猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「巡礼のように辛抱強く列に並ぶ」という表現はおかしい

2021-06-24 23:13:34 | 思想

マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)の横浜市図書館の予約順位が、5日前の193位から188位に上がった。このまま行けば、半年後には読めそうだ。

けさ、ふと荻上チキの本書の紹介文が気になった。

《本書は〈辛抱強く並んでいた白人中産階級の列に、黒人や女性、移民、難民などが割り込んできた〉という例えを肯定的に引用するが、サンデルが懐かしむ「道徳的絆」「共通善」は、マイノリティーを排除することで成立してきたのも確かだ。》

この文が理解不能なのだ。

引用元は、A.R.ホックシールドの『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』 (岩波書店)である。これを「肯定的に引用」というのはどういう意味だろう。

つづく文では、荻上がサンデルを批判しているように見える。サンデルの「道徳的絆」「共通善」を批判しているように見える。「懐かしむ」という言葉に荻上の嘲笑のこころが見える。

このたとえがでてくるホックシールドの「第9章 ディープストーリー」は、私から見ると、ちょっとおかしいのである。明らかに、ルイジアナの捨てられた人々への偏見が書きつづられた章である。サンデルが、これを読んでおかしい、ホックシールドを偏見に満ちていると思った、と私は考える。だから、「肯定的に引用」というのは不可解なのだ。

ホックシールドのこのたとえは、彼女の創作だと思う。

《You are patiently standing in a long line leading up a hill, as in a pilgrimage. (あなたは巡礼の途上のように、山の上へと続く長い列に辛抱強く並んでいる。)》

このイメージがまず理解できない。「長い列に辛抱強く並ぶ」ことと「巡礼」とが結びつかない。ここに、西海岸で教授職にある社会学者の偏見がすでに表れている。

《Just over the brow of the hill is the American Dream, the goal of everyone waiting in line.(山頂を超えたところに、アメリカンドリームがある。みんなが列に並んで待っているのは、それを達成するためなのだ。)》

「アメリカンドリーム」のために並ぶことは、「道徳的絆」「共通善」とは無関係である。個人的な成功である。

《Still, you’ve waited a long time, worked hard, and the line is barely moving.(それでも、一生懸命働いて長いあいだ待っているのに、列はほとんど動いていない。)》

巡礼で、こんなことはあり得ない。

ネットでアメリカのbook reviewを見渡すとやはりホックシールドへの批判がある。自分だけが幸せになることなんてできない、周りのみんなにも幸せになってほしい、これが、抜け駆けの許さない南部の貧乏人の多くの思いではないだろうか。

したがって、彼らを「長い列に辛抱強く並んでいる」と見ることは、競争社会を肯定する成功者のもつ偏見ではないのか。

そういう人たちへの反撃のために、サンデルは「実力は運のうち」という声をあげたのではないか、と思う。

民主主義とは、ひとはすべて対等であるという理念である。君主やブルジョアがもつ自由、ゆたかさを私たちプロレタリアにも分け与えよ、というのが人権である。人はバラバラの個人に切り離され、競争して生きるというのは、民主主義とは別の理念で、受け入れる必要はない。

いっぽう、「巡礼」とは「共同体」から跳び出し、絆をすて、無になって神との対話を求め、地上をさまようことではないか、と思う。

最近、気に入った、アメリカの古い讃美歌につぎの“Wayfaring”ある。

I am a poor wayfaring stranger
I'm traveling through this world of woe
Yet there's no sickness, toil, or danger
In that bright world to which I go
I'm going there to see my father
I'm going there no more to roam
I'm only going over Jordan
I'm only going over home 

I know dark clouds will gather 'round me
I know my way is rough and steep
Yet beauteous fields lie just before me
Where God's redeemed, their vigils keep
I'm going there to see my mother
She said she'd meet me when I come
I'm only going over Jordan
I'm only going over home

この”a poor wayfaring stranger”というのが好きだ。また、"only going over home"というところが、すごい。


宮坂昌之の『新型コロナ7つの謎』、最後の謎ワクチンの有効性

2021-06-23 23:09:09 | 新型コロナウイルス

宮坂昌之の『新型コロナ7つの謎』(ブルーバックス)の7番目の謎(最終章)は「有効なワクチンを短期間に開発できるのか」である。本書は昨年の11月20日に出版されたから、新型コロナワクチンがアメリカで認可される前に書かれたものである。

