狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

原爆忌

2010-08-06 21:57:38 | 日録

原爆忌 げんばくき 広島忌 長崎忌
昭和20年8月6日。広島市に世界最初の原子爆弾が落とされた日である。人命の喪失約12万。つづいて同月9日長崎市にも投下された。この未曾有の惨事をふたたび地球上にもたらさないため、この日を記念日として、広島市を中心に全国的に、平和祈願、原爆反対の催しがもたれる。(合本俳句歳時記新版 角川書店)

やっと席に収まったお客さん

2010-06-16 20:21:27 | 日録

 この漱石全集は、全く招かざるお客さんであった
正月次男が小生の部屋に持ち込んできて、そのままにしておいた。置き場がなかったからである。しかし、いつまでもべた置きで放っておいてはいけない呵責に苛まれてきた。
今日、やっと書架から雑本を持ちだし、席を漱石先生に譲った。
下段には、あまり漱石の作品を評価したくなさそうなD・キーンの著作を並べたが、特に他意はない。

但し三島由紀夫全集(新潮社1,000部限定版)や、鴎外全集(岩波書店37巻)とは別室とした。 


六月十日

2010-06-10 21:42:17 | 日録


「6月10日魔の90分」:屋口正一より(昭和25年8月9日撮影)

ボクはこれまで、六月十日という日に特別の想いを抱いてきた。弊ブログバックナンバーを検索してみたら、やはり同じタイトルで「六月十日」に関連するものが複数をかぞえることができる。
1945(昭和20)年6月10日午前、村は米空軍B29の約1時間、2波に亘る爆撃で、平穏だった村が一転して「屍の街」と化してしまったのである。
当時の報道機関は、(新聞とラジオ放送しかない)軍のきびしい管制下にあったのだろう、空襲の惨事は一般には伝わらなかった。
町史や、町教育委員会編纂による「町と予科練」、同好会文集などにも、この日の惨状体験の思い出話が何編も載せられているが、
当日は、「雲一つない快晴の日」であったり、「曇天」 であったりする。
また敵機についても、グラマンF6Fと、P51を艦載機として混同したり、カーチスP51と書いている例もあり、必ずしも正確でない。(ボクの記憶が確証とは言えないが…)。
 半世以上経って、しかも高齢者の記憶であるからある程度ヤムを得ないことであろう。

 平成7年8月15日、T中学校・T高等女学校 動員学徒の集い実行委員会の手によって編まれた文集「戦いのなかの青春」誌が手元にある。その中に、当時高等女学校4年生だったU.M子さんの『勤労動員学徒の日記抄』が載っている。
 ちょうどボクとだいたい同じ世代であり、書かれてある環境もほぼ同じである。あの頃あこがれの的であった高女生の考え方が伺われ、ボクも青春に返ったような錯覚で一気に読んでしまった。

昭和20年3月卒業した私達は、4月2日(月曜日)から「国思隊」という名前で養成所へ行く事になり、皆で不平をいうとH中尉より怒られて全員森の中で
重大ないまの戦局をこんこんと聞かされて、泣きながらあきらめる。
今日から挙手の礼を練習して敬礼をさせられる事になった。
午後土運びをして疲れた。
(今思うと、女学校卒業したのに殆どのクラスメイトが動員されていたことが不思議に思われ当時の当時の身分はどうなっていたのでしょう)

