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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ゴリラに見習い スポーツも豊かな遊びに戻ろう、山極寿一

2021-07-26 22:27:32 | 社会時評

きょうの朝日新聞に、ゴリラ学の山極寿一が『豊かな「遊び」、スポーツの起源に帰ろう』を寄稿していた。ネット上にも掲載されている。

山極によると、ゴリラもみんなで集まって体を動かして遊ぶのだそうだ。

《取っ組み合ったり、追いかけ合ったりして、ときには短い休止を挟んで1時間以上も遊び続けることがある。互いに高いところに上って胸をたたき合う「お山の大将ごっこ」や、数頭が数珠つなぎになって歩く「電車ごっこ」に似た遊びもある。》

強いものが弱い者を脅かすためでない。対等になって、いっしょになって、楽しむために、体と体とが触れ合いながら、ひたすら遊ぶ。黒い毛につつまれた大きな体のゴリラが、おしりを丸出しにしながら、じゃれ合って、仲間意識を育てる。

山極寿一は、2年前、日本学術会議の会長していて、当時の鈴木大地スポーツ庁長官から依頼を受けて、「科学的エビデンスに基づくスポーツの価値の普及のあり方」について審議して、報告書を作成したという。

スポーツは、ゴリラや子どもの遊びと同じでいいのだ。体と体とが触れあい、互いの汗、体臭を身近に感じ、ゲームに熱中しあい、同じ人間であることを確認するのだ。そして、互いに健康な体を保つ。

大学時代、毎日、お昼に、教室のみんなが、サッカー部のレギュラーもまじって、オフサイドも人数もルールも無視し、サッカーボールを追っていたことが懐かしく思い出される。

決して、スポーツは個々人の優劣、集団の優劣、国の優劣を競うものではない。

山極は言う。

《最近のオリンピックは商業主義が目立ち、観光収入や放映権をめぐって大量の札束が飛び交う国家事業になった。放映権を握るアメリカのテレビ会社に配慮して競技の時間を設定したり、海外のプロスポーツとかち合わないように酷暑の夏に開催したりと、どうも選手や観客の健康に配慮しているとは思えない。》

それだけではない。

《一番の問題は、オリンピックが国の威信をめぐる戦いの場と化していることだ。「オリンピックは参加することに意義がある」というクーベルタン男爵の言葉はどこへやら、今はメダルをいくつ取るかが国や人々の主な関心事である。》

商業主義、国威高揚、選挙対策というスポーツを囲む輩(やから)だけが悪いのでない。オリンピックで活躍すれば、スポーツで食べて行けるのが当然だという風潮が選手の中ではびこっている。そして、堂々と「感動を勇気を国民にとどける」などとほざく。

だいたい、外で、体と体が触れあう、抱き合うことが難しくなった新型コロナの感染爆発の中で、不純な動機ばかりのオリンピックをやる必要があるのか。

テレビはオリンピックにハイジャックされたかのように、オリンピックしか放映しない。とても、不愉快だ。そして、アナウンサーはとってつけたかのように、選手のヨイショばかりをする。戦時中の「爆弾三勇士」の放送のようだ。

スポーツはみんなで遊ぶものだという本質を忘れている。相手が打ち返せない玉をサーブしてばかりで、どこが楽しいのだ。たまに、すごいサーブをするのなら、わぁっといって驚く楽しみもあるが、常に相手が打ち返せない玉をサーブするのでは、見てても面白くない。勝ち負けにこだわるスポーツを「普及」させたって、意味がない。

山極寿一の日本学術会議報告書「科学的エビデンスに基づくスポーツの価値の普及のあり方」に何が書かれていたのか、とても気になる。

「ゴリラに学べ」だろうか。「オリンピックを開催する意味がない」だろうか。


新型コロナ、もの言うだけでなく、国民に直接話しかける専門家たちに拍手

2021-07-25 22:32:29 | 新型コロナウイルス

7月9日の朝日新聞『(耕論)もの言う専門家  新型コロナ』は物足りない。新聞社側の人選が失敗しているように思える。

専門家一般論でいうと、行政機構の中の保健所などの現場の専門家、アドバイザリーボードや分科会や審議会などの専門家、大学や民間医療機関・研究所など政府の外の専門家が当事者としてある。専門家といっても、いろいろな立場があるのだ。

