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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

高校の国語、文学を軽視?高校に国語はいらない

2019-10-15 22:17:31 | 教育を考える

きのうの朝日新聞の教育面に、『高校の国語、文学を軽視? 2022年度からの新指導要領に懸念』というインタビュー記事があった。意見を述べているのは、大滝一登(文部科学省の視学官)と安藤宏(日本近代文学会理事、東大教授)である。

両者とも「国語」という教科の存続を前提とした話であって、私は高校に「国語」という教科があること自体に疑問をもつ。「国語」は小学校では必要な教科であるが、高校ではもはや必要がないと思う。「国語」のかわりに「日本文学」や「コミュニケーション学」や「言語学」という教科があれば、良いのではないか。それとともに、検定「教科書」を廃止すべきである。

「国語」という教科の問題は、ことばを教える装いをしながら、じつは、情緒教育、人格教育、社会道徳教育だったりする。すなわち、「国語」教育は洗脳教育になりやすいのである。しかも、現実の教科書は文部科学省の検定を受ける。また、その教科書の理解度をはかるという名目でテストを行い、子どもたちのもつ個性を奪っているのである。

大滝は、グローバル化の予測不可能な社会では、「多様な他者と共同して課題を解決することや様々な情報を見極める力が今より求められます」と言う。

なぜ、これを教える教科を「国語」というのか。「他者と共同して課題を解決する力」や「様々な情報を見極める力」は、本来「国語」という教科とはべつのものではないか。これらの力は、どのようにすれば身につくのか、また、身についたと判定するのか、文部科学省と教科書会社に任すのではなく、みんなでおおやけに議論すべき問題である。

また、大滝は「求められる」と言うが、誰が求めるのか。具体的には何を求めるのか。
自民党が経団連が日本政府が求めるからであってはならない。

教育とは、教育を受ける者にとって利益になるモノでなければならない。例えば、日本以外で教えられているライフスキル教育は、弱い者が強い者に負けないようにするにはどうするかを教える。また、高卒で働く場合もあるから、被雇用者が自分の身を守るのに、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法がどう役立つのか、法的権利について具体的に教えるのでなければならない。

大滝は「社会に出て会議や折衝の場面で小説や物語、詩歌をそのまま使うわけではありません」と「文学に偏った国語」教育を批判する。そして、必須科目の「現代の国語」では、「主張と論拠の関係や情報の妥当性や信頼性の吟味の仕方」を教え、また、選択科目の「論理国語」では、「論理的、批判的に考える力を伸ばし、伝え合う力を高めること」を教えるのだという。

「主張の妥当性や信頼性」は論理から出てくるのではない。ある人に妥当なことは他の人にとって妥当ではない。根底に利害の対立があるからだ。

アメリカの企業管理技術教育では、この利害が違うかもしれない集団(stakeholders)を分析し、妥協点を探る訓練をする。よくウィンウィン(win win)の関係と言うが、そんなものはない。あるなら、両者は同じ利害集団に属する。相手を押しまくるに必要な経費と妥協することの損失のバランスをはかるだけである。

大滝は、既得権益者のために、屁理屈を言っているだけである。

安藤は大滝の屁理屈に巻き込まれている。安藤の言う「異質な他者や価値観と出あい、世界を根源から問い返していく力」には私は賛成だが、これを「国語」というのはおかしい。日本語だけで考えるのではなく、他言語を使って考えることこそ、ことばに酔いしれないために、有用である。

5年前に、古代ギリシア語の辞書を用例から自分で作成したとき、ことばのもつ概念が言語によって大きく異なるのに驚いた。ことばは、社会構造の反映でもある。1つの社会のことばに頼っていては、社会を変革する思想が生まれてこない。英語でもドイツ語でも用例を集めて、著作を批判的に読むようにしている。

教育とは、教育を受ける本人にとって有用でなければならない。就職に有利な教育だけでは、いつまでもたっても「自由人」にならず、心のいじけた「奴隷のしもべ」か残虐な「ご主人様」にしかならない。

ブレイディみかこの息子と元底辺中学校とライフスキル教育

2019-09-11 22:49:14 | 教育を考える


妻が買ってきたブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)が面白い。知らなかったことが、つぎつぎと書かれている。

英国では公立でも子どもが通う小学校、中学校を親が選択できるということだ。著者の一家は、息子が通う小学校としてカトリック校を選び、中学校としては元底辺校を選ぶ。

知らなかったが、英国では、英国教会、カトリック、ユダヤ教、イスラム教などの公立の宗教校がある。そして、宗教校の親は一般に裕福で、教育熱心である。しかも、カトリック校は色々なオリジンの子どもたちがいて、人種差別がない。

それに対して、公立の非宗教校の親は学校に関心がなく、「近くだから」が学校選択の理由になる。荒れている学校が多い。それを底辺校という。著者が選んだ中学校は、以前に、底辺校だったということだ。

