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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

道徳は「どう教えれば」でなく「教えてはいけない」のだ

2021-05-23 06:31:28 | 教育を考える

わたしの母はおしゃべりだった。わたしの家では朝も昼も夜も家族一緒に食事をしていた。戦争中の話もよく聞いた。戦後、知り合いの遠い親戚が勲章を政府からもらったとき、思想を貫いていない、受け取るな、と怒っていた。

人間の脳は、言葉を理解するのに、無理をしている。無理をしているから、よく検討もせず、聞いた言葉を、頭の中に叩きこんでしまう。人間は、他人の言葉に影響されやすいのだ。これを「洗脳」という。「良い子」ほど「洗脳」されやすい。

今日、学校教育は、「道徳教育」を通して、政府による洗脳の場所となっている。それに対抗するため家族の普段からの話し合いが大事だ。学校が塾が子どもを洗脳する前に、別の見方を親が話しておく必要がある。

そのことに関して、わたしは誤っていた。仕事の帰りが遅く、息子と食事をすることが、土日以外になかった。ときどき、徹夜をして会社や顧客先に泊まり込んだ。それも、一晩でなく続けて泊り込んだりした。眠らないで働けると自慢さえした。

わたしはバカであった。わたしの妻も、学校教師の娘であったため、学校が洗脳の場所と気づかなかった。いつも良い母親として教師に気に入られようとした。二人とも年老いて、ようやく、現実に気づいた。

昨年の朝日新聞《耕論》に『道徳どう教えれば』があった。この問題設定は誤りである。本当は「道徳を学校で教えてはいけない」のである。

今の道徳教育は、作られた物語を子どもたちに読みこませ、一つの価値観を植えこもうとする。植えこむ価値観は始めから指導要領に「ねらい」として明確に書かれている。子どもが物語を正直に批判すれば、「変な奴」と多数派の子どもたちの笑いものになる。

そう、「良い子」は同調圧力に押しつぶされ、権力者の言うとおりに従わないと、食べていけない、きれいなものを身につけられない、異性に好かれない、結婚できないと思い込む。そして、教師は、子どもたちを「善」へと導く「羊飼い」「司祭」「牧師」となる。

3年前に、憲法学者の木村草太は、ネットで『これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態 法よりも道徳が大事なの!?』というタイトルで道徳教育を批判している。

そこで取り上げられた教材は「つよし君が人間ピラミッドの練習中に事故にあう」という物語である。骨折した「つよし君」は、バランスを崩した「わたる君」を許せない、と怒りまくる。「つよし君」の母は、つらい思いをしているのは「わたる君」だと諭し、「つよし君」が「わたる君」に仲直りの電話かけるというものだ。

木村草太は、人間ピラミッドの練習が妥当であったかを問題にする。「法」は、事故の再発を防ぐために、普遍的な原理で、責任を問う。危険を伴う人間ピラミッドは、安全対策を施しての練習だったのか。さらに、人間ピラミッドなんて、する必要があったのか。教師、学校管理者の責任が問われるべき「法的」事件なのに、友情物語に矮小化されている。「道徳」ではなく、学校で「法とは何か」をちゃんと教育すべきだと言う。

前文部科学事務次官の前川喜平が、昨年の 6月24日、東京都世田谷区での講演で小学校の道徳教材「星野君の二るい打」を取り上げ、「型にはまった人間をつくる危険性がある」と道徳教育を批判した。

この教材は、監督の指示に従うとみんなで約束したのだから、監督のバント指示に従わず2塁打を打った星野君が悪いというものだ。監督はみんなの前で星野君を次のようになじる。

「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」

そして、監督は星野君の大会への出場禁止を告げる。

「監督の指示に従うとみんなで約束した」ということを盾に、子どもを追い込む大人なんて許せない。選挙で自民党が勝ったのだから、国会の多数決でなんでも決めることができる、という安倍晋三と同じ論法である。「監督の指示に従う」は、「監督が常に正しい判断をする」という前提に基づいている。

