猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

朝日新聞の『「失敗」を直視せよ』は ピント外れ、原発事故調査

2019-10-18 23:33:26 | 原発を考える


今日(10月18日)の朝日新聞《オピニオン&フォーラム》、『「失敗」を直視せよ 原発事故の真相が解明されないまま「安全神話」は続く』は、突っ込みが弱い。インタビュー記者の大牟田徹が悪いのか、元政府事故調委員長・東京大学名誉教授の畑村洋太郎が逃げているのかわからない。しかし、一般論から言うと、人は自分に都合が悪い事実をごまかしがちで、ジャーナリストはそれに切り込むべきである。

2011年の福島第一原発事故の後、高校の同窓会の連絡で、原発廃止を書き込んだら、日立に務めた同窓生から、文句がとんできた。技術には失敗がつきもので、失敗から学んで問題を克服すればよいのであって、原発廃止とはけしからんと、いうものだ。

畑村洋太郎は、「失敗を直視せよ」で何の失敗を解明し、何をしたかったのだろうか。なぜ、彼は、「再現実験」にこだわったり、「自分が原子力の門外漢である」ことに悔いたりするのか。失敗は、技術の進歩のためのコストだという考えにとらわれていたのではないか。

原子力発電は日本の技術ではない。単にアメリカから買ってきた技術である。それに原子力発電も大した技術ではない。畑村洋太郎は「自分が原子力の門外漢」と言うが、原子力発電は色々な技術の寄せ集めであって、原子核分裂連鎖反応の知識だけでできているのではない。

原子力発電とは、要は、大規模プロジェクトを組み、いろいろな技術の専門家を集めて、発電装置を設計し、製造し、運用するというものである。ジェット旅客機の設計、製造、運用をちょっと複雑化したものだが、日本政府や国際機関の安全に対する監視・規制が、原発は旅客機ほど機能しなかったということである。

だから、政府事故調の目標が、原発事故の技術的解明よりも、事故の実態を記録し、保存し、公開することを第1の目標に置くべきで、「失敗学」が技術革新に有効であることを立証するためではない。

事故関係者は、自分にとって不都合な事実を隠蔽しようするから、その意味では、関係者に率直に打ち明けてもらうことで再発防止の鍵を探る「失敗学」も有効そうに見える。しかし、じっさいには、嘘がつけないように、傍証を固めていく手法が必要だったのではないか。司法取引のようなことで、会社に忠実な職員や役員から本当のことが聞けると思えない。

たとえば、原発を知る私の友人たちは、福島第1原発の所長、吉田昌郎が原発に無知で、事故処理に落ち度があったため、重大事故に発展した、と疑っている。しかし、いまや彼は死人で、会社の秘密をもって墓場に行ってしまった。

原発事故は、ジェット旅客機の事故より、影響の空間的時間的範囲が大きい。それにもかかわらず、原発を推進してきた経済産業省が、原発の認可、監視を担当している。経済産業省は原発の推進を行うということ自体が誤りで、特定の産業育成に政府が加担していることなる。推進は原子力メーカに任せるべきである。経済産業省は、認可・監視業務だけでなく、原発事故調査を常設し、小さな事故でも、普段から自分の力で調査すべきである。

原発を推進するというような誤りを経済産業省が起こすのは、日本が原子爆弾の保有国になる潜在的技術力を確保しようという たわけたことを自民党が思っているからだ。原発事故直後に、原発維持の理由として、じっさい、ある自民党議員がテレビでそう語っていた。

日本が原発を買ってきただけで、設計にかかわっていないことは、原発の位置からしてわかる。海面から高い位置に原発を設置すれば、防潮堤を作らなくても、津波の被害から免れる。一本のポンプで水を引き上げられる高さは限界があるが、途中に貯水池を置けば、いくらでも引き上げられる。日本全国の原発は、わざわざ、岩盤を削って、一本のポンプで水が引き上げられる位置にしている。また、配電盤など水に弱い設備の防水が甘い。設置場所の比較的自由なディーゼル非常電源を高台に置かない。

日本は原発の設計にかかわらなかったが、製造では部分的に下請けしている。その意味で、本当に設計基準を満たしていたか、を調査しなければならない。事故では、冷却水を失っていた原子炉から放射性物質を含むガスがぷかぷか吹き出ていた。これは、設計が容認していた範囲なのか、製造技術の問題なのか、わかっていない。

