猫じじいのブログ

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萩生田光一の発言と文科省の大学入試改革への不満

2019-11-10 22:02:36 | 教育を考える

萩生田光一文部科学相が10月24日、テレビ番組の「(英語民間試験は)自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえば」という発言を機に、文部科学省の導く大学入試改革の不満が噴出している。

萩生田光一の発言が教育格差の容認だという批判だけでなく、大学の教育や入試に政府が関与すること自体への不満が根底にある。

本来、それぞれの大学が自分の好きな教育をし、好きな学生を入学させていいはずだが、日本政府はそれを許さない。教育の現場の人間に「教育をする自由」がないのだ。

国立大学だけでなく、私立大学も日本政府の補助に依存している。そして、昔のような大学の自治はもはやなくなっており、文部科学省とつながった大学事務部門が、予算を取り仕切ることで、大学での権力を確保しつつある。

私の若い頃は、政府に逆らう国立大学、公立大学があって、政府もそれらを強権的にいったん潰し、再編成した新しい大学をつくることで、大学の自治を暴力的に破壊していた。現在は、わずかなお金で、大学の職員を自由に操れるようになっている。

今でも、日本政府は反権力的教師を排除したいと思っているだろうが、現在の入試改革は、大学が企業に有用な労働者を送り出す機関に改革する一環のように見える。

しかし、日本政府が、どんな卒業生が企業で役立つのか、判断できるとは、思えない。官僚が、今後の産業の発展を予測できるとは思えない。

私の昔の経験でも、頭の悪い奴が上級国家公務員試験を受けて役人になる。自分の力で生きていけると思っているものは、役人になって、政治家のために働きたいと思わないからだ。私も企業に就職してから経済産業省の官僚とも接触したが、彼らは本当に頭が悪い。

イノベーションとは、みんなと違う発想をするから生まれる。大企業からイノベーションが生まれないのは、常識の世界での優秀な学生を面接でとってしまうからだ。企業の現場でも、何が有望な学生かわからないのに、凡庸な官僚がわかるはずはない。

英語の話す聞くが、理系の学生に必要なのか、私は、そう思わない。私は外資系の研究所にいたので、予算をとりに頻繁にアメリカに行っていたが、アメリカの研究所の連中も、英語が母国語でない人がいっぱい いる。私は、英単語は300しか知らないと豪語していたが、そのことで逆に好かれていた。

入試で、聞く話す能力テストや記述式テストがないというのは、自閉スペトクラム症やディスクレシアや吃音症のひとが高等教育を受けるチャンスのために必要なことなのだ。

頭の悪い官僚諸君、平々凡々な子どもだけを大学に入れてどうしたいのだ。

本当は、入試なんて不要だと思う。大学で勉強したいひとをすべて大学で受け入れれば良い。大学卒を資格だと思うひとは、大学にこなくてよい。そのためには、大学に誰でも入れて、卒業ということが、そのひとの能力の保証だという幻想を打ち壊すべきである。

大学は、能力保証をする機関ではなく、教育をする機関である。

大学経営の観点からは、誰でも受け入れることはすぐにはできないが、お金での裏口入学をやめて、多額の寄付金を払う学生を正式に一定程度受け入れて、そのお金で貧しくて勉強したいひとに無料の教育の機会をあたえることで、大学の受け入れ人数を増やせるのではないだろうか。

日本国憲法の第26条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」は差別的である。「その能力に応じて」は不要である。


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