神戸市の小学校で、中堅の教師たち4人が、なりたての若い教師に暴力や暴言を繰り返すという事件があった。周りが傍観しているということで、すなわち、黙認したり容認したりすることで、いじめと同じ構造である。なぜ、こんなことが起きるのだろうか。
2年前、高校のときの同窓生が4人、下町のすし屋に集まったとき、子供のときの学校の先生たちの話がでた。いい思い出である。具体的なエピソードはちがっていても、先生方への感謝の気持ちでいっぱいだ。
私が小学校1年のとき、運動場で転んで膝に血がにじんだとき、担任の中年の女の先生が、とっさに、傷口をなめてくれた。じつに素朴な愛である。
放課後も、先生方は残って、子どもたちの遊び相手をしていた。子どもたちに交じって、ソフトボールをしたり、雨の日は、その当時まだ珍しかったテレビを集会室で一緒にみていた。
私の2年、5年、6年の担任の先生は、音楽の授業で、クラシック音楽のレコードを聞かせてくれた。今でも、クラシック音楽が好きである。
当時の年配の先生方には負い目があった。戦前の大日本帝国の権威主義、集団主義、規律主義の手先になったことへの反省である。先生方は、子どもたちを愛することで、聖職者との誇りを再生させようとしていたのではないか
授業も楽しかった。雑巾縫いや木工細工や料理も教わった。
とにかく自由を満悦して私は育った。宿題をした記憶がない。
私が子どものときは、9割以上の先生が日教組(日本教育組合)に加入していた。
1960年代にはいると急激に組合加入率がさがり、新規採用の教師の加入率は1990年から約20%になっている。
私は、組合が不人気になったというより、組合に入らない人間を意図的に採用しているからだと思う。
先生の仕事が忙しすぎるというのは、先生に不要なレポートを提出させすぎるからではないか。私は、先生同士が仲良くならないように、また、権力に逆らうようなことを考えないように、わざと忙しくしているのではないかと思う。
提出レポートが多いというのは、教師の人事管理の強化のためであり、何かあったときに校長が教育委員会が言い訳をするためのものである。その時間を、子どもとの接触に、同僚との情報共有に使うべきである。
教師同士に仲間意識があり、子どもたちをいとしく感じるのが自然である。
先生が忙しすぎるなんて、おかしい。組合の力で解決すべき問題である。
現在の、学校に日の丸が掲げられ、国家が歌われるなんて、愛国の道徳教育がおこなわれるなんて、異常な風景である。
自民党や文部科学省が、公立学校を自分たちの統治の手段、洗脳教育の場としてきたのである。教師のことも、子どものことも想っていない。
良い教育とは、勉強ができて勤勉であり上に逆らわず空気を読む人間を作ることではない。
詰め込み教育は子どものこころをむしばむ。
スポーツなど部活は学校の名誉のためにするのではない。遊びの場であるべきだ。
運動会は、学校の統制力、しつけを保護者に見せるためではない。先生方、保護者たち、子どもたちがいっしょに遊び、コミュニケーションを滑らかにするためのものだ。
不思議なのは、いじめ問題が発覚すると、学校単位で組織防衛に走る。本当に仲間意識があって助け合って教育に当たっていれば、もっと、初期の段階でいじめを防止できたはずだ。問題が起きると、単に責められたくないから、組織防衛に走るだけで、個々人のモラルが崩壊しているままだ。
私は、現在の、教師の資格、採用儀礼を疑う。放送大学で教育学の講義を聞いていると、公的教育というものは政府の方針に忠実であるが第1で、ことがあれば校長を中心に組織を防衛せよと言っているにすぎない。また、児童心理の講師は、現実の子どもの教育にあたったことがないように見える。個々人の多様性を教えていない。
公立学校の教師は毎年春に移動の対象となる。職場移動は、戦前の大日本帝国が官吏をこき使うときのテクニックである。下級官吏に仲間意識が芽生えるのを防ぐためである。下級官吏が地域住民と仲良くなるのを防ぐためである。
神戸市の場合は、教師の移動がなかったが、そのぶん、校長の権限が強かった。校長のお気に入りの教師がのさばっていた。
結局、戦前の大日本帝国の時代と同じく、現在の先生の資格は、政府の優秀なロボットであるというお墨付きにすぎない。そして、恐ろしいことに、AI 技術を使って、生きている教師を、感情のない本当のロボットに置き換えようという話まで出ている。
自民党や文部科学省は、自分たちのしてきたことを恥ずべきである。
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