狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

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E・サイデンステッカー氏逝く

2007-08-30 22:40:54 | 日録

28日朝日新聞朝刊1面は、
「雪国」「細雪」など詠訳海外に紹介
 サイデンステッカーさん死去
 という見出しでその死去を伝えた。
米国の日本文学研究家で、「源氏物語」や谷崎潤一郎、川端康成の作品を英訳し、日本文学を広く海外に紹介したコロンビア大名誉教授のエドワード・サイデンステッカーさんが26日、外傷性頭蓋(ずがい)内損傷のため都内の病院で死去した。86歳だった。葬儀は近親者で行う。
 米コロラド州生まれ。コロラド大学英文科を卒業後、海軍の日本語学校で日本語を学び、占領軍の一員として来日後、ハーバード大で日本文学を専攻。48年に外交官として再来日し、50年から5年間、東大大学院で平安朝文学を研究、「蜻蛉(かげろう)日記」を英訳した。62年に帰国し、日米間を行き来しながらスタンフォード、ミシガン、コロンビアの各大学で教えた。
 川端康成の「雪国」「千羽鶴」や谷崎潤一郎の「細雪」「蓼(たで)喰ふ虫」をはじめ、日本の近代文学を100点以上英訳。その訳文は格調の高さで定評があり、68年に川端がノーベル文学賞を受賞した際には陰の功労者と言われた。75年には約15年がかりで「源氏物語」の全訳を成し遂げた。
 75年に勲三等旭日中綬章。77年に菊池寛賞。五島美代子賞(81年)、山片蟠桃賞(91年)も受けた。


 ボクは、同じ米国の日本文学者でもD.キーン の著作はかなりの冊数を所持しているが、E・サイデンステッカーは、1冊しか所持していない。D・キーンに比べて、単行本、特に文庫本が少ないからであろう。
 それでもボクは、この米人文学者を1冊の著作だけで完全魅了した。(湯島の宿にて:E・サイデンステッカー 安西徹雄編訳蝸牛社刊)
 読売新聞「編集手帳」に、サイデンステッカーさんの自叙伝「流れゆく日々」の一節が紹介されていたそうである。

 
「夜の底が白くなった」という「雪国」の一文を英訳した時のこと。サイデンステッカーさんは「夜の底」という表現を用いなかった。「night」と「white」という、響きの似た言葉を一つの文章の中に並べるのが嫌だったという。しかし、「夜の底」から生まれる鮮明な印象を思えば「やはり残しておくべきだった」とほろ苦い反省の弁をつづっている。


 ボクは英文は分からないが、川端康成のノーベル賞は、サイデンステッカーの英訳によって生まれたと云う巷説を疑わない。 それにしても氏が、勲三等旭日中綬章受賞とは、何とも不思議としか言えようがない。

(参考になるかどうか?)
東京大空襲作戦を指令したカーチス・E・ルメイ空軍副参謀総長。彼は、名古屋、大阪などの空襲や広島、長崎の原爆投下にも関与した。日本政府は彼に勲一等旭日大授章を贈った。

「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ(05年3月10日付『毎日新聞』-「余禄」)









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村議選と内閣改造

2007-08-28 22:23:56 | 怒ブログ
隣村の村議会の選挙が、21日から5日間の選挙戦の結果26日開票になった。有権者数1万4506人という小さな村である。定数15に対して19人が立候補、激しい選挙戦であったようだ。
 ボクの町はそれよりは有権者数も多いけれど、選挙のやり方は、(?)凡そは分る。この有権者の約半数は新住民であり、現議員の殆どは原住民で新住民は3名(?)である。

 開票の結果は、
当   H.M子     825 票 公現
当   K.M      810 票 新
当  A.N       712 票 現
当   Y.Kえ      681 票 公新
当  I.O        644 票 現
当   T.S        551 票 現
当  N.M       535 票 現
当   S.H        512 票 新
当   S.k       495 票 新
    ・・         ・・
    ・・         ・・
当 H.T子       225票 共現            

 上位のうち第1位。第3位が、公明党公認女性候補である。共産党候補は辛うじて最下位当選を果たした。

 わが町でも公明党が3議席を締め、しかも3人とも上位当選であることと、政党では公明党と共産だけである事は隣村と同じである。わが町の共産党議員得票数は最下位に近い。議員定数を減らすと両町村とも共産党は議席を失うことはまず間違いあるまい。

 ところで、翌日、安倍内閣の改造人事は発表になった。

 安倍晋三
 増田寛也(民間)
 鳩山邦夫(津島派)
 町村信孝(町村派)
 額賀福志郎(津島派)
 伊吹文明(伊吹派)留任
 舛添要一(無派閥)
 遠藤武彦(山崎派)
 甘利明(山崎派)留任
 冬柴鉄三(公明党)留任
 鴨下一郎(津島派)
 高村正彦(高村派)
 与謝野馨(無派閥)
 泉信也(二階派)
 岸田文雄(古賀派)
 渡辺喜美(無派閥)留任
 大田弘子(民間)留任
 上川陽子(古賀派)
 大野松茂(町村派)
 岩城光英(町村派)
 的場順三、留任

