養老孟司が新型コロナに寄せて『人生は本来 不要不急』を朝日新聞に寄稿していた。彼の文は、言葉の意味を少しずつずらして、つぎつぎと連想していくので、他人からすると、わかりにくい。しかし、個々の人間の脳の働きは、まさに、このようなのである。興奮がはりめぐらされた神経回路にそってあらゆる方向に伝達され、なんとなく多数決のように思いが生成されてゆく。
「不要不急」とは、いまそれをやる必要があるのか、ということである。いま必要があるのか、は、行動主体が判断することである。それを他人から言われるから、養老は違和感を感じる。なぜ、政府が個人に向かって、僭越にもそんなことを言うのか。どうして政府が個人の「不要不急」を正しく判断できるのか。そして、個人より政府が偉い、と政権担当者が思っているからだ。
なんと僭越な政府を私たちは抱えているのだろうか。税金を納めてやらないぞ。政府は行政サービス機関なのだ。
養老は、「不要不急」から「不用」に飛躍する。「不用」とは、個人の行動への価値判断ではなく、自分の存在が誰かに「必要」とされているか、自分が誰かの役に立っているか、ということである。
養老は私より10年上である。したがって、第2次世界大戦を知っており、軍国主義の洗礼を受けているはずである。「非国民」という言葉を知っているはずである。しかし、それに対する記述がない。
最初の連想は母への記憶である。
〈時代がどうなっても、医療の腕があれば仕事があって食べていける。それが関東大震災を経験し、夫を亡くした状況下で戦中・戦後を生き抜いた母の本音だった〉
彼の母にとって、なんのために生きるかより、「生き抜く」ことが重要だった。しかし、養老は医学部を終了し、インターンをすましても、何をしたいか、わからない。わからないから大学院に行く。そして、はいれるところに行き、医学博士になり、空きポストがあり、助手になる。そして「例の大学紛争」にあう。
〈ヘルメットにゲバ棒、覆面の学生たちが20人ほど押しかけてきて「この非常時に研究とはなにごとか」と研究室を追い出された。〉
私が学部学生のとき、「例の学園闘争」があって、養老は解剖学教室の助手だったのである。しかし、「非常時」と覆面の学生たちが言ったとは、信じられない。大学の日常に何か問題があったのであって、「大学闘争」といえどもストライキ下でその日常は続いていたはずである。しかし、「研究」することが問題ではない。
「非常時」とは、アメリカと戦争した「太平洋戦争」下の状態をさす言葉である。我慢を強要するときの言葉である。自由を否定するときの言葉である。覆面の学生に研究室から追い出されたとき、母の「戦時下」記憶が蘇り、そう聞こえたのではないか。
とにかく、「不用」と、自分の存在を否定されたと養老は感じたのである。これは、自分が何をやりたいかと悩む必要さえないということである。ここから、彼は、「自立」という概念にいたる。「自立」は、誰かに指図されないことであると。
どうも、ここで、「自分が学問に志した」ことの意義を見いだしたようだ。しかし、それがなんなのか、書いていない。
私は、自分が何をやりたいか明確な意識をもって大学に進学した。中学のとき、ガモフの『1,2,3…無限大』を読んで、数学か理論物理学をやりたいと思った。その頃、まだ、数学と理論物理学との区別ができていなかったという問題があったが。
「大学闘争」があっても、自分が何をやりたいかといこととは関係がなかった。その意味では「非常時」ではなかった。みんな、自分で勉強していた。もちろん、自分だけが好きなことをできるという特権的な環境に疑問をもった。学問は在野でできるべきだ、と思った。
現在、緊急事態で、図書館が閉鎖されているが、これに納得できない。たかが弱毒版のSARSウイルスで、このようにうろたえる必要があるのか、不満である。学問はしずかに同好の士ともにするものである。
しかし、日常に戻ったとしても、いま、大学の図書館は国民に解放されていない。知識は、本来、すべての人に、無料で公開されるべきである。
さて、養老の問題に戻ると、社会に必要な存在か不要な存在かの区別があるという考え自体がおかしい。この考えは「神の与えた役割」「神の与えた目的」という思想に行き着く。「社会」や「神」というものが、「必要」「不要」を決めるという考えは、現在、権力をもっているものが、この世の不公平を正当化する考え方である。
したがって、「不公平」を拡大しないかぎり、自分がやりたいことをやってよい。他人が自分を評価しなくても、それはそれでよい。生きていければ良い。お金より自由が良い。
自分がやりたいことがないなら、それでも良い。世に流されても、食べて行ければ十分でないか。社会や神に自分の役割や生きる目的を決められるなんて、バカバカしいことだ。
ただ、他人との関係において、他人を支配しようと思わなければ、それで良い。争わずに、しかも、人に好かれるなら、最高の人生ではないか。
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