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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

アメリカの平等を求める原動力はどこにあるのか、『反知性主義』を読んで

2021-03-29 23:10:20 | 思想



森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)を何度も読み返すうちに、疑問が生じた。アメリカが「平等の国」ということと、「プロテスタントの建国した国」であることとが矛盾するのではないか、ということである。

森本あんりはカルヴァン派をプロテスタントの本流ととらえている。しかし、カルヴァン派は人間が不平等に作られているというドグマ、予定説をもつ。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が、あらかじめ決められているとする。人間は神の前で平等でないのだ。

マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店)で、金持ちがますます金持ちになることが正しいと主張している。彼の言うプロテスタンティズムはカルヴァン派のことである。カルヴァン派は、欲望のための際限のない欲望を肯定するブルジョアジーのためのキリスト教の1セクトではないか。

私の疑問は、宇野重規が『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)で主張する、平等の国アメリカと矛盾するのではないか、ということである。

森本あんりは、『反知性主義』の第3章に、つぎのように書く。

《実のところ、植民地時代のアメリカは、何とかして「神の前での平等」が「社会的な現実における平等」という現実に直結しないようにと、必死の努力を続けていたのである。もし万人が社会的平等を主張したなら、上に立つ者の権威はどうなってしまうのか。政府や王や教会を敬う人はいなくなり、体制転覆の革命が起き、アナーキー(無政府状態)が生じるのではないか。これが彼らの恐れていたことだった。》

このアナーキーを恐れていた「彼ら」は、アメリカで支配者の立場にたった裕福なプロテスタント、カルヴァン派ではないか。彼らは、「神の前での平等」さえ、否定していたのではないか、という疑念である。

裕福なプロテスタントに搾取されたプロレタリアートこそが「平等」を求めたのではないか。字が読めず、英語も話せない、無学の貧しい移民が「平等」を求めたのではないか。

キリスト教はもともと字も読めない無産階級(プロレタリアート)のものだった。新約聖書は金持ちへの怒りに満ち満ちている。しかし、彼らは、金持ちの施しによってしか生きていけない弱みを抱え、金持ちたちを皆殺しにできなかった。

歴史的には、キリスト教徒は財産の共有を求める叛乱を何度も何度も起こしている。『使徒行伝(Πράξεις τῶν Ἀποστόλων)』の5章1節から11節は、キリスト教徒の共同体に自分の財産を正直にすべて捧げなかった金持ちアナニアとその妻を使徒ペテロが殺したという話しである。

カルヴァン派だけがプロテスタントではない。カルヴァン派から急進派と忌み嫌われたアナバプテストやクエーカーやメソジストがいる。彼らが「平等」を求めたのではないか。

新約聖書には「神の前の平等」なんて書いてない。『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』『ヨハネ福音書』には、単に、あなたがたは偉そうにするな、人々に仕えよ、とイエスが使徒たちに言ったと書いてある。すなわち、キリスト教徒の間に上下関係があってはならない。これが、ヨーロッパからアメリカに逃げてきた人々の求めた「平等」ではないか。

それを裕福な人々は抑え込もうとして、カルヴァンの「予定説」を利用しただけではないか。「神の前での平等」が「社会的な現実における平等」という現実に直結しないようにと、必死の努力を続けているのは、森本あんり自身ではないか、という疑念を私はもつ。

同じように、「機会平等」は現実の「不平等」を肯定するためにウソではないか。

森本あんりはカトリックをバカにしてつぎのように書く。

《プロテスタント教会には、カトリックのような修道院も存在しない。修道士として出発したルターは、あえて元修道女と結婚し、世俗社会に暮らす者にも修道者と同じように神に仕える道があることを示した。》

修道院は、貧富の差がある現実の社会を否定し、自分で自分の食べるものを作り、搾取を否定する者たちの集まりである。カウツキーによれば、修道院も土地があるから自活できるのであり、豊かな収穫が得られるようになると、共有と平等を否定する「組織としての教会」が動き出し、上下関係を否定する修道士を抑圧し、蓄えた富を奪い取る事態となる。「カトリックのような修道院」に、悪意に満ちた森本あんりの偏見を感じる。修道院自体は何も悪くない。

反知性主義とは、難解な知識で飾り立てた権威に反発する直観である。それを「熱病」と断定するのではなく、反知性主義の背後にある真実「不平等の存在」を弾劾しないといけない。アナーキーは何も悪くない。

「許す」という単語の多義性を英単語から見る

2021-03-29 00:29:19 | 思想


私の所に話にくる青年が、大学を受験すると言ったので、彼のために、英単語から動詞を抜き出し、基本単語集を作成した。そのとき、日本語の「許す」にあたる英単語が多いことに気づいた。

 “allow”
 “permit”
 “excuse”
 “pardon”
 “forgive”
 “tolerate”

私は、違う単語は違う意味だと思う立場なので、その違いを考えてみた。

“allow”と“permit”とは、禁止されていることがあって、それを破ることの許可を得ることだ。この2つの違いは、“allow”は個人的な許可を得る場合を含むが、“permit”は公的な許可に限られる。

“excuse”と“pardon”とは、相手に許可を求めているが、大目にみてねという気持ちで、そんな禁止するほどのことではない、と行為の主体は思っている。“pardon”はより丁寧な言い方になる。

“forgive”は、犯した行為を罰しないことをいう。犯した行為をしても良いと認めたわけではないので、再びしてはならない。

“tolerate”は、英英辞典では、allow or endure without protest とある。行為を好ましいと思わないが、我慢をして、とがめないという意味になる。

岩波の国語辞書を開くと、「ゆるす」に①から④までの意味が書かれ、①が次の4つにさらに分かれている。
(ア)願いなどを聞き入れる。“excuse”と“pardon”とに近い。
(イ)罪・とが・負担を免ずる。“forgive”に近い。
(ウ)禁を解く。“allow”と“permit”とに近い。
(エ)体を相手に任す。これは性的な行為に同意することで、上記の英単語には該当しない。

“tolerate”の用法は岩波の辞書に見当たらない。

森本あんりは『不寛容論』を書いたが、この「寛容」は“tolerate”の名詞形だと思う。「寛容」は我慢をしているのであって、我慢の限界に達すれば、衝突が始まる。

宇野重規は『トクヴィル 平等と不平等の理論家』で、「リベラル」の原義を「寛容」としていたが、「我慢している」というニュアンスはそこにあったのだろうか。フランス語の辞書を出して調べると、「我慢している」というニュアンスはない。気前が良い、鷹揚なというニュアンスである。

日本語の「許す」という概念は非常にいい加減なものだと思う。日韓基本条約を結んだから過去の行為は「許される」というのは甘い。条約は国と国の取引であるから、国民の一人ひとりが許したわけではない。国民が国に縛られるわけではない。また、我慢しているのかもしれない。