現在も広い地域に行われているが、若菜を入れた雑炊をたくところも多い。現今のように新暦の正月7日では、若菜の手に入らぬ土地も多く、この日使用する若菜も限られている。
東北地方ではセリとタラノキの芽、和歌山地方ではナズナだけを用いるが、新潟県ではニンジン、ゴボウ、ダイコン、クリ、串柿などにタラノキの芽を七草としている。
京都北部地方では6日を若菜迎えとよび、この日七草粥に必要な菜を用意し、6日の夜たたく。七草をたたくのは6日の夜か7日未明で、一般には
〈七草なずな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬさきに……〉唱えすりこぎまたは包丁でたたいてはやす。たたいた菜は粥に入れて七草粥とし、神に供え家の者も祝う。七草粥の唱え言は、豊年を祈る鳥追行事にも結びついている。→秋の七草(江馬三枝子)
村の神社に奉納する注連縄である。昨日今年の神社祭礼当番であるS君が自宅で綯っているところへ、用足しに行った家内が偶然出遭わせた。
この地方では、注連飾りばかりでなく、正月飾りは明日31日では、「一夜飾り」といってたいへん忌み嫌う。
また29日の餅つきは「くもち(苦餅)」の縁起をかついで、わが地方では絶対にやらない。だから30日は非常に忙しいのである。
家内はこの巨大注連飾りに、ある深い理由があって(ナイショである)関心が高かった。30日の朝、神社の鳥居に飾らないうち、写真に撮りたいと言いだした。
それで撮ってきたのがこの写真である。
抱えているポーズはオレが要求した。彼は快くオレの要求に応えてくれたのである。
敬愛のyahooブログ〝純情乙女のはりきり日記〟に、「皇帝ダリア」についての、3回に亘って詳しいエントリーがあった。ボクはこれまで、この花の名前すら知らなかったし、関心もなかったから、数年前近所の「村の豆腐屋」さんの庭に大きな植物の樹の植えてあったのを見たとき、
「小さな孫芽からでも直ぐ大きくなりますから、差し上げましょうか?」と店のおばさんに言われても、そのまま聞き流しすっかり忘れてしまった。
今考えると、そのときはまだ花の咲かない時季だったので、どんな花なのか知らなかったのだろう。
今日急にその事を思い出して撮りにいったものである。こうして眺めて見ると決して想像していたようなエキゾチックな花ではない。むしろ可憐であり、花の彩りはロマンチックな感触である。
同じ「皇帝ダリア」をアップして撮ったみた。中天に上弦の白い月があった。
さて土曜日の今朝、2週間振りにZ寺の「朝詣りの会」に出席した。
先週土曜日の21日には、信州長野への「リンゴ狩り」のため欠席したからである。
2週間も経つと、日出の時刻が、約10分ぐらい遅くなり、家を出る時はまだ薄暗かったが、暖冬異変(?)気温は7~8度もあった。セーターだけで、寒さを感じなかった。
境内の銀杏の大樹が絵に描いたように鮮やかだった。
読経を終え、朝茶が振る舞われて解散するのだが、カメラを新調した珍しさも手伝って、帰り際大銀杏をパチパチ撮った。
気が付くと、庫裏の前の松の植え込に隠れて、薄紫の彩色が目に入った。
紛れもない「皇帝ダリア」だったのである。
朝詣り仲間の○子さんも、銀杏の下でデジカメを弄っていたから、手招ぎして「皇帝ダリア」を示したら、彼女も初めて見る花だそうある。勿論花の名前は、ボクがありったけの講釈をした。何枚も撮ったみたいであった。