捨 石
六月二十三日(金)、沖縄敗戦の日に、摩文仁岳と喜屋武岬を訪れた。1坪数発の猛烈な砲爆撃下に地形も変わり、一片の緑もない焦土と化したと言われたかの地も、33年を経て、ようやく育った木々の濃い緑に戦跡は覆われていた。戦跡の公園化は着々進み、空も海もあくまで青く、夏の照りつける日差しの中で茫々として光りひろがっていた。
しかし、緑がいかに戦跡を覆いはじめたとしても、風光がいかに美しくても、沖縄戦に〝怨〟〝恨〟は、被われたり、払われたりするものではない。案内して下さった名護の金城誠昭牧師は、その父上と二人の兄上を失った方であった。
父上は喜屋武の小学校長として、かの地に最後までとどまり、まさに最南端の岬の断崖下の洞窟で火炎放射機の焔を浴びて、無念の死を遂げられたのである。
その、父上の最後の地を見下ろす断崖の上に立った時、沖縄戦の終末に、断崖の汀の僅か数十メートルの地に追い込まれつつ、なお、降伏をしなかった人々のことを思わずにはいられなかった。
戦争は、事実決定的に敗れ、終わっていたのである。兵も、まして1市民は、なんの戦う力もなかったのである。それなのになぜ!私は、断崖の上で、しきりに、 教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓を思い起こしていた。
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ、その操を破りて不覚を取り、汚名を受くるなかれ。
恥を知る者は強し。常々、郷党家門の面目を思い……生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。
これは、教育の根源たる天皇の勅語であり、皇軍の大元帥の命令であった。
この勅語・勅諭は絶対であった。この勅語、勅諭をかつて全校生徒と地域の青年の前に奉読した金城校長には、生きる道は閉ざされていた。
その道を閉ざした彼は、生き、その戦争への無責任を方言しているというのに……。 (角田三郎氏の文に依る)