昭和20年4月3日
山の上で木の株切りをした。ノコギリでギイコギイコひいてなかなか切れない。暑くて汗まみれなのに、欠席者が多いとH中尉に叱られる。
4月4日
雨で外仕事が出来ず、ヤスリかけをする。半分以上欠席で欠席者の家へ電話をかけろといわれ、Aさんと二人で庁舎へ行ってかけたが、記録なのでなかなか出なくて1人40分も待たされてしまい、H中尉に「明日友人の家を家庭訪問して連れて来い』と言われた。出ている人が怒られて悲しい。
4月6日
今日は溝掘り、廠長巡視が1時にあるというので、雨でも作業を休めず皆ずぶ濡れになってしまった。H中尉が後で焚き火をしてあたらせてくれた。
4月7日
今日も土建作業をしていたら10時空襲になり待避をしたが、この近くに壕がなく、山の中をウロウロしていた。午後材木運びをした。
4月15日
廠長訓示の後、第二工場からトタン運び。H学生(技術委託学生)が2度づつ運んだので「もうよいから帰れ」と言ってくれたのに、H中尉が「終わるまでやめてはダメだ」と6時迄やらされて腕が抜けそうだった。帰り真っ暗い夜道をお腹が空いてOさんの雑嚢に入っていた生のスルメを2枚もムシャムシャ食べながら歩いた。空にはOH中尉のアゴのような月が出ていた。「ガダルカナル戦詩集」を読んで寝る。
4月18日
小松(場所の名前)のところで材木運びをした。仕事は辛いがお国の為だ。お昼は道路脇の草の上で食べた。朝、母が作ってくれた蒸しパンを3人で分けて食べながら、映画「勝利の日まで」「跡に続くを信ず」の感想を話し合った。沖縄の戦局もだんだん不利になり、父母達はこの戦争は負けるかも知れないと心配しているが、私は必勝の信念を持って毎日をがんばっている。
5月23日
朝大雨でカッパ着て自転車で行くが、向かい風で雨が頭にかかって目が見えなくて困った。これが勝利への道と思うと、困難がむしろ楽しく感じられる。
5月29日
午前中空襲でB29が500機も来た。お昼頃空が真っ黒になった。横浜が燃えているらしい。その中、火の粉が、炭みたいのまで飛んできた。恐ろしい。
6月10日
朝6時空襲、近くの航空隊に爆弾が投下され、大きな響き、B29が次から次へ飛んでくる。10時解除になってもT駅の近くに憲兵が立っていて先に行かせてくれない。予科練に面会に来た家族もたくさん足止めされてお気の毒でした。
6月17日
若草工場でタイム取りをした、Aさんがグミを持ってきて。H学生に皆で甘いと嘘をいってすすめたので、本気で食べて怒った。串柿の配給あり。4円。


前哨戦

2010-06-01 14:06:07 | 日録

 選挙の前哨戦の幕は、普段はさる宗教団体の推薦する政党の候補予定者のポスターから、切って落とされる。

参院戦ともなると、1つは都道府県単位の選挙区選挙で、個人に投票する選挙であり、242名の参議院議員のうち、146名が選挙区選挙で選ばれるそうな。

もう1つが比例代表選挙で、政党に所属していないと立候補できないらしいが、有権者は政党名で投票するか、立候補した人の名前で投票するか、自由に選択することができるという。

いざ選挙選になって、県内に氾濫する立て看板のうち、県内まんべんなく行き渡るには、後援会が強力な宗教団体の組織力であり、この政党の支持者はすさまじい底力を発揮することは言うまでもない。

弱小だと、ポスターの数も当然少なくなる。

 そこへいくと、今回の選挙前哨戦の異変!今朝 隣村の友人の処に用件あり、出向いたら、
途中1キロの道中、このポスターが8件(枚)!も立っているではないか。
カメラに収めるのに車から降りて覗いたら、その宗教とは全く関係のない、かつて政権与党だったJ党から、一等先飛び出した猛者氏の創った政党の時局演説会のポスターだったのである。主催した隣市支部名が記されていた。

