猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ドストエフスキーの「大審問官」、大きな星が天から落ち

2019-03-28 21:54:47 | ドストエフスキーの宗教観

新約聖書『ヨハネの黙示録』8章10-11節に次のようにある。

「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。
この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」(新共同訳)

フョードル・ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章に、イエス再臨の舞台設定として、イワンにこの節を引用させている。
このとき、イワンに「大きな星」を「教会」と解釈させている。

「星が空から落ち」という句は、『マルコ福音書』にも『マタイ福音書』にもあるが、この場合、単に「大災害」「天変地異」を意味しているだけである。

似た句に、旧約聖書の『イザヤ書』14章12節の
「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ」(新共同訳)
がある。
この場合は、「明けの明星」が、明らかに、バビロンの王をなぞらえている。
『イザヤ書』は、ユダ王国を滅ぼしたバビロンへの怒りを書き綴った書だ。

『ヨハネ黙示録』が、バビロンであるかの装いながら、実はローマに呪いをかけていることから、「大きな星」はローマの王、皇帝をさすと考えるが自然である。

ドストエフスキーが、『ヨハネ黙示録』を引用して、
「『松明に似た、大きな星が』つまり、教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ」
とイワンに言わしたのは、天国の扉を管理する「教会」に、大きな怒りがあったからではないか。

イワンの口を借りて、「異端」への同情を示していたのではないだろうか。

ドストエフスキーの「大審問官」、恐ろしい異端とは

2019-03-28 20:34:51 | ドストエフスキーの宗教観

フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の第5編の「大審問官」の章に次の文がある。

「その彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『私はすぐに来る』と書いてから15世紀だ。」
「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現われたのはまさにそのときだった。」

この「世紀」は単に「100年」という意味であって、イエスが刑死してから1500年が経つと、1530年ごろだから、「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端」は再洗礼派のことだろう。

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)の序説で、次のように書く。

「まだルーテルが生きている間にすでに、… ルーテルの弟子たちは、再洗礼主義という主張を展開し、それはしばらくの間ミュンスター市を支配した。」
1534年の再洗礼派のミュンスター市での反乱のことである。
再洗礼派は、善人はあらゆる瞬間に「聖霊によって導かれる」とし、すべての権力と法を否定し、「共産主義」や「性的雑交」の考えにいたった。
「そのために彼らは、英雄的な抵抗をおこなった後に、全部処刑されてしまう。」

「聖霊によって導かれる」というのは、カトリック教会、正教会から見れば、異端であるが、新約聖書のパウロ書簡や『マルコ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』を読めば、これが、初期のキリスト教の姿であることがわかる。
もともと、これが正統なキリスト教である。

『ヨハネ福音書』20章22、23節に、復活したイエスが
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」
とある。

聖霊が降りるとは、直接、神の声が聞こえ、大いなる力も与えられる、ことだ。
初期の教会(エクレシア)は、聖霊に満ち溢れた集会の場所であった。
それが、教会が「聖職者の組織」に変わり、天国への扉を管理し、神の国への「代理店」になった。

ドストエフスキーは、どのような気持ちで、再洗礼派をイワンに「恐ろしい異端」と言わせたのか。
また、そのすぐ後に、
「『松明に似た、大きな星が』つまり、教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ」と、何のためにイワンに言わせるのだろうか。
さらに、どうして、
反宗教改革の本拠地、セヴィリアの広場に、人間の姿をしたイエスを無言で歩かせたのか。
ロシア正教会については、ドストエフスキーはどう考えていたのか。
ロシア正教会はトルストイの共同体運動を迫害した。
ロシア正教会は、プーチン政権と結びついて、自由を迫害している。

「ミュンスター市」の反乱はなんであったのか、戦いに負けて皆殺しにされた側は、生きている権力側によって、あらゆる中傷を浴びるので、日本語版ウィキペディアの「ミュンスター市の反乱」の解説をうのみするのは危険である。

英語版ウィキペディアによると、再洗礼派の預言者、パン職人、ヤン・マティスは、殺され、頭は市の柱にさらされ、性器は市の門にくぎ打たれたという。また、三人の幹部は拷問を受け、殺され、檻に閉じ込められ、市の聖ランベルティ教会の塔につるされた。この檻は今もつるされているという。

ドストエフスキーは再洗礼派のミュンスター市での反乱をなぜ大審問官で言及したかわからないが、権力に逆らう者にとっては、「ドイツ北部の恐ろしい」事件であったことは間違いない。

ドストエフスキーの「大審問官」、「降臨」か「再臨」か

2019-03-28 18:45:43 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)が、ネットで、ずいぶん評判が悪いようだ。

すでに色々な人々が訳している古典を、もう一度訳しただけなのに、売れたことへの嫉妬も、その要因の一つだろう。

訳者は、わざと、これまでの訳を踏み外し、聖書や教派や歴史の知識を不要にし、大胆に、自分の好きなように読めるようにしているようにも思える。

たとえば、光文社古典新訳文庫では、第5編の「大審問官」の章で、「これはあの降臨じゃない」とイワンが言ったと訳されている。
これは、正教会でも、日本語では、伝統的には「再臨」というところだ。
「降臨」は、聖霊が人間におりることをいう。
「あの再臨」がふつうの訳になる。