今回の朝日新聞の人選はすべて政府とかかわりをもっている。しかも、現場でなく、上からの立場である。小児科医で自民党参議院議員の白身英子、元厚労省医務技官(次官級)の鈴木康裕、旧科学技術庁出身大学教授の佐藤靖が論者である。

そのため、最終意思決定者が、首相でも、政治家でも、専門家でもなく、国民であることが言及されていない。民主主義社会では、専門家は国民に奉仕することが求められる。国民に情報が公開されていること、国民の意見が対策に反映されていることが求められる。

もし、国会議員が国民を代表しているという建前にもとづくなら、新型コロナの感染が拡大しているのだから、少なくとも、臨時国会が開かれていないといけない。安倍晋三内閣のときも、現在の菅義偉内閣においても、臨時国会が開かれていない。

欧米で一般に言われていることは、専門家たちが行う一番の危険は、専門家集団が実権をにぎり、国益という議論を振りかざし、国民の一人ひとりのことを思わず、統計を通してしか国民を見ないことである。民主主義を無視することである。

例えば、新型コロナで、多くの人が助かれば、国民が多少死んでも構わないとか、ワクチン接種を促すために副反応の情報は覆い隠すとか、そう考える専門家も出てくる。

いっぽう、日本では、欧米と異なって、専門家より首相の意思が上位にあるという、独裁的傾向のほうが、強い。過去の例でいうと、首相の思い付きに合わせるために、体裁をつくろうデータを揃えたり、政府の政策に反対しないメンバーを集めて、専門家会議の名前の下に、政府の施策を権威づけることが、通例であった。

この日本の縦社会の中で、昨年の新型コロナ感染対策専門家会議の勇気は特筆すべきである。「もの言う専門家会議」であった。それだけ、感染症専門家の間で危機意識が強かったのだと思う。尾身茂は、北海道大学教授の数理疫学の西浦博を引っ張り出して、人と人との接触を抑えるため、政府の思惑を超えて、国民に直接訴えた。この点を、論者3人ともあまり評価していないのにびっくりした。

民主主義とは、選挙で当選した国会議員が選んだ首相だけが、国民に話しかけられるのではない。専門家たちが、動かない政府より、国民に直接話しかけることこそ、民主主義的である。

また、政府の権威がなくても、民間の専門家は本当のことをみんなに言うのが、民主主義の正しい作法である。今回は各局のテレビ関係者たちも色々な専門家たちに声をかけて、発言させた。これも民主主義の正しい作法である。私は、大学の研究者だけでなく民間病院の医師たちまで新型コロナ感染対策に発言していたことを評価する。

私は、今回のこの幅広い専門家たちの頑張りを高く評価したい。


だいじなことは、わかりやすい日本語で話そう

2021-07-24 23:05:15 | 思想

図書館から白井聡の『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』(講談社選書メチエ)を借りてきたが、むずかしくて読めない。言葉がむずかしい。もちろん、最近、目の調子が悪いのもあるが。

《政治的なものの隠蔽によって、社会に内在する敵対性を隠蔽することによって成り立っている。まさにこのことが、通常の政治が抱えている巨大な「秘密」であり、社会に根源的敵対性が内在的に存在することを告白することとは、共同体の不可能性を告白することにほかならない。この「秘密」が秘しておかれざるを得ないところから、あらゆる政治的欺瞞、さまざまなイデオロギーが発生する。》p21

私は、書き手が言葉によって酔っているのではないか、と思う。

私はやさしい日本語で書いて欲しいと思う。

理系の私がNPOで子どもたちや若者たちが言葉を出せるように指導しているのは、第1に虐待を受けていることを他人に訴えることができるように、第2にコミュニケーションを通じて周りの人との人間関係を友好的に保ち、本人もこころ穏やかに過ごせるためである。

ダウン症の男の子(20歳)が作業所から泣いてやってきた。私が「どうしたの」と聞くと、自分で首を絞める真似をする。暴力を受けたのだとわかる。しかし、誰が暴力を振るったのか、何か原因かがわからない。その子の話す日本語が聞き取れないのだ。横から、同じ年の女の子が「いじめがあったら先生と相談するのよ」という。その男の子のかかえる問題は音韻をうまく作れないことだ。聞く方で、イエスかノーかをつうじて時間をかけて判断していくしかない。