宮坂は、ワクチンの開発がいかに大変かを説明した後に、つぎのように警告する。

《ワクチンが普通の医薬品と異なるのは、健康な人に投与することです。》

《慌てるがあまり、安全確認、予防効果の確認を怠って、不確かなものに飛びつくことは避けないといけません。》

《この点、気になるのが、ロシアやアメリカ、イギリスなどで行われているワクチンの過剰とも思われる激しい開発競争です。》

予防効果、安全効果は、これからの大量接種で、少しづつ判明することである。ワクチン接種において、政治が先行しているように私には見える。

承認前のテストにおいて、健康な人に接種するのだが、効果があったかどうかは、新型コロナの感染のリスクに遭わないといけない。感染のリスクに遭ったかどうかは、知りようがない。感染のリスクに遭わなければ、感染しないのだから、ワクチンが効果あったかどうかは、わからない。

ファイザー社が95%の予防効果があって、モデルナ社が94%の予防効果があるといっても、ファイザー社が本当にモデルナ社より予防効果があるのかどうか、わからない。承認申請にあたって薬品メーカがそう言っただけで、数値の信頼性はそれほど高いものではない。

宮坂は、免疫反応には個人差が多いという。

いま、アストラゼネカ社の接種率が高いイギリスでデルタ変異株(インド変異株)の新型コロナが猛威を振るっている。驚いたことに、ファイザー社のワクチン接種が進んでいるアメリカでも、ごく最近、デルタ変異株が急増していると、いま、テレビでいっていた。

安全性も、薬品メーカが危険因子を持っている人をテスト対象に選ぶはずがない。したがって、どの程度に危険因子を評価するには、普通の人びとへの大量接種の結果を待つしかない。

ヨーロッパでは、アストラゼネカ社のワクチンが血栓を引き起こすということで、一部の国で接種が控えられている。日本は予約したアストラゼネカ社のワクチンを台湾にまわすことにしている。

横浜市から送られた接種券には、接種の予診票、同意書とともに、ファイザー社の説明書が同封されている。

ファイザー社ワクチンを接種できない人はつぎのようになっている。

  • 明らかに発熱している人
  • 重い急性疾患にかかっている人
  • 本ワクチンの成分に対して重度の過敏症の既往歴のある人
  • 上記以外で、予防接種を受けることが不適当な状態にある人

新規開発のワクチンだから、本ワクチンの成分に対して重度の過敏症なんて知りようがない。また、最後の項目なんて何を言いたいのか、理解しがたい。

ファイザー社ワクチンの接種を受けるにあたって注意が必要な人はつぎのようになっている。

  • 抗凝固療法を受けている人、血小板減少症または凝固障害のある人
  • 過去に免疫不全の診断を受けた人、近親者に先天性免疫不全症の方がいる人
  • 心臓、腎臓、肝臓、血液疾患や発育障害などの基礎疾患のある人
  • 過去に予防接種を受けて、接種後2日以内に全身性の発疹などのアレルギーが疑われる症状が出た人
  • 過去にけいれんを起こしたことがある人
  • 本ワクチンの成分に対して、アレルギーが起こるおそれがある人

「注意が必要な」という意味がよくわからないが、接種後に重大な「副反応」があるかもしれないから何かがあったら、すぐに医療機関に連絡しろ、ということかと私は解釈している。

私は糖尿病のうえ、冠動脈にステントをいれており、抗凝固剤を毎日服用している。主治医に相談すると、こういうのは、免責事項で、それを気にしていたら、ワクチン接種を受ける人がいなくなると言われた。

そう、この注意書きも別に実験して得られた結果でなく、現在の世界的大量接種の壮大な実験が終了してから、本当のことがわかるということである。

TBS『ひるおび』のコメンテータ原田曜平が、自分の父が、接種後、重大な副反応を起こしたのに病院から厚労省に報告が行っていなかった、と怒っていた。今も、入院中であるという。接種率をあげるために、政府が副反応を隠すようなことをしていけない。どうも、死なないまでも、かなりの思い副反応があるようだ。老人に重い副反応が出ても、誰も抗議しないと、バカにしているように思える。

この流れにさからうのも、乗るのも、自己責任である。私の場合、来週に接種だが、副反応に2,3日苦しんであと、生還した幸運を祝うのも良し、というところか、と思う。

[補遺]

