猫じじいのブログ

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加藤隆の『歴史の中の「新約聖書」』はユダヤ教にフェアでない

2020-10-13 22:48:26 | 聖書物語
 
今頃になって10年前に出版された加藤隆の『歴史の中の「新約聖書」』(ちくま新書)を読んだのだが、強い違和感に、黙っておられず、「聖書」の別の見方を書くことにした。今回は第1章に限定する。
 
そのまえに、加藤の略歴をのべると、1957年生まれで、東京大学文学部仏文科卒で、ストラスブール大学に留学し、エティエンヌ・トロクメ教授に師事し、神学博士を取得している。じつは、1935年生まれの田川建三も、東京大学文学部宗教学宗教史学科を卒業し、同じ大学に留学し、同じトロクメ教授に師事し、神学博士を取得している。
 
加藤も田川も、新約聖書の4福音書はキリスト教の異なる派の立場を表明しているところまで同じだが、加藤が「神」との人間との関係や「罪」を強調過ぎるところに、私は、大きな違和感を覚える。同じトロメク教授に師事しながら、加藤は、人間には罪があるという立場からキリスト教を理解する。無神論の田川の人間肯定の姿勢と大きく異なる。
 
本書の第1章は、キリスト教がそこから生まれたユダヤ教を取り上げている。しかし、私には、キリスト教の一派が思いこんでいるユダヤ教であって、フェアでないと思う。
 
加藤は、14ページに〈旧約聖書は、どちらかというと、全体として統一的だと言えないこともありません〉と書く。
 
ヘブライ語聖書(旧約聖書のオリジナル)は雑然としたやたらと長たらしい書物で、一生かけて読む書物である。統一的なテーマがあるはずがない。ヘブライ語聖書ができたのは、紀元前5世紀以降と思われ、編纂の目的は、民族の混合の起きる中で、ユダヤ共同体が歴史のある民族であることを示すためである。この書物が、長ければ長いほど、内容がより古いことに言及すれば言及するほど、良いのである。長ければ、誰も読まないから、批判されない。「天地の創造」から書けば、これより古い歴史書がなくなる。
 
簡単に言えば、ヘブライ語聖書は、政治的な意図をもった偽書であるが、長くするために当時入手できる話をなんでもかんでもぶち込んで編纂したため、琥珀に昔の昆虫が閉じ込められているように、昔の人々の息遣いが閉じ込められている。その点で貴重な書物と言える。
 
ヘブライ語聖書も旧約聖書も文書の集まりだが、その並べる順に大きな違いがある。ヘブライ語聖書は内容のカテゴリーで分けているが、旧約聖書は文書の想定された歴史的順序に配列されている。そのため、旧約聖書で読むときは注意がいる。本当の歴史ではない。
 
「律法」というとき、近代のキリスト教の発想では、ヘブライ語聖書の『トーラー』(モーセの五書)を指す。
 
しかし、当時のイエスも使徒もその信者も字が読めないから、ヘブライ語聖書の『トーラー』なんてわかるはずがない。私がモーセの五書を読んでも、現代の法律のように体系的に書かれておらず、物語の中に教え(命令)がぽつんと埋め込まれているから、わかりにくいといったらありゃしない。そのうえ、退屈である。
 
したがって、イエスやパウロが批判した「律法」とは、現実のユダヤ共同体の掟であって、書物ではない。
 
22ページに加藤は、ユダヤ教とキリスト教の共通点は〈「神」は「ヤーヴェ」という神であって、この神だけが神だということです。「一神教」の立場です〉と書く。
 
ユダヤ教が「一神教」であったか、どういう意味の「一神教」であったか、に、いろいろな人がいろいろと議論している。私の聖書の読みを紹介する。
 
そのまえにコメントすると、「ヤーヴェ」はドイツ語読みでないか。ストラスブールはドイツとフランスが相争った地である。ヘブライ語יהוהは「ヤハウェ」でよい。ヘブライ語דוד(ダウィド)が英語やドイツ語で「ダヴィド」になるのと同じ音韻変化である。
 
「モーセの五書」の『創世記』を読むとわかるのだが、古代人にとって神とは「守り神」である。複数の守り神をもっても良いが、「ヤハウェ」は嫉妬深い神だから自分だけに捧げものをしなさいと言っているのだ。「モーセの五書」は祭司が書いた文書だから、当然そうなる。燃やした煙の部分が「ヤハウェ」の取り分で、捧げものの残りは祭司のものになるのだ。
 
したがって、ヘブライ語聖書を通して、「私の神」「私たちの神」「あなたの神」「あなたがたの神」「彼の神」「彼女の神」「彼らの神」という表現が出てくる。ユダヤ教の「一神教」とキリスト教の「一神教」とは異なる。
 
キリスト教の「一神教」は、「ヤハウェ」以外の神の存在を否定する。キリスト教は中世にヨーロッパで発展し、「ヤハウェ」に忠実であった者が「天国」に、不実であったものが「地獄」に、「ヤハウェ」を知らなかった者は「煉獄」に行くとなった。もちろん、このようなことは新約聖書に書かれていない。当時の聖職者が作ったウソである。
 
キリスト教は改宗を迫る宗教である。これが、加藤のいう〈キリスト教は「普遍主義的」です〉の実体である。しかも、ドイツのナチは、改宗をしてもユダヤ人の刻印を押し、組織的に殺害した。
 
田川建三によれば、ユダヤ教も改宗を受け入れ、ユダヤ人と見なした。ただ、積極的に異教徒に改宗を迫ることはなかった。
 
したがって、加藤がユダヤ教を「自己集団優位主義」とするのはフェアでない。

25ページに加藤は〈「救われていない状態」が「罪」の状態です〉と書く。とても不思議な「罪」の定義であるが、本書を通じての「罪」の彼の概念である。

加藤のいう「救われていない状態」の意味がわからない。ヘブライ語聖書が編纂されていた時期、ギリシア語に聖書が翻訳された時期、ユダヤ人は、貧富の差があったが、別にとりわけ不幸であったわけではない。そればかりか、ヘブライ語聖書を創るほど、周囲に影響力があったのである。商業が富を集めたのである。
 
加藤のヘブライ語聖書の理解は、彼のキリスト教理解、43ページの〈神は動かない、民は罪の状態にある、こうした〈本格的な「一神教」の枠組み〉が、イエスの活動の根本的な前提です〉を反映したものと思う。いびつな理解である。
 
さらに、加藤の論点を批判するために、次回はヘブライ語聖書が何を「罪」と考えるかと、長谷川修一いう「歴史の偽造」の論点を紹介したい。


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