猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

世の中は多様で良いではないか

2019-03-03 19:20:40 | 思想

世の中は多様なのである。多様で良いではないか。
ブドウだって、甘いブドウばかりだと、つまらないではないか。
肉の焼き具合だって、レア、ミディアム、ウェルダンと聞かれるではないか。
私も、肉の焼き具合で失敗談がある。

退職する前のことだが、東京の郊外の田舎町の開発ラボに、米国から大事なお客さん2人を招いて、自分の開発した新技術をプレゼンした。そのあと、近くの最上級のレストランに招待した。シェフもはりきってローストビーフを用意した。これがいけなかった。ローストビーフは前もって用意するから、レア、ミディアム、ウェルダンと聞かない。血の滴るローストビーフをシェフは意気揚揚と出してきた。2人とも手をつけなかった。気まずい空気が流れてしまった。

旧約聖書では血の滴る肉は食べてはいけないとされる。旧約聖書のサムエル記上14章では、ヨナタンの兵士たちはペリシテの人との戦いで疲れ、戦利品の羊、牛、子牛を、血を含んだまま食べたとある。ヨナタンはイスラエル初代の王サウルの子である。このためヨナタンはイスラエルの神に見放され、ダビデの兵士に殺される運命を背負う。(もっともこれはダビデ側の歪曲くさいが。)
血の滴るローストビーフの実態は肉汁かもしれない。しかし、旧約聖書が影響力をもつキリスト教やイスラム教の世界の客には、レア、ミディアム、ウェルダンと聞くのがよい。白身魚の刺身とは問題が異なる。

お酒も注意がいる。新聞に「飲ミュニケーション」という言葉がのっていたが、お酒を飲まない考え方もある。

昔、カナダでアイリッシュ系の教授のもとで働いていたとき、私があまりにも話さないので、教授は、私がウツではないかと心配し、毎日、夕方になると大学のビアホールに誘った。ある日、研究室のアイリッシュ系学生に、あの教授は異常で、アイリッシュはお酒を日常的には飲まなく、祭日だけに飲むものだと注意された。
日本に戻って会社にいたとき、ドイツ系米国人(女性)を会社に招いた。わたしの同僚は、ドイツ人がビール好きだという思い込みが強く、お酒を飲むように強要したので、その米国人はとても怒っていた。

米国には禁酒法の歴史がある。禁酒は宗教上の掟ではなく、飲んで理性を失い暴れる男どもが嫌いだからである。あのヒットラーだって、ビアホールで演説し、ビアホールの無法どもをひきいてのし上がってきたではないか。お酒は注意がいる。お酒には無法者のイメージがある。

[補足] アイリッシュ系とは、アイルランドからの移民と考えてもよいが、ケルト語を話す民の末裔だと意識している人々である。教師に、学校でケルト語を話したと殴られ、「ケルト語を話した」という板を胸につけ教室で立たされた親や祖父母の記憶を共有している。聖パトリックの祝日には、緑のものを身につける。

森本あんりの 日本の宗教 の誤解

2019-03-03 14:13:26 | 宗教

森本あんりは、国際基督教大学の学務副学長だけあって、彼の『反知性主義』(新潮選書)のなかで、プロテスタント各教派のあり方を詳しく、しかも、優しい視線で批判している。16世紀の北ドイツ、ミュンスターのプロテスタント過激派アナバプテストさえ黙殺せず、ののしらず、取り上げている。

しかし、森本あんりは日本の仏教をよく知らないように思える。

森本あんりは、中世のカトリック教会、あるいは、ドイツ農民戦争後のカトリックとプロテスタントの妥協を批判するのに、個人の信仰を無視した、地域の住民全体の1つの教派、教会への丸がかえをあげている。これは、宗教的争いを、政治的不安定を招くものとして、世俗的権力が抑え込んだ結果である。教会制度を読者に理解してもらうために、日本の檀家制や氏子制にたとえている。私はこのたとえに違和感をおぼえる。

日本の仏教は、もともと最澄の天台宗と空海の真言密教とに分かれ、知性に頼るか秘儀に頼るかの争いがあった。天台宗の表の教えでは、神などという超人間的なものは存在せず、知性にもとづいて、生き、そして死ぬことである。これでは貴族の即物的要求に答えられない。よって、密教が天台宗のなかにも入り込んでくる。

鎌倉時代に、さらなる教義の論争から色々な宗派に分裂し、辻説法や念仏踊りという積極的な布教が行われ、仏教が大衆化した。各宗派は競合したのである。

現在の檀家制度は、江戸幕府の宗教弾圧政策によるもので、幕府は自分に従う宗派と従わない宗派にわけ、民衆の個人レベルで、どの宗派に従うかを登録させた。これが檀家制である。公認の宗派以外は、拷問や処刑の対象とした。幕府が恐れたのは、民衆レベルの信仰により、家来が、抑圧される者に共感することである。徳川家康だけでなく、織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、信仰に裏付けされた自治を行う農民たちを殺しに殺して、自分の権力を固めてきた。私の故郷の北陸は、武士に殺された農民で、血の海になったのである。
檀家制は信教の自由の否定である。また、宗教の否定であったのである。