ちょうど今、飛沫によるインド株の感染率が他の株より2倍だということが、スーパーコンピュータ富岳を使ってわかったと理化学研究所が発表した。どうやって、わかったのだろうか。わかりようがないと思う。スーパーコンピュータを売り込むためにウソをつきまくるのではなく、もう少しましな研究に使ったらどうかと、腹ただしくなった。


宮坂昌之の『新型コロナ7つの謎』、集団免疫とワクチンの神話

2021-06-22 23:39:57 | 新型コロナウイルス

宮坂昌之は、『新型コロナ7つの謎』(ブルーバックス)で、国民の60%が免疫もったとき集団免疫を獲得する、というのは安易な理解だ、と書いている。

私は、集団免疫という言葉を、昨年3月12日のドイツ首相メルケルのメーセージで はじめて知った。メルケルのスピーチは、私を感動にいざなった。

新型コロナの治療薬もワクチンもない現状では、社会が集団免疫をもつまで、人々の60%から70%まで感染するまで、広がりつづける。だから、治療薬やワクチンの開発が成功するまで、行動規制をおこなって、感染速度を抑え、医療の崩壊、社会の崩壊を防がないといけないというものであった。

メルケルの言葉で、新型コロナの恐ろしさを私は理解した。と同時に「集団免疫」が呪文のような言葉になった。

その時点での、ドイツの感染者数(累積)は、たったの8千人である。現在、ドイツの感染者数は373万人、日本の感染者は78.8万人である。メルケルは、先見の目があった。

ところが、宮坂によれば、この「集団免疫」と「60%が感染」が独り歩きをしているという。

メルケルのメッセージと、同じころ、イギリスの疫学者のニール・ファーガソンが、「人口の60%が感染すれば流行が収束するはずなので、国民の多数がこのウィルスにかかることで社会に『集団免疫』をつけることが望ましい」と主張し、首相のポリス・ジョンソン首相にそうアドバイスした。ところが、ジョンソンは新型コロナに感染し、死ぬ思いをして、感染を促すのではなく、感染速度を抑えるために行動規制をするように、政策方針を変えた。

同じころ、スウェーデンの疫学者アンデッシュ・チグネルが、「都市封鎖をするよりは、多くの人が感染して集団免疫をめざすのが早い」と主張し、スウェーデンは、国として、強い行動規制をせずに、集団免疫をめざした。

本当に、宮坂がいうように、ファーガソンやチグネルが感染拡大の速度を故意に上げようとしたかは、私は疑う。単に、彼らの政策を見て、宮坂がそう理解したのではないか。疫学者が感染の速度をわざわざ速めるとは思えない。問題は、単に、どこまでの行動規制が必要かの認識の差であろう。

ところで、この「60%」というのが、大した根拠をもたないというのは、本書を読んで はじめて知った。

宮坂によると、疫学のモデルパラメータに「基本再生産数」というのがあって、ここから「集団免疫閾値」が計算されたのだという。基本再生産数Rは、免疫も行動規制もない状態で、一人の感染者が周りの人のうち、何人に感染させるかという数字だという。

このRが1より小さいとすれば、たまたま感染者がいても、周りにあまり感染させなくて、しだいに、ひとりでに感染が収まるという。

ここで、周りの半分が免疫をもっていれば、うつるのは、Rの半分になる。したがって、実効的には、Rの半分の値になる。どうように、もし、基本再生産数がR=2.5とすると、国民の60%が免疫をもっていれば、40%の人しか、感染しないから、実効再生産数は0.4R=0.4×2.5=1 となる。

すなわち、基本再生産数Rを2.5と仮定したから、「60%が感染」とでただけでのことである。目標となる数値ではない。

インフルエンザの基本再生産数Rは、1.4から4 だという。あいまいな数である。新型コロナの R=2.5 もあてずっぽな数である。たぶん、インフルエンザ程度という意味であろう。

宮坂の論点は、実効再生産数は、人々の恐怖心や行動規制で、基本再生産数より小さくなる。したがって、本当のところは、ずっと少数の人しか感染せずに、歴史上、パンデミックはおさまるという。日本でも、大した政策もとらずに、緊急事態を宣言するだけで、感染拡大が収まる。問題は日本の解除が早いということで、すぐ、リバウンドしてしまう。

