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彩流社《脳を活性化する3冊》
ふり仮名なしで読めますか?
あの名作の名場面【漢字テストに挑戦・薀蓄で納得】
脳を活性化し、心に安らぎをもたらす近代日本文学の名品33が問題。知らず知らずのうちに本当の言葉が身につきます!
次の作者・タイトルが読めますか?
▼夏目漱石『行人』、徳富蘆花『不如帰』、泉鏡花『婦系図』、有島武郎『カインの末裔』…。
■大人のトレーニング①▲②
ふり仮名なしで読めますか?
日本国憲法と皇室典範【漢字テストに挑戦・薀蓄で納得】読めるつもりで意外に難しい法律。次の条文、読めますか?
▼「基本的人権の享有」「善良な風俗を害する虞」「太皇太后」「皇太后」…。
この程度の問題なら小生はやや合格点に達すると思う。
しかし、意外だったのはWordの漢字変換では「こうじん」では「幸甚」他「黄塵」まで7個の熟語があるか「行人」はなかった。「ぎょうじん」でないと「行人」は変換できなかった。
ところで小生
3月は31日無欠席。しかも1日2通投稿したこともあると思う。それが今月26日に欠勤したのを、VIVA氏のコメントの指摘で初めて分かった。
ズル休みではなかった…。完全忘却。原因は「アルチュー・ファイマー症候群」の虞十二分だが、今日も、実は今から明日俳句会の俳句を5句製造しなくてはならず、脳みそが混乱している。
そこで一句
行人の四月は昭和の悪夢なり tani
(自分でも意味不明)
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《私は、その一冊に何らかの挿話、物語が重なっている本にひかれる。
新聞切抜『濹東綺譚』。昭和12年、日華事変の直前に朝日新聞に連載され全知識階級を驚かせた作品で、すぐ岩波書店から出版された。その35回分を切り抜き、それぞれの意匠で綴じられたものが今でも稀に市場に出、高値(無論初版本よりも)を呼ぶ。これはこの傑作と切り結ぶようにして挿絵を描いた木村荘八自身が貼り付けた1冊。 青木正美》
その新聞切抜写真の下部に書かれた解説である。
「本それぞれ自体にも様々な物語がある。初版本蒐集、行き着いたところは自筆原稿」こんな見出しが付いていて、いろいろな珍本・奇書・稀覯本・ト本の写真がふんだんに挿入されている所謂「ムック」(「古書遊覧」別冊太陽 平凡社)に拠った。
ここにはもうひとつ、“『美しき地図』火野葦平が連載中、1愛読者が全編を毛筆で筆写、作者に送って題簽を依頼。火野は快くこれに応じ、序詩まで入れて手紙と共に愛読者に返した。”という筆写本(昭和18年)の写真もある。
今日ボクは、ドナルド・キーン金関寿夫訳の“『心の残りー私の交遊録』朝日新聞社1992.12.1初版 ”を見つけ出した。これは朝日新聞連載のコラム・エッセーを纏めて後で本にしたものだ。ボクはその新聞切抜を全部保存してある。
暇人だと思われそうだが、当時ボクはまだ運送屋の現役時代であった。忙しい人生を送ってきた割には、心に残った新聞記事などを、随分切り抜いてスクラップ ファイルにしてため込んでおいた。運送店がダメになったのも無理もない事だったなあと納得している次第だ。
但し残念ながら整理するのが嫌いだから、何所に何が貼ってあるかさっぱり分からない。
考えると、連載記事を毎日切り取るのは確かに容易ではない事だったのだ。
最近ボクが切り抜いたものに朝日新聞の連載新聞小説「かわうその祭」がある。
切り取るだけであるから、それほど時間を要する作業ではないのだが、それ
でも、日記を付けると同じように、忘れることが度々ある。後になって、バックナンバーを、友人知人宅から捜してもらったことも10数回くらいはあっただろう。
ボクは田舎住まいなので夕刊紙が入ってこない。それを知ってか町に住んでいる1友人が、夕刊にだけ掲載された、
“1枚の紙くずから「小説『かわうその祭り』を終えて」出久根達郎〟の切抜きをボクのためにわざわざ切り取っておいてくれたこともある。2004年10月20日付夕刊である。