 大臣名を伏せのは、どのお方が、どの大臣になっても、クジ引きで決めても同じ様な事と思ったからである。
 
 小池前防衛相の離任式に守屋前次官が送辞を読んだという。
 矢野何とかという自民党国対委員長が、何でオレを、閣僚から外したんだと阿倍氏に抗議したともいう。あまりの馬鹿さ加減に言葉も出ない。

 村議会議員も碌な人はいないといえばそれも頷けるが、おおよそ大臣も村議会議員も国の政治、村の政治に係る態度は同じなんだなぁと小生はつくづく思ったのであった。



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外字エディタ奮戦記

2007-08-23 19:09:27 | 本・読書

  この「くいな」という黒偏に鳥の漢字は、(JIS)の漢字コード体系外の文字である。この漢字は、過年浅草の浅草寺(何とか殿とか名前があるのだろうけれど)内見学の折、廊下の壁に掛かっていた絵画の題字で、ルビが「くいな」と振ってあるのをメモ帳に書き留めてきた。

 気になっていたので「大漢和辭典」で確めてみた。
 
いうまでもなく、「大漢和辭典」は諸橋轍次の著になる全13巻、本文12巻索引1巻という大辭典である。字訓索引を見ると「くいな」は、登偏に鳥の1字だけであった。黒と鳥部は第12巻に収まっていたので、割合作業は簡単であったが、実は両の部で見つけられなかった。

 この大漢和辭典で牽けない漢字はある筈がない。 ところが、とうとう見つけたのは、『大漢語林 鎌田正、米山寅太郎 大修館』である。同クラスの漢和辞典「大字源」山田俊雄他5共編角川書店、「字通」白川静 平凡社では何れも牽けなかった。

 この苦労を小生は自分のブログにして残して置きたかった。そこで思いついたのが、「外字エディタ」である。昨日と今日2日がかりで字を作ってみた。

 この外字エディタの使い方は、I.Eで調べると極めて簡単な様であるが、やってみるとなかなか難しい。とうとう今日パソ博士H氏のご指導を仰い出しまった。

 しかし、結論を先に言ってしまいば、外字エディタで作成した文字は、作成したパソコンのみ使うことが出来、メールやブログに載せてもダメだことが分った。
 それでも出来上がってしまった気分は、ちょうど横浜ベイスターズが優勝したような、秋空の広がる清々した気分にってしまったのであった。

 

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これは贅沢か?

2007-08-19 21:12:18 | 怒ブログ

序章
東条さんの(東条大将というべきか東条首相という書くべきか迷ったが…)写真を見ていると、複雑な思いになる。先日のページに載せた写真の東条さんの晴れ姿は、大東亜戦争1周年記念号の写真週報表紙である。
先ず複雑な感情は抜きにして、この勲章重かっぺ(重量の話)と思うんだよなァ。
今こんな格好で、かりにタクシーを拾おうとしても、敬遠されるでしょうね。
ボクも、幼少年時代は軍人になろうと思ったこともあったんだけど、憬れたのは少尉か中尉どまりで、兵隊の先頭に立って軍刀を振りかざし、「進め!進め!」と号令をかけることだった。大将になってこの東条さんみたいに胸、腹一杯、勲章をつけたいなどとはいっぺんも思ったこと無かったね。
蛇足だけど(畏れ多いが)明治天皇、昭和天皇の御真影もやっぱりこのように勲章一杯のお姿だった。大正天皇の勲章をお付になった御姿は、単行本などで見て知ってはいるが、御真影として拝見した記憶はない。
1.蕎麦の話。 

東條さんの時代から、65年前になるのかなぁ。昭和17年12月2日号の写真週報だから。ガダルカナル撤退決定の頃で、まだそれほど国内はひどくなかった。ボク等は飲食店への出入りは禁止されていたので、よく分からないけれど、そば屋もまだあったのではないか知らん。
またもりそばが贅沢品であったかどうかはますます分らなくなるけれど、今はいちば
ん贅沢品だとボクは考える。

猛暑が一服した18日(土)、妻とT市のある有名そば店へ昼食に駆け込んだ。有名店だったので時間をずらしたんだけど、駐車場はほぼいっぱいだった。
 贅沢を云いばキリがないが、有名店でもハズレある。今日はそのハズレ籤をひいてしまった。そばは作る方も食べる方も、時間が勝負である。
 注文票を持って行ったら、カメラの準備間に合わないほど早く到着した。これが曲者だった。妻は、ミニ天ぷらを付けたので、そばが食べきれない。約半分をボクのせいろに乗せた。
 つゆも、それほど自慢できるようなものではないと思のに、みじめな程量が少ない。ガッカリした。
 ※参考 茨城のそば処では、誰もが一番先に推すのはF市のM・H亭であろう。
下はそこの「そば切り」である。
新そば読本 宮下裕史コロナ・ブックス。

