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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

漢字を使うのはあなたの勝手だがコミュニケーション手段としては問題がある

2021-08-23 22:55:09 | 教育を考える

今月の7日、22日に、朝日新聞で「漢字」について、いろいろな評者によって論じられている。7日には『常用漢字と私たち』というテーマで、22日には『漢字、どう思う?』というテーマで、論じられている。

そこでは、漢字教育が子どもに負荷となるとか、デイスクレシアや盲人にとって漢字が壁となるとか、そういうことが議論されなかった。また、明治以降、西洋文化の輸入に伴い漢字を連ねた造語が大量に作られたという問題も言及されていなかった。また、漢字の造語のまん延による話し言葉と書き言葉の乖離(かいり)も論じられていなかった。

せっかくの「漢字」についてのフォーラムにもかかわらず、まったく知性の欠く、低レベルの〈オピニオン&フォーラム〉にとどまった。

私は、人が漢字を使おうと使わないと、かまわない。われわれは自由な世界に生きている。

子どもたちは、ゲームにでてくる漢字をイラストとして、装飾としてみている。おどろおどろしい複雑な漢字がでてくれば、それで単純に喜んでいる。言葉だと思っていない。

また、発語がままならない子どもたちのうちのいくらかは、単語を作らずに1字や2字で意味をもつ漢字を書くことが好きな子がいる。

しかし、コミュニケーション手段一般として漢字を見たとき、あるいは、学校における漢字教育を考えたとき、さきに述べた問題が生じる。

詳しく論じよう。

江戸時代に庶民は漢字を使っていなかった。漢字は不要だったのである。私は本居宣長の書いたものを昔読んだが、漢字をほとんど使わずに、論理的な議論を書き残している。

現在の大量の漢語は、明治以降の西洋の文化を輸入する際、漢字を組み合わせて新たな言葉をつくり、翻訳したことによる。そのため、私の関する科学の分野でも、学部や大学によって、同じ英語やドイツ語やラテン語の用語が、異なる漢語に訳されているというが事態が生じている。また、漢語に訳されたため、もとの語がもっていた意味がずれて、日本社会で使われることもある。私は、日本語の文章は、横書にし、西洋に由来する用語は、そのまま、原語で書くのが望ましいと思う。

漢語が日本語で使われるときの もう一つの問題は、話し言葉と書き言葉と乖離である。漢語は視覚的なものである。同音異義といわれる漢語がやたらとある。耳で聞いてわかるものではない。漢語にたよると、知的な対話が口頭で行えなくなる。じっさい、私が現役の会社員のとき、ホワイトボードを前に議論を行ない、誤解を避けるため、まぎらわしい漢語はホワイトボードに書いたものである。口頭による知的な対話のために、漢語の使用を制限したほうがよい。

盲人のための点字には漢字がない。点字の世界は音声による言葉と並行している。健常者の平かなのつづりは、旧仮名遣いを引きついでいる。助詞の「は」や「へ」は、点字では「わ」「え」と書く。「おとうさん」は、発音通り、「おとーさん」と点字で書く。盲人の世界では、音声による言葉と、点字による言葉は忠実に対応している。

点字の世界のように、書き言葉を話し言葉に近づけることができるはずである。

コミュニケーション手段としてみたとき、漢語をできるだけ使わないほうが望ましい。漢字を使わないほうが望ましい。1960年代から1980年代にかけて、当時の知識人は、じっさい、接続詞、副詞、動詞における漢字の使用を意識的に避けていた。現在、パソコンの普及にともなって、安易に漢字の使用が増えている。

ディスレクシアの子どもたちには、漢字の使用を控える以上の問題がある。江戸時代のように、文節単位での分かち書きが望ましい。また、文が行をまたがるとき、文節が行で分けられないようにすべきである。面白いことに、これらのルールが、小学校1年から2年の教科書では守られている。そのため、漢字を使わなくても読みやすい文になっている。

漢字を学校で教えることに、私は、消極的にならざるをえない。漢字教育は子どもの覚えることを増やす。覚えることに子どもが慣れると考えなくなる。人によっては、漢字の筆順とか、とめ、はね、はらいとかまでを、子どもに要求する。もっとも、政府のガイドラインでは、このようなことを子どもに要求しないことになっているのだが。