私がびっくりしたのは、その元底辺校の先生方が、子どもが社会の中で積極的に生きていけるよう、いろいろと工夫をこらしていることだ。そして、子どもたちの教育を充実させるために、積極的にお金を稼いでいくことだ。

たとえば、創作ミュージカル劇を開いて、入場料をとる。入場料を取るからには、ショーとして面白いものをやる。入場料はミュージカル劇をやるに必要な器具、設備に使われる。

先生方がたくましい。学校を楽しいものにして、かつ、実際に社会に生きていけるようにする。この先生方のエネルギーはどこから来るのか。自由と民主主義の理想が、エネルギーになっているのではないか。

日本の学校の先生方は、個人的に話してみると、意外と、心の中に理想をひめている。しかし、規則にがんじがらめになって、書類を作り、文部科学省の指令に従おうとしている。無駄なことをしている。つまらない、死んだ知識を子どもたちに詰め込んでどうするのだ。

英国の中学校の教科に「ライフスキル」があると、本書から知った。テストがあって、5段階評価される。著者の子どもが受けたテストの問題は、「empathyとは何か」、そして、「子供の権利を3つあげよ」だったという。著者の息子は、前者に対して「自分で他人の靴を履いてみること」、後者に「教育を受ける権利、保護を受ける権利、声を聴いてもらう権利」と答え、満点をもらったという。ちゃんと、国連の子どもの権利条約を教わっていたという。

じつに実用的だ。日本の道徳教育は自己を殺し国に尽くすことを教えて、子どもたちを幸せにすることを全く考えていない。

empathyは他人の気持ちを推しはかることで、よい人間関係を作るのに大事なことだ。いじめれたとき、どうふるまえば、その場から脱出できるのか。いじめられた子供を見たとき、どうすれば、いじめをとめることができるのか。まさに、「ライフスキル」である。

日本の道徳教育は、いまだに、権利に義務が伴う、自由に責任が伴うと教えている。それは、戦前の天皇制の遺物で、間違っている。

英国の公立学校が素晴らしいが、ブレイディみかこも、その息子も心が強い。私がNPOで担当している子どもたちも親も心が弱い。個人を否定し、集団行動をとる教育を受けてきたからだ。みんなと異なることを怖がっている。日本こそ、道徳教育を足蹴にし、ライフスキル教育が必要である。

小学校のプログラミング教育は不要

2019-07-07 21:01:43 | 教育を考える
 
小学校でプログラミング教育を2020年から導入するという。私は、外資系の研究所で、コンピューターの新しい活用を研究開発してきたが、小学校でのプログラミング教育は不要だと考えている。
 
今の小学校は、あまりにも、教えることがいっぱいあるからだ。小学校で漢字を教えない、英語を教えない、というのなら、プログラミング教育が行える余地があるかもしれない。
 
しかし、学習には、臨界期があり、あまり早くから始めても何の意味がない。プログラミングに向いていない子どもたちに、不要な劣等感を持たすだけだ。
 
研究所の退職後、私は、大学で講師もしたが、今はNPOで子どもたちに、ワードや、表計算ソフトのエクセル、プレゼンのパワーポイントなどをも教えている。これは、学校の勉強についていけない「発達障害」の子どもたちに自信をもってもらうためである。国語や英語や数学ができなくても、タブレットやパソコンを利用できることを知ってもらうためだ。
 
だから、いやな子には むりじい しない。
 
そして、小学校でのプログラミング教育が必要だと思っていない。
 
小学校のプログラミング教育は、経団連などの産業界と経済産業省官僚と大学の情学部教職者との利害が一致したからではないかと疑っている。文部科学省は、なんとか、子どもの教育に悪影響を及ぼさない範囲で、これらの圧力団体のメンツを立てようと苦労しているように思える。
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小学校のプログラミング教育推進派は、プログラミング言語を教えるのではなく、プログラミング教育を通して、失敗を繰り返しながら、論理的思考力を養うのだ、という。
 
論理的思考能力を養うなら、コンピューターを使う必要がない。紙と鉛筆があれば十分だ。計算を必要としないような数学的パズルを解いてもらえばよい。
 
例えば、4つの箱がある。天秤を1回使えば、2つの箱を比較できる。どのような手続きで、4つの箱を、軽いものから重いものに、並べることができるか。最悪の場合でも、少ない天秤の使用回数で、軽いものか重いものに並べることのできる手続きは、どのようなものか。
 