 2.酒の話
  昨日妻と入った有名そば店のカウンターには、カット写真の様に酒や焼酎の壜が並べてあった。
そば店を紹介するムックには、解説のお終いの大概次のような店の内容が付記される。前記、コロナ・ブックスもそうであった。

   店名・住所・電話番号・営業時間
 もりそば         ××円
 天もり           ××円
  ○○           ××円
  ↓             ↓
 酒             ××大吟醸
 座席            ××
 創業            ○○○○年
 粉   産地名  玄そばから自家製粉
 手打ち
 つなぎ     割合
 だし      本節・その他

このように冒頭に酒の銘柄が書いてある処が多い。
ということは、そばに 日本酒・粉・だしは三位一体の関係にあるのかも知れない。
今は生ビールの季節であるけれど、果たしてそば屋にビール置いてあったっけ乎。


結び
日本酒とそばは切り離せない関係にあるとすると、どちらから先に手をつけるべきか?が問題となる。
ボクは迷わずお酒→もりそば、と答えるが、それはトーシローだとさるお方から、一瞥された。
戦争中は衣・食・住どれをとっても不自由と、恐怖の生活に明け暮れた。
いま、このくらいの贅沢は、「しょうがない」ことだと、自分に言い聞かせている。

 

 

 

 

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総括靖国神社

2007-08-16 21:09:33 | 怒ブログ
昨年の靖国神社の夏は、当時の小泉首相が、靖国神社参拝を強行したので、テレビは状況を、繰り返し放映していたのを思い出す。多数ブロガーの話題にもなった。
 確かに集まった群衆の数にも圧倒されたが、その中から「万歳」が湧き起ったのには、反発する気力もなく、茫然と画面に見入ってしまっただけであった。

 その人達のグループの年齢や職業なのについて、考える余裕もなかった。
62年前あの終戦の放送を、その意味さえ判らず 初めて聴く天皇の言葉の神々しさを味わった、あの時の放心状態に似ていた。
 「朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ…」
 この放送を聞いた人もこの群衆の中に必ずいたと思う。

 私はA級戦犯の分祀などということは、問題外であり、この戦争の大元帥である、昭和天皇のご子息であらせられる、天皇陛下が、万難を排して参拝すベきところだと思う。英霊が浮かばれのは、それ以外に道はないからだと信ずるからである。 事実靖国神社の紋章は、天皇家の御紋章ではないか。

 昨年の小生の日記には、次の産経新聞を載せているのみであった。
 終戦の日なり。
 
小泉潤一郎首相は15日、東京九段北の靖国神社に参拝した。小泉首相の終戦記念日の参拝は初めてで、現職首相の8月15日の参拝は昭和60年の中曽根康弘元首相以来二十一年ぶり。小泉首相は平成13年の自民党総裁選で終戦記念日の8月15日に参拝すると公約したが、中国の反発などへの配慮から過去5回は別の日に参拝してきた。9月の退任を控える首相は「最後の夏に」に公約を果たすかたちで、日本の「公約」を守った。(産経8・16)



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敗戦忌

2007-08-15 21:44:37 | 日録
終戦記念日  敗戦忌 終戦日
「1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を無条件に受諾し、天皇はラジオを通じて太平洋戦争(大東亜戦争)終戦の宣言を国民に伝えられた。この日を「終戦記念日」としてわが国の再建を誓って全国各地で各種の催しが行われる。」
八月十五日春画上半の映画ビラ     草田男
終戦日妻子入れむと風呂洗ふ      不死男
戦終へて命目覚し記念日なる      遷 子
(合本俳句歳時記新版  角川書店編:昭和62年2月28日 24版)
とあるように、敗戦忌は俳句でいう「秋」の季語である。然し、今日は群馬県館林で40.2度北海道でも35度とニュースは伝えている。残暑には厳しすぎた。

敗戦日の今朝、近くの湖まで散策した。早朝から釣り人達の車が護岸道路を行き来していた。
此処の(写真)すぐ左側は、戦時中海軍航空隊の大きな軍事施設があった。この施設には直撃爆弾は落ちなかったけれど、周囲の田圃やこの湖にも爆弾による大きな水柱が何本も上がり、鯉や公魚、鮒などが大量に浮き上がったという。軍事施設は、今は防衛省の研究所になっているが、その直隣は絶好の釣り場となっている。