また、対等でない人間関係のもとの約束は、法的には無効である。

欧米的発想では、「法」以外に「倫理」「モラル」がある。

「法」は手続きを経て決まった「きまり」で、人間の行為を裁く。「手続き」が正当かの問題が残る。不当であれば、「法」とみなされない。
「倫理」や「モラル」は、その行為が人間社会にとって妥当か否かを、人間の心に問うが、「法」と異なり罰則はない。「良心」が痛むだけである。

日本の「道徳」は、欧米の「倫理」「モラル」と異なり、儒学にもとづくもので、人間の心の中まで国家が支配しようとする。道徳教育は、教え方の問題でなく、決して認めてはいけないものである。

なぜ、学校は、民主主義の基礎である「自由」とか「平等(あるいは対等)」とか「愛」とかを教えないのか。

『給食でのけが「完食主義」を懸念』に加える言葉

2021-03-22 22:43:23 | 教育を考える


けさの朝日新聞《声》に『給食でのけが「完食主義」を懸念』の投稿があった。埼玉県朝霞市の小学校で、給食の皿うどんの麺を食べた児童6人と教諭が歯が欠けた事件のことである。

私も変な事件だと思った。硬いものは硬いものだから無理して食べることがないのに、と思った。

投稿の趣旨は、私のような普通の考えが この小学校に通用せず、完食しないといけないという「完食主義」があったのではないか、ということである。そうなら、埼玉県朝霞市はとても変なところだと思う。

「完食主義」とは何だろうと思って、ネットで調べてみると、

〈昭和にあった「残さずきれいに食べましょう」の美徳文化が時代を超え、陰湿さを増して今なお残っている。子供たちが楽しく給食を食べられる空間は、大きく歪められようとしている。〉

そんなことが、昭和の「美徳文化」だなんて知らなかった。

第1次ベビーブーマの私は好き嫌いが強く、嫌いのものは食べなかった。給食係がバケツをもって食べ残しを集めて回っていたから、食べ残しは別に禁止されていたわけでなかったと思う。

嫌いなものを私が食べないことを、妻や子供にいつも自慢している。

ピーナツバターの匂いが嫌いで、私は絶対に食べない。給食でピーナツバターが出て、それでみんなが食中毒になったが、私だけが食中毒にならなかった。

私は火がよく通ったものしか食べない。昔、会社の新年会でみんなが生煮えのカキ貝を食べたが、私だけは口にしなかった。それで私だけが食中毒を起こさなかった。

私は食事を個人的行為と考える。なぜ、教師が食事に口出すのか、理解しがたい。

「完食」と「会食」とは区別する必要がある。別物である。

「完食」は個人的ポリシーである。私の大学時代のクラスメイトの女子は、名大教授の父親より、「お米は農民が一所懸命働いて収穫したものだから1粒たりとも残してはいけない」と言われて、実践していた。

私から見れば、食べられるだけの量のご飯を盛ればいい。自分の体調を見誤って盛りすぎることもあろう。そのときは無理せず残せばよいと思う。

しかし、農民の苦労を思って、残さず食べようという心がけも可愛い。彼女のポリシーを否定することはできない。

しかし、「給食」の完食は、それ以前に、「会食」の問題である。出されたお酒は飲め、出された食事は食べろは、みんなで同じものを飲み食いすることに、重点が置かれている。個人の好き嫌いは許されないのだ。すると、「給食」の完食は、子どもたちを疑似「共同体」の儀式に放り込むことである。そして、教師が教壇の上から子どもたちを監視しているとなると、これは、完全に個人の否定である。民主主義社会では許されないことである。

「給食」は貧困で食べることにも欠く子どもたちを救うための行為で、疑似「共同体」の儀式になってはならない。

こんなことが埼玉県朝霞市だけで行われているなら、みんなで朝霞市教育課を叩きのめせばよい。しかし、埼玉県の高校はいまだに男女共学ではないから、もしかしたら埼玉県全体がいかれているのではないか、とも思ってしまう。