こういう「手続き」のことを「アルゴリズム」という。
 
しかし、手続きを書くだけなら、紙と鉛筆で、朝起きてから学校に行くまでの行為を、紙に書けば良い。
 
もちろん、これで、論理的思考力が増すとは、思えない。このような手続きを書くことは、「マニュアル化」と言い、「アルゴリズム」を考えだすことにはならない。
 
今から2300年前に、ユークリッド原論は、2つの自然数の最大公約数を見つけるアルゴリズムを書いている。
 
2つの自然数が等しければ、それが最大公約数である。そうでなければ、2つの自然数のうち、大きい数を小さい数で割り、余りを得る。余りがゼロでなければ、小さい数とその余りを、新たな2つの自然数の組と考えて、前の手続きを繰り返す。余りがゼロであれば、割るに使った小さい数が、最大公約数である。
 
このような、「繰り返し」と、その「停止条件」を含む手続きは、プログラミング言語を用いて書くと、明確になる。
 
もちろん、アルゴリズムをプログラミング言語で書くのに、コンピューターもタブレットもいらない。
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小学校で教えるビジュアル・プログラミング言語は、単に、プログラムを実行すると、スクリーンに絵を描くだけである。指導要領にしたがって正多角形を画面に描かしても、子どもの論理的思考力が高まると思わない。
 
繰り返しも停止条件もないプログラムを書かせても、意味がない。
 
さらに、このビジュアル・プログラミング言語は、将来、職業としてプログラミングをするにも、役立たない。違うプログラミング言語を使うことになるからだ。
 
そんな無用な言語教育をするなら、ワードを教えたほうがよい。キーボードのアルファベットが読めるようになる。漢字を正しく読めないと、仮名漢字変換が使えないから、自然と漢字が読めるようになる。もっとも、私は、日本語から漢字を排除したいが。
 
また、機器になれるのが目的なら、スマホの使い方を教えれば良い。
 
大学の情報処理の教職者たちは、自分の学生の就職先を考えて、早期プログラミング教育なんて無意味なことに、賛成しているだけだ。

英語か国語か、古文か漢文か、優先順位決めるべきだ

2019-06-23 20:04:09 | 教育を考える

英語教育の早期化が必要だとは思っていない。

子どもにとって、学ぶことが多すぎることは、決して良いことではない。英語を幼少のときから始めたいのなら、日本語教育を放棄すべきだと思う。英語を第1言語にし、日本語を第2言語にすればよい。

私は幼稚園に行ってない。おかげで小学校の授業はいつも新鮮で楽しかった。

学習には「臨界期」があって、学習に最適のときがくるまで、先走りして学習しても、なんの役にもたたない。子どものときは神童、大人になってタダの人になるだけだ。

脳の神経細胞のつながりは、まず、遺伝子に書かれた設計図にしたがってできていくが、ある段階から外界の刺激、すなわち、個体の体験に沿って、神経細胞のつながりができるようになるという。外界の刺激で神経細胞のネットワークが形成される時期が、「臨界期」である。

「臨界期」は学習課題で差があり、また個人差もあるが、その「臨界期」の始まりは急に立ち上がるが、終わりはダラダラと続く。これが、先走りして学習しても、なんの役にもたたないが、遅れて学習を始めても本当は問題がない理由である。単に、いまの学校教育が競争と選別を繰り返し、脳の成長の個人差を無視しているため、「早期教育」が特定の個人に有利に働くように見えるだけである。

社会は各個人がゆっくり学習することを認めないと、人間のもっている豊かな才能を無駄にする。人類の損失である。

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世の中にいろいろな言語がある。よりによって、早期教育で、英語を優先する理由がわからない。英語の発音を優先すれば、日本語の発音がおかしくなる。常にトレードオフの関係なのだ。

音を表わす、音声記号は5,6百はある。言語を選択することで、個々人が認識する音素の数を減らしているのだ。

バイリンガルとは、脳に大きな負担をかけることなのだ。子どもの希望を聞かずに、バイリンガルにしようというのは、大人のわがままだ。

無理して英語を選択する理由は、工業製品の輸出先アメリカとの貿易関係からではないかと思う。それとも、軍事大国のアメリカのご機嫌をうかがいたいのかな。

しかし、アメリカ英語でも、地域によって異なる発音で話しているし、移民の国なので、どこの出身かによって、違う発音でしゃべっている。発音が違っても、同じ英語を話しているのだと認知することが、現場では重要なのだ。すなわち、なまった英語を話されても、理解できることが重要なのだ。

心配しなくても、向こうで暮らすと自然になまった英語を理解できるようになる。

すると、育ちの良い階級の英語を話したい、というのが、英語早期教育の狙いのようだ。それなら、自分の子どもを、金持ちの子だけがはいれる外国の全寮制の学校に入れれば良い。日本の小学校で、品格のある英語を話すよう教育するのは、どだい無理である。

私の高校のときの同窓生に銀行マンで、完璧な英語を話すものがいる。しかし、彼は、国際的なパーティでは、つらい思いをしていたという。パーティの話題が、イートン校やハーバート大学やオックスフォード大学でないと通じないものが、多かったからと言う。その同窓生は京都大学出身である。

