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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

コロナ禍の長期休校は 学歴中心の思考をたたきつぶすチャンス

2020-06-06 18:40:14 | 教育を考える


きょうの朝日新聞の記事、「コロナ禍の長期休校による学びの遅れを取りもどすため、文部科学省は、小中学校の教科書のうち、約2割分を授業外で学ぶことができるとする6月5日の通知」に、私はこころ穏やかでいられない。

私にとって不快なのは、文部科学省の通知自体ではなく、「子どもの勉強をみる家庭の負担が増えることは避けられず、懸念の声が上がっている」という保護者や教員の反応である。

「授業以外の場での学びを求められることに、小中学生の親たちからは心配の声が上がる」と記事にあるが、横浜市の多くの親たちは、新型コロナ騒動以前から、学習塾に子どもを通わしているではないか。横浜市だけではない。地方都市を訪れると、商店街がシャッターを閉じて閑散としているのに、病院と学習塾だけがあちこちで開いている。

私の息子は、高校でいじめに会い、不登校気味になり、登校日数が足りないということで、2年留年になり、その時点で高校を退学した。私の息子は、したがって、高校卒の資格がない。

「コロナ禍の長期休校」というが、たかが、2,3か月の休校である。そんなに、学校教育が だいじか と思う。学校教育は政府による単なる「洗脳教育」にすぎない。

学校で、漢字なんか、教える必要があるのか。江戸時代の庶民は、「平仮名」の読み書きで、十分であった。漢字教育は、儒学者が自分を社会の上位にもってくるための、あるいは、儒学的価値観を押し付けるための陰謀ではないか。

親鸞も日蓮も、ほとんど「平仮名」の手紙を信者にむけて書いた。幕末から明治にかけての「新宗教」の開祖の人たちの「ふでさき」は、完全に「平仮名」だけであった。

漢字だけが問題ではない。「読解」とは、指示を正確に理解する訓練にすぎない。

考えてほしい。「コロナ禍の長期休校」というが、たかが、2,3か月の休校である。しかも、平等に起きたことである。私の息子は、登校日数が足りないということで、2年留年になったうえ、高校中退となったのである。

人が「おぼえる」ことに集中すれば、人は「かんがえる」ことをしなくなる。これこそ、政府の「ねらい」、陰謀だ。教科書の中身をおぼえる必要はない。おぼえてはならない。ひたすら、かんがえよ。

本来、教育すべきことは、人間は平等で、その人権を尊重しなければならない、ということではないか。テレワークができない仕事こそ、社会にとって、だいじな仕事ではないか。記事から見えてくる今の日本人はみんな、「学歴中心」の考えに毒されていないか。

私は、「戦後民主主義教育」をうけた世代である。学校教育の一番、だいじな教えは、人間は平等で、貧富の格差があってはいけない、戦争はしてはいけない、働くものによって社会が支えられている、ということであった。

今の学校教育は、与えられた課題が「できる」「できない」の刻印を子どもの額に押し、社会に格差があるのが「あたりまえ」であると洗脳しているのである。劣等感を押しつけ、権力や専門家にしたがうよう、飼いならしているのである。

朝日新聞の記事に「習っていない範囲を含めて出された膨大な量の宿題を、つきっきりで教えた。仕事が手につかなかったが、特に中3の子は受験生なので、内申点に影響してはいけないと思い、がんばって教えた」とある。「内申点」を気にするとは、子どもに「いい点」をとらせ、「いい学校」に入らせ、「いい会社」に就職して、「らく」をさせたいという親の格差肯定の思いがある。