誰、それ?!何党!?
それば読者諸兄の賢明なご想像にお任せしたい。そんでわ。 


小さき命

2010-03-24 04:55:43 | 日録
長いこと心に想っていた歌集である。捜しても見つからずにいた。
以前エントリーしたことがあるかも知れないが、私にとっては単なる思い出ある歌集だというだけではない。貴重な心の財産でもある。
他人にも見せたり、貸し出したこともあるので、あるいは紛失してしまったものと諦めていた。
それがたったいま、本箱の隅から発見した。本の背に何も書かれていない100頁弱の薄い本なので、身近な処に置いてあったのに気が付かなかったのである。
著者は、私が小学校2年の時の担任の先生(ご夫妻共著)であった。
私は6歳の時母に死に別れていたので、惨めな環境にある子供だった。
洗濯などしたことのない服や、汚れた下着のまま通学していたから、身体検査の時など気恥ずかしかったのをはっきりと覚えている。
今ではとても考えられないようなことばかりだ―。私はこの先生に下着のシャッやパンツまで買って頂いたこともあったのだ。
その恩義ある先生でも、何処のお方なのか、本籍も現住所も一切不明でいた。小学校創立90周年(昭和45年)の時、記念事業推進委員会が編んだ全卒業者名簿(謄写版刷り)に旧職員(先生方)の名前も載っているが、住所不明の方が多い。死去された方が大部分だが。昭和20年6月10日米空軍の爆撃で、校舎全体が爆弾の直撃で壊滅した。保存書類は殆ど散逸してしまったからである。
その先生が、偶然というか奇跡というべきか、思いがけない方からの情報で、町内に住んでおられることを突きとめたのである。
約50年振りの再会であった。そしてお会いしたのも1度だけで、間もなく昇天された。(先生は敬虔なクリスチャンだった。)
この歌集は先生が亡くなったのち、御主人さまが共著として発行された私家版で、ご遺族から頂戴したものである。
 先生との出遭いやその後のことはとでも1頁や2頁では説明しきれない。
 ここでは、歌集「小さき命」の序文と扉に添えられた御主人さまの一首の短歌だけの記録にとどめる。

     序(元朝日新聞地方版歌壇選者)
 お大切な御夫婦(それぞれの)御歌集 早くおかえし申し上げなくてはとおもいながら 今日になりましたこと お許し下さいませ。
 このようにおまとめになられましたものを拝読いたしますと 一そうひしひしと胸深く 尊い御夫妻のお心がしみ入り深く感動いたしました。至らない私を改めてふりかえり お詫び申し上げたい気持ちでいっぱいでございます。
 奥様のお歌を拝見して 私こそいろいろと教えて頂きました。
 御生前にお目にかかれませんでしたことを残念におもいました。又最後のお歌を折りかえしお返し申し上げなかったを何とも申し訳なくおもいました。お詫びを申し上げて下さいませ。
 お歌を通して奥様の深い御信仰を改めて仰がせて頂きました。又ご主人様と御信仰を共にされ お歌のよろこびも共にされましたことは誰にも容易に恵まれないの愛をうけられたあかしとおもいました。
 先生のお歌はお心にも 表現にも 奥様のお歌とよく通われるものがおありになることを知りました。長い間の誰にも容易にできない愛の深い御看護を全うされましたのも ほんとうに通い合われて初めておできになったことと感動いたしました。
 どうぞお二方の歌集を通してすべての人が 御夫婦の愛と信仰と徳を仰がせて頂くことができますようにと念願してやみません。
 御出版の日をたのしみに お待ち申し上げております。
 老婆心乍ら 奥様のお歌を初めに先生のお歌をつづいて おまとめになられてはとおもいます。
 又お二人とも おはぶきにならないで全部 お入れになって下さいませ ほんとうに珠玉のようなお歌でございますから  
                    かしこ
                    土屋 セツ子


     いかばかり淋しかりしや吾を呼び
          「なんでもない」と妻の息絶ゆ
                      余志夫

略歴の抜粋(歌集から)
昭和10年 洗礼を受け夫余志夫と結婚 2男2女を生む
昭和14年 中国天津に渡り 21年引き上げT市に住む
昭和45年 子宮癌を病み手術 コバルト60の後遺症か股関節炎
     関節の骨がくずれ 松葉杖 車椅子の生活 丸山ワクチンの注射を3年間  
     この間病気は進行しなかった。
     その後肝硬変 糖尿病を併発して数回の入院退院を繰り返す
昭和56年7月1日 夫の傍で 安らかに永眠する  

辞書彷徨

2010-03-19 08:36:25 | 日録
              

日録抄
 町の生涯学習課で刊行する郷土の作家(大正~昭和にかけて活躍した。)の研究・顕彰誌(小生が委員会からの依頼で文集化155ページ)の校正刷り冊子を、町から委嘱を受けた委員5名の手で校正作業に入る。女性小学校校長(お一人は元)さんも2人名前を連ねている。お一人は欠席なされたが、付箋が数え切れないほどあり、各ページ赤ペンで、ぎっしり書き込んだ校正刷りを別の先生に託して寄こした。
 皆さん非常に熱心に冊子に目を通して来られたようだ。恐れ入る。
 最初の目次から異論が続出した。
 書式を横書きから縦書きにする。インデントの問題。主題から筆者に繋ぐ点線の長さの不揃い…等など。
 しかし、こんな事までわれわれが議論していたら、遅々として本文の校正まで行き着かぬ。
 取り敢えず、本文中の誤字脱字を検討していこうや、とオレは提案した。
 こうして校正が始まったのだが、いくらやっても問題点は続出する。
 49ページまでやっとこぎ着けたが、家に帰ってまた辞書との対決である。今日決まった事も次回覆さねばならないかもしれない処も出てきた。

