私には、たくさんの、大変だがユニークで、愛すべき子供たちがいる。最初は大変だったが、今でも大変である。
ダウン症の子からも、私はいっぱい学んだ。ダウン症の子は天使のようだとよく言うが、本当にそう思う。
私は人に強く言えない性格である。たとえ、子どもでも威圧的に出られない。NPOでその子の指導を任されたのは、彼が中学2年の終わりの頃である。
その子はヒラカナが読め、書ける。今、考えると、ヒラカナを教えた先生は偉い。
私は、その子の発音が不明瞭だったので、親の同意を得て、矯正しようとした。特に濁音が発音できないと思ったので、「でかい こえ、でかい いぬ。げんきな こえ、げんきな いぬ。でかい かべ、でかい なべ」などという、教材を作り、声をだして読まそうとした。
大失敗だった。とても、いやがり、席をたって、ひとり遊びをしだした。
私には席を立つことを止めることができない。ダウン症の子も人間であり、自由なのだ。いやなことは強制できない。
私は子どもに必要とされなかったのだ。私は自分を恥ずかしく思いながら、その子との関わりを、時間をかけて作り直すことにした。
ともに遊ぶことから始めた。
ゆっくりと観察すると、言葉がなくても、ほかの子どもたちとコミュニケーションができている。身振りである。ほかの子どもたちと遊ぶことができている。
とにかく、わたしはその子と遊んだり、学校の宿題を助けたりすることで、簡単なことばの学習ドリルを一緒にできるまでに、関係を改善した。
わかってきたのだが、その子は、人の話しコトバが音として聞こえるが、音節の並びとして聞き取れない。答えを言っても、聞き間違って、書きとる。また、単語の中の音節の並びがひんぱんに逆転する。耳によって学べないので使える語彙は少ない。
今は、数行からなる簡単な物語を読んで、問いに答えるまでになった。数行からなる物語をイントネーションや声の大小を変えて、気持ちをこめて楽しそうに読み上げるようになった。
もちろん、昔と変わらず、発音は不明瞭である。しかし、気持ちをこめて話すことで通じることが世の中にいっぱいある。
その子は、とにかく、女の子たちに、もてるのだ。
誰かが髪の毛をセットしたり、服装を変えたりすると、チャンと気づき、「かわいい」というのである。社交性がある。
乱暴な子が油断していると小突いたり、殴ったりする。相手が怒ると作り笑いをする。立派な社交性である。
トランプゲームをすると、負けたくないので、「ずる」をする。立派な社会性である。
いやなことはいやだ、と私には威張って言える。立派な社会人である。
電車の中で、母親と一緒にいるのに偶然出会ったが、シャキッとして、母親を守っているような態度をした。
いまは、疲れた、疲れたと言いながら、元気に作業所に通っている。
そのダウン症の子は、社交的で、賢くて、天使なのである。