友人達に近況を伝えるメールを送った。
お早うございます。2007.8.15日!静かな朝でございます。
張り切って、湖岸まで散策致しました。
釣り人4人。中年1人。若い衆3人。老年0
小生「…今は、何が釣れるんです?」
釣り人「一応鯉釣りです。」
小生「昔は筏を流してボラを釣ったもんだけど…」
釣り人「ボラは水面から、飛び上がるものですが、飛び上がりませんねぇ。釣竿でも、釣れる事は出来ますが。」
傍にいた“春日部ナンバー”で来た若いアンちゃんが、何か小さいモノを吊り上げたので、
小生「何を釣りました?」と訊くと、
アンちゃん「ゴミです。」照れ笑いをした。
4時に出かけて来たそうである。
さあ、小生は、これから朝飯です。味噌汁は茄子と茗荷でしょう


 1時間も経たぬ時刻に、通人凡凡翁から、返信があった。
「へらぶなや  ああへらぶなや  へらぶなや」  凡凡
写真を有難う! この釣り人はトーシロです。  
あの格好は、「へらぶな」か「まぶな」の仕掛けです。 あれでは鯉(恋)は出きません。
「鯉」釣り七日と言います。 恋と同じで時間が掛かるんです。
今、「鯉」釣りの主流は(鯉釣り七日・投げ竿七本)と言って投げ終えて竿を固定したら
車両の中で一杯(アサヒ純生スーパードライ)やりながら、恋を忘れ、巨人・阪神戦です。
電波探知機の応答で飛び出すんです。と「鯉」釣り名人の友人が、のたまうておりやした。


 随分気の長い話だが、釣ったとしても、今頃の鯉は食べられるはずがない。釣った鯉はまた湖に戻して帰るのが、釣り人のエチケットなのだそうである。

  ストレスの炸裂したり蝿を打つ      谷人
   甲子園1分間の敗戦忌           谷人
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村の芸術家

2007-08-13 16:20:04 | 日録
 わが村に(すぐ近所)お住まいの、朋友T.Y.兄の作品である。(下写真)
 今年(第59回)毎日書道展に出展したこの作品は、佳作入選であるが、去年は優秀作賞入選を果たした。

 本業は理髪業で、毎週火曜日が定休日(月、火曜日と連休の時も多い)だが、少し離れた山の中(林や森を当方では“やま”と呼ぶ)に、自作の工房があって、同好者の指導に当たったり、月に何度かは東京の所属書道会に出席するなど、非常に忙しい方である。

 展示した会場は、上野東京美術館と、やや日をおいて六本木国立新美術館の2か所だった。

 左上画像は、村に農業研修生として来日していた、中国青年の書である。
T.Y兄の理髪店は、店先に、くるくる回る理髪業の「サインポール3色ねじりん棒」だけはあるが、「村の床屋さん」といった方が相応しい小さな店である。

 店内には、兄の作品やら、郷土署名人の書画を収めた額縁がところ構わず飾ってあり、筆や硯等も無造作に置いてあった。
 訪れた中国青年が、これを見てその筆をとって、すらすらと書を認め、筆も硯も道具が立派だなあと褒めていったそうだ。時折、遊びに来て、この他にも何点かの書があるという。


T.Y兄の作品は、「書」には違えないが、刻字の部類に属する。しかも刻字の台木は、農家の藁屋根に使った(おしぼく)の煤竹(すすだけ)であった。この竹を磨くと、素晴らしい艶となる。

 昔は(戦後も)家の中に竈があって、日常の炊事を母屋の中でした。やがて経済が豊かになり、60年有余の歳月を費やして、次第に現在の様な衣・食・住に変化してきた訳だが、兄がこの刻字(篆刻というべきか)を始めたころは、丁度農家が、続々と住まいを建て替える時期でもあった。兄自ら煤で真っ黒になりながら煤竹を蒐集した。
 当時は、100年以上経った藁屋根の農家が、ふんだんにあり、解体作業もほとんど手作業だっのである。
 兄は、町で生涯学習の一環とし毎年行われる、刻字講座の講師も委嘱されている村の芸術家である。
 本業の方も、決して疎かにはしていないということを付け加えて置きたい。

 
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零観とキリスト者

2007-08-11 21:43:48 | 日録
何故、零観(旧海軍零式水上観測機F1M)とキリスト者か?
その前に、隣T市の市史にあるこの墓石に刻まれた故I.G氏に関する項を引用する。

   第6章 大正昭和初期の教育と文化
    第2節  学問
[I.G氏の実践倫理]I.G氏は、明治15年1月20日、この地に生まれた。M農学校第1回の卒業生で、のち井上円了の哲学館に学んだ。自記によれば、初め仏、儒学を研究し、のち基督教に入り、更に北海道の荒野の修道院で数年を過ごしたという。哲学研究のためドイツに留学したが、第2次世界大戦勃発のため急遽帰国した。東洋大学、立教大学教授。東洋大学では実践倫理を、立教大學では比較宗教学を講じた。
著書に「思索・体験・実践」(文書堂、昭和6年2月)、「日本精神と基督教」(聖公会出版社、昭和8年11月)等がある。昭和34年9月5日没。云々。

