猫じじいのブログ

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単一の意志をもって動く人間集団の怪物リヴァイアサン

2019-07-28 17:15:53 | 国家

リヴァイアサン(Leviathan)は、旧約聖書(ヨブ記3章8節、40章25、27、29節、詩編74編14節、104編26節、イザヤ書27章1節)に登場する水陸の怪物レビヤタンのことである。

ところが、17世紀のイギリスの法哲学者トマス・ホッブズは、ひとびとが集まって1つの意志をもつ「人工の人間」のようになる、COMMON-WEALTHあるいはSTATEのことをリヴァイアサンと呼んだ。

上の図は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の扉絵の部分で、ひとりひとりのヒトが怪物レビヤタンの鱗をなしている。

安倍晋三も豊永郁子もこのホッブズの『リヴァイアサン』を引用しているが、それが大きく違う。

安倍晋三は『新しい国へ――美しい国へ完全版』(文春文庫)の第4章で次のように書く。

《 『リヴァイアサン』には次のような1節がある。

 人間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。人間社会がジャングルのような世界であれば、万人の自然の権利である私利私欲が激突しあい、破壊的な結末しか生まない。そんな「自然状態」のなかの人間の人生は、孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになる。だから人々は、互いに暴力をふるう権利を放棄するという契約に同意するだろう。しかし、そうした緊張状態では、誰かがいったん破れば、また元の自然状態に逆戻りしかねない。人間社会を平和で、安定したものにするには、その契約のなかに絶対権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なのだ。

 ロバート・ケーガンは、このリヴァイアサンこそがアメリカの役割であり、そのためには力をもたなくてはならないという。そして力の行使をけっして畏れてはならない。》

最初の行「『リヴァイアサン』には次のような1節がある」は、安倍の記憶違いだろう。続く段落の節は、『リヴァイアサン』にない。多分、ネオコンのロバート・ケーガンが『リヴァイアサン』を要約したものを、安倍が書き抜いたのだろう。

17世紀のホッブズは、国のことをCOMMON-WEALTHあるいはSTATEを書く。王国( Kingdom)と書きたくなかったからだ。一人の人が権力を握るのではなく、人間の集団が1つの意志をもち行動する人工の人間(artificial man)を怪物というのである。

いっぽう、豊永郁子は、去年の11月7日の朝日新聞〈政治季評〉に次のように書く。

《このように社会と国家に先行し、社会契約を生む「万人の万人に対する闘争」を、ホッブズは一貫して強者を諫める観点から、つまり強者に恐れを抱かせ、生存のために社会契約を受け入れさせるものとして論じている。自然状態では、強者の支配はすぐに覆され、強者は天寿を全うできず、強者が常に勝つとも限らない。つまり、それは「弱肉強食」の状態ではないのである。

 むしろ人間が平等だから、そして人間同士の欲求が競合するから、「万人の万人に対する闘争」は起こる。平等だから決着もつかず、「闘争」は永遠に続く。ここでホッブズが言う平等は、人間の総合的な能力の平等である。つまり、人間の間には大した能力の差はないということだ。

 これには驚かされる。規範として、希望として、平等を論じる思想は多数あっても、事実としての平等を告げる思想は稀(まれ)だ。さらにホッブズは、「最も弱い者が最も強い者を殺すことができる」ことを、人間のそうした平等の根拠とする。ギョッとするが、そうかもしれない。ホッブズが好んで引く旧約聖書では、少年が大男を倒し、か弱い女性が英雄を滅ぼす。これらは勇気や奸智(かんち)の物語である以前に、人間の平等を伝える物語であったのだろう。

 要するに、ホッブズはこう言っているようである。「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」。これは「弱肉強食」の主張を封じ、弱者に尊厳を取り戻す論に他ならない。》

私は、豊永の「弱者と強者は平等であり、強者は弱者をなめてはいけない」に共鳴する。

しかし、国家が1つの意志をもって行動することは、ホッブズの言うように、やはり、怪物ではないか、と思う。


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