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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

OECDの「読解力」テストに日本の教育が左右されて良いのか

2019-12-04 22:47:57 | 教育を考える


経済協力開発機構(OECD)が11月3日に発表した学習到達度調査(PISA)の結果で、日本は「読解力」が15位となり、前回調査の8位から後退したことが、なにか、トンデモナイことかのように、メディアで報道されている。

冷静になって、OECDとは何か、PISAとは何か、「読解力」と何か、そんなに悪い結果だったのかを考えないと、経済産業省の「脱ゆとり教育」「PCを使いこなす教育」にだまされてしまう。

NHKは、このニュースの報道に次のようなコメントをつけている。
〈日本の教育政策はこの国際学力調査に大きく影響を受けてきました。2003年には、順位が下がったことがPISAショックといわれ、それまでの「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へと転換し、授業時間や教える内容の増加、さらに、全国学力テストの復活にもつながりました。〉

NHKが言っているように、日本政府は、16年前に すでに、「脱ゆとり教育」に舵を切っているのだ。そして、この間、「読解力」の順位はあがったり、さがったり、している。これは、「ゆとり教育」か「脱ゆとり教育」か、という問題とは関係ない ことを示している。

OECDとは、じつは、国連の組織ではない。1948年4月、冷戦時代に、共産主義国に経済発展で負けないために、西側諸国の経済復興を米国がリードするために、作った組織である。

PISAとは “Programme for International Student Assessment” の略称である。英語では、長期のプロジェクトのことをプログラムという。OECDが行うのは、経済発展を担う労働力の質の調査である。そこで、調査されているのは、実学の能力であり、一般的な学力や教養ではない。

簡単にそれを理解してもらうため、今回の調査でどこがトップグループになったかを見てもらえばわかる。「読解力」のトップは中国内陸部である。2位はシンガポール、3位はマカオ、4位は香港である。アメリカは13位、イギリスは14位、日本は15位、ドイツは20位、フランスは23位、オランダは26位である。別に差別しているわけではないか、なにか変だと思わないか。

それに、日本の「読解力」の得点504点はそんなに悪くない。偏差値になおすと57点である。偏差値とは、平均点を50点に、標準偏差を10点に変換したものである。

世界の人びとは異なる言語を話している。異なる言語を話している人々の言語能力に点数をつけて順位を出すことができるだろうか。不可能だし、比較することは失礼にあたる。

PISAの目的は経済発展を担う労働力の質の調査である。だから、「読解力」とは言語能力のことではない。「読解力」とは、「情報を探し出す能力」、「質問を理解する能力」、「情報を選択し評価する能力」で、特定の言語によらない情報リテラシーなのである。ちなみに、それぞれの日本の偏差値は、順に、54点、57点、55点である。すなわち、問われた質問の答えが書いてある場所を短時間で探しだす能力が54点であったというだけだ。こんなものがイノベーション生む能力と何の関係もない。

OECDのPISAは 先進国にとって もはや時代遅れで、後進国の実学を応援するものである。

こんなことで、「ゆとり教育」か「脱ゆとり教育」かを言い争うなんて馬鹿げている。

それよりも、だいじなのは、(1)簡単で明瞭な日本語を話し書くように教育すること、(2)記憶の無駄使いになる漢字の使用を厳しく制限すること、(3)古文、漢文を選択制にし、かわりに、韓国語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語を選択できるようにすること、(4)身分差別社会の遺物、敬語の教育をやめることである。

また、反共のOECDのPISAなんかに教育が かきまわされるのではなく、また、時代遅れの道徳教育なんか行うのではなく、国連が推奨しているLife Skill教育を実施すべきである。

Life Skill教育は、個人の権利を政府や多数派から如何にまもるかの生きる技術を教えるものである。いじめや不登校やうつの原因は対人関係のつまずきから起きることが多い。Life Skill教育は市民社会での対人関係を良好に保つ技術をも教える。

やさしい日本語ではなく、わかりやすい日本語を

2019-11-18 22:52:41 | 教育を考える


2日前の朝日新聞に、「社内コミュニケーション 英語じゃなくて、やさしい日本語」という記事があった。外国人を含む職場でのコミュニケーションで、やさしい日本語を話そうということである。