氏子制の歴史は多少複雑で、現在の氏子制は、戦後、天皇の神格性が否定された結果である。
明治政府は、欧米との関係上、信教の自由を認めざるを得なくなったが、信教の自由が権力者の秩序を乱さないように、天皇崇拝を儀礼として国民に強制した。すべての神社は天皇崇拝の「支店」で、国費が支給された。ところが、日本の敗戦で、神社に国費が支給されなくなり、昔、村の祠(ほこら)が村民の共同負担で維持されたように、近くの住民からお金を集める必要が生じた。そのために、明治以降作られた新興の神社も氏子をもつようになった。新興の神社は宗教としては破たんしているし、氏子も少ないので、現在、観光ビジネスや、民族主義運動に加担することで、存続している。

現在の神社・寺院の制度と、キリスト教会との間にはアナロジーがなりたたない。

これ以外にも、プロテスタント牧師の多くは、キリスト教の「義認」と親鸞の教えと近いものと考えているようだが、全く異なる。
浄土真宗と日蓮宗の争いで、面白いのは、宮沢賢治の父親が息子の賢治に言った次の言葉である。
「お前は人を信じないでモノを信じるのか。馬鹿め」
浄土真宗は、阿弥陀仏(生きた人間である)がすべての人間を救おうと願ったことに人間の希望を見いだすものであるのに対し、日蓮宗は、日蓮が書いたものに判断をゆだねることだ、と賢治の父親は見ていたのである。田中智学のリバイバリズム、国柱会の熱狂のなかにいた賢治がどう言い返したのか興味があるのだが、私は知らない。

阿弥陀仏は神ではないので、一方的に、人間に恵みを与える力はない。そういう菩薩(求道者)、阿弥陀仏が過去にいたのは希望だが、阿弥陀仏は死んだ人間なので、神秘的な力をふるうことはできない。神を信じるプロテスタントとは、無神論の浄土真宗は異なる。

[参考図書]
森本あんり:「反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体」 新潮選書、新潮社、 2015.2.20、ISBN: 978-4106037641
島薗進:「国家神道と日本人」岩波新書、岩波書店 2010.7.22、ISBN:978-4004312598

宮沢賢治への旅『どんぐりと山猫』

2019-03-03 14:02:00 | 童話

3年前、プレミアムカフェ「宮沢賢治への旅」番組で、童話『どんぐりと山猫』の1節が気になった。
『どんぐりと山猫』は一郎が山猫の裁判に招かれるという童話である。どんぐりたちは誰が一番偉いかを争っていて、山猫はその裁判官である。
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一郎は「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」と山猫に助けをだす。
山猫は「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」とどんぐりたちに言う。
それで、どんぐりたちの争いはしずかになり、それから、一郎は山猫に招かれることは2度となかった。
 ―――
誰が一番偉いかという話は昔からある。新約聖書の福音書やパウロの書簡にも似た話しがいくつもある。しかし、どの話も「一番偉いのはみんなにゆずって尽くすひと」である。例えば、マルコ福音書9章33~35節がそうである。

ところが、一郎の答えは、ちょっと変わっていて、どんぐりたちがそれぞれ自分が偉いと思っている価値基準の反対を並べているだけである。そこに倫理性はない。常識の反対を言っているだけだ。昔の漫画の『天才バカボン』で「バカは天才なのだ」と言っていたのと同じである。
山猫の申し渡しは一郎の提案ではなく、「いちばんえらくなくて…ようなやつが、いちばんえらいのだ」と変わる。「天才でないやつが天才なのだ」という論理である。なぜ、宮沢賢治は山猫にこう変えさせたのかも、私にはわからない。

さらに、一郎は「ぼくお説教できいたんです」というのが奇妙だ。出版のときの1924年では、「お説教」はプロテスタント系教会の牧師のスピーチを意味する。仏教では「説法」または「法話」が使われる。仏教徒や僧侶は、「仏教」と言わず、「仏法」という。「教」という語は明治時代に儒学の教養のある人が使っていた言葉で「人間の教え」というニュアンスがある。仏教徒や僧侶は「真理について語っている」との自負から「法」を使う。「法」は「法則」の「法」で、「法律」の「法」ではない。

宮沢賢治は、本当に教会の「お説教」を聞いたことがあるのだろうか。あこがれから「お説教できいた」という言葉が出てきたのだろうか。

『どんぐりと山猫』は、東北の美しい自然を背景にしたメルヘンであるが、メッセージ性があるのかないのか、私にはわからない。宮沢賢治は、西洋へのあこがれを東北の自然の中に投影し、オリジナリティの高いメルヘンを作り出したのだろう。
とにかく、この夏には東北のなかの西洋の地、北上川を訪れたい、と私は思っている。