きのう、きょうと、朝日新聞に安倍政権の7年8カ月に好意的な記事がのった。9月24日の津田大介の《論壇時評》『安倍政権の功罪 問題の責は彼個人ではなく』と、9月25日の佐伯啓思の『この7年8カ月の意味』である。
佐伯啓思は、保守の視点からみて中途半端で不十分だが、「疑いもなく、近年、これほど『仕事』をした政権はなかった」と評価している。佐伯は保守の人だからそう評価するのは当然である。
しかし、津田大介がそう評価したのにはびっくりした。津田は、昨年、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督をして、「表現の不自由展・その後」に関して批判され、臆病になったのではないか。
《論壇時評》といっても、評者が中立的である必要はない。論者たちは常に時流に流される可能性がある。私からみれば、彼らは、ちゃんとした職業につかず、文筆で生活するのだから、お金をもっている人たちの意識に影響されがちである。実際、多くの論者はクソである。だから、評者が時流から離れ、定点の自分から、論壇が右傾化している、左傾化していると批評できなければ、評者の存在自体が無意味である。
津田は、吉田徹の発言「皮肉なことに安倍政権は十分に民主的な政府だった」を、なんの説明もなく引用しているが、「民主的」とは何を言うのだろうか。普通選挙で選ばれた政府なら、戦後の日本政府はすべて「民主的」であろう。「選挙に勝ち続けた」ことを言いたいのだろうか。
横浜市が今年まで使ってきた育鵬社の「偏向」公民教科書につぎのように書かれている。
〈政治の最大の目的は、国民の生命と財産を守り、その生活を豊かに充実させることにあります。したがってその基礎をなす基本的人権の保障と充実は、なにより重要な政治目的のひとつとして位置づけられています。〉
逆でしょう。政治の最大の目的は、自由と平等、基本的人権、国民主権を実現することでしょう。育鵬社の表現では、格差の存在について何も語られていない。また、生命は守られても、死ななければ、奴隷であっても良いのかという問題もある。
2014年から2019年にかけて、「若年世代は物価の変化を考慮してもなお、安倍政権期を通じて賃金が上昇したそうだ」と津田は書くが、本当だとしても、この間の政治は民主的だったのか、ということである。
政府の公文書を改ざんしたり、情報を隠蔽したりする安倍政権のどこが民主的だろうか。政府が発表する資料は信頼できるのだろうか。若年世代の賃金が増えたとしても、他の世代の賃金は減少し、平均賃金では減少しているのではないか。
コロナ感染が流行する前までの私の観測では、リーマンショックの時よりも雇用が改善されたといえ、みんな安いものを買うのにあくせくしている。良い品質のものを売っていても、価格が他店より ちょっと高ければ、その店はつぶれてしまう。みんな安物を安く買っているだけである。貧乏なのである。
非エリート官僚までが官邸に忖度しなければならない社会のどこが民主的なのか。官僚だって自由に官邸の誤りを指摘できてこそ、健全な社会である。
安倍政権は「女性活躍」というが、その前に男性が活躍できているのか。経営陣が労働者の自由な判断を受け入れているのか。自由がない企業は衰退するしかない。近年の日本の製造業が国際競争力を失っているのは、自由な発想を経営陣が取り入れることができないからだ。
「女性活躍」の「女性」は誰のことか。多くの女性は、すでに賃金労働者として働いている。賃金をもらわなければ、子どもを育てることができないからだ。賃金労働者になることが、女性の「活躍」なのか。私は経営者なんてろくでもない種族と思っているから、経営者になることも「活躍」などと思わない。
「資本主義」とは何なのか、私にはわからないが、金持ちは、勤勉であるから金持ちになるのではなく、多数の人を雇って働かすから金持ちになるのである。多数の労働者が労働市場にいて、雇われたなら、贅沢も言わず黙々と働いてもらわないといけない、と金持ちは考えている。
そういうなかで、津田の書く「安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である」の「私たち」とは誰のことか。「ちゃんとした職業につかず、文筆で生活する者たち」ではないか。教室から閉め出され、ちゃんとした職業につけないなら、「文筆で生活する」のはわかる。しかし、楽をしようとして、文筆活動をしていることはないか。ちゃんと底辺生活を体験しているのか。
「私たちそのものの問題」というまとめかたは、敗戦直後にでてきた「一億総ざんげ」と同じで、責任の所在があいまいになる。
安倍晋三は別に自民党総裁にも総理大臣にもなる必要がなかった。谷垣禎一だって良かったはずである。安倍とそれを担いだ菅義偉らの政治的意図があってのこの7年8カ月だから、とうぜん、その結果に責がある。
このようなわけで、津田大介の頭が大丈夫なのか、と思う私である。