持続的行動変容が起きてないのである。

宮坂は、新型コロナを怖がりすぎている、という観点から本書を書いたと言うが、私は、本書を読んで、新型コロナを国民がキチンと怖がることが必要だと思った。

政府が危機を論理的に訴えることがだいじではないのか。国民が感染が怖いという意識によって、行動の変容がおき、人流が抑えられるのではないのか。論理的にうらづけられた「怖がる」ことで、一人ひとりの行動を適切な方向にもっていくのである。

したがって、菅義偉が「GoTo キャンペーン」を昨年行ったこと、そして、いま、東京オリンピックを強行しようとすることは、国としてやってはいけないこと、と思う。ワクチン接種率は、オリンピック開催時には国民の10%程度だと思われる。それに、ワクチンを接種したから新型コロナに感染しないとはかぎらない。

ウガンダ選手9人がワクチンを接種したのに1人が感染したと言うが、ファイザー社もモデルナ社も95%程度の感染予防効果として、緊急認可されたものである。治療薬と異なり、ワクチンを接種しても、感染の危機にさらされたかどうかはわからず、予防効果はあくまで推定値にすぎない。95%なのか90%なのか、あるいは、80%なのか、本当のところはわからない。

したがって、ワクチンを接種したからといって、浮かれてはいけない。あくまで、「GoTo キャンペーン」や「東京オリンピック」というリスクを、国が犯すべきではない。


何のためのオリンピックなのか、新型コロナ禍ですることなのか

2021-06-21 22:30:24 | 新型コロナウイルス

きょうのTBS『報道19:30』は、東京オリンピックと新型コロナ感染対策でもちきりだった。

政治ジャーナリストの田崎史郎は、尾身会長が政府に押し切られて、もっともリスクの少ないのは「無観客」になったという提言になった、と証言した。もともとの予定した提言は、東京オリッピクの「中止」だったという。

コメンテーターの堤伸輔は、尾身会長が「中止」を引っ込めたため、言い訳や逃げ道が開かれ、 すべては、オリンピック実施組織のしたい放題になって、専門家としての責任を果たしていない、と批判した。

菅義偉の言う、観客50%か1万人の少ない方というのは、「一般観客」のことで、別枠で、それ以外の入場者があるという。VIPやその家族・付き添い者、スポンサーなどで、開会式には、「一般観客」以外に1万人が入場する見込みだと、スポーツジャーナリストの二宮清純がいう。小学校などの児童動員も別枠だという。

いま、なし崩し的に東京オリンピックの動員がかかりだしている。

もと柔道金メダリストの溝口紀子は、政府が民族主義の高揚をねらっているのだろうが、集まった観客は騒いで不測事態が起きるかもしれない、と心配していた。

今回、ウガンダ選手団の一人がPCR検査「陽性」だった件も不可解な扱いである。5月末、私のNPOの同僚が濃厚接触者になり、PCR検査で陰性であることが判明したにもかかわらず、2週間の自宅待機になった。ウガンダの他の選手8人は同じ飛行機に乗ってきたのだから、濃厚接触である。隔離されなければいけないのに、そのまま、大阪のホテルに移動した。どうして、彼らを特別扱いをするのか。

また、この件で発表されていないのは、ウガンダ選手がすべてワクチンパスポートとPCR検査陰性証明を持っていたのにもかかわらず、なぜ感染していたのかということである。ワクチンパスポートの信頼性の問題か、それとも、ワクチンが感染防止に役立たないのか、という疑問である。

国によっては、ワクチンがほかの人に横流しになって、ワクチン接種をしていないのにもかかわらず、ワクチンパスポートが出ている可能性がある。また、2回のワクチン接種が終わっても免疫ができないうちに、来日したのかもしれない。

ワクチンが感染予防になるというのは、必ずしも、正しいメッセージではない。多くの人はワクチン接種で感染を防止できるかもしれないが、一部の人は充分な免疫ができないというのが現在の一般的な理解である。9人のうち1人は感染予防とならないのは、変異株ではあり得ることかもしれない。

1万人の選手が来日するなかで、通常の検疫システムが機能すると思えない。

考えてみよう。新型コロナ感染拡大のリスクを冒して、オリンピックを「日本民族のお祭り」として盛り上げる必要があるほど、日本はすさんだ国なのか、日本は貧しい国なのか、日本は低能な国なのか。それとも、ただ単に自民党の票を死守するための、電通の仕組んだイベントなのか。