『(耕論)再考、共学と別学』で言及されない本当の問題

2021-07-02 22:50:03 | 教育を考える

2,3日前、朝日新聞に『(耕論)再考、共学と別学』があった。読んでも何かピンとこない。考えてみるに、私は、小学校、中学校、高校と男女共学であった。大学も教養課程では、1割から2割が女性であった。専門課程では、物理学科は30人の定員で2人が女性であった。そのうちの一人は同じ高校出身であった。数学科はもっと女性の割合が多かったように覚えている。

学校は一義的には勉強するところである。共学か別学かの問題が生じるとは思ってもいなかった。男女を区別する必要がない。共学が当たり前である。

したがって、問題はそこにないだろうと思う。

問題は、共学の中で、(1)男女の文化的社会的違いをどう扱うか、(2)男女の生物的性の違いをどう扱うか、(3)性交などの性的行為をどう扱うか、である。

(1)の男女の文化的社会的違いは、国や地域や個人の生活レベルで異なる。すなわち、必然ではない。単なる思い込みである。男女平等をもとに判断し、そういう違いを無視していいと思う。

(2)と(3)の問題に関しては、朝日新聞の論者は3人とも言及していなかった。

服装の問題は本当は(1)に属する。ブルマーの問題は、髪の毛の長さと同じく(1)に属する。学生時代の私も、明治生まれの下宿のおばあさんに、髪の毛が長いと男か女かわからないと言われた。外見で、男か女か判断できないと何が困るのだろうか、私はわからない。

男女のトイレの問題となると微妙な問題となる。共学でも、男女のトイレが分けられている。それが社会的合意のように見える。ところが、集合住宅では、世帯ごとにトイレが別だか、それぞれの世帯では男女によるトイレの別がない。おおやけの場所のトイレに男女の別があるのは、いっしょにすると、男が女を襲うという思い込みが社会的に共有されていることになる。

上は(3)の問題である。原則は、暴力をもって他人に嫌がることを強制してはいけないということである。これが守られていれば、本当は学校のトイレに男女別がある必要がない。

(2)と(3)の問題に言及がないということは、学校での性教育の位置づけがあいまいなことと符号する。

生物的なちがいについては、男女の別なく、学校でオープンにいっしょに教えていいのではないか、と思う。

私は下町の公立中学校にいたが、休み時間には教室で悪ガキが男役と女役に分かれて性交の真似をしていた。私自身も授業中にオナニーをしていた。女の子は男の子が白い精液をだすことを知っていた。

私の高校は上品な進学校だったから、そういう露骨なことをおおやけにすることはなかった。しかし、男どもだけが集まると、安心してか、「したい、したい」と言い出すものが必ずいた。下品な中学校と違い、性衝動が隠されただけである。よく言えば淫靡な世界に移っただけである。

生物的なちがいを学校で教えることに問題はなく、やってみれば簡単なことだと思う。不必要な心配である。友達の多い子どもは みんな聞いていることだし、友達から聞いた間違った知識は教育の場で訂正されるべきである。

(2)の注意点は、競争を学校に導入していることである。具体的には生理の扱いの問題がある。原則は簡単で、男女の差を個性の差と見なし、自分のペースで勉学することを学校側が認めることである。競争をさせないことである。

(3)の問題は性行為に快楽が伴うこと、恋愛には性衝動が伴うことである。中学生のとき、ほとんどの男の子は自慰を覚える。社会的立場からは、人の嫌がることをしない、が原則である。いっぽう、性衝動や性行為の快楽を肯定しないといけない。

私は、ここに困難さを感じる。社会の合意はどうなっているのか、わからない。この問題を大人同士でもなかなか話せない。下手に話せばセクシャルハラスメントに受け取られる危険がある。みんな、性行為に快楽が伴うことを知っていて、それを隠しているように見える。

しかし、この問題をオープンに大人が話しあって、教育の場でどうするかの合意をとらないと、子どもの間に大きな性知識の格差が生じるし、いっぽうで望まぬ妊娠、いっぽうで出生の減少という社会問題を生む。