いずれの場合も、本文のほうは、日付が時々入っているだけで、何冊にも分冊
されたクリアーブックに収まっているので、纏めたり調べたりすることになると、かなりの時間と根気か必要となる。そのままになっている。
しかし前記のようなムックを見ると、整理せねばならぬ気分にもなるのだが、今となっては、部屋中散らかし放題の紙くずの山は如何しようもないことになってしまった。
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明治天皇 齋藤茂吉
>明治天皇は和歌を好ませたまひ、且つ歌聖にましました。その歌調の堂々たる、御心のままの直ぐなる、さながらを咏じたまひて、毫も巧むことあらせられず。これ御製の特色と拝察したてまつるのである。
ともしびを さしかふるまで軍人(いくさびと)おこせしふみをよみ見つるかな
国のためいのちをすてしますらをの霊祭(たままつ)るべき時ちかづきぬ
国をおもふ臣(おみ)のまことは言のはのうへにあふてきこえけるかな
かちどきをあげてかへれる軍人(いくさびと)まぢかく見るがうれしかりけり
むかしよりためしまれなる戦(たたかひ)におほくの人をうしなひしかな
御製は、あるひは桂園流であるべきであるとおもふのに、此処に拝誦し奉る五首のごときは、さういふ流派的傾向が目立たず、御こころのままに歌ひあげられたまふのであるから、この御製のごときは、流派を絶し、時代を絶し、ただちに和歌の本質に貫徹したものだと拝誦し奉るのである。
それから、御製の新聞などにたまたま公になったのは、日露戦役ごろからだといふことであるが、天皇は御製の世に発表されるのを好ませたまはなかったさうである。これ、私の謂ふ「獨詠歌」の解釈上大切であるから、かしこきことであるが、一寸付記するのである。<
これは、齋藤茂吉の「現代日本文学全集・38現代短歌集・現代俳句集」改造社 の巻末にある、解説形式の「明治大正短歌史概観」から抜粋した。
旧仮名遣いなので、僕流に現代語に訳してみた。
《明治天皇は和歌を好まれ、且つ「和歌に最もすぐれた方」であった。
その歌の調子の堂々とした、真っすぐな心の其の侭を詠んで、少しも趣向を凝らすようなことはしなかった。
これが天皇の作った和歌の特色とも言えよう。
天皇の和歌はどうかすると「桂園流(香川景樹の門流で、古今集を宗とし、平易を旨とし、調べを重んずる流派)」であるべきはずだと思うのに、ここに掲げた五首は、そんな流派的な傾向は少しも見当たらず、心のままに詠んだものであるから、流派や時代を超越して、直接和歌の本質にまで到達したものだといえる。
その後、天皇の和歌が新聞紙上にたまたま公表されるようになったのは、日露戦争当時頃からだということだが、天皇はご自身の和歌が世間に発表されるのを、あまり好まなかったそうである。
このことは私が普段言っている「獨詠歌」を理解する上大切なことであるから一言付け加えておく次第である。》
戦時中に於ける茂吉は、天皇陛下の忠良なる臣民であった。戦争末期の特攻隊を詠んだ歌がある。
特別攻撃隊 齋藤茂吉
大元帥統べたまふ軍のいきほひの最中かがやくこのいつくしさ
きはまれる大き行為を発端の捨命のごとくわれもおもわむ
あめつちに至りわたれるたましひをわが戦にまのあたりにす
微塵なすかろき命といふ比喩もはや空々しこのたたかひに
大君は神にいませばうつくしくささぐる命よみしたまへり
「文芸春秋」20年1月号
齋藤茂吉は昭和20年4月、郷里山形県に疎開した。そこで敗戦を迎えるが、一国の非運に逢会しての悲歌は痛哭の情を極めて比類がなかっただろう。
昭和21年2月、大石田に移居した茂吉は、次のような歌を「中央公論」に寄せている。
小 吟 齋藤茂吉
すでにして蔵王の山の真白きを心だらひにふりさけむとす
一日すぎ二日すぎつつ居りたるにいつの頃よりか山鳩啼かぬ
うつせみのわが息息を見むものは窓にのぼれる蟷螂ひとつ