畑村は、「福島第一原発の事故では1号機の非常用復水器が作動しなかったことが悲劇を招きました」と言う。じつは、事故直後に、私の友人も同じこと言っていた。原発技術者には常識のことらしい。作動しなかったことは、無知のゆえなのか、それとも、別の事情があってできなかったのか、をも解明する必要がある。原子炉の鋼鉄は、古くなるともろくなる。それに、非常用復水器を作動させ、急冷させたとき、原子炉の鋼鉄にひびがはいることはなかったのだろうか。

現在、福島第1原発の原子炉は、放射線レベルが高くて、近づいて詳しい調査ができない。それでも、同じタイプの原子炉は日本のいろいろな場所にある。ジェット旅客機の重大事故があると、いっせいに、同じタイプの旅客機が検査される。日本の原発では、これがない。日本政府は電力会社の自己申告書を受け取るだけである。日本政府は、安全を点検せず、世界で一番厳しい安全規制を行っていると平気でウソを言う。

「安全神話」とかいう問題ではない。単に自分利益のために他の人の不幸に無関心であるだけである。原発の安全性も必要性も疑わしい。

そして、関西電力の原子力本部長が地元の助役や調達企業からお金をもらっていて、平然としている。

日本政府と電力会社と原子力メーカが一体となって腐りきっている。技術以前の問題から解決しないとだめだろう。

朝日新聞の『「失敗」を直視せよ』は、「18日からNHKで始まるドラマ『ミス・ジコチョー』」の宣伝にすぎないように思えてくる。

優先すべきは経済性か人間愛か、ケアの現場

2019-10-17 00:31:01 | こころ

きょう(10月16日)の朝日新聞《オピニオン&フォーラム》に『薬減らして運動 仲間と楽しい時間 自信を取り戻せる』という、精神科医の岡村武彦のインタビュー記事がのった。同じ日の夜、NHKの《クローズアップ現代》で『身近な病院でも!なぜ減らない“身体拘束”』という座談会が再放送された。前者は精神疾患の患者を扱い、後者は認知症患者を扱っている。が、これらには相通じる問題がある。

優先すべきは経済性か人間愛か、責任は家族かケアをする現場か、の問題である。

認知症患者の身体拘束は直接的でわかりやすいかもしれない。

私の父も認知症患者として病院のベッドに縛り付けられた。入院の前は、自分で食事ができ、歩くことができた。すなわち、徘徊老人である。町を徘徊して帰ることができなくなるのだ。弟夫婦が父の面倒を見ていたが、徘徊に疲れ果てて入院させた。

父が可哀そうだと母が強く訴え続けたので、母と弟の嫁で父を連れて帰った。連れて帰ったときは、歩けなくなっていた。しゃべれなくなっていた。自分で食事ができなくなっていた。介護ヘルパーの助けを借りて、母が父の面倒を見た。そのうちに車いすも使用できず、寝たきりになって、死んだ。

父が可哀そうだと言っていた母も、心筋梗塞を起こし倒れ、ステントを入れて、一時 元気になったが、医師つきの老人ホームにいれられてから1年半で死んだ。

認知症患者にとって身体拘束がいいはずがない。

NHKの座談会では、看護師たちを二手に分け、身体拘束の不要派と容認派との討論の形をとった。容認派の看護師たちは、人手が足らず、患者の身体拘束がなければ、労働強化になる、と言っていた。また、認知症患者が動き回って自傷したり、死亡したりすると、自分たちが家族に訴えられる、家族は認知症患者の世話をしない、とも言っていた。

NHKだからヤラセだと思うが、容認派を気の毒に思った。「人手が足らず」は看護師たちの責任ではない。身体拘束をしないのが患者のこころとからだの健康に良いのに決まっている。「人手が足りない」のは経済性の問題で、経営者と日本政府に討論に参加してもらう必要がある。

