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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

日本学術会議6名の任命拒否は左右の危うい妥協の崩壊

2021-07-15 22:13:29 | 日本学術会議任命拒否事件

加藤陽子が菅義偉に日本学術会議会員の任を命拒否されたのが、何か遠い過去のような気がする。それから日本でも世界でもいろいろなことが起きている。

任命が拒否されたのは去年の9月29日のことである。彼女と宇野重規を含む6人が新規会員の任命を拒否された。

日本学術会議は、日本を「文化国家」とするために戦後生まれた組織で、日本のすべての学界の連合の上部組織であった。会員の任期は6年で、再任はない。年齢七十年に達した会員は退職する。会員数は210人で、3年ごとに半数が入れ替わる。

「学術会議」は「科学技術」の会議ではない。日本の産業の発展のための組織ではなく、日本が民主主義の国であり続けるために、二度と戦争をする国にならないための、組織である。政府の支援を受けるのに、学界内の自主的な選挙で選ばれるものだった。

それが、政府に歯向かう組織と見なされ、政府が日本学術会議法を改変して、「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」を加えた。そのときの国会の法案説明では、「推薦に基づいて任命する」は、内閣総理大臣の任命が「会員」であることの権威を与えるだけで、推薦が拒否されることはない、という法解釈であった。

変な法解釈だと思われる向きがあるが、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴天皇である」という日本国憲法のように、また、日本は自衛隊という軍隊をもつが戦争する軍隊ではないという、左と右との危うい妥協の上で、日本の政治が成り立っているところがあるのだ。

きょうの朝日新聞のインタビュー記事で、加藤陽子の主張は、菅義偉が法の解釈を明示的に変えたということである。

自衛隊についての日本の危うい妥協は、安倍晋三による集団自衛権が憲法第9条と矛盾しないという解釈で、すでに破られている。日本はアメリカの要請で中国との戦争に参加する国になっている。

推薦名簿の「6名」が任命を拒否された理由は、単に「6名」が突出して反政府的であったのではなく、前回の2017年の会員の任命のとき、前学術会議議長が推薦者名簿に定員より6名多記載載し「事前調整」に応じたことを、今後も続けろというシグナルである、と加藤陽子はいう。

前回秘密裏に行われた「事前調整」をしなかったから任命を拒否したという。それでも、その「6名」になぜ加藤陽子や宇野重規を選んだのか、の説明がいまだなされていない。日本国憲法には、人事の不公平をなくすため、政府の説明義務が書かれている。菅義偉は日本学術会議法を破っただけでなく、日本国憲法を無視している。

菅義偉の頭の中には、国というものは勝った者が自由気ままに統治できるという、無法者の脳みそしかない。この1年間、ろくなことをしていない。いま、また、新型コロナのまん延の中で、オリンピックを強引に開こうとして、全世界に迷惑をかけようとしている。

反民主主義の自民党・公明党は本当に困った集団である。自民党・公明党に投票するものは恥を知れ。

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「50歳と14歳が同意性交して捕まるのはおかしい」と発言していけないのか

2021-07-14 21:46:46 | 社会時評

きょう、何気なくテレビに耳を傾けたとき、「50代の私と14歳の子が恋愛した上での同意があった場合に、罰せられるのはおかしい」と発言した咎(とが)で、党員資格1年停止の処分をうけ、次期衆院選の公認は事実上取り消される、と報道していた。

発言したのは立憲民主党の本多平直衆院議員である。5月10日の立憲民主党の性犯罪刑法改正ワーキングチーム(WT)会合で、中学生を性被害から守るための法改正を議論した際、外部講師に反論する形で、そう発言したことで、彼がとがめられたのだ。

民主主義社会の日本に言論の自由はないのか。そんなことで罰せられては、性について議論すること自体を封じることにならないのか。

ワーキンググループの目的は、性をタブー化することではないはずである。すると、何が性犯罪かの議論が当然あり、「50代の大人と14歳のが恋愛した上での性交は犯罪ではない」という意見がでてきても、何もおかしくない。「恋愛」とは何か、「同意」とは何かの議論にはいるのが自然だと思う。