のがれ来てわが恋しみし蓁栗(はしばみ)も木通(あけび)も冬の山にをはりぬ
夜な夜なは土もこほりぬしかすがにたぎつ心をとどめかねつる
あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり
来む春に穴をいづらむくちはながこの石の上に何見るらむか
もろともに叫びをあげむくれなゐの光の浮かぶひむがし見れば
「中央公論」21年1月号
茂吉は昭和26年文化勲章受章を受賞した。敗戦によって、日本の政治家も、軍人も、有名人も、名もなき国民、勿論その中には小生も含まれるのであるが、なべての人々がこの茂吉先生のように変身したのだった。
僕は齋藤茂吉を貶すつもりはない。ただ、荷風散人こと永井壮吉のあっさりとした「文化勲章」受章も、摩訶不可思議千万極まりなかったが、それ以上に大東亜戦争讃美者であった茂吉や、志賀直哉がすんなり拝受ができたこの国が、どう考えても不思議でならないのだ。
それあらぬか、敗戦前のような風潮が、再び変身するかのような気配の流れを、ただ傍観し続けなければならない、己の無力と加齢が哀れなのである。
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千葉県よりオレはこちらの方が大切だ。
「長野県選挙管理委員会は24日、任期満了に伴う同県知事選の日程を7月20日告示、8月6日投票と決めた。現職で2期目の田中康夫知事は立候補するかどうか態度を明らかにしておらず、市民団体などがほかの候補者擁立に向けて動きを見せている。」(アサヒ・コム)
そこで今日は中学生時代の初心に帰る。
明治天皇御製
富士のねもはるかに見えてあしたづのたちまふ空ぞのどけかるける
九重の庭木のさくらさきにけり野山の春もさかりなるらむ
高殿の窓てふまどをあけさせてよもの桜のさかりをぞみる
春雨のふる日しづけき庭の面にひとりみだれてちる桜かな
池水にちりうく花のかたよりてひれふる鯉のかげも見えつつ
乗る駒に小草はませてやすらへば鞍のうへ白く花ちりかかる
殿もりのゆききに馴れてわが庭の池の水鳥たたむともせぬ
春雨にみどりはそひて見えながらいまだみじかし野べの若草
草枕たびのやどりに著きて後うれしく雨はふりいでにけり
あとさきに人をともなふ旅ながらくれゆく道はさびしかりけり
うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ
岩波編輯部編 「国語巻一」 岩波書店刊
昭和九年8月1日 印刷
昭和九年8月5日 発行
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拙宅で「筍」の初物を食するのは、毎年決まって3月22~3日頃であった。
何故覚えているかというと、その頃丁度お彼岸の中日になるからである。数年前の日記を遡ってみたら、思っていたその通りだった。
判で押したように毎年、運送店従業員のH君が、自宅の竹山に出る初物の「筍」を、3~4本朝の出掛けに掘って持ってきてくれたからである。
今年は「筍」が初めてわが家の食膳に登場したのは、4月9日であった。寒い冬だったので、今年は「筍」の出がだいぶ遅いらしい。
運送店を止め、当然のことながらH君とは疎音になってしまったが、4月に入ると近所に住む義兄の裏山にも、孟宗筍がそろそろ出始めるのである。
毎日1本ずつ掘ってきては、それを味噌汁の具に供するのである。一週間も経つと「筍」は背丈ほどにもなる。そうなると足で蹴飛ばして折ってしまうようだが、今年はまだまだ小さい。
わが家の味噌汁の具はずっとこのところ、「筍」が続いている。僕は三度三度食しても厭きない。
ところが今頃(4月中旬)ともなると、近所から大袋に一杯、1袋も2袋も届く。
折角頂いたものを捨てるわけには行かない。友人知人宅に2~3本ずつ持ち歩く。
電話で訊いてからである。
「昨日頂いた所なので…」「買ってきたばかりなので…」
などと断わられるところが多い。しかしそれはそれとして、僕は皆さんどうした「筍」料理を作るのか、甚だ疑問でならない。