「読字障害」の子どもたちをみるにつけ、学校教育がまちがっている、「学校解体」「国家解体」こそが必要だという思いがつよくなる。

52年前の1968年の5月に、フランスのパリのカルチェラタンで、道路の敷石を外して警官隊に投げたことがあった。「5月革命」である。なんと楽しいことだろう。

権威に はむかうことを教えない学校は「解体」すべきである。人生は、社会は、もっともっと楽しい、」ということを教えるべきある。

リモート学習はとても疲れる、早く学校を再開してほしい

2020-05-16 22:16:03 | 教育を考える


きのうの朝、私のNPOが、Zoomを使って、スタッフ研修を行った。Zoomを使っての遠隔学習指導の研修である。NPOでの最初のリモート研修なので、接続がうまくいかないスタッフがいたり、ミュート(マイク音をきる)にしないのでハウリング(反響)や犬の鳴き声がうるさかったりして、混乱し、なかなか研修が始まらなかった。結局、1時間近くして、予定の研修が始まり、さらに1時間のZoomの操作解説と遠隔指導の注意点の話しを聞いて、研修が終わった。

私は、このリモート研修に疲れはてた。それで、きのうは、いつもの散歩もせず、食欲もわかず、テレビからの音楽が不協和音のように頭の中で響いた。

リモート研修の参加者は30人近くで、5×5のマスのなかで、みんなが右往左往していた。私はというと、神妙な顔をして、ビデオカメラの前で、とりつくろっていた。しかも、研修がなかなか始まらず、いつ始まるか気になって、緊張していた。

遠隔指導の一番の要点は、子どもたちが、画面に神経を集中し疲れはてることを知って、小休止をいれながら学習指導を進めなさい、ということだ。

四角い画面を通して、何か伝え合うことは、とても疲れることである。新聞を読むと、新型コロナ緊急事態宣言で学校が閉鎖になり、私立校では、授業がリモートになっている、という。記事のわきに、生徒たちが画面の縦横のマス目のなかに埋められている写真が添えられていた。

理屈の上では、ITの力で、一目で子どもの授業態度が見渡せる、というが、これは、先生方に神経を非常に疲れさす。「Zoomづかれ」という言葉がアメリカに あるらしい。

私はNPOで ふたりに 1対1のリモート指導をしている。学校の先生よりずっと負担が軽いはずだが、それでも大変だ。

そのひとりの中学生が、1週間前、私の30分のリモート指導の後、「とても疲れた」とつぶやいた。いつも、「わからない」とはっきり言える子で、非常に学習指導しやすい子である。ところが、そのときは、「わからない」とは一度も私に言わず、私は私で、予定のところまで進もうという気持ちでいっぱいで、リモート学習が疲れることを意識していなかった。

今回のリモート研修で、画面を通じて何かを学習しようとすることがいかに疲れるか、ハッキリと学んだ。

考えてみると、いままで、NPOでの対面学習は、勉強したいと気持ちが高まるまでは、じゃれあっていただけだ。子どものほうから、「先生、知ってる~」と、昔のポップスの話しや好きな絵画の話しをしてくれた。買ってもらったばかりの和音が吹けるハーモニカを見せてくれたり、昔のスバルの自動車が好きだとスマホで見せてくれたりした。帰るときは、「先生」と抱きついてくる子だった。男の子だったので、女のスタッフは気持ち悪がり、私が彼の学習指導を引き受けたのだ。

リモート学習となると、私のほうも、ここまでは教えないといけないと思い、つい、効率に走る。この子はチックのけがあり、心の余裕を与えることが、学習指導に優先するということを忘れていた。

もう一人の子は、小学2年生で、個別指導のクラスにずっといる子である。引き受けたとき、この子の親は、言葉が話せないと心配しており、この子に勉強はいらない、好きなことを一生すればよい、音楽ができればよいと言っていた。教材を使った学習指導はむずかしかったが、一緒に遊びながら声をかけると、返事がくるようになった。絵をかいたり、文字を書いたりすることが、とても好きな子であった。家で入浴しているときにも、絵や文字をかいているという。

体面で相手をしていると、足を絡ませてきて、私の存在を確認する子でもあった。すなわち、甘えっ子だが、母親は上の子の教育で いっぱい いっぱいで、甘え足りない子であった。