この墓地はI家の個人墓地で、田舎では珍しいキリスト教形式である。
I家は、家内の実家の同じ組(自治体名)内にあり、苗字も同じである。墓地も家内の実家の墓地近くにあった。

勿論、ボクの年式が古いといってもI.G氏とは時代がかけ離れているので、ご存知ないが、氏のご子息であるI.K氏とは、家内の実家で、ある集まり事があった時、麟席に座したのか縁で懇意に願うようになった。

 初対面なので、麟席の方とは、何か話題をこちらから探さねばならぬ。相手は若造りだったが先輩に見えた。
 ボクの目に映ったのは、氏が自席の前に、無造作に置いてあったこの「ゼロ観」称号で知られる旧日本海軍機の写真を付けたカード(テレフォン・カード?)であった。

 氏の容貌から推すと、旧海軍々籍にあった年齢だろうとは思ったけれど、この複葉機の写真について、珍しさも手伝ってすかさず訊いてみた。
「“ゼロ観“ですね」二人の会話は同席した余所の人には全く分からなかった。
氏は三菱重工の重役だったのである。
「このゼロ観には随分乗りましたが、良い飛行機でした。戦艦「武蔵」搭載時の専門的知識まで披露された。(ネットで「零観」で検索できる。「武蔵」艦上から発進作業中の動画もあったが、1度観ただけで見失ってしまった。)

 その後、招かれて氏のお宅には数回お邪魔した。本に囲まれた応接間を兼ねた居間である。先代から受け継いだ書籍であろう。ハードな質の大量の書籍を揃えた書架に目を見張った。

 氏が亡くなったのは新聞の訃報欄で知ってはいたが墓参は初めてである。
あの当時の二人の会話などを想い浮かべ碑に向かって黙祷を捧げた。
碑には氏の名前の後に、1918~1999と刻まれいた。
 
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続原爆忌

2007-08-09 21:33:37 | 怒ブログ

そして8月6日午前8時15分、Bー29「エノラ・ゲイ号」が広島に原爆を投下、大本営は翌7日「1、昨8月6日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり2、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」と発表、8日付朝日新聞は、「落下傘つき空中で破裂ー人道を無視する残虐な新爆弾」、翌9日付同紙は、「敵の非人道、断固報復ー新型爆弾に対策を確立」と報じたが、一瞬にして死者は実に24万人(推定)に達した。
 
8月8日にはソ連が対日宣戦布告(モロトフ外務人民委員が8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達)、この報に日本が接した9日午前、最高戦争指導会議構成員会議が開かれ、ポツダム宣言受諾のための条件について、「皇室の安泰」とか、「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分、今度は長崎に原爆が投下された。
 
西部軍管正司令部は、「1、8月9日午前11時頃敵大型2機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 2、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」と発表、これを10日付西日本新聞が報道(朝日新聞の報道は12日付であり、しかも小さい見出しであった)したのみであった。だが長崎の死者は12万人を超えた。
 
長崎原爆投下報道の代わりに、10日付朝日新聞は、「東西から国境を侵犯ー満州国内へ攻撃開始。我方、自衛の邀撃戦展開」とソ連の対日宣戦布告を大見出しで報道した。同日情報局総裁下村宏は「戦局は最悪の状態」との談話を発表、陸軍大臣阿南惟幾は、全軍将兵に「死中活あるを信ず」と訓示し、「・・・・全軍将兵宜しく1人も残さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」との激を飛ばすのみであった。(敗戦前夜の松山:(たむたむ(多夢・太夢)のページ(田村のホームページ)


このホームページhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/index.html
の管理者自己紹介文にによりますと、氏名は田村譲(たむらゆずる)氏と書かれてます。職業は、サービス業(代学狂師、いや大学教師)となっております。

>このサイトは、リンクフリーです。どのページにリンクされて結構です。また、引用や利用はご自由にどうぞ、連絡もいりません。なお、質問にはお答えできませんので、ご了承ください。