 「おゝ、たうとうあの山へ登らして頂けたのかえ」と母親は純一の腕にすがり、感極まって咽び出してしまった。…」(引用文)
この「たうとう」が旧かななら「たうたう」、新かななら「とうとう」だと校長先生が仰るのだ。
 小生は、「そんなことはない。この小説は当然旧かなで書かれた小説だから、『たうとう』でいいと思う。」と強く言いきってしまった。
 あまりにも細かい処まで追求するから、オレも意地を張ってしまったのである。しかし自信ある反論ではなかった。
 「どうして調べる?」
 「広辞苑なら調べられると思う」とオレ。若い事務局員が事務所へ捜しに行って戻ってきた。
「あいにく『広辞苑』はありません。これでどうでしょう。」
 講談社版国語大辞典であった。オレが目を通したが、旧かなの表示はなかった。
 実は内心ホッとした。しかし別の課の方が、
「『広辞苑』ありましたから。」と言って、函に入った真新しい第六版を抱えて来たのである。
 
とうとう(タウー)【到頭】《副》(トウドウとも)ついに。結局。最後に。「ーたどりついた」「ーこなかった」
 「たうとう」で良かったのだ!しかし活字があまりにも小さくてわかりずらい。
帰宅後さらに「大言海」大槻文彦 冨山房で確かめたのがこの写真である。

 




始めなり終わりなり

2010-02-24 21:10:52 | 日録
暖かし。されどまだ石油ストーブ焚かざるを得ず。
 午前A氏来訪。上がって選挙回顧談。
 12年年ぶりの選挙選だったのである。
 無所属で前町議A氏(62)が、前町議会副議長T氏(47)と現職K氏(74)を破り初当選した。
 得票を大きく左右するのは、何処も同じ某宗教団体組織票。この団体の票を掴めばほぼ当選確実と言われる。現在この宗教団体推薦の町議が現在3名いる。
 単純計算でも、この上位当選の町議3人の票を足し算すれば、当確の算盤はハジケル勘定となる。
 今回はこの鉄壁を誇る組織票が自主投票だったらしい。

 世の中は単純であり、複雑である。

 われはアルパなり、オメガなり、いやさきなり、いやはてなり、
  始めなり、終わりなり 

 町議補選(改選数2)は、元新2氏が当選。町長選に比べ関心が薄く、無効票が1812票もあったという。


初雪の朝

2010-02-08 15:43:22 | 日録
これは、今朝の写真ではない。霜の降ったように見える田圃は、4日の朝拙宅近くの風景である。
この地方は節分の頃になりとよく雪が降る。しかし、温暖化の影響か、近年はほとんど降っていない。
天気予報は繰り返し繰り返し大雪になるおそれがあるといっていたから、今度だけは予報を信用した。しかし夜半ぱらぱらと粉雪が舞っただけで日中は晴天に戻った。

ここ数日、寒い日が続いて霜柱が立つようになった。寒暖計は昨日(6日)の朝である。
z寺「朝詣り会」が再開した。
仲間が、今朝温度計をみたら零下5度あったといっていたので、帰宅してから我が家の庭に寒暖計を待ちだしてみたのがこれである。時間は、8時近い。さすが零度以下にはならなかった。
               


藤村全集

2010-01-15 21:35:53 | 日録
            

ボクは文学書の雑本を購い集めるのが好きだ。
だからパソコン室を兼ねたわが書斎(?)は、窓を切ってあるところ以外は書架と本がところ狭しと積み重ね散らかしっ放しである。
 訪問客から「これ全部読んだんですか?」と何回聞かれたことだろう。