新型コロナ感染が広がると、親がバスに乗せるのが怖いと言って、NPOに連れて来なくなった。リモート学習をはじめたと知って、親から早速申し込みがあった。さて、リモート学習となると、一緒になって遊ぶということがとても難しい。30分の指導をどう組み立てたら良いか、悩ましい。その子自身は、私と画面越しに会うのがうれしくて、ニコニコしながら、カメラに顔を近づけてくる。前歯が抜けて永久歯が生えてくるときだから、笑顔がとてもかわいい。

ところが、直接あっているときはハッキリ聞こえた彼の声が、パソコンを通してだと、よく聞き取れない。私はヘッドホンをつけているが、いつものようには聞こえてこない。彼のつぶやくように話す声が聞き取れないのだ。

リモート学習より、やはり、直接の対面学習がよい。リモート学習はIT関連会社を儲けさすが、教える側にも教えられる側にも、そんなに良いものではない。学校の授業をリモート学習に切り替えたところでは、子どもたちも親たちも疲れはて、二度とリモート学習をしたくないと思っているではないか。

早く、学校を再開した方が良い。接触できる距離で対面することが教育では重要なのだ。

いま笑うな、人生の後半で笑え、ピアニスト清塚信也のばあい

2020-05-09 22:19:24 | 教育を考える

けさ、目を覚ました時、TBSテレビの『サワコの朝』(総編集編)がかかっていた。ピアニストの清塚信也が、姉とふたりで笑って遊んでいたとき、母親に「いま笑うな、人生の後半で笑え」と言われたと語ったので、びっくりした。

「小学校低学年の僕らに"笑う暇があったら練習しろ"って言うんです。」
「あんた達は音楽家になれなかったら、生きていかなくていいですってハッキリ僕らに言うんです。」

しかし、冷静になってみると、親が自分の思い込みで子どもの未来を決め、英才教育をする、これは意外とあることだ。音楽家だけでなく、左官業などの職人の世界でもある。受験勉強をしいる母親たちも同じである。そして、それに感謝している人たちも多い。

清塚はさらに語る。

「毎朝5時起きの朝練から始まって。たたき起こされるんですけど、時には眠くて起きれない時があるじゃないですか?そしたら母は “いい?人はいつかず~っと寝るときがくるんだから今は起きなさい” って。」

清塚の場合は、親が英才教育をさずけることに、疑問をもっている。自分の子どもには、自由に生きろと思っている。そして、ピアニストになってから、それを母に告げると、母は「姉とあんたの教育は失敗だった」と答えた。

切り抜きの総編集だったので、清塚の母親が何を指して何を「失敗」と考えたか、私には わからなかった。

私のことを言おう。認知症になって死んだ私の父は、「兄の教育に失敗した」と生前、私に語っている。父は兄を厳しく教育し、そのことで、父と兄との間に自然な心の交流が持てなくなった、ことを言っている。(もっとも、父と兄のばあいには、父が戦争に徴集され、兄の誕生を見ておらず、敗戦1年近くたって、4歳過ぎの兄を見たことにも一因があるだろう。)

私は父に叱られたことは、たった一度しかない。小学生のとき、兄にそそのかされて、父を物干しざおで突いたときだ。だから、親は子に愛情をいっぱい注いで育てるものだと私は思っていた。何か強いられたことはない。

清塚の母親は、姉と清塚のふたりへの教育と、妹への教育と、切り離して話すから、親子の情に何か問題を感じたのであろう。

私は、人間を、体験を通して得た記憶で動く機械だと思っている。何が好きだ、何が嫌いだも、偶然の個人的体験で形づくられると思っている。才能も思い込みで教育で形づくられたのかもしれない。教育も、記憶を形づくる体験だ。