性交は豊穣と快楽とを導き、男と女とを結びつけ、家族ができる。本来、タブー視するものではない。動物はおおっぴらに性交している。一間しかないところに住む夫婦は子どもたちの前で行っている。下町育ちの私の子ども時代、みんな、性交が快楽を伴うことを知っていた。

人間社会で性がタブー視されるのは、性交が特権階級だけに許されものとし、貧乏人は男女の快楽にひたらず、ひたすら働け働けとするためではないか。そんなものがウソであることをみんな知っているから、わい本が売れるのだ。

そう言いながら、昔とちがって、性知識の格差が大きくなっている懸念もある。私が担当したウツの20歳の男の子は夢精を不潔な行為と思いこんで悩んでいた。オナニーをしないから夢精するだけのことである。そして、好きな女の子ができれば、オナニーも自然に止まる。この子の問題は、ひきこもっているから、友達からの性知識がまったくなく、二十歳を迎えたのである。

昔のはなしだが、私がカナダの大学にポストドクターでいたとき、そこの大学生が60代の婦人を襲い、性交した。60代の婦人にそんな魅力があるのか、当時話題になったが、私は60代でも魅力のある婦人はいくらでもいると思う。私が14歳であっても、シルバーの髪の品のある婦人に恋し、性交を持つことは充分にあり得ると思う。たまたま、14歳の私はそういう機会がなかっただけである。

年齢で、性交を犯罪視するのではなく、性をオープンにし、適切な性教育を行うことのほうが重要ではないか。現実の中学生が性交をやっていることは色々なレポートで報告されている。技術的な知識だけでなく、人間社会における性の意義を子どもたちが互いに議論できるようにすべきではないか、と思う。

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宇野重規の『民主主義とは何か』はとても面白い、読むに値する

2021-07-13 22:03:54 | 民主主義、共産主義、社会主義

期待通り、宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)は面白い。コンパクトに論点がよくまとまっている。

「はじめに」から、彼は通念に直球勝負をしている。

A1 「民主主義とは多数決だ。より多くのひとびとが賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」
A2 「民主主義の下、すべての平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない」

B1 「選挙を通じて国民の代表を選ぶのが民主主義だ」
B2 「選挙だけが民主主義である」

C1 「民主主義とは国の制度のことだ」
C2 「民主主義とは理念だ」

お気づきのように、1が「通念」で、2が宇野の「信念」である。私も2の意見である。本書は、彼がなぜ 2の立場をとるのかを説明する。

   ☆   ☆   ☆

「序 民主主義の危機」も論点がしぼられている。目前の民主主義の危機とはつぎである。

  • ポピュリズムの台頭
  • 独裁的指導者の増加
  • 第4次産業革命の影響
  • コロナ危機と民主主義

彼は現在の4つの危機を民主主義の乗り越えるべき試練ととらえ、それを乗り越えることで、民主主義がより素晴らしいものになると考えている。それは民主主義が「理念」だからである。

宇野は「ポピュリズムには既成政治や既成エリートに対する大衆の意義申し立ての側面」「ポピュリズムが提起した問題に対して、民主主義も正面から取り組む必要」と述べている。アメリカ政治学の中山俊宏もトランプ元大統領の評について同じ立場を述べている。

第4次産業革命とはIT技術の勃興ということだが、宇野はAI技術を過大評価していると思う。IT技術が事務職の地位を引き下げたことは評価すべきであると思う。私は中間層は要らないと思う。中間層は民主主義を安定化させると考える人もいるが、現実の中間層は特権階級を守る防波堤として機能しており、民主主義の担い手ではない。中間層が没落することは、特権階級を追放するために、必要な道標である。

また、人が自分に都合の良い情報だけのなかに埋没しようとするのは昔からのことであり、IT技術やAI技術のせいではない。マイクロソフトやグーグルがいつもステレオタイプ的な情報の押し売りをするのに私はうんざりしている。ツイッターやフェースブックやラインは絶対に使わないことにしている。

AI技術が行政に使われたときの危険は、学習という統計的手法のため、個々人のユニークネスが無視され、個別性を無視した一律的な対応がされること、すなわち、人間であることが否定されることである。AIは個人を尊重しない保守政治家、官僚のように機能する。