ネットで調べてみると、今年の3月の毎日新聞も「やさしい日本語」という社説をかかげていた。また、「やさしい日本語」を話すマニュアルを公開して地方自体もいくつかある。いずれも、日本人が外国人に何か伝えようとするとき、「やさしい日本語」を使おうということである。

この「やさしい日本語」とは、じつは、「わかりやすい日本語」のことである。別に相手が外国人に限らず、コミュニケーションにおいては相手に「わかりやすい日本語」で話すのが、あたりまえと、私は思う。

なのに、これが日本社会では受け入れられず、逆に、「わかりにくく」話す人が当然の顔をし、「わからない」聞き手が責められる。
この身勝手な態度は、親や教師や雇い主が「発達障害者」に向かって話すとき、特にみられる。自分の非を認めず、相手を責める。知的なはずの精神科医も講演や著作で「発達障害者」を推察力が欠けていると ののしる。

日本人が「わかりにくい日本語」で話す理由はいろいろと考えられる。

(1)明治時代に、儒学を学んだ士族が教育にたずさわったため、特殊な書き言葉が、そのまま、話し言葉に使われるようになった。

(2)明治、大正、昭和と強権的な政府が続いたために、知識人が、仲間以外には自分の本音がわからないように、書く習慣がついた。予備校カリスマ教師の林修は、大学入試に使われる現代文の複雑さがこのためだと言う。日本の知識人が本音を隠すテクニックを知れば、現代文の読解問題をすらすらとけるのだと言う。

(3)身分社会がいまだに続いている。

では、どんな日本語を話せばよいのか。

(1)言いたいことを言い、不要なことを言わない。
(2)敬語を使わない。
(3)1つの文を短くする。
(4)同音異義が多い漢語をできるだけ使わない。
(5)否定の否定となる言い方をしない。
(6)保留を できるだけ つけない。
(7)前に言ったことを否定するような言い方を避ける。「でも」とか「しかし」とか使わないで済むよう、言いたいことを整理する。

夫婦の会話でも、たがいに誤解しないため、上の点に気をつけて話すと良いと思っている。言いたいことをはっきり言うのが良いと思う。

萩生田光一の発言と文科省の大学入試改革への不満

2019-11-10 22:02:36 | 教育を考える

萩生田光一文部科学相が10月24日、テレビ番組の「(英語民間試験は)自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえば」という発言を機に、文部科学省の導く大学入試改革の不満が噴出している。

萩生田光一の発言が教育格差の容認だという批判だけでなく、大学の教育や入試に政府が関与すること自体への不満が根底にある。

本来、それぞれの大学が自分の好きな教育をし、好きな学生を入学させていいはずだが、日本政府はそれを許さない。教育の現場の人間に「教育をする自由」がないのだ。

国立大学だけでなく、私立大学も日本政府の補助に依存している。そして、昔のような大学の自治はもはやなくなっており、文部科学省とつながった大学事務部門が、予算を取り仕切ることで、大学での権力を確保しつつある。

私の若い頃は、政府に逆らう国立大学、公立大学があって、政府もそれらを強権的にいったん潰し、再編成した新しい大学をつくることで、大学の自治を暴力的に破壊していた。現在は、わずかなお金で、大学の職員を自由に操れるようになっている。

今でも、日本政府は反権力的教師を排除したいと思っているだろうが、現在の入試改革は、大学が企業に有用な労働者を送り出す機関に改革する一環のように見える。

しかし、日本政府が、どんな卒業生が企業で役立つのか、判断できるとは、思えない。官僚が、今後の産業の発展を予測できるとは思えない。

私の昔の経験でも、頭の悪い奴が上級国家公務員試験を受けて役人になる。自分の力で生きていけると思っているものは、役人になって、政治家のために働きたいと思わないからだ。私も企業に就職してから経済産業省の官僚とも接触したが、彼らは本当に頭が悪い。

イノベーションとは、みんなと違う発想をするから生まれる。大企業からイノベーションが生まれないのは、常識の世界での優秀な学生を面接でとってしまうからだ。企業の現場でも、何が有望な学生かわからないのに、凡庸な官僚がわかるはずはない。

英語の話す聞くが、理系の学生に必要なのか、私は、そう思わない。私は外資系の研究所にいたので、予算をとりに頻繁にアメリカに行っていたが、アメリカの研究所の連中も、英語が母国語でない人がいっぱい いる。私は、英単語は300しか知らないと豪語していたが、そのことで逆に好かれていた。