ITで調べると、
「たけのこ料理に取りかかる前に、茹で方、下処理の方法。筍料理の定番のレシピ(料理の材料や調理法)です。写真をクリックして下さい。」などとでくる。
料理の基本としての「筍」の条件だが、
「朝掘りで、筍に付着している泥土が湿っているもの。底部の切り口はみずみずしいもの。」とある。
僕が持ち歩くのはいうまでもなく、すべて1時間以内の掘りたてのものばかりである。
去年、親友宅で奥さんが、「早速茹でるわ。米糠も用意しておいたの…。」というから、
「ダメダメそんな事をしては、オレが教えるから、云う通りやってみてください」といって、
「ハイ先ず皮を剥いてー」
「次は、薄く切って鍋に入れてー」
「若しアクがでる様だったら掬ってー」
応接間とお勝手の部屋とで大声の交信しながら、30分ぐらいで味噌汁が出来上がった。
「すぐ飲まなくてはダメ!」出来上がるのを待って、オレは親友宅を辞したのだった。
果たして「あんなおいしい味噌汁初めてだったわ」と夜親友夫人から家内に電話があったそうだ。
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戦後中国からが復員して間もなくの頃、義兄は「メーファーズ(没法子)」という中国語を好んで連発していたのを思い起こした。
83歳という年齢も、軽やかな身のこなし方も二人共大体共通する。義兄は夕方になると、「水戸黄門」再放送の番組を肴に、大蒜を漬け込んだ4㍑入り「大五郎」(アンチ高級酒) に余念がない。
勿論痴呆症状は全くないし、物忘れすら6つ歳下の小生のほうが酷いくらいだが、戦争の話や、支那(中国)での話、靖国神社問題などは話題に上ったことはない。
義兄があれほどよく使った「メーファーズ」も今は口にしなくなった。
超党派の衆参両院議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の皆さんのような「愛国心」や「心の問題」だけはすっかり忘れてしまっているようである。
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老(熟)年PC仲間が集まって、週1回(金曜日)研修会(?)がある。
平均10人程度の出席で、パソコン講座の様なものでなく、パソコンを弄っている仲間の井戸端会議のようなものだが、今年で2回目の総会を挙行した。
1年以上も続いているのは、年会費500円という低会費額にもよるが、会長I氏のお人柄にあると小生は感謝している。
集まっての話題は、仲間たちに、「こんな時はどうする?」というような、初歩的パソコン知識の交換の場に過ぎないのだが、何事も会長がなくては事が運ばない。
現会長は、政治屋ではない。ほんとうのボランティア精神に長けた紳士である。だからこそ、この会は消えないのだろうと思う。
今日も新らしい会員が一人増えた。小生のブログファンがおられることも嬉しいことだ。実は今日小生の記事の“「モンケン」の打ち所〟と書いた「天声人語」の引用記事、や「牧野植物事典」をITでまで検索、読んでくれたH氏にこの場を借りて、深く謝意を申し上げたい。
近所にお住まいのT氏から電話がかかってきた。
氏 「『一人静』咲いているかなぁ…」
小生「?」
氏 「確か有る筈だ。奥さんに訊いてよ」
4月10日のことである。妻に訊ねると庭先の草花のことであった。
「まだ咲いてはいないでしょう」妻の指さすところに行って見ると、ニャーンだ、変哲もない一叢の雑草ではないか。
しかし、しゃがんでよく覗いてみると、確かに顕微鏡で見るような小さな花が咲き始めていた。その旨返事をすると、氏はデジカメ撮影用7つ道具を抱えてやってきて何枚か撮って帰った。
すぐにメールで送られてきたのが、この「ヒトリシズカ」の花である。395KBの写真なので、さすがに迫力がある。ただその大きいままの編輯技術がないので、これはあまり見栄えのない画面となった。
氏は春夏秋冬、毎日のように花の写真を撮りに関東地方全域を飛び回っている。