の扉のお言葉に甘え、長文を無断引用させていただきました。tani山人九拝

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原爆忌

2007-08-07 18:58:18 | 怒ブログ
原爆忌 広島忌 長崎忌
昭和20年8月6日。広島市に世界最初の原子爆弾が落とされた日である。人命の喪失約12万。つづいて同月9日、長崎にも投下された。この未曾有の惨事をふたたび地球上にもたらさないため、この日を記念日として、広島市を中心に全国的に、平和祈願、原爆反対の催しがもたれる。
原爆日ごぼりごぼりと泉の穂      加藤楸邨
原爆の日の病む手足洗いをり     石川桂郎
広島の忌や浮袋砂まみれ        西東三鬼
日がおもい岩に裸寝長崎忌       古沢太穂
                          合本俳句歳時記 新版 角川書店編
 広島に原爆が投下された19458月6日の断腸亭日乗にはその記事はなく、10日に「広島市焼かれたりとて岡山の人々戦々兢々たり。とあるばかりである。荷風は当時岡山に疎開していたのである。
 また山田風太郎の「戦中派不戦日記」には8月8日にその記事がある、
 八日(水)晴
 ○列日。休みて午前中図書室目録を作る仕事を続ける。
 ○広島空襲に関する大本営発表。
 来襲せる敵は小数機とあり。百機五百機数千機来襲せるも、その発表は各軍管区に任せて黙せし大本営が、今次小数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。
「相当の損害あり」と言い「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。 曾てなき表現なり。いかなるなりものなるや。
 しかし9日10日は・ソ連参戦の記事が長文を占め長崎原爆には触れていない。

ところで大岡昇平の「俘虜記」は仲々読む機会がなかったが、広島原爆についてどのように書かれているか非常に興味をもった。
 はじめから「俘虜記」を読むには長時間あるいは1週間ぐらいは必要であろう。そこで原爆はでてくる8月10日という章に焦点を絞った。


俘虜の生活では、日付など正確に憶えていられるものではないが、この十日間だけははっきりしている。
 昭和二十年八月六日であった。夜大隊書記の中川が中隊本部に入って来て、その日広島へ新式爆弾が投下されたことを告げた。
「えらい力やそうやで。一発で十哩四方一ぺんやそうや」と彼はいった。
 中川は彼と直接連絡のある米軍の収容所事務所で得た情報を、自慢しに来たのである。私はかねて彼が敵の兵器の威力について、友軍のそれを誇るような調子で語るのを不愉快に思っていた。この元一六師団の砲兵下士官が語る水際防衛の経験談は、宛然米軍側の上陸戦記であった。
 十哩四方といえば広島全市を蔽う広さである。この大災害を彼がいつもの調子で語るのは聴いていられなかった。(略)
 爆弾の種類について中川は何も知らなかった。私は大体「モロトフのパン籠」式の親子爆弾を想像した。巨大な親爆弾が空中で炸裂して、無数の小さな爆弾の雨を降らせる。しかし一発で十哩四方やろうと、二十哩四方やろうと、米国がいくらでも爆薬とB29を製造する能力を持っている以上、同じことである。
 翌日.中隊付きサージャントが来て、一発でTNT十頓に匹敵すると自慢した時も、私はこの理由をあげて屈しなかった。(略)
 ウェンディ憐れむように私を横目で見て、首を傾げていた。
 私は間違っていた。ウェンディが、午後持ってきた「星条旗」紙の見出しのATOMICの六字が私の眼を射た。恐らくこれはウェンディが朝も口にした言葉に違いなかったが、私の英語の未熟と想像力の不足のため、想像できなかったのである。








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田?畑?原野?

2007-08-06 11:11:46 | 怒ブログ
ボクの蓬屋は、南面が町道(以前は国道○○○号線であったが、バイパス道路の開通によって、町道に移管されて現在に至っている)に面しているだけで、東も西も北側も見渡す限りの田圃である。
過日、ボクは聞かなかったけれど「"牛蛙"が鳴いた」と妻が言った。
先月末拙宅脇の田圃の空中散布の写真をブログに掲載したら、

>空中散布をして、害虫を追い払い、X県の空気を清浄にしているのでしょうか・・・
それにしても広々とした田園風景ですこと。大規模農家が多そうです。

という純情さまという方から、有難いコメントまで頂戴した。
確かに、朝の空気などは、恐れ多いけど東京真ん中にある「皇居」より清々しい場所だと思う。近所付き合いのない田舎も住所といしては、○妻と晩年を過ごすには最適で、ひょっとしたら、神武天皇ぐらい長生きするかもしれない。

ただ、困ったこともある。(荒地そのものは、それほど迷惑と思っているわけではないが)、北側の一角に、
田であるのか、畑であるのが分からない、写真のような原野に近い所が放置されていることだ。
2年に一遍ぐらい、機械でこの蒲や葦を踏みつぶしたり、秋に火をつけて燃やしてきたが(これは拙宅としては迷惑この上もない)、去年秋から何一つ手を入れていない。不思議なことに、この土地は(地目は畑らしい?)、ある町の有力者が所有農家から、借りて荒らして置くのである。
借地しているのは、ここばかりではない。何町歩(遺憾ながら99.17×xアールといっても実感が湧かないのでこう書いた)も、こういう彼の借地が点在しているのである。