発声に問題がなくても、言葉の意味が分からないので、話せない子(22歳)もいる。毎回、きょうの天気を聞くのだが、雨がふっていても、晴れとなる。きょうのことと、きのうことと、ずっと前のことと区別がつかない。毎回、言葉を交わすのだが、私を喜ばしたいがために、なんでも、イエスとなる。そして、とつぜん、すべてにたいして、「……じゃない」という応答になる。きょうの夕飯は何かという話題に対しては、信頼性の高い返事が返ってくる。それでも、量に関してすべて「3つ」となる。「餃子3つ」を食べるとなる。

うつの子も男女ともに母親とコミュニケーションがとれない。ともに二十歳をこえているが、知的なのにである。話すことの楽しさを体で感じて欲しいと思い、私はひたすら対話を続けている。また、内に閉じこもらないために、文章を書き続けることをすすめている。

さて、冒頭の引用句は、「階級闘争が隠蔽されている」の説明である。社会に何か尽くしたいと思う人は、相手にわかるようにしゃべるべきで、そのことにより、自分自身が言葉に酔うことを防げるのではないか、と思う。

悪意のある者だけが、わかりやすくしゃべる社会では困る。


象徴天皇と「拝察」、国民統合の象徴はもともと無理なこと

2021-07-23 22:32:06 | 天皇制を考える

きのうの朝日新聞『〈耕論〉天皇の開会宣言』は何が焦点なのか、わからず、見逃していたが、コロナ感染拡大の中で東京オリンピックを強行することの天皇の不快感を宮内庁長官を介して表明(拝察)したことを3人が三様に論じていることに、きょう、ようやく気付いた。

天皇個人として、不快なオリンピックの開会式で開催を宣言することの是非を朝日新聞がとりあげたものである。

問題点の整理は赤坂真理が一番よくできているように思える。

人間である天皇に、天皇が国民の象徴であるから非政治的であれという理屈で、感情を殺し、政権の都合をおしつけるという、不条理を指摘している。それとともに、オリンピック開催に反対しながら、行動しない国民が、国民の代わりに天皇がオリンピックを阻止することを望んでいることを懸念している。

赤坂の指摘は、一言で言えば、象徴天皇制の危うさである。

私が一言付け加えれば、天皇制を廃止し、天皇が一国民になればよいことである。そうなれば、言論の自由が保障され、オリッピク阻止を声高に叫ぶことができる。そして、国民も、表現の自由「デモ」の権利を使って自分の意思を表明すればよい。

いま、東京オリンピック開会式が行われているが、その会場の外で、若者がオリンピック反対のデモを行っている。天皇でなければ、デモに参加できるのだ。

清水剛は、形式論をふりまいて、議論から逃げているように思える。

《五輪憲章では、開会宣言は開催国の国家元首が行うと定められています。》
《憲法1条で、天皇は「国民統合の象徴」とされています。》
《統治行為としてではなく、国民統合のために発信するのは、まさに現代的な元首の役割です。》
《五輪による感染拡大への懸念を「拝察」させるのは、2つの役割を両立させる「裏技」だったのではないでしょうか。》

この「国民統合」とは何をいうのか。どうすればよいのかの人びとの意見が割れたとき、「統合」とは何をいうのだろうか。「話し合いましょう」ということなのか。誰かが強い実権をもち、正しい意見が無視され、多数の思いが無視されているとき、「国民統合」とは、結局、実権をもっているものに味方し、根本的問題の解決を遅らすだけではないか。

クオン・ハクジュン(権学俊)は、昔から政府がスポーツを政治利用してきていると指摘した上で、天皇が宮内庁長官に自分の意思を発言させたのは、象徴天皇制を維持するための策略だ、とつぎのように言う。

《天皇が意思を何も示さないまま開会式に出席するのは、象徴天皇制に悪影響を及ぼすという危惧があったからでしょう。》

天皇が宮内庁長官に代弁させた行為を、清水剛の『裏技』より一歩進んで、政治行為と批判されるリスクを冒したとみている。

ところで、今回の東京オリンピックの開会式は本当につまらなかった。こんなものにお金をかけることはやめた方がよい。開会式会場の外の「東京オリンピック反対」のデモのほうがずっと面白そうだった。