入試で、聞く話す能力テストや記述式テストがないというのは、自閉スペトクラム症やディスクレシアや吃音症のひとが高等教育を受けるチャンスのために必要なことなのだ。

頭の悪い官僚諸君、平々凡々な子どもだけを大学に入れてどうしたいのだ。

本当は、入試なんて不要だと思う。大学で勉強したいひとをすべて大学で受け入れれば良い。大学卒を資格だと思うひとは、大学にこなくてよい。そのためには、大学に誰でも入れて、卒業ということが、そのひとの能力の保証だという幻想を打ち壊すべきである。

大学は、能力保証をする機関ではなく、教育をする機関である。

大学経営の観点からは、誰でも受け入れることはすぐにはできないが、お金での裏口入学をやめて、多額の寄付金を払う学生を正式に一定程度受け入れて、そのお金で貧しくて勉強したいひとに無料の教育の機会をあたえることで、大学の受け入れ人数を増やせるのではないだろうか。

日本国憲法の第26条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」は差別的である。「その能力に応じて」は不要である。

教師が、子どもたちを愛し、同僚との仲間意識をもてるには

2019-10-29 21:09:06 | 教育を考える

神戸市の小学校で、中堅の教師たち4人が、なりたての若い教師に暴力や暴言を繰り返すという事件があった。周りが傍観しているということで、すなわち、黙認したり容認したりすることで、いじめと同じ構造である。なぜ、こんなことが起きるのだろうか。

2年前、高校のときの同窓生が4人、下町のすし屋に集まったとき、子供のときの学校の先生たちの話がでた。いい思い出である。具体的なエピソードはちがっていても、先生方への感謝の気持ちでいっぱいだ。

私が小学校1年のとき、運動場で転んで膝に血がにじんだとき、担任の中年の女の先生が、とっさに、傷口をなめてくれた。じつに素朴な愛である。
放課後も、先生方は残って、子どもたちの遊び相手をしていた。子どもたちに交じって、ソフトボールをしたり、雨の日は、その当時まだ珍しかったテレビを集会室で一緒にみていた。
私の2年、5年、6年の担任の先生は、音楽の授業で、クラシック音楽のレコードを聞かせてくれた。今でも、クラシック音楽が好きである。

当時の年配の先生方には負い目があった。戦前の大日本帝国の権威主義、集団主義、規律主義の手先になったことへの反省である。先生方は、子どもたちを愛することで、聖職者との誇りを再生させようとしていたのではないか
授業も楽しかった。雑巾縫いや木工細工や料理も教わった。

とにかく自由を満悦して私は育った。宿題をした記憶がない。

私が子どものときは、9割以上の先生が日教組(日本教育組合)に加入していた。

1960年代にはいると急激に組合加入率がさがり、新規採用の教師の加入率は1990年から約20%になっている。
私は、組合が不人気になったというより、組合に入らない人間を意図的に採用しているからだと思う。

先生の仕事が忙しすぎるというのは、先生に不要なレポートを提出させすぎるからではないか。私は、先生同士が仲良くならないように、また、権力に逆らうようなことを考えないように、わざと忙しくしているのではないかと思う。

提出レポートが多いというのは、教師の人事管理の強化のためであり、何かあったときに校長が教育委員会が言い訳をするためのものである。その時間を、子どもとの接触に、同僚との情報共有に使うべきである。

教師同士に仲間意識があり、子どもたちをいとしく感じるのが自然である。

先生が忙しすぎるなんて、おかしい。組合の力で解決すべき問題である。

現在の、学校に日の丸が掲げられ、国家が歌われるなんて、愛国の道徳教育がおこなわれるなんて、異常な風景である。
自民党や文部科学省が、公立学校を自分たちの統治の手段、洗脳教育の場としてきたのである。教師のことも、子どものことも想っていない。

良い教育とは、勉強ができて勤勉であり上に逆らわず空気を読む人間を作ることではない。
詰め込み教育は子どものこころをむしばむ。
スポーツなど部活は学校の名誉のためにするのではない。遊びの場であるべきだ。
運動会は、学校の統制力、しつけを保護者に見せるためではない。先生方、保護者たち、子どもたちがいっしょに遊び、コミュニケーションを滑らかにするためのものだ。