台湾IT相オードリー・タンの物語に思うこと

2021-03-04 23:10:45 | 教育を考える

台湾のIT相オードリー・タンの物語は、朝日新聞紙上で、火、水、木の3回の連載で、きょう終了した。学校に行けなかったオードリーの成功の物語である。しかし、彼女のように成功しなくても、学校に行けない子どもたちを親たちは守るべきだと思う。

オードリーの両親は、学校が怖いと言って行けないオードリーの気持ちを尊重し、彼女に教育を授けたのである。そればかりか、母親は「志を同じくする10家族」と、一般の学校に行けない子どもたち向けの学校、「毛毛虫学苑」(ケムシの学園)を作ったのである。その学校は いま 100人の児童が通っているという。父親も母親を助けたのだと思う。

ところで、みんながオードリーの両親のように行動力があるわけでもなく、財政的に余裕があるわけでもない。したがって、公立の学校が、怖くて通えない子どもがでないようにできれば、それが一番いい。学校が怖いというのは、いじめっ子がいる場合もあるだろうし、教師自身がいじめる場合もあるだろう。教師の場合は、子どもと対等の立場ではないから、いじめは虐待である。

虐待を行うのは、教師の心に余裕がない、また、教師同士に平等なつながりがないからである。教師が心の余裕をなくすのは、文部科学省の指示通りに、児童に知識を詰め込み、しかも、従順な国民に仕上げようとし、そのうえ、レポートを上に提出するという無理をするからである。良い教師は、もっと ちゃらんぽんとして、無理をせず、政府や校長のいうことを聞かず、レポートを書かず、子どもたちを観察し、子どもたちの思いを尊重し、同僚と発見を分けあい、叱ることもなく、子どもの成長を助ける教師である。

菅義偉や安倍晋三をみても分かるように、自民党議員は、頭の中がスカスカだが、ゴマすって、徒党を組むために、いつも誰かと会食している、やからである。政府のいうとおりに子どもたちを指導してはいけない。

日本の親たちにも問題がある。学歴や学校の勉強にこだわりすぎてある。

この前、テレビでニコラス・ケイジのアメリカ映画『月の輝く夜に』を見ていたら、老年の主婦が夫にすっぽかされ、レストランに、たまたま いた大学教授と食事をして、月の輝く夜道を、大学教授に家まで送られる。大学教授は、彼女の大きな家にびっくりし、夫の職業は何かと聞くと、「配管工(plumber)」と彼女が答える。大学教授は一間のアパートに住んでいるのだ。

生活の豊かさは教育で得られるというのは、学校経営者の嘘である。学問が好きだから大学に行き勉強するのであって、生活の豊かさを求めるなら、学校を行く必要はない。オードリーは、中学に通うのもやめて、IT業界で働き、19歳で起業した。

私の従姉妹(いとこ)は、ラーメン屋の配達のイケメンと結婚し、それまでの店員をやめ、カーペット掃除で成功し、自分たちの家をもった。私の小学校からの友だちは、家が貧しくて、高校に進学させてもらえず、しばらく ぐれていたが、ペンキ塗りで成功して、家を2軒もち、大型の秋田犬を飼っている。

もっとも、これは成功物語であって、誰にでも起きることではない。しかし、無理をして学校に行ったからといって、豊かになれるわけではない。

私は退職してから、40年ぶりに県人寮の友達にあった。彼は、大企業の化学メーカーに務めて会社のための談合で実刑判決をうけた。刑務所を出た後、そのご褒美にとても小さな子会社の社長になった。しかし、その毎日は、自らポリバケツやちり取りを売って歩くことで、親会社の天下りしてくる退職者のための給料を稼いでいるという。そいつの持論では、人間が必要なものの多くは今も昔も変わらない。誰にでも作れるものを作って、それを売って歩くことも社会に必要な仕事なのだ、と私に言った。なるほどと思った。それも社会の1つの真実である。