また、身体拘束を不要とする病院の経営者と医師とに参加してもらって、なぜ、身体拘束を不要とできたのか、その秘訣を明らかにしてもらった方が良い。

認知症患者に良いことは、経済性の問題が解決されれば、みんながとりいれる。経済性が人間愛を後押しすれば、精神論におちいらないで済む。

朝日新聞のインタビュー記事では、岡村武彦がつぎのように言う。

「日本の精神医療は以前から薬を出しすぎる多剤大量処方が問題となっていました。そこで薬を適切な量に減らすと、副作用も減り、動けるようになった患者さんから『サッカーやフットサルがしたい』という声が相次ぎました。」

この「薬を減らすと動けるようになった」に注目したい。

医療哲学者のレイチェル・クーパーは、精神科医療で使う薬を「化学的拘束衣」タイプ、「標的症状」タイプ、「魔法の弾丸」タイプに分ける。感染症治療に使う抗生物質は「魔法の弾丸」タイプだが、精神科医療には「魔法の弾丸」タイプの薬はない。しかも、「化学的拘束衣」タイプと「標的症状」タイプの境目は曖昧なのだ。

統合失調症に使われる薬の多くは、神経細胞のドーパミンの放出や受容を抑えるものである。この薬を使うと幻聴が収まる。ところが、からだを動かす運動系の神経細胞はドーパミンの放出・受容で信号を伝える、たとえば、パーキンソン病患者では、ドーパミンの不足で、動けなくなる。

だから「薬を減らすと動けるようになった」はあたりまえのことである。適切な量でなければ、「化学的拘束衣」タイプの薬になってしまう。多剤大量処方が日本で多いのは、やはり、人手が足りないから、患者の管理が容易な「化学的拘束衣」タイプの薬が、経営者によって好まれたのだ。

さて、重度の障害者施設でも、外からカギがかけられた部屋の中に利用者が閉じ込められる。3年前の「津久井やまゆり園殺傷事件」では部屋が外からカギをかけられていたから、元職員の究極の暴力から逃げることができなかった。園の経営者と行政の監視責任者の責任を問うことも必要だと思う。

いろいろなケア活動に、優先すべきは経済性か人間愛か、責任は家族かケアをする現場か、の問題がつきまとう。

高校の国語、文学を軽視?高校に国語はいらない

2019-10-15 22:17:31 | 教育を考える

きのうの朝日新聞の教育面に、『高校の国語、文学を軽視? 2022年度からの新指導要領に懸念』というインタビュー記事があった。意見を述べているのは、大滝一登(文部科学省の視学官)と安藤宏(日本近代文学会理事、東大教授)である。

両者とも「国語」という教科の存続を前提とした話であって、私は高校に「国語」という教科があること自体に疑問をもつ。「国語」は小学校では必要な教科であるが、高校ではもはや必要がないと思う。「国語」のかわりに「日本文学」や「コミュニケーション学」や「言語学」という教科があれば、良いのではないか。それとともに、検定「教科書」を廃止すべきである。

「国語」という教科の問題は、ことばを教える装いをしながら、じつは、情緒教育、人格教育、社会道徳教育だったりする。すなわち、「国語」教育は洗脳教育になりやすいのである。しかも、現実の教科書は文部科学省の検定を受ける。また、その教科書の理解度をはかるという名目でテストを行い、子どもたちのもつ個性を奪っているのである。

大滝は、グローバル化の予測不可能な社会では、「多様な他者と共同して課題を解決することや様々な情報を見極める力が今より求められます」と言う。

なぜ、これを教える教科を「国語」というのか。「他者と共同して課題を解決する力」や「様々な情報を見極める力」は、本来「国語」という教科とはべつのものではないか。これらの力は、どのようにすれば身につくのか、また、身についたと判定するのか、文部科学省と教科書会社に任すのではなく、みんなでおおやけに議論すべき問題である。

また、大滝は「求められる」と言うが、誰が求めるのか。具体的には何を求めるのか。
自民党が経団連が日本政府が求めるからであってはならない。

教育とは、教育を受ける者にとって利益になるモノでなければならない。例えば、日本以外で教えられているライフスキル教育は、弱い者が強い者に負けないようにするにはどうするかを教える。また、高卒で働く場合もあるから、被雇用者が自分の身を守るのに、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法がどう役立つのか、法的権利について具体的に教えるのでなければならない。