不思議なのは、いじめ問題が発覚すると、学校単位で組織防衛に走る。本当に仲間意識があって助け合って教育に当たっていれば、もっと、初期の段階でいじめを防止できたはずだ。問題が起きると、単に責められたくないから、組織防衛に走るだけで、個々人のモラルが崩壊しているままだ。

私は、現在の、教師の資格、採用儀礼を疑う。放送大学で教育学の講義を聞いていると、公的教育というものは政府の方針に忠実であるが第1で、ことがあれば校長を中心に組織を防衛せよと言っているにすぎない。また、児童心理の講師は、現実の子どもの教育にあたったことがないように見える。個々人の多様性を教えていない。

公立学校の教師は毎年春に移動の対象となる。職場移動は、戦前の大日本帝国が官吏をこき使うときのテクニックである。下級官吏に仲間意識が芽生えるのを防ぐためである。下級官吏が地域住民と仲良くなるのを防ぐためである。

神戸市の場合は、教師の移動がなかったが、そのぶん、校長の権限が強かった。校長のお気に入りの教師がのさばっていた。

結局、戦前の大日本帝国の時代と同じく、現在の先生の資格は、政府の優秀なロボットであるというお墨付きにすぎない。そして、恐ろしいことに、AI 技術を使って、生きている教師を、感情のない本当のロボットに置き換えようという話まで出ている。

自民党や文部科学省は、自分たちのしてきたことを恥ずべきである。

神戸市の小学校同僚への暴力や嫌がらせは管理体制が生んだ歪みか

2019-10-27 22:09:02 | 教育を考える


神戸市の小学校で起きた、教師4人が同僚に暴力や嫌がらせを繰り返す事件は、正直、理解しがたい。これまで、こんなことは見たこともないし、聞いたこともない。

特に理解しがたいのは、この暴力や嫌がらせがおおぴっらに行われていたのに、だれもとめなかったことだ。

小学校というのは密室なのだろうか。子どもたちが各家庭から来ているから、親たちに話が伝わるはずである。親たちは、自分の子どもに火の粉が飛ぶのを恐れ、黙認していたのだろうか。

教師も、暴力や嫌がらせをした4人とその対象になった同僚(複数のようだ)だけでなく、どちらにも属さない教師たちがいたはずである。とめなかったということは、容認したのである。彼らは、親たちより罪が重い。

校長や副校長は教師を管理していたはずである。繰り返し暴力や嫌がらせを受けた教師は、校長や副校長に訴えたという。みんなが暴力や嫌がらせを目撃していたのだから、わからないはずはない。黙認した親たちや容認した同僚の教師より、はるかに、罪が重い。

市教育委員会にその話が伝わらないはずがない。教育委員長は神戸市長が任命した。すると、不適切な人を神戸市長が任命したことになる。校長の任命権は教育委員会にあるはずだ。

政治学者の姜尚中は「AERA」2019年10月28日号で、戦前の古参兵が新兵をいたぶり、しごき、リンチするのに似ていると言う。暴力を、将校たちは容認し、仲間の兵士は黙認していたのだ。

私の記憶の小学校では、このようなことを目撃しなかったし、聞いたこともない。私の子どもの頃は日本に戦後民主主義がまだあった。学校の教師たちは、平等だったし、仲間意識があった。

現在の小学校の教師は、上司から評価を受け、賃金格差がある。上司とは、校長や副校長や学年主任である。昔と違って、教師の中に上下関係が出来上がっている。今回の暴力や嫌がらせは、この上下関係の中で、上が下に行う形で行われている。

しかも、神戸市では、校長が自分の好きな教師を引き抜くことができるから、昔より、権力が強い。校長が新人教師を虫けらのように思っていたのだ。自分の経歴に傷つくのを恐れ、教育委員会に解決しているかのように報告したのだろう。

文部科学省が導入した教師の管理体制が、学校の教師のモラルを崩壊させたと思える。子どもたちを教える教師同士の仲間意識が崩壊しているから、暴力や嫌がらせが起きても、とめない。

本事件は、事実をちゃんと調べて裁判に付すべきである。校長も教育委員会も裁かれないといけない。