そのように思いながら、私自身は、実際には、この問題に関して日和見主義である。勇気がないから、本当の意見が言えないのである。

[補遺]

共学か別学かを書いているうちに、小学校4年生のとき大騒ぎを起こしたことを思い出した。私は乱暴者が嫌いで小さいときから女の子と遊んでいた。

4年生のときは、目が大きく唇が厚い女の子が好きで、毎日曜日、一緒に遊びに出かけた。あるとき、いっしょに担任の先生の家に遊びに出かけた。先生は歓迎してくれ、親の生業、珪藻土から七輪をつくる現場を見せてくれた。また、自分の所で売っているラムネをごちそうしてくれた。

その日の夜、先生の宅でその女の子と一緒にお風呂に入ったと私が言って、大騒ぎになった。なぜか、本当に入った気がしたのだが、本当に起きたことでもないような気もする。子どもは事実と想像と区別できないところがある。しかし、こんなことで大人が大騒ぎをするとは子どもの私は思わなかった。


「ギフテッド」は親や教育家が作るものではない

2021-07-01 22:23:30 | 教育を考える

6月28日の朝日新聞に、『高校から米国の大学院に飛び級合格して数学者をめざす』という紹介記事があった。数学の「リンデレーフ予想」を解きたいという。まだ、結果が出ているわけではないので、幸運を祈ると私は言う。

私も大学にはいったときも、そういう仲間といっぱい出会えた。私も中学のときガモフの『1,2,3,…無限大』を読み「4色問題」を解きたいと思っていた。ちょうど大学2年のころ、「4色問題」がコンピュータで解かれたという記事が新聞にのり、気落ちした私は専攻志望を物理に変えた。

謎や難問に挑戦したいという若者はどんどん挑戦すればよいと思う。

しかし、ちまたの「ギフテッド」の話を聞くと、ちょっと、話しがおかしいと思う。「発達障害」の子どもをもつ親を対象にした教育詐欺ではないかと思う。

「ギフテッド」が本当ならほっと置けばよい。「ギフテッド」は親が作るものではない。親やまわりが作るなら、それは、犬やサルに芸を仕込むと同じだ。

ネットをみたら、積分を行う小3の子の写真があった。それはアホでもできることで、実際、積分を解析的に行うプログラムが世の中にあまたある。解析関数を積分すれば解析関数になるだけだ。高校や大学の積分の演習問題は、あくまで数学を研究しない人たちの数学利用のための訓練であって、アホでも解けるようになっており、「ギフテッド」がすべきことではない。

私は天才とは自分の道を粘り強く歩き続けるものだと思う。そして、学校教育に毒されなければ、誰でも天才になれるのだと思う。

「ギフテッド」の話はサヴァン症候群の話と似ている。ひとを勝手に「自閉症」だとののしっておきながら、何かができると「天才」だと称賛する。ののしられたくないし、人の能力に勝手に関与しないで欲しい。

「ギフテッド」の問題は、子どもが自分の思うように育たないで親が悩んでいるとき、外の人から「ギフテッド」と言われると、ほっと心が軽くなり、信じてしまうことである。子どもを自分の思うように育てることの誤りを正すのが先なのに、犬やサルに芸を仕込むようなことをしてしまう。新たな人間破壊が始まる。

たしかに、子どもに自信をもたせるために芸を仕込むということも一理ある。しかし、大人になったら、ただの人になるような仕込みには賛成できない。自分の思うように育たない子どもは自立心が強いのだ、親を越えるのだと思うことがだいじだ。親のもっている劣等感を子どもに引き継がせないことがだいじだ。

自由に物事を考えられてはじめて「ギフテッド」である。

[補遺]

サヴァン症候群は、エリック・R・カンデルの「芸術・無意識・脳 精神の深淵へ:世紀末ウィーンから現代まで」(九夏社)に言及されるが、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5には現れない。たぶん、精神科医を煩わすような病気ではないからだろう。


プログラミング教育の小学校必修化は子どもや教師の負担を増やすだけ

2021-06-11 22:46:33 | 教育を考える
 
小学校にプログラミング教育必修化するのは、「早期教育」や「臨界期」に対する誤解があるのではないか、と思う。早くから特定の専門科目を何か教育したって、別に良いことがあるわけではない。
 