常識的に考えて、漱石全集28巻全別巻1だけだって、これを読破するとなると、飯も食わないで朝から晩まで本にかじりついていたとしても、オレの読書力では、読み了えるには10年ぐらいは楽にかかるのではあるまいか。
そういう客には、
「殆ど読んだがね。」と真面目くさった顔で答えることにしている。

ボクは、以前何回かこのブログに「全集」本について駄文をエントリーしたことがあるが、不思議なことに島崎藤村の著書は、日本文学全集といった類のもの以外は、一冊も持っていなかった。
 購ったことがないのだから、読んだことのないのは当然である。
 
 10年ぐらい前になるだろうか、町内会グループと、また別の同好会とで、藤村文学記念館のある小諸市へ年2回も訪れたことがあった。
 館内の見学するのに、ガイドがあった方が良いだろうとのみんなの意見で、その場に当たって場内ガイドを有料で頼んだのだった。
 この時のガイドさんが、アルバイトで雇われている「掃除おばさん」のような小母さんで、われわれ一行を只道案内しただけで、何の説明も出来なかったのである。それが反って藤村記念館の存在をオレに浮き立たせた。
 売店で、新潮文庫を2冊ぐらい買って持ち帰った。
 それが、島崎藤村との出会いであった。
 添付写真は、町の図書館廃棄本を頂いてきたものである。
 島崎藤村全集第六、第十三、第十四巻 昭和24年~昭和25年発行 新潮社刊である。
 この内、第六巻は長編小説「新生」第1部と第2部だが、後は旅行記とエッセー集である。
第十四巻の方は、浅草だより(前・後篇)、飯倉だよりの2篇、筋書きのないドラマである。

短章が寄せ集まっていて読んで退屈しない。何処を開いても楽しく読むことが出来る。
 
     老 年
 老年は私が達したいと思ふ理想境だ。今更私は若くなりたいなどと望まない。どうかして、ほんたうに年をとりたいものだと思ふ。十人の九人までは、年をとらないで萎れてしまふ。その中の一人だけが僅かに真の老年に達し得るかと思ふ。

     孫の愛
 私はまだ孫の可愛さというものを経験したことがない。自分の子供のそのまた子供から初めて『おじいさん』と呼ばれた時の気持ちは、果たしてどんな深刻なものだろう。まことの『老年』は孫の愛から始まると言ってもいゝやうな気がする。遠い遠い『未来』の空がそこから明けかゝって来るもののやうな気もする。

 
藤村は71歳で死去したが、これらの「浅草だより」の初版は大正十一年九月五日発行とあるので、書かれたのは四十歳後半だろうと計算することが出来る。 


 

2010-01-11 19:19:40 | 日録
                   
タイトルを「?」としたのは他意はない。
何ともつけようがないから、ハテナマークを付けてしまっただけのことである。
燈刻、自宅近くを散策した。そのときの画像である。
三本の電線にぎっしりと小鳥が留まっている。ちょっと見ただけでは気が付かないだろうが、その下の二本の電線も同じように小鳥が整列しているのだ。
その一斉に飛び立つさまのスナップを撮りたかったが、此方の注文通りに鳥は飛び立ってくれない。
諦めてカメラをケースに収めると、一斉に飛び立つのをみた。
どう考えても指揮官はいないだろうが見事である。

七草粥

2010-01-07 13:39:38 | 日録
            

財務相辞任を聴きつひたすらに愛づ糟糠の七草の粥 谷人
 
 拙宅の七草粥の特徴は、粥の中に「焼き餅」を挿入する独特(?)の作りである。これは嫁いできた糟糠のひとの実家の家風を引き継いできたと思われるが、割合賞味するに足る。
 粥だけをアップして撮って見たが、見栄えしないので今朝の食膳の全体像にした。ここにある「たくあん」は山形の寒村(寒いという意味)育ちのもので市販のものではない。
 この「餅入り粥」は全国に共通する点の有無を、広辞苑でひいてみたら、「七草」の派生語として
《正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥。後には薺または油菜のみを用いた。菜粥〈[季]新年〉と簡単な記述のみである。

 漱石全集の置き場に窮し、書架の配置換えを考えざるを得なかった折、これも滅多に開いたことのない「世界大百科事典17」平凡社で調べてみることになる。ただしこの事典は1967年版の古典であり、替わった記述になっている可能性も考えられる。