「退職金みんなガソリン代になっちまうぺ」そんな冗談も言える間柄である。しかも氏は牧野図鑑を1冊丸暗記しているほど植物名は明るいのだ。
「商売は道によって賢し~」とやら。T氏に言われるまで、拙宅にそういうものがあるとは今日まで知らなかったのである。
それよりも、電話があったとき初めボクは「お酒」のことかと思った。
たしかに「お酒」にそんな名前の吟醸酒があったような気がした。
よく調べたら、それは「二人静」(吟)であった。
「吟醸二人静」
蔵元:東薫酒造
酒データ:
●原料米/美山錦 ●精米歩合/55%以下
●アルコール度/15~16度
●日本酒度/+3 ●酸度/1.4
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>「地域社会で建設業者は受注を独占しないで、話し合いが伝統的になされてきた」。国民新党の亀井静香・代表代行が18日、衆院国土交通委員会で質問に立ち、談合容認ともとれる持論を展開した。郵政民営化をめぐってたもとを分かった小泉首相の構造改革批判に狙いがあったようだが、公取委は答弁で「そうした行為は法令違反」と繰り返した。
亀井氏の質問は5年ぶり。「山の中に東京のゼネコンが乱入し、地方の業者は倒産せざるを得ない事態だ」と訴え、「市場原理が地方まで浸透し、大変な状況だ。みんなで話し合って、分担して郷土づくりをやっていくという社会はいかんのか」とたたみかけた。かつて建設相を務めた亀井氏。質問を終え記者団に「国交省にまで小泉改革の影響が出だしたな」。
鼠の談合の事
ある時、鼠老若男女相集まりて僉議しけるは、「いつもかの猫といふいたづら者にほろぼされるゝ時、千たび悔やめども、その益なし。かの猫、聲をたつるか、しからずは足音高くなどせば、かねて用心すべけれども、ひそかに近づきたる程に、油断して取らるゝのみなり。いかゞはせん」といひければ、故老の鼠進み出でて申しけるは、「詮ずるところ、猫の首に鈴を付けてをき侍らば、やすく知なん」といふ。皆々、「もっとも」と同心しける。「然らば、このうちより誰出てか、猫の首に鈴を付け給はんや」といふに、上臈鼠より下鼠に至るまで、「我付けん」と云者なし。是によて、そのたびの議定事終らで退散しぬ。
其ごとく、人のけなげだてをいふも、只畳の上の廣言也。戦場にむかへば、つねに兵といふ物も震ひわなゝくとぞ見えける。しからずば、なんぞすみやかに敵国をほろぼさゞる。腰抜けのゐばからひ、たゝみ大鼓に手拍子とも、これらの事をや申侍べき。(伊曾保物語下)
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Z寺朝行(参り)会同僚のA君が、約27~8年前地方新聞の懸賞文学賞に「佳作入選」したことは以前書いたが、A君は、僕も含めいまも「郷土文芸同好会」を作って、文芸誌を発行している。
年1回の発行だが、今年4月で通巻第11号に達した。第11号は16人のかたが執筆している。「随筆」が主だ。
その中の一人のY君は1938年生まれだから間もなく70歳に手が届く年齢だ。しかしその創作意欲の旺盛さは、凄まじいものがある。7冊の出版回数のうち本格小説単行本が5冊を数えるのだ。
また町の重要役職のK氏も、一流誌に発表しても遜色にない題材、「小堀四郎・杏奴ご夫妻回想記」と題して、氏と鷗外2女との往復書簡(1995年(昭和50)1月10付けから、1992年(平成4)までの10回に及ぶ書簡や、その他貴重なエッセイ等を発表されている。
ところでA君もY君も、顧問格のK氏も、パソコンはワープロのみ。(「インターネットに嵌りこんだら、何も出来なくなる」というのがその理由である。
しかもワープロも、編集長のA君は「一太郎」小生は「WORD」育ちで、やりづらいことこの上ない。
兎も角今夜はそのことだけで、このページを塞ぐ。