創造性が求められないことなら、例えば、狂言や歌舞伎やヴァイオリンとかダンスとかなら、それにしかできない人間をつくることも、親のわがままからあり得よう。一芸に秀でた人材や伝統芸能の担い手をつくるために、才能がなくても早期教育で、なにほどかのことを成し遂げられるかもしれない。
 
それは、創造性も知性もない世界でのことで、ロボットのような人生を親のわがままから わが子に強要することになる。子どもの自由を踏みにじんでいることになる。伝統芸能を引き継ぐ必要性など、どこにもない。
 
しかし、小学校の教育必修化となると、その理不尽を国が大規模に引き起こすことになる。幼少期の教育は、できるだけ強制を少なくし、覚えることで子どもの潜在能力を無駄にしないようにしないといけない。興味の偏りはしだいに芽生えるので良く、本人が何に人生を賭けるかは、自己が確立してからで十分である。
 
「臨界期」というというのは、ある課題を学習するには、それを学ぶに充分に脳が熟していないと、努力が無駄になるということである。ある時期を過ぎるとマスターできないということではなく、ある時期にくるまではマスターできないということである。
 
先走りして学習しても なんの役にもたたない、子どものときは神童、大人になってタダの人になるだけ、ということである。
 
数学でも、フランスの20世紀の天才数学者、名前を忘れたが、戦闘機のパイロットが負傷して、入院しているとき、数学に目覚め、数学の勉強を始め、歴史的未解決問題を解決した。20歳になって、数学に目覚めても遅くない。
 
また、セオドア・カジンスキーは、貧しい移民の子で、天才と称せられ、25歳で数学の助教授になり、2年後にその職を突然やめ、山に引きこもり、自然を破壊する現代社会への怒りから、爆破犯になった。世評によれば、数学の助教授になる前の段階で確立した研究分野を専攻しており、すでに創造性を失っていたとある。
 
プログラミングは別に早期教育が必要な分野ではない。アルゴリズムに興味あれば、あるいは、数値計算の必要性を感じれば、あるいは、機械を自律的に動かしたければ、いつでもプログラミングを修得できる。変なヴィジュアルプログラミングをやらないほうが良い。
 
文部科学省は、次のようなプログラミングの早期教育の例を挙げている。
 
算数(第5学年)で、「プログラミングを通して、正多角形の意味を基に正多角形をかく」
理科(第6学年)で「身の回りには電気の性質や働きを利用した道具があること等をプログラミングを通して学習する」
総合的な学習の時間で「情報化の進展と生活や社会の変化」を探究課題として学習する」
総合的な学習の時間で「情報技術を生かした生産や人の手によるものづくりを探究課題として学習する」
社会(第4学年)「都道府県の特徴を組み合わせて47都道府県を見付けるプログラムの活用を通して、その名称と位置を学習する」
家庭(第6学年)「自動炊飯器に組み込まれているプログラムを考える活動を通して、炊飯について学習する」
 
どこがプログラミング教育なのかさっぱりわからない。文部科学省の役人は、実業界からのバカげた要請を蹴り返さないといけない。そうしないから、小学校教育は、やたらと意味のないことの詰め込みとなり、子どもの負担ばかりを増やす。(この前、小学校4年の算数にそろばんが入っていたのに、びっくりしてしまった。こんなものはいらない。)
 
文部科学省が実業家や政治家のいうことを聴いて行動を起こすと、教育でお金儲けをしようとする怪しげな人間たちが動き出す。
 
文部科学省、総務省、経済産業省が共同で作ったパンフレット『未来の学びコンソーシアム 小学校のプログラミング教育必修化に向けて』は、意味のない美辞麗句で埋め尽くされている。それは、教育のねらいとして3点をあげている。
 
① 「プログラミング的思考」を育むこと
② 情報社会がコンピュータ等の情報技術によって支えられていることに気付くことができるようにするとともに、コンピュータなどを上手に活用して身近な問題を解決したり、より良い社会を築いたりしようとする態度を育むこと
③省略
 