私は「英才教育」は不要だと思う。「英才教育」は自己を見失う。「洗脳」と同じである。洗脳と教育に大差はない。

「英才教育」に限らず、自分の受けた教育を批判的に吟味し、思い込みから「自由」になることを、私は重んずる。もちろん、偶然に生じた「好き嫌い」の感情を否定せず、だいじにすればよい、と思う。

「愛情のない子育て」は親として教育の失敗である。


佐伯啓思の朝日新聞『社会が失う国語力』はちょっとオカシイ

2019-12-29 22:32:03 | 教育を考える
 
きのうの朝日新聞の佐伯啓思の《異論のススメ スペシャル》『社会が失う国語力』にコメントしたい。
 
OECDのPISAにおける日本の読解力低下をもって、安易な「教育改革」を進めるのはいけない、というのが彼の趣旨だと思う。そのこと自体には同意する。これについては、私も12月4日のブログ『OECDの「読解力」テストに日本の教育が左右されて良いのか』で議論している。
 
OECDとは、第2次世界大戦後、アメリカの金持ちが、共産主義思想から資本主義陣営を守るために、外国の経済復興を促す組織であって、物資や資金の援助、自由貿易の推進とともに、実用教育の推進を行った。したがって、PISAとは、実用的能力の習得度を測定するもので、すでに、経済復興をしている日本が、その順位に一喜一憂すべきものではない。しかも、日本のPISAの成績が少しも悪いわけではなかった。
 
PISAが読解力と言っているものは、単に、readingを通じての情報取得能力のテストにすぎない。したがって、タイトルの「国語力」は、OECDのPISAの目的とは何の関係もない。
 
ところが、不思議なことに、佐伯のなかでは、「国語力」がPC(ポリティカル・コレクトネス)と結び付いている。さらに、みんながスマホを見ているという話しまで広がっている。私もコメントせざるを得ない。
 
佐伯の言う「国語力」の中軸は、「読解力」である。彼によれば、
 
〈 読解力とは、著者の意図を正確によみ、かつそれを自分なりに解釈することである。〉
〈 国語の読解力が大事なのは、翻訳も含めて、国語で書かれた文章のなかに、先人たちの経験やそれをもとにした思索の跡が刻印されており、それを知ることがわれわれの想像力をかき立て、また鍛えるからである。〉
 
一般論として、そうも言えるかもしれない。しかし、古いものにろくなものはない。ごみ溜めのなかで、宝物を探すようなものだ。見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。「自由」とか「民主政」という概念は2000年前にはなかった。貧乏人は読み書きできなかったからである。古代の書物の多くは、支配者の「思索の跡」である。
 
じつは、佐伯が高校生のときに読んだものは、近代の外国物の翻訳である、と『社会が失う国語力』なかで述べている。
 
「先人」からといっても、日本には、鎌倉仏教をのぞき、思想の歴史がない。しかも、鎌倉仏教は江戸幕府の大弾圧で中断している。
 
外国物は翻訳でなく原語で読むのが良い。明治時代に、自分たちのもたない外国の概念を、無理やり、儒学の知識にたよって漢字を組み合わせ、造語で訳した。原語で読まないと、明治の日本人の誤解を引きずってしまう。
 
英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、ラテン語、古代ギリシア語、ヘブライ語が読めるというのが、読解力だ。
そうすると、日本語習得が「国語力」でなくなる。
 
さらに、上にあげた読解力がつくと、「言語」とはなんと限界あるものか、わかるようになる。それとともに、人間社会を健全に維持していくに必要なのは、特定の言語、日本語でも英語でもないことがわかる。「希望」「信頼」が社会に必要なのだ。
 
私の立場からいえば、「読解力」に力を注ぐよりも、わかりやすい日本語で話をし、わかりやすい文章を書くことに、力を注ぐべき、と思う。佐伯と反対に、私は、漢字をやたらと使うな、と言いたい。読むことに関しては、原語で、思想性のあるものを読めればよりよい、と思う。
 