春の七草をいれた炊いた粥を七草粥といい、正月7日に食べるならわしがあり、年中行事の一つになっている。七草粥の習俗は、古く万病をのぞくといい、正月のはじめての子(ね)の日に、山野に出て小松をひき、若菜をつんであつものにして食べた子の日の遊びにはじまるという。正月7日を人日(にんじつ)とし、この日に七種の菜であつものを作り、これを食べる風は、古くから中国でも行われており、その影響だ考えられる。正月7日は、江戸時代には五節供の一つと定められ、若菜節、七種の祝、七種の節供などとよんだ。当日は将軍以下七草粥を食べ、諸候は登城して祝儀を言上した。また民間では、当日の朝七草粥を食べる外、六日の夜から七種ばやしといい、小さなおけの上にまな板をおき、若菜をたたいてはやした。
七草粥の習俗は現在も広い地域に行われているが、若菜を入れた雑炊をたくところも多い。現今のように新暦の正月7日では、若菜の手に入らぬ土地も多く、この日使用する若菜も限られている。
東北地方ではセリとタラノキの芽、和歌山地方ではナズナだけを用いるが、新潟県ではニンジン、ゴボウ、ダイコン、クリ、串柿などにタラノキの芽を七草としている。
京都北部地方では6日を若菜迎えとよび、この日七草粥に必要な菜を用意し、6日の夜たたく。七草をたたくのは6日の夜か7日未明で、一般には
〈七草なずな、唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬさきに……〉唱えすりこぎまたは包丁でたたいてはやす。たたいた菜は粥に入れて七草粥とし、神に供え家の者も祝う。七草粥の唱え言は、豊年を祈る鳥追行事にも結びついている。→秋の七草(江馬三枝子)

 即ち「餅入り粥」には触れていなかった。年々この美食(?!)も廃れて行くと思うが、わが家でも恐らく吾ら一代きりの行事になるであろうことは必定である。

漱石全集のお客さん

2010-01-04 17:41:02 | 日録
            
お客さんが舞い込んできた。
漱石全集全28巻別巻1である。

次男が本の捜し物の目的を兼ねて正月にやって来た。オレがこれまで全く開けていない三島由紀夫全集(新潮社版限定1000部 35巻+補巻1冊)の中から何冊かを抽出して、さかんに首を捻っている。
この全集本は二重箱、革装本、天金という贅沢厄介な造本である。二重箱の上に更にカバーが付してあり、索引付きの補巻まで行き着くのも大事だが、やっと見つけ出しても、彼が文庫本で読んだ書名も確かでない著作を短時間で見つけ出すにはかなり困難な作業のようであった。
結局は1時間ぐらいで断念した。
彼が何を捜し何を調べていたのかは分からない。親子の世代の考え方の断絶であろう。
彼は、マンション暮らしなので、本の置き場所に窮していた。三島由紀夫の文庫本をかなり購っていたらしい。その中の一冊を探しに来たのだ。
彼の二人の子供たちも成長するにつれ、それでなくても狭い部屋が尚更窮屈になる。
それで帰郷する度毎に車のトランクに入れて本を持ち帰り、オレの物置を無料で使用して書庫代わりにしていたのである。
碌な本はなかったようだが、彼は新版「漱石全集」を予約購入していたのをオレは知っていた。
その後どうしたかは訊きもしなかったし、彼もオレには何も語らなかった。
きょう話の序でに出たのがこの全集のその後である。
なんと!!全巻揃って拙宅の物置の段ボールの中に眠っていたのであった…。
そして、この最新「漱石全集」を余の城であるパソコン部屋に持ち込んで来たのである。
オレの部屋は彼のマンションから比べれば広いには違いないが、この貴重全集を棒積みにして置くわけにもいかないだろう。
何処へ置くかが最大の悩みの種になってきた。
重さにして約35キロ、三島由紀夫より低い処へは置けないだろうから。

注連飾る

2009-12-30 20:52:50 | 日録

  村の神社に奉納する注連縄である。昨日今年の神社祭礼当番であるS君が自宅で綯っているところへ、用足しに行った家内が偶然出遭わせた。

 この地方では、注連飾りばかりでなく、正月飾りは明日31日では、「一夜飾り」といってたいへん忌み嫌う。
 また29日の餅つきは「くもち(苦餅)」の縁起をかついで、わが地方では絶対にやらない。だから30日は非常に忙しいのである。