大滝は「社会に出て会議や折衝の場面で小説や物語、詩歌をそのまま使うわけではありません」と「文学に偏った国語」教育を批判する。そして、必須科目の「現代の国語」では、「主張と論拠の関係や情報の妥当性や信頼性の吟味の仕方」を教え、また、選択科目の「論理国語」では、「論理的、批判的に考える力を伸ばし、伝え合う力を高めること」を教えるのだという。

「主張の妥当性や信頼性」は論理から出てくるのではない。ある人に妥当なことは他の人にとって妥当ではない。根底に利害の対立があるからだ。

アメリカの企業管理技術教育では、この利害が違うかもしれない集団(stakeholders)を分析し、妥協点を探る訓練をする。よくウィンウィン(win win)の関係と言うが、そんなものはない。あるなら、両者は同じ利害集団に属する。相手を押しまくるに必要な経費と妥協することの損失のバランスをはかるだけである。

大滝は、既得権益者のために、屁理屈を言っているだけである。

安藤は大滝の屁理屈に巻き込まれている。安藤の言う「異質な他者や価値観と出あい、世界を根源から問い返していく力」には私は賛成だが、これを「国語」というのはおかしい。日本語だけで考えるのではなく、他言語を使って考えることこそ、ことばに酔いしれないために、有用である。

5年前に、古代ギリシア語の辞書を用例から自分で作成したとき、ことばのもつ概念が言語によって大きく異なるのに驚いた。ことばは、社会構造の反映でもある。1つの社会のことばに頼っていては、社会を変革する思想が生まれてこない。英語でもドイツ語でも用例を集めて、著作を批判的に読むようにしている。

教育とは、教育を受ける本人にとって有用でなければならない。就職に有利な教育だけでは、いつまでもたっても「自由人」にならず、心のいじけた「奴隷のしもべ」か残虐な「ご主人様」にしかならない。

なぜ極楽往生を願うのかわからない、念仏を唱えること

2019-10-14 21:10:39 | 宗教


中世の人々がなぜ「極楽往生」、すなわち、死んで「極楽浄土」に生まれ変わることをそんなに強く願ったのか、実は私にはわからない。

拷問を受けながら死ぬのは、痛いからいやだが、死ぬこと自体には、不安も恐怖もない。そう思うのは、私だけではないと思う。昔の刑死では、苦痛を味合わせて時間をかけて殺す。死自体は恐怖ではなかったからだ。

佐藤弘夫の『鎌倉仏教』(ちくま学芸文庫)を読むと、自分のことしか考えない正統派仏教に反逆する法然、親鸞、日蓮に感動するが、呪術に縛られた中世であろうとも、民衆が「極楽往生」をなぜ願うのかわからない。

人生が「苦」であれば、死ぬことで「苦」が終了する。

「極楽往生」を願うのは「坊ちゃん、嬢ちゃん」だけではないか、という気がする。親鸞や日蓮に手紙を出し、信仰上の疑問を問うたのは、地方の教養もお金もある有力者であった。彼らの手紙から当時の民衆の心を推測するのは危険でないか。
「鎌倉仏教」の本当の価値は、信仰を通じて、民衆が互いに結びつくキッカケを与えたことではないか。搾取にさからう団結のもとを与えたのではないか。「極楽往生」はどうでも良かったのではないか。

原始仏教は、輪廻、すなわち、生まれ変わりを否定しない。不思議なことに、悟りを開いた人だけが、輪廻を免れる。
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『スッタニパータ「釈尊のことば」全現代語訳』(講談社学術文庫)の大いなる章の第10経、コーカーリヤの経では、弟子のコーカーリヤが釈尊に、三度、弟子のサーリプッタとモッガッラーナとの悪口を言う。
そのためにか、コーカーリヤの全身にケシの種ほどのできものができ、それが小豆ほどの大きさになり、ついで大豆の大きさに、次々と大きくなり、最後に破裂し、膿と血が流れ出る。死んで「パドゥマ(紅蓮)地獄」に生まれ変わる。
鉄の串で突きさされたり、熱した鉄の塊を食べさせられたり、鉄の槌で引き伸ばされたり、火が一面に燃えさかっている銅製の釜で煮られたり、黒犬や山犬や大カラスの群れに噛みつかれる。
そして、この地獄に生まれ変わった人の寿命は非常に長いのである。死にたくても、なかなか死ねないのである。
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経典では、地獄での拷問がどのように苦痛なものか、書かれていないが、当時  実際に行われていた刑罰なので、読み手はその苦痛を想像できたのであろう。