多くの人にとって、華やかな成功とは おとぎ話で、みんなと同じく、平凡に生きて行ければ、それはそれで とても幸せなのだ。格好いい生き方を求めなくても、友がいて、生きていけるだけでいいのだ。

学校に行けない子どもたちへの台湾のIT相からのメッセージ

2021-03-02 23:09:53 | 教育を考える


けさの朝日新聞に、台湾のIT相オードリー・タン(唐鳳)が子供たちに「学校行けなくても構わない。でも、学ぶことをやめてはいけません」というメッセージを寄せたという記事があった。

もちろん、インタネットを通じて、直接、子どもたちにそう呼びかけたのではなく、朝日新聞の記者のインタビューにそう答えたのである。したがって、これは、記者とオードリー・タンとの合作のメッセージかもしれない。

それでも、ハンコを追放する、マイナンバーカードを使わせる、しか言わない日本のIT相の竹本直一よりも、ずっと、マシである。京大法学部卒で、菅義偉の子分ということだけである。

タンのいう「学ぶ」ということは、どういう意味であろうか。記者のインタビューにつぎのように答えている。

〈私も長いこと学校を休みました。今はネットがありますし、図書館があります。ネット上で意見を交わせるサイトは、相手の考えを学べる場です。学校に行けなくても構わない。〉

「学ぶ」は、知識だけでなく相手の考えを知るということのようである。しかし、タンの場合は、両親が彼女を守っていたのでないか。何も知らないでネットで人とつながった場合、学校と同じく傷つけられるだけかもしれない。

ネットでの学習は、ハッキリとした目的をもって、自分の問いに答えようとする知識をさがした方がよい。そして、また、ネットで得られる知識のレベルが低いから、図書館の利用が必要となる。ネットの知識はいつも表面的で、とっかかりとしては機能するが、深さがない。

図書館は、私が子どものとき、日本では、子どもと大人との読める蔵書の場が分けられていた。子どもであった私に許される本が制限されていたのである。

私は大学のある町に住んでいたから、専門書がある本屋があった。毎日、学校が終わると、その本屋に行き、専門書を立ち読みしていた。べつに素養があるわけでなく、頭のなかがチンプンカンプンになって痛くなると、夕食のため家に帰った。食事を終えて、読んだことを自分なりに考えなおし、自分の知的体系を作っているうちに眠くなった。私は、早く寝床につく子どもだった。

タンが「考える」ということを強調していないのは意外である。これは、記者に興味がないから、インタビューでは出なかったのではないか。

タンは理想とする教育についてつぎのように答えている。

〈それぞれの子の性格や特性に合わせた教育で才能を伸ばす。また、考え方の異なる相手でも友達になれるようにすることです〉
〈(具体的には)3つの要素があります。好奇心を尊重し、自発を促す。どんな年代のどんな背景を持つ人でも対話できるようにする。そして考え方が違っても、ともに成長できるよう導いていくことです〉

これって、自分が両親や周りの人からうけた教育環境をそのまま話しているのではないか。不登校の子どもたちをみていると、それから、ほど遠い所にいる子も少なくない。助けてあげたいと私は思うのだが、NPOで活動していても、私を必要としている子とつながらない。

政府の洗脳教育の場に ついていけない子どもを、私どもの所にあずけていただけないだろうか。幸せだった私の子ども時代を分け与えたい。

昔の先生がたへの感謝と いま先生が忙しすぎることについて

2021-02-28 21:22:07 | 教育を考える


新型コロナの感染で昔の友達に会うこともない生活が1年以上続いている。
糖尿病の症状が悪化したのか、NPOでの子どもの指導の疲れが、この土日でとれなかった。頭もすっきりしないし、目も良く見えない。

それで、4年前の、まだ、今より元気であったときの、ブログを再掲させてもらう。
  ☆   ☆   ☆   ☆

先日、高校のときの同窓生が4人、下町のすし屋に集まったとき、期せずして、子供のときの学校の先生への感謝の話がでた。もちろん、恵まれて大学まで行けた老人たちが言っていることだから、割り引いて考えるべきかもしれない。