世の中には孤立している子どもたちが いっぱい いる。ディズニーランドにもアイドルにもゲームにもスマホにも興味がなく、お金もない子どもたちがいっぱいいる。図書館に行けば、大きな本屋にいけば、日本語で思想を語ってくれる本がある。孤立している子どもにこそ、本を読んでほしいと思う。
 
そして、孤立している子どもたちに読んでもらえる、わかりやすい文章を書いてほしい。
 
敬語や漢字を教えるな。不要だ。
 
ポリティカル・コレクトネスについて言えば、これは、右翼の被害妄想にすぎない。自分の方が正義と思うなら、わかりやすい日本語で、自分の言い分がなぜ相手に分かってほしいのか、説明すれば良いだけである。今まで、他人に命令してばかりいたから、他人に説明できないようになっているだけである。
 
佐伯は「あるレストラン経営者」の話を紹介している。
 
〈 若い者が修業に来ても、簡単に叱れない。また、「君はどうしてそれをやりたいのか。ちゃんと説明してくれ」ともなかなかいえない。〉
 
「叱る」とは上から目線で、自分の命令に服従しろと言っているにすぎない。私は、「怒る」ほうは対等な人間関係を表わしているから、「叱る」より「怒る」をNPOの子どもたちの前で行う。私に命令したり、バカにしたら、「怒る」ことにしている。私に、命令するのではなく、お願いしなさい、と子どもたちに言う。そして、怒るのに、暴力をふるう必要はない。感情を隠さず表情にあらわせば良いだけである。
 
この経営者は修業者に説明をもとめているが、まず、経営者は修業者に説明できているのだろうか。経営者は、上下関係のある人間関係に慣れきって、対等な人間関係を築けなくなっていると思われる。
 
しかし、佐伯は、ポリティカル・コレクトネスの問題をこのように捉えているのでもない。佐伯は、私より、2歳も若いのに、もっと もうろくしているようだ。いや、もうろくしているのに、気づいていないようだ。
 
ネットに、あるひとが、佐伯啓思のまとめとして、「過剰なまでの情報と競争の社会、短期的な成果主義や万事における革新主義、行きすぎたポリティカル・コレクトネスという時代風潮こそが、読解力への障害となっている」と書いていた。このひとは、もうろくしているのか、軽はずみなのか、「国語力」が足りないだけなのか、困ったひとである。

高校の世界史はどうすべきか、教科書はいらない

2019-12-10 20:48:48 | 教育を考える

きょうは朝から咳がでて体が重い。
それで、1年前のYahooブログにのせた書評を再録する。

その本を読もうと思ったのは、その年の9月の朝日新聞書評欄に、『新たな研究、なぜ反映しないか』の見出しのもとに、次のように書かれていたからだ。

<古代イスラエル史について、ヘブライ人の国王ダビデとソロモンの実在は疑わしく、100年以上エルサレムの発掘調査を行っても当時の栄華は実証できない。それなのに、なぜ 旧約聖書の記述がそのまま〔高校教科書に〕「保存」されてきたのか。>

『モーセの五書』が偽書であることは、19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてドイツの研究者たちによって、すでに主張されていた。モーセはユダヤ教とは無縁の存在で、エジプトからのヘブライ人の大掛かりな脱出劇はなかった、としている。

しかし、古代イスラエル史の王朝の記述を私は疑っていなかったので、「王ダビデとソロモンの実在は疑わしい」は 衝撃であった。

12月に図書館に本が届き、早速借りて読んだ。以下、1年前のYahooブログからの採録である。

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長谷川修一、小澤実編の『歴史学者と読む高校世界史 教科書記述の舞台裏』(勁草書房)を借りてきて読むと、本書は思いのほか重たい内容だ。

長谷川修一は、まず、高校教科書に記述された出来事が「事実」かどうかを問題にしている。昔から、書物というものは、事実より、そう思われていること、あるいは、そうあって欲しいことを書いてきた。しかし、教科書を読むひとは、国による検定があるから、書かれていることをすべて「史実」と思ってしまう。長谷川修一は、それゆえ、教科書は常に新たな歴史学研究を反映し、少なくとも、実証されていないことは、書くべきでないとする。