私は、新型コロナ蔓延のしっぺ返しがくると思う。


民主主義の根本は平等にある

2021-06-20 23:09:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)の書評を読むうちに、これは、「平等」の問題と関係していると思った。

「平等」は、宇野重規が説いているように、民主主義の基本である。人間はみな対等であり、専門家でなくても、臆することなく、自由に発言して良い。人間関係に上下がなく、子と親の関係、生徒と先生、患者と医師、社員と社長との関係も対等でなければならない。

育鵬社の公民の中学教科書は、「平等」を「法の下の平等」と説明する。

《人は顔や体格はもちろん能力も性格も千差万別です。しかし法はそのようなちがいをこえて平等な内容をもち、すべての国民に等しく適用されなければなりません。》

《一方で、憲法は人間の才能や性格のちがいを無視した一律な平等を保障しているわけでありません。》

これでは、「機会の平等」と同じく、現実の格差や人間関係の上下を正当化するもので、誤りである。また、「法」を「平等」の中心にすえるので、法律の専門家に有利な社会制度を許してしまうことになる。

東京書籍の公民の中学教科書の「平等権」はつぎではじまる。

《全ての人間は平等な存在であり、平等な扱いを受ける権利である平等権を持っています。》

したがって、民主主義の理念、「人権」とは、人間みんなが対等であるという根本理念にもとづき、支配者だけがもっていたすべての権利を、すべての人に与えたものである。

しかし、東京書籍は、上の文の直後に、つぎの厄介な文を付け加える。

《しかし、偏見に基づく差別が、今なお残っています。特に「生まれ」による差別は、基本的人権の尊重という日本国憲法の基本原理に反するもので、決して許されません。》

「差別」とは「平等」の反対語なのだろうか。「差別」とは、「差別」する主体の存在を仮定していないだろうか。「偏見に基づく」とは誰が判定できるのだろうか。なぜ、「偏見」が生じるのだろうか。

辞書によると、「差別」とは、「わけへだて」、「けじめ」のことだとある。ビジネスでは「商品の差別化」という使われ方をしているが、社会問題では、「格差の肯定」や「侮蔑」という意味で使われている。

私は、社会に不公平があり、それを正当化したい側がつける屁理屈が「差別」であると思う。したがって、「偏見に基づく」という言葉はいらない。「格差」を肯定することも、自分より格下として「侮蔑」することも、あってはならない。

去年の11月に、TBS『報道1930』で、森本あんり、中山俊宏をゲストに迎え、『米大統領選挙の主役となった「陰謀論」』というテーマで対話があった。

そこで、森本は、アメリカの労働者(workers)がトランプの嘘に騙されていると単純に見てはいけないと言った。この指摘は、アメリカの人びとにある不公平の現実を見逃して、知識に欠く労働者が騙されたとだけ見るのは、「偏見」だということである。

そして、森本は「ディープストーリー」(心の奥深くで感じる物語)という観点を紹介した。それが、A.R.ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』 (岩波書店)のたとえである。

《山頂には豊かになれるというアメリカン・ドリームがあると信じ、人々が長い行列に辛抱強く並んでいる。が、列に割り込んで先に行くものがいる。それは移民であり、マイノリティであるという。》

このたとえのおかしなところは、自分より先に豊かになれる人がいるのに、それを問題にしない所である。「長い行列に辛抱強く並んでいる」が、格差があるのこと、不平等があることを問題にしていない。根本的に誤っている。

しかし、彼らが誤っていることをばかにしてはいけない、というのが森本あんりの主張である。彼らにそう見えているのは、それなりの事情があるからで、対話を諦めてはいけない、ということなのだろうか。

日本でも同じ問題がある。ネットで不平不満をいうと、それを叩く人々がいる。不平不満の矛先がオカシイというのではなく、単に首相の悪口はいけないとか、世の中は厳しいだとか、いう現状に甘んじろという意見でしかない。

本来、この格差社会の頂点にあるものを批判し、引きずりおろさなければならないのに、自分より下にあると思った対象に不公平の怒りをぶつけるのは、誤りである。これは、日本での「在日特権を許さない」とかアメリカでの「アジア系へのヘイトクライム」に典型的見られる。

いっぽう、トランピズム批判のなかにある偏見にも、厳しく正していく必要がある。

 

[関連ブログ]