   ☆   ☆   ☆

「第1章 民主主義の「誕生」」は、古代ギリシアの民主主義を扱っている。現在の民主主義を相対化するために、重要な章である。M.I.フィンリーの『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)より単刀直入で詳細である。

《最盛期のアテナイの民主主義においては、一部の例外を除き、すべての公職が抽選で選ばれました。》

これはよく知られているが、宇野はつぎの言葉を添えている。

《これに対し、選挙はむしろ「より優れた人々」を選ぶ仕組みとして理解され、その意味で貴族的であるとされました。》

また、彼はつぎの指摘をしている。

《古代ギリシアの人々は、民主主義の制度と実践について、きわめて自覚的でした。彼らは自分たちが採用している仕組みについて誇りをもち、これをみずからのアイデンティティとしました。》

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)で、ギリシアの古代民主主義は王侯貴族と血塗られた抗争の結果、勝ち取られたものであると書いている。宇野もこの事実を指摘しながら、もっと広い世界史的視点から、メソポタミアの強国の周辺国だったことが、古代民主主義に幸いしたという視点を付け加えている。

また、奴隷と市民との関係についても、ギリシアとローマとの違いに言及している。ギリシアの市民が自分自身の手でものを生産する労働者(worker)であったことが、民主主義を存続させたと指摘している。

プラトンをはじめとする古代民主主義の敵対者も取り上げている。

民主主義とは何かを考えるうえで本書は貴重な論点を与えてくれる。


宇野重規の民主主義は平等であるは画期的な発見だ

2021-07-12 22:33:39 | 民主主義、共産主義、社会主義

私は民主主義を支持する。誰かに命令されて動くのは嫌だ。自分の意志で動きたい。これって、民主主義とは自由主義なのかと思いこんでいた。

宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)読み、民主主義の根本は平等である、というのを知った。人はみな平等であるべきである。私は、ますます、民主主義を支持するようになった。

宇野重規の最新作、『民主主義を信じる』(青土社)を図書館から借りて読んだが、この『トクヴィル』より面白くなかった。これは、彼が民主主義を信じる理由を書いたものではなかった。そうではなく、2016年から2020年にかけての、その時々の内外の政治問題の評である。東京新聞にほぼ毎月寄稿していたものをまとめて出版したものである。

この5年間、戦後レジームからの脱却、アベノミクス、地方創生、一億総活躍社会、女性が輝く社会、などなど、キャッチコピーが安倍政権から目まぐるしく発信された。このような戯言に国民が騙されるのは、電通の知恵袋の優秀さよりも、国民は戦うより騙されたいからではないか、の疑念が起きる。森友学園事件で死んだ赤木俊夫さんの妻の無念さを思うといたたまれない。

宇野の『民主主義を信じる』の個々の政治問題の評は同意できるが、そこにいたる理由の説明が不十分で、物足りない。不甲斐ない国民への叱咤激励がほしい。

ベルリンの壁の崩壊以降、日本ではイデオロギーが軽んじられ過ぎている。民主主義を単なるルールと思いたくない。理念であるからこそ、本当の民主主義を実現するために、努力しがいがある。だから、私にとって、「民主主義を信じる」というより、「民主主義を欲する」というのが適切かもしれない。

同じく予約した宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)が図書館に届いたので、借りて読む予定である。期待している。

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坊ちゃん嬢ちゃんとくらべ、ヤンキーであることは悪いことか

2021-07-10 22:40:12 | 思想

きょうの朝日新聞に、斎藤環のインタビュー記事『ヤンキー的なムラ意識』という記事がのった。デジタル版では2日前にネットに上がっている。

読んでみると、「ヤンキー」を何か特別な意味に使っているようである。そういえば、去年の9月30日に、朝日新聞の《多事奏論》に高橋純子が、「ヤンキーな政治からヤクザな政治へ」と書いていた。

私は、坊ちゃん嬢ちゃんが嫌いである。いい子ぶってるやつが嫌いである。それと同様に、坊ちゃん嬢ちゃんは「ヤンキー」が嫌いであるようだ。「ヤンキー」に偏見をもっているようだ。

斎藤によると、ヤンキーはつぎのようである。

《日本社会に広く浸透している『気合いでアゲていけばなんとかなるべ』という感性です。一種の村意識に近い『奉仕するなら仲間に入れてやるけど義務を果たさないやつは村八分』という排他性もあります。》

