わたしの母はおしゃべりだった。わたしの家では朝も昼も夜も家族一緒に食事をしていた。戦争中の話もよく聞いた。戦後、知り合いの遠い親戚が勲章を政府からもらったとき、思想を貫いていない、受け取るな、と怒っていた。
人間の脳は、言葉を理解するのに、無理をしている。無理をしているから、よく検討もせず、聞いた言葉を、頭の中に叩きこんでしまう。人間は、他人の言葉に影響されやすいのだ。これを「洗脳」という。「良い子」ほど「洗脳」されやすい。
今日、学校教育は、「道徳教育」を通して、政府による洗脳の場所となっている。それに対抗するため家族の普段からの話し合いが大事だ。学校が塾が子どもを洗脳する前に、別の見方を親が話しておく必要がある。
そのことに関して、わたしは誤っていた。仕事の帰りが遅く、息子と食事をすることが、土日以外になかった。ときどき、徹夜をして会社や顧客先に泊まり込んだ。それも、一晩でなく続けて泊り込んだりした。眠らないで働けると自慢さえした。
わたしはバカであった。わたしの妻も、学校教師の娘であったため、学校が洗脳の場所と気づかなかった。いつも良い母親として教師に気に入られようとした。二人とも年老いて、ようやく、現実に気づいた。
昨年の朝日新聞《耕論》に『道徳どう教えれば』があった。この問題設定は誤りである。本当は「道徳を学校で教えてはいけない」のである。
今の道徳教育は、作られた物語を子どもたちに読みこませ、一つの価値観を植えこもうとする。植えこむ価値観は始めから指導要領に「ねらい」として明確に書かれている。子どもが物語を正直に批判すれば、「変な奴」と多数派の子どもたちの笑いものになる。
そう、「良い子」は同調圧力に押しつぶされ、権力者の言うとおりに従わないと、食べていけない、きれいなものを身につけられない、異性に好かれない、結婚できないと思い込む。そして、教師は、子どもたちを「善」へと導く「羊飼い」「司祭」「牧師」となる。
3年前に、憲法学者の木村草太は、ネットで『これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 法よりも道徳が大事なの!?』というタイトルで道徳教育を批判している。
そこで取り上げられた教材は「つよし君が人間ピラミッドの練習中に事故にあう」という物語である。骨折した「つよし君」は、バランスを崩した「わたる君」を許せない、と怒りまくる。「つよし君」の母は、つらい思いをしているのは「わたる君」だと諭し、「つよし君」が「わたる君」に仲直りの電話かけるというものだ。
木村草太は、人間ピラミッドの練習が妥当であったかを問題にする。「法」は、事故の再発を防ぐために、普遍的な原理で、責任を問う。危険を伴う人間ピラミッドは、安全対策を施しての練習だったのか。さらに、人間ピラミッドなんて、する必要があったのか。教師、学校管理者の責任が問われるべき「法的」事件なのに、友情物語に矮小化されている。「道徳」ではなく、学校で「法とは何か」をちゃんと教育すべきだと言う。
前文部科学事務次官の前川喜平が、昨年の 6月24日、東京都世田谷区での講演で小学校の道徳教材「星野君の二るい打」を取り上げ、「型にはまった人間をつくる危険性がある」と道徳教育を批判した。
この教材は、監督の指示に従うとみんなで約束したのだから、監督のバント指示に従わず2塁打を打った星野君が悪いというものだ。監督はみんなの前で星野君を次のようになじる。
「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」
そして、監督は星野君の大会への出場禁止を告げる。
「監督の指示に従うとみんなで約束した」ということを盾に、子どもを追い込む大人なんて許せない。選挙で自民党が勝ったのだから、国会の多数決でなんでも決めることができる、という安倍晋三と同じ論法である。「監督の指示に従う」は、「監督が常に正しい判断をする」という前提に基づいている。
また、対等でない人間関係のもとの約束は、法的には無効である。
欧米的発想では、「法」以外に「倫理」「モラル」がある。
「法」は手続きを経て決まった「きまり」で、人間の行為を裁く。「手続き」が正当かの問題が残る。不当であれば、「法」とみなされない。
「倫理」や「モラル」は、その行為が人間社会にとって妥当か否かを、人間の心に問うが、「法」と異なり罰則はない。「良心」が痛むだけである。
日本の「道徳」は、欧米の「倫理」「モラル」と異なり、儒学にもとづくもので、人間の心の中まで国家が支配しようとする。道徳教育は、教え方の問題でなく、決して認めてはいけないものである。
なぜ、学校は、民主主義の基礎である「自由」とか「平等(あるいは対等)」とか「愛」とかを教えないのか。