①の「プログラミング的思考」とは意味不明である。アルゴリズムのことを言っているのだろうか。「的」とか言っているから、コーディングを考え出すことを言っているのだろうか。全く意味不明である。
 
②の「気付く」とか「態度を育む」とかは、心を型にはめる「洗脳教育」にすぎない。IT産業が重要なものだと思いこませたいだけである。
 
③は全く無意味なことをほざいているので、省いた。
 
バカげている。バカげている。
 
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日本の学校教育はオカシイ、小学校のプログラミング教育必須化

2021-06-10 23:31:46 | 教育を考える
 
小学校でプログラミング教育を必修にして1年になる。小学校に英語教育を導入するも、プログラミング教育を導入するのも、実業界(経営者の集まり)の劣等感からくるものである。
 
ハッキリ言えば、実業界を牛耳る人たちはゴロツキである。徒党を組んで、企業の上にのぼり詰めた人が、自分の会社に入ってくる若者たちの能力がないから、海外市場で負けると泣き言をいう。派閥をつくって社内の競争相手を叩きのめすことはできるが、自分の経営能力ないから会社をつぶす。自分自身が英語の読み書きができないから、自分自身がプログラミングができないから、妙に劣等感をもって、小学校から始めよと、政治家や官僚に要求しているにすぎない。それに関係する教育産業がのっかってきれいごとを言っているだけである。
 
プログラミング教育は、日本の企業が「第4次産業革命」に遅れをとっているから、と文部科学省の報告書にある。ここの「第4次産業革命」とは、ソフトウェアのことをいう。
 
しかし、ソフトウェアが産業の基盤になることは、40年前からわかっていたことであり、日本にもプログラムできる人がいっぱいいた。40年前は、学校を出ていなくても、独学でプログラミングをマスターした人がいっぱいいた。自分で「一人ソフトウェアハウス」を起こし、自由人を自称していた。そのころのプログラマーの人件費は高く、1カ月100万円が相場であった。人件費は中国やインドが参加するとみるみる下がり、20年前には、1カ月20万から30万円になった。
 
収入から言えば、いま、プログラムをやる人は不幸である。
 
現在、IT業界自体は、大衆を煽るビジネスモデルの上に、お金を集めている。虚言でしか儲けが出なくなっている。
 
実業家が言いたいのは、製品の内部で働くプログラムを組む労働者を求めていることだろうが、企業の労働者がみずからプログラムを組むことは、30年前から、日本の製造業や装置産業では行われていた。企業経営者が仲間内での派閥争いに明け暮れ、プログラマーたちを優遇せず、彼らの労働意欲を失わせていたのが、現実である。
 
小学校から始めるか、中学校から始めるか、そんなことは関係ない。
 
プログラミングは、適正があれば、コンピュータとエディター(プログラム編集コンパイルソフト)があれば、いくつになっても、できるようになる。年をとっても、英語の聞き取り、発音ほどは難しくない。適性が、スピードの問題ではなく、試行錯誤する能力であるからだ。
 
プログラミングが小学校の必須となることは、子どもたちの成長に悪影響を与えるし、教師の負担を増す。
 
小学校の教師はピアノを弾けることが条件になっているが、それに英語の発音がきれいだとか、プログラミングを教えられるとか、の条件をつけると、ピアノが嫌いな教師が音楽を教え、英語が嫌いな教師が“I am a teacher”を教え、プログラミングがわからない教師がプログラムを教えることになる。
 
教科が嫌いな教師が子どもたちを教えれば、その子供たちも、その教科が嫌いになる。なぜなら、ピアノが好きな教師や、英語が好きな教師や、プログラミングが好きな教師なら、教材を離れ自由に教えることができる。それに対し、嫌いな教師は、教材に忠実に教えようとする。子どもたちを創意工夫ができない労働者にないようにする。
 
きょうは ここまでとして、あすは、文部科学省、総務省、経済産業省が共同で作った、『未来の学びコンソーシアム 小学校のプログラミング教育必修化に向けて』を批判したい。
 
[補遺]
書いているうちに、「労働者」という言葉に“worker"(働く人)と「賃金労働者」との異なる意味があるのに気づいた。政府が求めているのは「賃金労働者」である。
 
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