腹がたつ。前半が定義、後半が属性のようだ。マイノリティが気持ちを高ぶらせて、どこが悪いのだ。私の見るところでは、日本社会には、逆に、ウツかイライラかニヒルの状態の人のほうが圧倒的に多い。

人はストレスを抱えるとイライラの状態になる。イライラの状態はウツの前兆である。ここで、ウツにならないように踏みとどまろうとする人は、感情を殺そうとする。無痛の状態になろうとする。それがニヒルである。

私はNPOでそういう子どもたちや若者を相手にしている。斎藤環が「気合いでアゲていく」ことをなぜ非難するのか、わからない。誰かから「気合い」をいれられるなら、それは恫喝という精神主義である。しかし、本人が高揚できるなら、それでいいのではないか。

斎藤の後半は、「ヤンキー」が集団をつくるという。徒党を組むのは、弱い者が強い者に対抗する手段のひとつである。私は徒党を組むのが嫌いだから、1匹オオカミとなることも少なくない。しかし、旗印を明確にすれば、人は自然に集まる。人は、本来、自分の上に人があるのを好かないようだ。反抗の旗印のもとに人は集まる。

「ヤンキー」とは、跳ね上がりである。既成の社会にたてつく者である。それを一方的に悪くいうのには納得しがたい。

集団でムラをつくっているのは、斎藤のような高学歴の文化人ではないか。文章で食っていくのも絵やイラストで食っていくのも、彼ら仲間内での助け合いではないか。

私は、既成社会から知的に劣るとか反抗的だといって社会から切り捨てられた子どもたちに自尊心と生きる糧を確保するために、高学歴なやつのムラ社会を破壊し、切り捨てられた子どもたちも、自分の文章と絵やイラストで食っていけるようにしたい。

斎藤は、子ども時代に、誰かにいじめられ、それを「ヤンキー的」と名付け、すべての嫌悪すべきものをそこに押し込めているのではないか。

斎藤いわく、

《アベノミクスに内在しているのは『経済をアゲて置けば何とかなる』という雑な発想》

《『家族と絆が一番大事』という価値観もヤンキー的》

《強烈な仲間至上主義はヤンキーの中核的な価値観》

《リベラルとヤンキーは食い合わせが悪い》

《リベラルは説明責任にこだわるぶん、打たれ弱い印象》

《清濁併せのむ気合いとノリ》

まったく、坊ちゃん嬢ちゃんの戯言に聞こえる。

「経済をアゲる」ということを J.K. ガルブレイスも批判している。「経済をアゲる」と言っているのは大企業の経営陣で、彼らをガルブレイスが批判しているのである。

日本でもGNPがあがったとか、下がったとか、新聞が大声で報道している。経済をアゲるよりも、貧困をなくすことである。餓死者をなくすことである。お金がなくて病院に行けずに死ぬ人をなくすことである。

経済をアゲても不平等がある限り、貧困はなくならない。格差が拡大するだけだ。リベラルを自称する人は中間層を増やすというが、平等をおし進めれば、中間層は相対的に貧困になるのだ。だから、没落すべき中間層は、能力主義を旗印に、格差社会を守ろうとする。中間層なんていらない。

「経済をアゲる」ことと「ヤンキー」とは何も関係がない。「ヤンキー」とは既成の社会に反抗する者である。

私は、子ども時代、不良少年少女との付き合いが多かった。私は彼らの住む所にいって一緒になって遊んだ。本当に貧しかった。下宿屋や長屋の一間で家族が暮らしていた。豚を飼っていて、その小さな囲いの中で泥んこになって遊んだ。不良少年少女は、坊ちゃん嬢ちゃんに対する反撃である。

私の子ども時代と現在との違いは、1970年を境に、若者が権力に負け、既成社会への反抗が暴走族になるか、成人式に袴で出かけ暴れるしか表現できなくなったことである。権力の中心に反抗を向けなくなり、「ヤンキー」が「ヤクザ」化したことである。

革命に、アナキー社会の実現に、昔のヤンキーのように、楽しく高揚感をもって進もうではないか。権力の中枢に向かって石を投げよう。

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