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《おーい小泉、覚えているかい。大分昔になるが、久里浜病院のパーテーに、元厚生大臣として、出席した日のことを。票になるかもしれないと、数限りないパーティーに出席している政治家に、ささやかな病院のパーテイーなど、覚えていろという方が無理かな。
そのような小さなパーティーに出てきて「よう先輩」などと声をかけてきたのは、おまえさんの方だった。ぼくが慶応義塾の卒業生としては先輩だからね。先輩風を吹かすのは僕の好みではないが、当時、政治家にいいたいことが山ほどあったから、よい機会だとあんたにいった。…(略)》
これは筑摩書房「ちくま」に連載されている2005.12月号「なだいなだ」の『人間、とりあえず主義87』の書き出しの部分である。いわばコイズミに対する、挑戦状である。
なだいなだは、この「ちくま」巻頭で毎号コイズミ政治をこき下ろしている。
おれは、小泉首相が、東大出身でないことだけは知ってはいたが、なだいなだと同じ慶応ボーイであるのは、このエッセーで初めて知った。
「早慶戦」というのがある。
「早稲田大学と慶応義塾大學の学生対抗競技。特に、東京6大學野球における春秋の試合」と広辞苑にあるのだが、僕は、これまで在野庶民学生大學対貴族坊ちゃん階級大學の感を抱いていた。だから、早慶戦の場合どうしても早稲田のほうを応援してしまう事になる。
ましてコイズミが慶応ボーイとなると、更にワセダ贔屓にならざるを得ない。
しかし今日という今日だけは、なだいなだに免じて慶応を応援する。
さてなぜこんなことを書き出したのか。
それは慶応出身の僕の畏友(酒友)の、農協理事長改選が21日に迫っているからである。
圧倒的コイズミ派の多い保守県である。先輩だか後輩だか知らないが、コイズミが来て「おれと同じ慶応出身、宜しく頼むよ」と一言言えば事は簡単に済んでしまうだろう。対抗馬は直ちに引っ込んでしまうだろうと思う。
だが、畏友は、コイズミとイシハラはヒットラーと同格に扱っている。
まして、コイズミが握手を求めてきたとしても、畏友は拒否するに決まっている。
結果は21日に判る。この日だけは「若き血」を熱唱したいものである。
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J銀行に行く。系列財団法人の月刊誌「J芸文」が見本に置いてある。
『牛久沼の土に筆を振るう「犬田卯・住井すゑ夫妻の足跡」』と題する特集誌であった。窓口嬢に「頂けませんか?」と訊ねたら、奥席の上司にお伺いをしているようであったが、戻ってきて、
「毎号は差し上げられませんけど…」と言って、「テッシュ・ボックス」のおまけまで付けて頂戴してきた。
(4月18日朝記す)
僕はこの有名作家邸(その頃は「宅」といったほうが適切かもしれない)には3~4回お伺いしている。
最初お会いしたのは、昭和35年ごろで、夫犬田卯がなくなった直後だったと思う。
大作『橋のない川』を書き始めたのが昭和33年だというから、多分その頃だろう。
この有名作家の書斎で「差し」で文学論争をしたことがあったのである。僕は文学青年を気取って、精一杯の論争に挑んだ。
わが町で今では世界的大作家になってしまった住井すゑ先生と論争をした人は、後にも先にも僕ひとりであろうと確信する。
争点は「sex」(先生はこうは表現しなかったが、そのような意味の言葉を使った)と「愛」の関係であった。
先生は前者を肯定し、僕は否定した。嘗て僕が読んだことのある『わが愛の記』を例に挙げ反論した。僕は知らなかったが、この「処女妻」は、最後は問題の夫と終には離婚したことを先生は強調したことを覚えている…。
この『わが愛の記』についてだが、出久根達郎の「古本奇譚」の〝目録殺し〟を引用したほうが説明の近道であろう。
《(略)山口さとのという女性の『わが愛の記』という1冊がある。いずれも戦時中に出版されたおよそ見ばえのしない本であるが、この表題をのぞいただけで内容を察知できた人は、よほどの通人であるといってよい。》
(つまり僕もその〝よほどの通人〟なのである!!)