私は、理系だから、ブルーカラーである。労働者である。みんな、なまった英語を話す。だから、労働者の集まりでは、だいじなのは、何をなして、何をなすことができるかである。

日本の国策を決める人は、なにか、英語に関する劣等感をもっているのではないか。自分の劣等感で、他の人を巻き込んでほしくない。

アメリカ人との交渉において要求されるのは、アメリカの歴史と法律と社会構造の理解であって、なまっていない英語を話せることではない。

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それに、英語というのは、特殊な言語である。

第1に、英語では、つづりと発音に大きな差異がある。文字というものをはじめて学ぶためには、適切な言語ではない。文字教育に関してはイタリア語を選択した方がましである。

第2に、名詞、形容詞、冠詞の語尾の格変化とか、人称による動詞の語尾変化とかが、英語から失われている。ドイツ語でも、定冠詞の格変化が残っている。文法に関しては、ラテン語か古典ギリシア語を選択した方が良い。

英語では格変化のかわりに、前置詞で名詞と動詞との関係を明確化するが、前置詞の選択は、動詞に依存するので、話し手の負担が高い。また、動詞の人称変化が失われたので、人称代名詞を動詞の前に置くようになっているが、人称代名詞に「あなた」と「あなたがた」が区別できないなどの欠陥がある。また、命令形においては、動詞の人称変化がないのに加え、人称代名詞が省かれるので、誰に向かって命令しているか、曖昧になる。

古典ギリシア語では、「あなた」に命令しているのか、「あなたがた」に命令してしているのが、「人間というもの」に命令しているのか、区別できる。

英語はカタコト言語なのだ。最初の語学教育には向いていない。

したがって、日本語を第1言語として、ここしばらく、日本の初等教育を教えていくので、良いと思う。

英語教育の前にローマ字を教えるのが良いと思う。文字列と発音との対応に規則性が高いからだ。そのとき、日本語の50音図の子音が崩れていること、また、日本語では、二重母音が長母音化していることなどを教えることで、発音の学習ができる。

“A”は「エイ」であって、「エー」でない。“open”は「オウプン」であって、「オープン」ではない。

私のNPOで、ちょっと軽いディスクレシアの男の子がいたが、中2から英語の発音の練習を週1回行っていたら、音を聞き取れるようになって、リスニングで英語会話の意味がわかるようになった。「臨界期」の終わりは緩やかであり、遅すぎると悩む必要はない。

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日本語の欠陥は、民主主義社会を選択しているのに、敬語があることだ。少なくとも、尊敬語と謙譲語を日本語教育から排除すべきである。

学校教育で、古文、漢文は不要である。厳禁する必要はないが、そんなものをありがたがるのは頭がおかしい。学校教育から覚えることをできるだけ排除すべきである。

明治時代にたくさんの「漢語」が増えたのは、もともとの日本語には、哲学的な思考、科学的思考に必要な語彙が少なかったからである。「精神疾患」と言うより “mental disorders”と言ったほうがぴんと来る。日本語に、外国語を挿入するため、文章は横書きにすべきだろう。

日本語を第1言語とするとしても、縦書き教科書を廃止すべきである。縦書きの日本語はいらない。

道徳教育で「善悪」を教えることは怖いことだ

2019-06-10 12:01:17 | 教育を考える


2年前に、放送大学で、発達心理学を道徳教育の効率化に利用しようと言っていた。これは怖いことだと私は思う。

発達心理学によれば、多くの子どもたちが言葉の奴隷になりやすい。考えるより、言われたとおりに、行動する子どもの特性を利用することが、怖いのである。

何が「善」で、何が「悪」かは、自明ではない。それなのに、学校の道徳教育は「善悪」を教えようとする。

「善悪」を教えるより、人の言うことを疑い、自分で考え、自分の気持ちに素直になるべきか、それとも人の意見を取り込むか、判断できるように、育てた方が良い。教育は子どもの自立を助けるということである。

権力を志向する者は自分が正しいと思っており、自分は誰かに命令されるのは嫌いなくせに、人に命令するのが好きだ。帝王学とは自分は何をやっても良い、暴君になっても良いという秘義を授けることである。

「善悪」が自明でないということは、権力者以外にとって、道徳教育で、言葉の奴隷になるだけでなく、命令大好きの権力者の奴隷になることだ。権力者は直接命令するだけでなく、忖度する側近者や部下にそれを代行させる。

小学校の道徳教科書に、いまだに、監督の指示に従わず、バンドしなかった選手を責める話が載っている。上からの指示に従わないことを「悪」とする考えが、子どものときから叩き込まれているから、いまだに、安倍晋三の逆らう者を「非国民」という、トンデモナイ人たちがいる。