「降臨」としたのは、何か理由があるのだろうか。
「その彼が自分の王国に約束して」、もう1500年がたって、「彼を待ちつづけている」民衆をあわれに思い、ふたたび、地上に人間の姿で現れたのだ。
このロシア語の原語は何で、何と訳せば、良いのだろうか。

聖書との関連を見て行こう。

ドストエスフキーは、「あの降臨」を、「『稲妻が東から西へひらめきわたるように』生じるあの降臨のこと」、と書く。
実は、この句は、新約聖書の『マタイ福音書』だけにしか出てこない。24章27節である。
これにたいし、24章30節の「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」の文は、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』にも、共通して現れる。
なぜ、この章で、ドストエフスキーは「稲妻」を選び、「人の子」を選ばなかったのか。

ドストエフスキーは、「人の子」がイエスなのか否かの論争があるのを知っていたのだろうか。

この「人の子」は、旧約聖書の『ダニエル書』の「人の子のようなもの」とは異なる。
『ダニエル書』の「人の子」は人間を意味し、「天の雲」の上に「人間のようなもの」が見えたという「幻視」を述べているだけだ。
新約聖書の『ヨハネ黙示録』では「人の子」ではなく、「人の子のようなもの」と『ダニエル書』と一致している。
『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』は「人の子」で、イエスとも解釈できるのである。

しかし、殺され、復活し、天に昇ったイエスが、わざわざ、「天の雲」に乗って戻ってくるのだろうか。
『再臨』は「人の子」が人間たちを罰するために「天の雲」に乗ってあらわれるのだ。
だから、ドストエフスキーは「あの再臨じゃない」と言いたかったのだろう。

実は、福音書を読む限り、復活したイエスは、天に昇った後、再び地上に戻ってくると、明確には約束していない。
しかも、新約聖書の『ヨハネ福音書』には、他の三福音書のような「再臨」も「世の終わり」もない。

最後になるが、光文社古典新訳文庫では、
第5編の「大審問官」の章で、ふたたび地上に降り立った彼が
「はかり知れない慈悲の思い」をもってセヴィリアの広場を無言で歩くさまを
「胸のなかでは愛の太陽が燃えさかり、栄誉と啓蒙と力が光のように瞳から流れ、人々の上に降りそそぎ、彼らの心をたがいの愛によってうちふるわせている」と、
ドストエフスキーが書くのに、違和感を感じる。

日本で育ったものとロシアでそだったものの感覚の差か。
翻訳の問題か。私はロシア語が読めない。

ドストエフスキーの「大審問官」がわからない

2019-03-28 16:27:47 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の第5編に「大審問官」という章がある。
「大審問官」とは、異端者を裁き、火焙(ひあぶ)りの刑に処するカトリックの枢機卿のことである。
この章で、末の弟アリョーシャに、兄のイワンが、自分の作った物語詩、人間の姿で再び現れたイエスと大審問官との物語を語る。

イワンの物語詩はこうである。

またやってくると約束してから1500年後、人々の願いをあわれに思って、異端者を火焙りにしたばかりのセヴィリアの石畳の広場に、人間の姿で、彼がふたたびあらわれた。
奇跡を求め、多数の群衆が、取り囲む中を、彼は無言で石畳を歩く。
通りかかった90歳の大審問官は、彼が、めくらをなおし、死んだ娘を生き返らすのを見て、顔を曇らせ、捕らえるよう、部下に命ずる。
おとなしくするよう仕込まれた群衆は、恐れおののき、道を開ける。
牢に閉じ込め、その夜、大審問官は、ひとりで彼を訪れる。
「で、おまえがあれなのか?あれなのか?」
「なぜ、われわれの邪魔をしにきた?」
「最悪の異端者として、火焙りにしてやる」
大審問官はひとり長々とののしる。
突然、大審問官は、その男に口づけされ、牢の扉を開き、夜の街の闇に彼を解き放つ。

この自分の物語詩の合間に、23歳の兄のイワンは、修道院から戻った19歳のアリョーシャに執拗に議論を吹きかける。

何年か前に読んだときは、この章がわかったような気がしたが、いま、もう一度読むと、まったくわからない。
年のせいだろうか。
もともと意味のないことをドストエフキーは書いているだけなのか。
あるいは、
シベリア送りを経験しているドストエフスキーは、わざと意図がわからないように書いているのだろうか。
それとも、人間の思いは、もともと、複雑で錯綜したものだからか、わかるはずがないのか。

とにかく、いま、自分がわかっていないということが、わかった。

もうひとつ、いま、わかったことがある。
イワンには、アリョーシャが、可愛くて、可愛くて、たまらないのだ。
アリョーシャが人間のこころの複雑で錯綜していることに気づかないから、イワンには可愛いのだ。
ゾシマ長老がアリョーシャにいだいた思いと同じだ。

この可愛さは、はかなく消えゆくものを前にした哀れみなのか。
ゾシマ長老は死んで腐臭を発した。
それは単に現実にすぎない。別にあたりまえのことだ。
現実に気づいても、精神的なものは、変わらぬものでなければ、意味がない。