昔と今の教師がどう違うかは客観的な把握するのが難しい。歳をとればとるほど色々な事例を見たり聞いたりするから、まずい事例も知ってしまう。

きのうの朝日新聞の「耕論」に『忙しすぎる先生』で3人へのインタビュー記事が載っていた。
政治的な視点、倫理的な視点が抜け落ちており、「忙しすぎるのは政府の陰謀かもしれない」という意見が出てこないのが淋しい。たぶんにインタビューした記者の責任もあるだろう。

戦前の大日本帝国の権威主義、集団主義、規律主義の手先になったことへの反省が、日教組(日本教育組合)の出発点だった。私が子どものときは 9割以上の先生が組合に加入していた。1960年代にはいると急激に組合加入率がさがり、新規採用の教師の加入率は1990年から約20%になっている。

私は、組合が不人気になったというより、組合に入らない人間を意図的に採用しているからだと思う。「忙しすぎる」という問題は本来は組合が扱うことである。

自民党や文部科学省は、公立学校を自分たちの統治の一手段、洗脳教育の場としてきた。良い教育とは、勉強ができて勤勉であり上に逆らわず空気を読む人間を作ることだとしてきた。

これに逆らう子どもたちがでてきてもおかしくない。集団で逆らうという話は1970年代で終わっている。1980年代には孤立した子が、隠れて、学校の窓ガラスを割り、壁に落書きするようになった。1990年代にはいり、不登校、ひきこもりがでてきた。ここ10年は、小学校の低学年のうちに「発達障害の疑い」で、隔離され、別教室での学習になる。逆らう子どもたちには「発達障害の疑い」の烙印が押される。

「先生が忙しすぎる」という問題は、仕事量が多すぎるか教師の数が少なすぎるかである。以前に教師の弟にきいたら、作るべき報告書が多すぎるからだと言っていた。それに、学校行事、部活、研修が多すぎる。これらは子どもたちのためではなく、報告書は国の管理のため、そのほかは町の有力者や学校の名誉のためである。さらに、これから、教育への公費が経費削減の対象となるから、教師の数が少ないという問題も深刻化するだろう。儲かるのは IT 企業だけである。

また、公立学校の教師は毎年春に移動の対象となる。職場移動は、戦前の大日本帝国が官吏をこき使うときのテクニックである。下級官吏に仲間意識が芽生えるのを防ぐためである。下級官吏が地域住民と仲良くなるのを防ぐためである。

一方、不思議なのは、いじめ問題が外部に漏れると、学校単位で組織防衛に走る。本当に仲間意識があって助け合って教育に当たっていれば、もっと、初期の段階でいじめを防止できたはずだ。

私は、現在の、教師の資格や採用制度を疑う。放送大学で教育学の講義を聞いていると、公的教育というものは政府の方針に忠実であるが第1で、ことがあれば校長を中心に組織を防衛せよと言っているにすぎない。
また、児童心理学の講師は実際の子どもの教育にあたったことがないように見える。子どもたちも個々の人間である。個々の人間の心、すなわち、記憶の多様性を教えていない。放送大学を聞いていると、類型化された虚構の話しかしていない。

だから、戦前の大日本帝国の時代と同じく、先生の資格は、政府の優秀なロボットであるというお墨付きにすぎない。そして、恐ろしいことに、AI 技術を使って、生きている教師を、感情のない本当のロボットに置き換えようという話まで出ている。恥ずべきことである。
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4年前のブログはここまでだが、いま、先生方は、新型コロナ騒ぎでもっと苦労しているだろう。

私のNPOでも、通ってくる子供の学校に新型コロナ感染者がでたとか、こどもの家族の一人が新型コロナで家族全体が自宅待機になったとか、身近で感染騒ぎが起きている。リモート指導にも慣れてきたが、まだ苦労が絶えない。ただ、うつの子にはリモートでも気分を上向きにでき、指導をして良かったと思っている。