しかし、これは、非常にむずかしく根の深い問題であることが、本書を通して読むとわかる。
教科書は、それぞれのテーマを専門とする歴史学者たちが、チームで討議して、書いているのではない。

出版会社の依頼で、執筆者は与えられたテーマについて個人の責任で書く。このため、過去の教科書を参照して無難に書き、最新の歴史学研究を反映することはない。歴史的「事実」よりも、世間一般にそうだと思われていることを書いてしまう。しかも、専門分野でないテーマまで執筆している、と本書は指摘している。

国による検定も、少人数で広範囲の内容を検討しているだけで、専門家によるチェックがあるわけではない。具体的には、文部科学省職員が検定依頼のあった教科書の「調査意見書」を作成し、教科用図書検定調査審議会でそれを審議し、検定意見がつくられる。審議会が専門分野にもとづいた分科会から構成されておらず、しかも、短期の会合で審議するから、「史実」かどうかを判定できるはずがない。単に政権の思いにたてついているかどうかが、話題になるだけだ。

さらに、歴史学では、一つの出来事があったか、どうか、だけでなく、どう過去をとらえるかが、問題となる。すなわち、歴史学は、年号と人名を暗記する学問ではなく、過去を振り返ることで、現在を相対化することである。ところが、現在の偏見で過去を振り返れば、現在を相対化できない。

本書は、この面白い例を挙げている。「東欧」というくくりは、「中世」にはない。「中世」は言語で国々に分かれていなかった。「国民国家」というものは近代の所産である。ところが、第2次世界大戦後、ロシアがヨーロッパの東半分を共産主義陣営に引き入れた。そのため、「東欧」というくくりができ、「東欧」という偏見で「中世」のヨーロッパを分割して記述してしまう高校教科書が生まれた。

また、戦前から引き継がれた問題として、明治時代に日本の文部官僚が受けいれた「西洋史」という概念がある。イギリスやドイツやフランスが自分たちの植民地支配を正当化するために作った歴史書を「西洋史」として無批判に受け入れ、それに「東洋史」を付け足すことで、「世界史」とした。これが今でも引き継がれている。

そのために、イスラムの歴史、インドの歴史、東南アジアの歴史、極東アジアの歴史が、「東洋史」のなかに、ひとかたまりとして押し込まれる。また、コロンブス以降の北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカの植民地政策下の歴史がいいかげんに扱われている。

では、どうしたら良いのだろうか。以下は私の提案だ。

国による教科書検定は無理である。誤りのない教科書は無理である。

検定をやめよう。アメリカ、イギリス、オーストラリア、フィンランド、フランス、オランダには検定はない。

教科書を崇拝するのを、やめよう。教師が自由に参考資料を選択する。そして、その誤りを指摘することで、資料を批判的に読む学生の力を育てる。

ノーベル賞を今年もらった本庶佑は、つぎのように言う。

「教科書に書いてあることが全部正しいと思ったら、それでおしまいだ。教科書は嘘だと思う人は見込みがある。丸暗記して、良い答案を書こうと思う人は学者には向かない。『こんなことが書いてあるけど、おかしい』という学生は見どころがある。疑って、自分の頭で納得できるかどうかが大切だ」

大学入試に「世界史」を必須とするのも、やめよう。大学入試は、高校で教える全「教科」から1科目か2科目でよい。また、教科書から出題しなくても良い。大学がこんな学生に教えたいと思う学生を選別すればよい。学部や学科によって、「世界史」だけを受験科目にしたって良い。

そうすれば、教科書を丸暗記して答案を書こうと思う学生を、本庶佑も取らなくても済む。大学の教員が学生を選別するのであって、文部科学省の職員が学生を選別するのではない。まして、政治家が学生を選別するのではない。