 家内はこの巨大注連飾りに、ある深い理由があって(ナイショである)関心が高かった。30日の朝、神社の鳥居に飾らないうち、写真に撮りたいと言いだした。
 それで撮ってきたのがこの写真である。

 抱えているポーズはオレが要求した。彼は快くオレの要求に応えてくれたのである。
 

 

 


2009-12-11 20:21:00 | 日録
              


 夕飯時テレビをつけたら偶然にも「今年の世相を表すひと文字は「新」-。」のニュースがながれてきた。お馴染み清水寺での「奥の院」で、森清範貫主が「新」の文字を大きく揮毫する映像である。

 年の瀬を具に感じる昨今、1年があっという間に過ぎ去ってしまった想いが突き刺さるー。「今年の漢字」はこの時期に毎年発表する恒例行事だからである。
 だが今年は、主催者である日本漢字能力検定協会の全理事長が、背任容疑で逮捕されるという不祥事が表沙汰になったことなどから、どうなるのか、小生も気にはなっていたものの、ここへ来てすっかり忘れていたところだった。
 まあ、みんな(オレも)が楽しみにしていることだし、大いに喜びたい。
 ニュースに依ると、今年の応募数は過去最多の16万余通なる由が全てを物語る。
応募漢字の以降は「薬」「政」「病」の順だったそうである。また昨年は「変」だったと思う。

 「新」ねえ!ちょっと暮れの時節柄ボクにはピント来ないところもあるけれど、新しいことは決して悪いことではない。反して「古い」ことは全部悪いわけではあるまいが、次々暴きだされる長期政権の「膿」は、とどまる処を知らぬ程奥深いゆえ、特に新鮮なものを期待したい願いも含まれているのではあるまいか。
 戦後、長い間つんぼ桟敷におかれた臣民が、「真実はこうだ!!」と、連日のラジオ番組でこれでもか、これでもかというほど聞かされたあの頃の世相が心によぎる。
 「新」は確かに良い。しかしボクはおなじ音読みでも「真」の方が、真実味があって今の世相にピッタリ合っているような気がしてならないのだ。


皇帝ダリア

2009-11-26 21:26:57 | 日録
           

敬愛のyahooブログ〝純情乙女のはりきり日記〟に、「皇帝ダリア」についての、3回に亘って詳しいエントリーがあった。ボクはこれまで、この花の名前すら知らなかったし、関心もなかったから、数年前近所の「村の豆腐屋」さんの庭に大きな植物の樹の植えてあったのを見たとき、
「小さな孫芽からでも直ぐ大きくなりますから、差し上げましょうか?」と店のおばさんに言われても、そのまま聞き流しすっかり忘れてしまった。
今考えると、そのときはまだ花の咲かない時季だったので、どんな花なのか知らなかったのだろう。
今日急にその事を思い出して撮りにいったものである。こうして眺めて見ると決して想像していたようなエキゾチックな花ではない。むしろ可憐であり、花の彩りはロマンチックな感触である。
 同じ「皇帝ダリア」をアップして撮ったみた。中天に上弦の白い月があった。 

 さて土曜日の今朝、2週間振りにZ寺の「朝詣りの会」に出席した。
先週土曜日の21日には、信州長野への「リンゴ狩り」のため欠席したからである。
 2週間も経つと、日出の時刻が、約10分ぐらい遅くなり、家を出る時はまだ薄暗かったが、暖冬異変(?)気温は7~8度もあった。セーターだけで、寒さを感じなかった。
境内の銀杏の大樹が絵に描いたように鮮やかだった。
読経を終え、朝茶が振る舞われて解散するのだが、カメラを新調した珍しさも手伝って、帰り際大銀杏をパチパチ撮った。
気が付くと、庫裏の前の松の植え込に隠れて、薄紫の彩色が目に入った。
紛れもない「皇帝ダリア」だったのである。
朝詣り仲間の○子さんも、銀杏の下でデジカメを弄っていたから、手招ぎして「皇帝ダリア」を示したら、彼女も初めて見る花だそうある。勿論花の名前は、ボクがありったけの講釈をした。何枚も撮ったみたいであった。