民主主義とは何か、代議制ではない、自己統治の理念だ

2021-07-22 23:59:48 | 民主主義、共産主義、社会主義

デモクラシー(民主主義)を支持する、反対するといっても、それがなんであるかは、人によって異なる。その意味で、宇野重規の『民主主義は何か』(講談社現代新書)は、民主主義の1つの定義の試みであり、貴重なものである。

私が民主主義を支持をするのは、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』のつぎの一節による。

《「民主政」(デモクラシー)のもとで苦しんでいる人々は、これを「無政府」(アナキィ)〔統治の欠如の意〕と呼ぶ。》

私は人から理由もなく命令されることは いやである。あれを食べろ これを食べろと言われたくない。だから、統治者がいない、自分自身で自分を支配する「アナキィ」のを良しとする。

宇野が古代ギリシアのアテナイでの民主政から論じたのは、現代の代議制民主政を相対化するのに必要だったから、と思う。

よく、西洋は古代ギリシアの文化と連続のように言うが、そうではなく、古代ギリシアの文化はイスラム国家がひきついだのであって、西洋社会はゲルマン文化の申し子で、そこにキリスト教がいびつな形(西ローマ帝国のなれのはて)で入り込んだものである。

古代ギリシアのアテナイでは、国会にあたるのは民会(エクレーシア)で、政府にあたるのは評議会である。民会は、市民の誰もが参加でき、発言でき、その評決が、ポリスの最高意思決定になる。評議会のメンバーは市民の間から、くじで選ばれ、民会への提案をつくり、可決された提案の実施を担当し、任期が終了すると、公正な行動をしたかの審査があったという。

どこで読んだか いま思い出せないが、ゲルマン社会はもともと貴族政で、王は貴族の間の選挙で選ばれたという。それが破られたのが、西暦800年のカール大帝の戴冠である。それまで、選挙が王であることに権威をあたえたのだが、これ以降は、ローマの教皇の支持を権威として、世襲制になった。

現在の代議制民主政は、ゲルマン文化に由来するもの、と私は思っている。代議制民主政は、世襲制に対する反対するという程度の正当性にすぎない。代議制だから民主主義的だ、とは言えない。

宇野は、デモクラシーの語源が、紀元前508年のクレイステネスの改革で、旧来の4部族制から10部族制に移行したときの、行政単位、デーモスだと言う。4部族制が血縁にもとづいていたのに対し、10部族制は、市民がどこに住んでいるか、にもとづいて行政をおこなったという。だから、本当は10「部族」という言葉はオカシイ。とにかく、血縁から地縁に統治を移行することで、貴族の政治的基盤を弱めようとしたのである。

その後、デーモスは、行政単位から、血縁によらない人びとの集まりを意味する言葉になり、大衆とか、群衆とかを意味するようになった。

したがって、デモクラシーは、選挙か直接かを問わず、みんなが公共の事柄に関与でき、だれか一部の人びとによって、みんなが統治されることがない ことだという。

デモクラシーを非難してきたのは、文字を読み書きできる人たち(知識人)だった、と宇野は言う。

ギリシア語聖書(新約聖書)によれば、初期キリスト教徒は、自分たちの集会をエクレーシアと呼び、グラマティウス(読み書きできる人)を敵視していた。初期のキリスト教にはギリシアの民主主義の香りが残っていたように思える。エクレーシアを「教会」、グラマティウスを「律法学者」と訳すのは間違いである。

デモクラシーに対抗する思想が古代ローマの共和政(res publica リパブリカ)であると、宇野は言う。このリパブリカは「公共の事柄」と意味する。共和政派からすると、デモクラシーが多数派による衆愚政治で、共和政は賢いものが社会を統治することである。この共和政の罠は、社会にとって何が正しいか、ということが、自明でないことだ。そして、一部の人間たちが多数の人々を「愚か者」呼ばわりし、エリートがデーモスを支配することが起きる。

現在でも、政治家がかってに「国益」という言葉を使う。それは、あなたが決めることではないでしょう、と言いたくなる。「国益」を言う政治家はデモクラシーを否定している。自分だけが偉いんだと思っている。

私にとって不思議なのは、ドイツで、ローマ教皇によるゲルマン社会の政治への関与に反対するのに、デモクラシーではなく、リパブリカが持ち出されたことである。ゲルマン社会にデモクラシーが登場するのに19世紀まで待たなければならなかったのである。