出久根達郎の文は続く。
《(略)この本は下半身を失った戦傷兵にとついだ〝軍国の処女妻〟の手記集である。ただそれだけの本であるが…(略)『わが愛の記』の山口さとのの(本)は当時美談の人物として評判であったが、この本には横光利一が序文を寄せ、また林芙美子、伊藤整、川端康成らが感動の賛辞を連ねている。
中でも川端のそれは「わが愛の記」と題し、驚くべし、四百字詰原稿用紙で50枚にわたる長文である。山口さとのの本文よりも、戦時中の川端の心情が如実にうかがえるいわば付録のこちらの方がより価値があるといえる。》
住井先生の書斎には岩波の「鷗外全集」が揃えてあり、床の間に夫君犬田卯の骨壷が安置されてあった…。
最後に住井すゑ『90歳の人間宣言』岩波ブックレットNO.272からの1節。
「文化とは何か」
>万世一系というけれども、途中できれてもいるでしょうし、なかには子どものない天皇もいたでしょうからね。必ず天皇の子どもが男の子が生れてくるとは限らないですから、なにも、万世一系だからありがたいなんていう必要はないのです。人間一人ひとりは、みんな尊い存在なのですから。なぜ、万世一系だから尊くて、万世一系でなければ尊くないのか。このけじめをどうつけるのか、わたしは納得いきませんね。(拍手)
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機能と、一昨日と、中途半端なブログ記事となってしまったが、今日は、朝から久しぶりの快晴
布団も干さねばならぬし、にわにわざっそうがはんもするし、役場に印鑑証明もとりにいかねばならないし、朋友からたくさんの著書が恵贈され、ご返事も書かねばならないし、火がくれれはお酒も呑まなければならないし、今日は有価玉でパソコンを開かないことにした。
パソコンの銚子が悪くて、(壊れたわけでなく、操作ミスだったが…)変な生地を二日続けてしまったが、今夜攻勢するつもり(悪まで「つもり」という不確実な予定に過ぎない)。
取敢えず地下足袋を履いて作業に係る。
そこで余裕の歌一種(書き直し1酒)
天野波羅不利酒見れば貸すがなる三笠の山に井手氏月かも
雨の波羅不利酒見れば貸すがなる三笠の山に井手氏月かも
峪之仲麻呂
【付記】
M先生から次のように添削した歌をコメントに寄せて頂いた。
>海女の腹 振り裂け見ればかすかなる 三笠の山に い弟子付き鴨
先生は「日本書記」に造詣が深いお方なので、〝なるほど〟と感銘を深くしたのであった。
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今更「愛国行進曲」を小学校児童に教えられるか?
一、
見よ東海の空あけて
旭日(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気(せいき)溌剌(はつらつ)と
希望は躍る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
二、
起(た)て一系の大君(おおきみ)を
光と永久(とわ)に戴(いただき)きて
臣民われら皆共に
御稜威(みいつ)に副(そ)わん大使命
往(ゆ)け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和うち建てん
理想は花と咲き薫る
三、
いま幾度かわが上に
試練の嵐哮(たけ)るとも
断固と守れその正義
進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代(かみよ)より
轟(とどろく)く歩調うけつぎて
大行進の行く彼方
皇国つねに栄えあれ
昭和十三年発表
……作詞作曲共に公募された結果、総数5,700余詞、9,500余曲の中から、詞は鳥取県の23才の青年が、曲は「軍艦行進曲」の瀬戸口藤吉が一等当選した。当時70才の瀬戸口は病床にあり、「最後のご奉公」と作曲したという。レコードは6社から発売され、当時としては空前の100万枚を売り切った。
歌詞の補作に当たった佐々木信綱と北原白秋の意見が衝突し、以後死別するまで一切口をきかなかったというエピソードもある。