猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

森本あんりのロジャー・ウィリアムズ行伝に納得いかない

2021-07-04 22:38:42 | 思想

森本あんりの『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(新潮選書)を最後まで目を通した。ピューリタン(会衆派)に追放されたロジャー・ウィリアムズの行伝に、アメリカの民主主義の源を見るというものである。

しかし、森本の「寛容」「不寛容」という視点は適切なのか。また、「良心」というものをもちだすのは適切なのか。また、「礼節」という言葉のとらえ方はどうなのか。

森本のプロローグ、「一神教」「多神教」の議論からすでに納得できない。本来は「神」についてから議論すべきものである。多くのひとびとにとって、「神」とは恐れるものか、あるいは自分を守る者か、である。人びとがそれぞれの守護神を持っていれば、平和共存のため、おのずと多神となる。「一神」か「多神」かに優劣があるわけではない。「一神教」「多神教」の優劣は、あくまで森本の思い込みである。

それに、田川建三のように神の存在を否定する立場もある。私も神は不要であると思う。

同じく、森本の中に、カトリックにたいするプロテスタントの優位という思い込みがある。また、プロテスタントをルター、カルヴァンを中心に森本はとらえているが、それを否定する立場もある。森本は言う。

《「アナバプテスト」は「アナーキスト」(無政府主義者)にも通じる。彼らの教会制度の否定は、たしかに無政府主義的でもあった。》

「アナーキ」が危険視されるいわれは別にない。デモクラシーもアナキーも同じである。誰かに統治されることを拒否するだけだ。自分で自分を統治するのがデモクラシーである。

パウロは教会をローマの軍隊のように組織化しようとしたが、教会はもともと対等な人間の集まりエクレーシア(ἐκκλησία)であった。上下関係のある教会制度を否定する信徒が現れても何もおかしくない。クエーカー徒が、牧師の存在を否定するのは何もおかしくない。

森本はアン・ハンチソン事件についてつぎのように書いている。

《当局に訴えられた(クエーカー徒)アンは、裁判でも臆することなく雄弁に自説を展開していたが、最後には「自分は神から直接の啓示を受けている」と口を滑らせてしまう。これが命取りになった。それはつまり、神の声を聴くのに教会や牧師という媒介者は不要だ、と言ったに等しいからである。こうして彼女とその一族は、マサチューセッツ植民地を追放されてしまう。》

神の声を聴いたから、罪であるとする、当時のピューリタンのほうが、頭がおかしいのである。

加藤隆によれば、『マルコ福音書』『ルカ福音書』では、イエスの死により人は神の声を直接聴くことができるようになったと記している。自殺した私の同級生の女性は、長老派の教会に子ども時代から通っており、神の声をときどき聞いたと私に言った。神の声を聴くのは、カトリックのジュンヌ・ダルクだけでない。

「寛容」は我慢することだから、個々人によって、「時代」によって、許せる範囲が異なる。ロジャー・ウイリアムズの寛容の幅が大きいことが、森本が彼を本書の中心に据えた理由である。自分を批判するものを罰したりしなく、言葉で争ったという。

《ウィリアムズは、誰かを批判する際にも、あくまでも礼節と礼儀を持っていた。》

ここで「礼節と礼儀」と森本が言っているのは、civilityである。私は「お作法」のことではないかと思う。感情に流されないために、「お作法」という形式的枠を論争に置くことで、ウィリアムズは血が流れる事態を避けたのではないか、と思う。ウィリアムズは、ロードアイランド植民地のまとめ役を務めたとき、多数決制度を導入したという。

森本の「良知」「良心」というのも理解しがたい。カントは、神による判断と言うバカげたことを避けるために、人間に理性の存在を前提にしたと理解している。森本の「良知」「良心」は神を前提したもので、私は受け入れることはできない。

ウィリアムズが、「良心」というものに敬意をはらい、宗教と統治との分離を行ったと森本は考える。しかし、「良心」というものを慎重に扱う必要がある。私には、神が存在しないなかの「良心」は、自分の内なる思いで、「良心」に従うとは「誠実」であることとつながり、善悪とは無関係である。すなわち、conscience の「良心」という日本語訳は不適切だと思う。「内なる声」に従うことは、精神疾患をわずらわないために大事だが、それだけである。