今は、農水大臣ですら、不思議なことをやる時代と言えばそれまでだが、上写真に写っている人通りなど全く無いこの農道に、生まれたばかりの仔猫を箱も餌もつけないで5匹も捨てて行った不可解なひとがいた。

その先どうしたかは、これまた不思議な物語で、読者の想像に任せる外はない。

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引きまえ

2007-08-04 08:04:41 | 日録


因みに、タイトルを「引きまえ」としたが、この言葉は、家を持ち上げ移動する工事のことである。この語義は、広辞苑にも、大言海にも載っていないから、わが地方だけの言葉かも知れないが、鳶職の仕事として、戦後の頃はよく見かけたものである。実は拙宅でも小生の代になって2回やった事があった。

これは友人宅で、(奥様が俳句会の仲間で、会報を届けるために、毎月決まって御伺いするのである)昨日撮ってきた。
ちょうど一月前、その用件でこの友人宅を訪れた時、庭中この台木とレール、鉄骨が散在してあって、足の足の踏み場もない状況だった。

ボクもそう思ったのだけど、
「新しく建て替えた方が良いんじゃない」と会う人達に何回も言われたそうだ。

「いろいろ事情があって…」田舎のことであるから、10時と3時には職人たちに御茶も振舞わねばなるまい。御苦労の様子が手に取るように伺え知れた。
 
無事完成を祈り、友人宅を辞した。
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赤城家余談

2007-08-02 20:32:13 | 日録
過日、赤城農水相更迭の題を「槿花一朝の栄」として投稿したら、早速
『無念』と題してaqgel氏より次のようなコメントを賜った。

2007-08-01 19:32:32

私は今の赤城氏とはなんの関係もないが、その昔彼の祖父であった宗徳氏から、ある人との縁で、「至誠無息」と毛筆で書かれた書を貰って、私には書を観る才などは無いがしかし、余りにも見事な書体に、額縁屋へ行って額に入れてもらって、いまだに部屋に飾ってあるが、あらためてその書を見上げて、無念の想いが尽きない。
宗徳氏は、当時国会議員随一の書家であったから、氏の書を貰って、大事にしている人は多いわけで、それらの人々は私同様、無念の思いを噛みしめている人は多いだろうと思う。
勿論時代は変わった。それに人間、運不運もある。しかし宗徳氏は地下で、涙しているであろうと思う時、無念で言葉が無い。
これ以上、事が荒れないことを祈る。

実は、ボクも同県人でありながら、選挙区が違っていたので、選挙での直接の関わりはない。しかし、氏の演説(今の選挙演説の様に、拳を振り上げたり、怒号をしたり、誰でも構わず、握手などはしなかった。)は、立会演説会などでよく聴きに行った。
風見章等も、同じ選挙区だったので同席していた。いずれも。語りかけるような演説だった。ボクは風見党だったが、赤城の語り口に、非常な共感を覚えた記憶がある。

 そして、氏は小生が最も崇拝している「杉村楚人冠」の全集を日頃愛読していた
というエッセーを読んだことも、赤城崇拝の根源であった。

此処に、わが地方の新聞のコラム記事があるので紹介したい。

 紫音
「赤城の家が大変な時は皆で助けてやってほしい」。赤城農相のピンチに、この言葉を思い出した。▼明治生まれの曾祖母が生前、叔母らに口癖のように語っていた言葉だ。旧真壁郡の高齢者の中には、今もこの言葉にリアリティーを抱く一群の人がいる▼今回の問題で、テレビ各局はニュース報道で名門・赤城家の旧家ぶりを上空から放映し、嘗て大地主だった面影を浮き彫りにした。実際、広大な屋敷に落ち着いた門構え、風格ある母屋には圧倒される▼おおげさだが、「宗徳先生は(旧制)下妻中学まで、他人の土地を踏まずに行けた」と言う悦話まで残っている。」大地主だけに戦後の農地改革で、赤城家から農地取得の恩恵を受けた人は数多い▼農地の開放だけでなく、徳彦農相の祖父、故、宗徳代議士は政治家としてはもちろん、人間的な面でも幅広く地元の尊敬を集めた。戦前の上野村長時代から、地元の農民と一緒に汗を流したからだ▼戦前に県議、衆議院を経験しながら終戦で公職追放となり、村の有志の手助けを受けながら、田畑七反を耕した。時代が違うとはいえ、こうした苦労人の人生経験が現農相とは決定的違いだ。▼金には縁がなく「農政の赤城」「永田町の村長さん」と呼ばれた宗徳代議士。その血筋を受け継儀ながらも、わが農相に対する地元の視線はひどく冷ややかだ。(市)

 この新聞は地方新聞であるから「赤城徳彦農水相」の誕生の折、格別の特集記事で埋めた。知事、代議士、県議、自治体首長たちが、奉加帳のように、祝辞を書いた。(本人が書いたのか、秘書が書いたのかは、読者が判断することだろう)
しかし、その祝辞にでさえ、祖父宗徳氏の名前が出てきた。
「祖父宗徳氏を乗り越えよ」という檄文もあったような気がする。

ボクは自民党の敗北を喜ぶ。しかしあまりにも哀れなる絆創膏の写真が、「人の噂も七十五日」で終わらせたいものだと心から願っている。(おわり!)

