私がNPOで、家庭や学校で うまく いかない子どもたちの、世話をするようになって、8年目である。
しかし、「発達障害」とは何か、自分の経験をじっくり考えるようになったのは、3年前からである。
3年前の1月2日に、青少年健康センターから、『よくわかる発達障害』という小冊子が送られて来た。この小冊子はシンポジウムの講演の書き起こしである。講演者は、斎藤環、山登敬之、中川信子、井上祐紀であった。
精神科医の斎藤環は、「発達障害者支援法」による集団早期検診の弊害を指摘していた。
実際には継続的に治療しない医師たちが、子どもの一回の印象で、「発達障害」、「自閉症」、「アスペルガー」と診断していいのか、と言う。
彼らは、「診断」だけしてフォローアップしない。斎藤環は「自分でフォローアップできる人が本当の専門家で、そういう人ならば診断する資格もある」と言う。
社会が子どもに「診断名」だけを与えるなら、それは社会が公然と「差別」をしていることになると言う。「障害」という言葉は、社会が支援するという法律用語で、フォローアップをしなければ、使ってはいけない。
特に、私は、親に、子どもをどう育てていけば、良いかのヒントを授けずに、診断名だけを告げるのは、無責任だと思う。社会的差別からの、子どもたちの最後の砦は、家族だと思うからだ。
言語聴覚士の中川信子は、自分の子がほかの子と違っているのは、個性なんだと言う。自分の子がどんな大人になるか、神様からもらった球根だと思って、どんな花が咲くか、楽しみにして、毎日毎日世話をしてください、と言う。
そして、次のエピソードを紹介する。
「この子ばかりは『障害だ』と思う子が、幼児期、学童期を通じてすくすく成長し、最難関の進学校に進みました。その子は、ある日、学校から帰ってきて『お母さん、今度の学校には僕と同じような子がたくさんいるよ』と、嬉々として報告した、とお母さんが笑っていました。」
私は、超難関の学校に進学したから、良かったとは思わない。もしかしたら、これはブラック・ユーモアかもしれない。
変わっているということは、平均ではないことだ。平均は中央にあるから、それから外れるということは、色々な方向にズレるわけだ。したがって、本からの知識には注意がいる。本にはステレオタイプなことばかり書いてあり、実際の子どもとは異なる。自分の目で自分の子をしっかり見て、子どもを育てる必要がある。
子どもは、花の名の書かれていない、神様からのあなただけの球根なのだ。楽しみに育てるのが良い。
私の知っている子の場合は、大きくなっても稼いでこれないが、決して親を捨てる子ではない。いつまでも子どもであるのだ。