この経典のいやらしさは、誰がコーカーリヤを殺したのか、明らかにしないことだ。これに限らず、スッタニパータは読めば読むほど腹が立つ話が多い。

地獄は、民衆を恐怖で抑圧するために仏教教団が創作した虚構である。
中世の民衆が「極楽往生」を願ったのではなく、「地獄」に行きたくなくて、「南無阿弥陀仏」「ナンマイダ」と唱えたのではないか。

そういえば、私も小学生のとき、修学旅行先の寺院の地下に地獄の展示があり、夢にまで見てずいぶん怖い思いをした。

原始仏教では、悟りを開いた人たち、ブッダたちは、死んでも生まれ変わらないのだから、「極楽浄土」に集まることはない。すると、仏教が日本に伝わったとき、すでに変質していて、キャバレーのように、虚構の世界「極楽浄土」を語って、寺院の僧侶らは貴族からお金を巻き上げていたのではないか。寺院の金ぴかの仏像なんて怪しいではないか。

もちろん、私は21世紀に生きているから、地獄の存在を信じないで済む。

私にとって、死ぬということは、意識がなくなる、つまり、自己がなくなるにすぎない。自己とは単に記憶という神経回路の営みにすぎない。オバマ大統領が「グッドラック」と言って大統領を辞めたように、「みなさんお幸せに」と言って、私もいずれ消えるだけである。この言葉は、姜尚中の息子も書き残していたような気がする。

小山聡子の親鸞の信仰批判、中村元の仏教の再構成

2019-10-13 21:35:33 | 宗教


『中村元の仏教入門』(春秋社)は実際の経典からかけ離れている。これは、中村元が仏法を愛しているからだ、と私は思っていた。
ところが、小山聡子の『浄土真宗とは何か 親鸞の教えとその系譜』(中公新書)を読んで、「愛しているから」だけでもない、と思い始めた。

小山聡子の主張は、親鸞が「呪術」が勢力をふるっていた時代の人であり、その「信仰」には混乱があるのは仕方がないというものだ。「中村元の原始仏教」と原始仏教経典との乖離も同じようで、親鸞の時代の仏教理解だけが突出して非合理的であるのではなく、原始仏教経典は2500年前の当時の知性のレベル(の低さ)を引きずっていても仕方がない。

古い中国の書物には、「先生」と「後生」とが出てくる。あのトンデモナイ孔子でさえ「後生畏るべし」と言う。後から生まれてくる人は、先の生まれた人の試行錯誤の上にたち、その誤りを正して、先に行くことができる。力学を体系化したアイザック・ニュートンもそのようなことを言っていた。

しかし、今の人が、誤っていることを誤っていると言わず、過去の人をどうして賞賛ばかりするのか。それではいけないというのも、小山聡子の主張である。そして、日本での、過去の人の賞賛、理想化には、次のような背景があると指摘する。

「明治維新から約100年間、日本では西欧文明へのあこがれのもと、近代化が推し進められた。それによって、日本の歴史の中に西欧に匹敵するような近代的な要素を発見することに大きな努力が払われることになる。これは仏教についても同様であった。」
中村元にもこれがあてはまると思う。

中村元は1912年生まれである。33歳のとき、敗戦を迎えた。したがって、思想では、西欧文明に負けたくという意識が強くあっても、おかしくない。自分の頭の中で仏教を再構成し、それを本来の仏教と思いたかったのではないか。

彼が再構成した仏教の中には、鎌倉仏教が入っていない。使われた素材は、東南アジアの仏教や中央アジアで発掘された仏典である。ここに中村元の好みがある。

私は宗教研究者ではないので、小山聡子と異なる見解もある。宗教が発展するものだとすると、過去の宗教から非合理的なものを排除し、知的に再構成しても良いと考える。

しかし、原始仏教の経典も、中村元の再構成も、私の心を動かすものではない。釈尊の「人生は苦に満ちている」という根本認識より、鎌倉仏教の社会を変えようという努力を私は好む。この根本認識はあまりも自己に執着しており、社会的視野がない。