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暑中御見舞申上候。

2007-08-01 19:51:24 | 日録

.暑中御見舞い申し上げます。
関東地方の、梅雨明け宣言が、今日なされたようです。
これまで、気象庁の長期予報に当たった例はないようですが、今日は素直に信用しておきましょう。ただ次の台風の行方が心配ですね。
これは朋友T兄から送られた北アルプスの「ご来光」の写真です。

 

25日の夕方北アルプスの鷲羽岳(2924m)と水晶岳(2978m)を目指す。26日新穂高は朝からの雨だ、重いザック背負い一路双六小屋へ。

無事T兄は29日に愛妻の地許へ帰って来ました。「選挙は事前投票」を確実にしたそうです。
誰に投票したかはわかりません。
実は、投票拒否主義者の小生も投票しました。

全国区が当選を果たしました。 44,118漂の中に、オレの1票があるのかと思うと、不思議です。
そんでは、日本酒"菊盛”を賞味、これからの暑さを乗り切りましょう。
まもなく。「原爆忌」さらに「敗戦忌」。
祈世界平和と、ブロ友兄妹のご自愛の程を。 tani 山人九拝

 

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槿花一朝の栄

2007-08-01 13:43:59 | 怒ブログ

普段、あまり政治ニュースに無関心の家内が、「赤城大臣が辞表を出したよ」と
正午のテレビニュースを教えにきた。
今日彼女は急用ができて、オレより一足先の昼飯だったのである。
ボクが茶の間に駆けつけた時は、関連ニュースは放映していたが、肝腎の最初の字幕から見ることができなかった。
 選挙が終わった時点で、辞表を出すだろう、あるいは更迭か?と思っていた矢先である。連日の「ばんそうこう」問題で赤城大臣の顔が放映されるたび、ベソをかいているように見える貧相くさい姿は、祖父宗徳氏を知っているだけに、むしろ気の毒であり、哀れであった。

早速"アサヒコム〟を開いたら"更迭”という文字が浮き上がっていた。

『最後もお騒がせ大臣、官邸ちぐはぐ 赤城農水相更迭』
赤城農水相が1日午前辞職した。「事務所費」「ばんそうこう」「領収書コピー」と、疑惑が持ち上がるたびに詳しい説明を避けて有権者をあきれさせ、参院選での自民惨敗の一因とみられてきた。「どうせなら、投票日前に辞めておけば……」。遅きに失した「更迭」に、安倍内閣の危機管理力が改めて問われそうだ。

 「本人も参院選の責任をずっと感じていた。昨晩には辞任を決めていたようだった」。赤城氏の事務所関係者はそう明かした。

 その赤城氏は、辞任後、首相官邸で記者にもみくちゃにされ、質問が飛び交う中で、淡々とした表情で立ち止まり質問に答えた。

 今回の参院選で自民党が歴史的な惨敗を喫したことについて「敗北の一因となったのは紛れもない事実。大変、申し訳なく思っております。けじめをつけたい」。詳細な説明を拒んできた事務所費問題が、大敗の大きな要素となったことをはっきりとした口調であっさりと認めた。

 また、事務所費問題が浮上してから出処進退を問われ続けてきたが、赤城氏は「いろいろなことを考えてまいりました」としたうえで、「選挙戦で多くの同志が無念の涙をのんだ。さまざまな思いの中で、この際、私は職を辞する中でけじめをつけさせていただきたい」と語った。

 「更迭ですか」。記者からの質問について、一瞬の間をおき、「私から職を辞したいとお願いした。総理からも『分かりました』ということでした」と赤らんだ目で一点を見つめ、自らの判断だったことを強調した。(略)


知るべし、『松寿千年 終に是朽つ 槿花1日 自らの栄をなす』放言五首(其の五)を。
泰山不要欺毫末  泰山は毫末を欺くを要せず
顔子無心羨老彭  顔子は老彭を羨む心なし
松寿千年終是朽  松寿千年終に此れ朽つ
槿花一日自為栄  槿花一日自ら栄を為す
何須恋世常憂死  何ぞ須ゐん世を恋ひて常に死を憂ふるを
亦莫嫌身漫厭生  亦身を嫌ひ漫りに生を厭う莫かれ
生死去来都是幻  生死去来都べて此れ幻
幻人哀楽繫何情  幻人の哀楽 何の情にか繫けん
漢詩名句辞典 鎌田正 米山寅太郎 大修館書店
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